何者かが入り込んだ。ソファーで仮眠を取っていたサブロウは飛び起きる様に目を覚ました。第一線で戦っていた頃、自分は僅かな気の流れや殺気に敏感だった。数えきれない暗闘の中で生き残るには、動物的な感覚が必要不可欠だった。暗い執務室を見回し、誰もいない事を確認すると、受話器を取った。管理室に連絡をしなければならない。
だが、幾ら待っても応答はなかった。管理室が制圧されているとすれば、大変な危機だった。もう既に、敵は奥深くまで侵入している可能性がある。
敵は一人か、二人か、それ以上か。なぜ、気付かなかった。
机上での作業が長かった為に、勘が鈍っていたのかもしれない。
サブロウは机横にある棚の扉を開けると、一振りの古びた鎖鎌を取り出した。
陰影流鎖鎌術。影に身を馴染ませ、手足の如く分銅を振るう術。
若い頃は相応の腕前だったが、第一次騒乱から長らく鎌を握る事もなかった。
鎌と重い分銅を繋ぐ鎖に指をかけると、かつて幼いチヅルに指南した頃の記憶が頭をよぎった。自分が使う物より遥かに軽い鎖鎌だったが、チヅルは僅か数年で習得した。新しい技を覚えるごとに嬉しそうな笑みを向けてくるチヅルを見て、自分もまた喜びに満ちた。だが、チヅルは死んだ。心身を羅刹と化して、使命に殉じた。
此処で、六文組を終わらせる訳にはいかない。皆の想いで成り立った今の六文組を潰してはいけない。
サブロウは待った。敵はすぐ側まで来ているに違いない。右手で鎖を握り、瞬きもせずにその時を待った。
そして、部屋の扉が音もなく開いたとき、サブロウは分銅を放った。螺旋状に回転しながら一直線に放られた分銅は、扉奥の闇に吸い込まれた。
捉えた。暗闇の中で何かに当たった振動が鎖を通じて伝わってきたとき、サブロウは腕を返した。鎖が標的の身体に巻き付く手応えを感じ、鎖を持つ手を強く引いた。
目の前に、獲物が飛び出してくれば、その首筋に鎌を突き立てる。
サブロウが鎌を真一文字に構えた時、扉の向こうの暗闇から影が飛び出でた。
それは人間ではなかった。
白い身体に、角を生やした赤い髑髏。冥界を守護する深紅の骸。
「コーポス!」
鎌を一閃したとき、その姿は眼前から消えていた。
一瞬、幻覚を見たかの様な感覚に襲われた。そして、鎖を掴んでいた右手から痺れに似た熱い痛みを感じた。手から鎖が落ち、肘から指先まで動かない。
腕を叩き折られた。
気付いたときはもう遅かった。目の前には、自分の左肩に向けて拳を振り下ろす深紅の骸の姿があった。振り下ろされる鉄の拳は、まるでスローモーションの様にサブロウの水晶体に映った。
瞬きをした刹那、左肩から焼ける様な激しい痛みを感じた。
鎌が手から滑り落ち、我に返ったときは腰が引けた格好で尻餅を付いていた。
情けない。錆びていたのは鎖鎌の腕だけではなかったか。
サブロウは天井を仰ぎ見た。
「ミヨシ・サブロウだな?」
視界に自分を見下ろすコーポスの姿が映った。だが、自分が知っているコーポスとは、どこか違う印象を感じた。
「久しぶりだな、コーポス。いや、初めましてだったな、二代目。」
「六文組はもう終わりだ。観念しろ。」
「そうか。皆、やられてしまったか。」
サブロウは天井を見上げたまま、動こうとしなかった。
それは六文組が終わる事への無念さか、責任と罪の意識から解放される喜びか、サブロウ自身にも分からなかった。サブロウはもう一人、部屋に入ってくる気配を感じた。視線を正面に向けると、苦しそうに息をし、部屋の中央で蹲るジンパチの姿があった。
「サブロウよ、互いに腕が錆びたのう。これでは、死んでいった者達に顔向けが出来んわい。」
「相手がコーポスだ。互いによくやった、そう思う事にしよう。」
コーポスもまた動かなかった。
使命に殉じた誇り高き者達への敬意を示す様に、沈黙を守った。
「天に還ろう、ジンパチ。お頭が、チヅルが、シズカが、皆が待っている。」
「そうじゃのう。極楽には往けんだろうが、その時は閻魔大王と一戦じゃわい。」
ジンパチがにこっと笑う表情を見たとき、サブロウもまた笑った。顔から険がとれ、その眼は穏やかだった。そして、懐からスイッチの付いた短い鉄の棒を取り出すと、安全装置を口で外した。
「さらばだ、コーポス。また会おう。」
静寂に包まれた間で、サブロウが棒のスイッチを押した。
遠くから大きな爆発音が聞こえ、その音は徐々に近く、また多くなってきた。建物全体が激しく揺れ、地響きが轟いた。瞬く間に部屋の手前の廊下にまで紅蓮の炎が噴き出し、やがて部屋全体を包み込んだ。
【乱骸の章 完】