イザヤの声が聞こえた。



 目を覚ますと、目の前には見知らぬ天井があった。



 身体を動かそうにも、包帯に全身を拘束され指一本も動かせない。



 消毒液の匂いに包まれた部屋を目で見回しながら、シグレは今置かれている状況を反芻した。



 あの日は強い雨だった。雨風を凌ぐ為にライゾウの店に駆けていたとき、彼女は現れた。



 左腕に大方天戟を持ち、静かな殺気を放ちながら突如真上より出でた。



 油断は時として狩人を獲物へと変える。



 不意を突かれた自分は一目散に駆けたが、激しい動きから右肩の傷は開き、折られた左腕は悲鳴を上げた。やがて体力を失い、目を開くことも困難となった。



 ビルの屋上まで駆けたが、隻腕の彼女は獲物たる自分を見失いはしなかった。



 死中に活を得るべく短槍を口に咥え、彼女に向かって行ったが、短槍は折られ、腹部に刃を受けてビルの隙間に投げ落とされた。



 落下したのはゴミの上だった。上半身に着けた防刃ベストは破られ、腹部からは夥しい血が流れだしていた。激しい痛みと薄れゆく意識の中で、自分は天を仰いだ。



 このまま死ぬのか。その後、意識は途絶えた。



 そして目が覚めると、この部屋にいた。



 シグレは、何か不思議な感覚に陥った。



 長い夢を見ているようだったし、今も生きている実感がない。



 シグレが身体を起こそうとしたとき、足音が聞こえた。



「おや、目が覚めたんだね。まだ動いちゃ駄目だよ。」

 女の声がした。シグレが声の方向を見ると、白衣を身に纏った黒髪の女性が立っていた。



「貴女が、私を拾ったのか?」

「いや、拾ったのはアタシじゃない。出来得る限りの治療はしたけどね。」



「どうしてそこまで。前にも会ったことが?」

「患者を救うことが医者の使命だからね。それに。」



 女医はシグレのすぐ横に座ると、その髪を撫でた。

「アンタが可愛いからさ。」



 シグレはぎょっとした。女医の目は輝き、口角は吊り上がっている。

 感じたことのない恐怖に思わず身を捩ろうとするも、身体が動かない。



「まだ動いちゃ駄目だってば。アタシの名前はツツジ。千寿で診療所を開いている医者さ。」



 シグレは思わず腕から短槍を伸ばそうとするも、武器の入ったコートは見当たらない。それどころか、自分が裸であり、その上から直に包帯を巻かれていることに戦慄した。



「ツツジ。助けて貰ったことには感謝する。だけど少々寒い。コートを取ってくれないか?」

「あの危ないものが沢山入っていたコートだね? 駄目だよ。邪魔になるから。それに。」



 ツツジは白衣のポケットから小瓶を取り出すと、シグレを真上から見下ろした。



「動くなって言ったのに動いたから傷が開いたかもしれない。消毒しなきゃね。」

 ツツジが小瓶の蓋を開けると、白い煙が立った。シグレの目から見ても、明らかに通常の消毒液ではなかった。



「強い消毒液だから、少し沁みるかもしれない。我慢するんだよ。」



 ツツジはにっと笑うと、シグレの右肩に向けて消毒液を垂らした。



 痛い。熱い。苦しい。



 声にならない悲鳴を上げながら、動かせない身体を懸命に動かそうとするシグレを見詰めつつ、ツツジは少しずつ小瓶を傾けていった。



 やがて小瓶の中が空になったとき、荒い息をし、目元に涙を浮かべているシグレの目を、ツツジはそっと拭った。



「よっぽど痛かったんだね。大丈夫。これはとっておきの秘薬でね。すぐ良くなるよ。」



「どうして、こんなことを。」



「アンタの名前を聞かせてくれたら、教えてあげるよ。」



「私の名前は、シグレだ。」



 ツツジはかき消えそうな声で呟いたシグレの頬を撫でると、満足げな表情を浮かべた。



「シグレちゃん、ね。理由は簡単だよ。アタシは治療が大好きなだけさ。だけど。」



 小瓶をポケットに収めながら、ツツジはシグレの耳元に口を寄せた。



「アタシはシグレちゃんが一番好きになっちゃった。」



 耳元で囁かれたシグレは全身が冷える感覚に襲われた。



 何とも形容し難い、身体と心が一気に震える感覚。



 今まで、自分は何度も死線を潜ってきた。



 だが、ツツジが発している殺気に似たものは、シグレの知るどの殺気とも違った。



 あのまま死んだ方がマシだったのかもしれない。



 ツツジは途方に暮れているシグレに笑いかけると、再び小瓶を取り出した。



「次の消毒は三時間後。次は秘伝の座薬も用意しておくよ。」



 頭が真っ白になり、シグレは無表情のまま天井を見上げるしかなかった。