円形大劇場の上に威嚇するように空が掛かっている。しかし、今日は民衆の休日であるアヴェ・ネローネだった。鉄の門が開かれ、聖歌の歌唱と野獣の咆哮が大気に漂う。群集は激昂している。乱れずに、殉教者たちの歌が広がり、制し、そして騒ぎの中に消えてゆく。
全オーケストラが大音響を轟かせ、ドラが打ち鳴らされる。サルタレロというイタリアの舞曲を元にした、三連符を含んだラッパの鋭いファンファーレが響き渡る。
劇場内の悲惨なショーを見物して、観客は激昂する。
途中、弦楽器の演奏する讃美歌が流れた。それは、悲劇の結末を目の当たりにしながら、お神を讃美してやまない信徒たちの祈りの歌である。
祈りの歌と観客の激昂が交互に奏でられ、クライマックスには、如何なる迫害にも屈することのないキリスト教徒の強い信仰を確かめるかの様に、全オーケストラが音を奏でた。
ゴンゾウは幕が引かれる前に、劇場を出た。天を見上げると、一片の星が流れた。
「思った以上に、早かったな。」
儚げに呟いたとき、その腕をキョウコが掴んだ。
「まだ、貴方にはやる事があるんでしょう? 千年の都に君臨する絶対的な王として。」
「そうだ。死ぬも生きるも、己が道の上だ。如何なる者にも、俺の運命を変えはさせん。」
じっと見つめてくるキョウコに、ゴンゾウは微笑んだ。其れは、長く傍らにいたキョウコにさえ、見た事のない表情だった。顔の険が取れ、一抹の寂しさを含んだ笑み。キョウコがはっとしたとき、その唇にぶつかるようにゴンゾウの唇が重なった。十秒にも満たない時間であったが、優しく、穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。
「キョウコ、千寿を去れ。」
気軽に、はい、とは言えなかった。キョウコはゴンゾウのがっしりとした身体に手を回すと、その胸上に顔を埋めた。とめどなく流れ出てくる涙は、懐を濡らした。
その時を、何度も覚悟した。ゴンゾウが戦いの場に赴くたび、数えきれない回数、覚悟した。そうであるはずなのに、眼より湧き出る雫が止まらない。
「如何なる者にも、離れがたい者がいる。」
「何時までも、お待ちしております。その時が来た時、必ず迎えに来て下さい。」
「お前はまだ血に濡れておらん。俺が迎えに来る事はない。」
「いいえ、私はポッペア。血と因果に塗れた宿命を持つ女。いずれ辺獄にて、ご一緒できますわ。」
キョウコはゆっくりと腕を離した。赤い瞼を擦りながら、静かに笑った。
ゴンゾウもまた、静かに笑みを返した。そして、夜空を見上げた。
「燕蒼《イェン・ツァン》。」
何処からか、鳥が羽ばたく音が聞こえた。その瞬間、ゴンゾウの傍に一陣の影が降り立った。それは、二十歳にも満たない女性だった。顔の下半分を黒い頬当で隠し、茶色の長髪を後頭部で一つに纏め、眼は透ける様に碧い。
「お前の身命を賭して、キョウコを護り抜け。失敗は許さんぞ。」
片膝を付いていた燕蒼は拱手をすると、立ち上がってキョウコの手を取った。
「キョウコ様、こちらに。」
キョウコは何も言わず頷くと、燕蒼に伴われながら、路上の片隅に停めてあった小さな白い車に向かって歩み出した。
振り向く事も、足を止める事もしない。
きっと其れは、彼が望んでいる事ではないから。
夜空を見上げると、まるで極彩色の絵屏風の様に、星々が輝き瞬いていた。
夜空に浮かぶ星々を眺めながら、ある詩人が詠った。
「君の憐れみを請おう、私の愛する唯一の人よ。
私の心が落ちてしまった暗い深淵の底。
ここは鉛色の地平線が取り囲む陰鬱な世界。
夜には恐怖と神への冒瀆とが泳ぎ回る。
熱のない太陽が六ヶ月間浮かび、残りの六ヶ月間は夜が大地を覆う。
それは極北の地よりも剥き出しの国。
動物も、小川も、緑も、森もない。
この氷の太陽の冷たい残酷さに、凌駕する恐怖など世界に存在しない。
この広大な夜は太古の混沌に似ている。
私は最も卑しい動物たちの運命を妬む。
彼らは愚かな眠りに浸ることが出来るのだから。
それほどまでに時の糸巻きはゆっくりと繰られていく。」