「いよー、説教してるのかい。相変わらず手厳しいことだ。」
安西の登場はいつも唐突である。
今回も、桂の背後の影から、音も無く現世に滲むように出現した。
これは娯楽としての、一種の趣味であり、
いつでも気配を抑えて、人の裏をかくことを好んでいるのだった。
そのような性格だから、法螺を吹いたりするのもしょっちゅう、
不人気を買うのに一層拍車をかける原因となっている。
桂はとうに慣れているので、溜息一つで済ませるが、
彦田少年には衝撃であったか、ぎくりと目を丸くして仰け反った。
「お知り合いですか。」
「昔、勝手に知り合われた。」
「何を言う、双方同意の上さ。
それで君が自殺未遂者かね。何だまだ若いようだ。
相当に厭なことでもあったのかい。」
上品な物腰と、穏やかな顔つきに、彦田も少々心を緩める。
きちんと橋を渡ってきたことも評価に値したらしい。
「ええ、色々と――」
「それにしても君、ぶら下がるなら松にしたまえ。
桜は死体を埋める目安だよ。見当違いなことだなあ。
縄も余り上等でないようだ。もう少し奮発しないと、冥土で後悔するやも知れないよ。」
話を遮っておいて、無関係の方面へ脈絡を伸ばすのもお手の物である。
次に溜息をつくのは彦田であった。桂の方は欠伸へ進化している。
「うん、まあいいや。それで一体何があったんだい。」
彦田はまただんまりになる。
少し話をすれば、安西の胡散臭さには誰でも気付く。
神経症の桂に至っては、その昔、
話す前の一目で気付いてはいたのだが、少し一緒に遊んでみたが最後、
この今までに交際を強いられているのは、甚だ気の毒である。
彦田少年も桂と同じく憂き目を見る破目になるかもしれない。
もちろん、彼にはこの場から逃げる選択もあるのだが、
運の悪いことに、桂がまだ枝から下駄をどかさないままである。
下手をすれば、安西地獄の道連れを増やそうと言う思惑かも知れない。
「黙ってちゃあ仕方ない。じゃあ少し言わせて貰うがね。」
独りで話を進めるのも、やはり得意分野である。
咳払いからの深呼吸、ゆらりと両腕を広げた。長話の合図であった。
「我々がここを通ったのは全くの偶然だ。
なのに、今まさに自殺しようとしている君と出会った。
これは奇跡だ。すばらしいことだ。
と言いたいところだが、現代科学では、奇跡は起こらないものとされている。知っているかね。」
「はあ。」
「実のところ、僕は今朝、馬鹿に早くから目が覚めてね。
悪夢とかではない、本当に何の気無しに起きた。今までこんなことは無かった。
それが今日に限って、という話となるとだ。
君が自殺の道を選んだ、その烈しい悲愴な決意が、
我々人間同士一般の心に張り巡らされた幽冥界の網、まあ意識の連結を辿って、
様々な人の魂と感応する内、僕のところにもやって来たところ、僕は未覚醒の内に感動に打たれ、
思わず飛び起きてしまった、と思うのだがね。」
「からかうんじゃない。もう帰るぞ。僕は腹が空いた。」
「まあ、待ちたまえよ。もう一寸話させてくれ。
ええと、そうだ。何故この桜の枝が自然と簡単に折れた。
桂君の仕業じゃなかろう、見えていたからね。
見たところそれほど細くはないし、君だって点検した挙句に縄をかけた筈だ。
それが何故折れる。全くおかしい。」
「たまたま虫でも喰ってたんだろう。」
「だからってそうそう脆くなるものかい。
いいかい、少年。今日の事件は必然だ。
我々が通りかかったことも、桜が折れたことも、必然だ。
偶然なんて、妄想の産物に囚われてはならないよ。
僕は君の意識を受けて、君に会いに来たんだ。
桜だって君を助けたいから、自らを傷つけたんだ。
唯この桂という男だけは、因果を解さないから、つまらなそうな顔をしているんだ。
桂のことはともかく、僕と桜を信じたまえ。」