この時の安西の勢は、
単なる子供じみた好奇心から発生した、無垢なるものではない、
精神を刺激された気狂が、百心動乱の演説を始めた如くであり、
その瞳のぎらめきたるや、鬼気迫るを通り越して、
実に鬼の双眸そのものであった。
笑みを形作る唇は、紅を注したわけでなし、やたらとテラテラ光る。
安西本人が如何なる意図で、そんな形相を作るのかは不明だが、
どう見てもまともな人間の仕業ではない。
せっかくの自害の決意を挫かれて、心理の不安定になった彦田少年が、
こんな男と正面から相手をできるはずはない。
「どうか堪忍してください。大した話じゃありません。
放って置いて下さい、さいなら――。」
言うが早いか、己の頸部に取り付いた縄を、引き千切るようにして解くと、
もつれる足で土手を駆け下り、屋根の群がる方角へ向かって脱兎と化した。
安西は追いこそしないが、ご馳走を取り上げられたような顔つきをして、額に八の字を書いていた。
先程まで取り付いていた邪悪な魂は、無事成仏したと見えて、
只今の様子では、紛うことなき一般の凡人である。
この寸劇を見て、桂はやや呆気に取られてはいたが、
傍らの人間の暴走がようやく片付いたと安心して、
踏みつけていた枝を手に取ると、例の大川へと放り投げた。
涼やかなような、どこか重いような、着水の音がして、
まどろんだ春の空気を揺るがせた。
特に目的のある行動ではない。強いて言えば行動が目的であろう。
「逃げられちゃあ仕方ないな。おい、次はどこへ行く。」
「何だって。」
自殺未遂の現場という、中々衝撃的なものを見ておきながら、まだ散歩を続ける気でいる。
「馬鹿を言え。僕はこれから朝飯なんだ。
その後は彦田家に訪問だ。君に付き合ってる場合か。」
「今朝からこんな面白いことがあったんだ。
これは運が良いぜ。きっと他にも何か起こるさ。」
「君の身にも起これば良いな。」
流石の桂も、早朝から気狂の相手には手が折れる。
それだけ言い残すと、懐手をして、さっさと早足で自宅へと歩いていった。
安西は肩透かしを食らった体であったが、これしきではへこたれない、
うんと大きく伸びをすると、どこへとも無くふらふらと足を向かわせた。
桂は歩きながら考える。
自殺しようとする人間の親は、まともでないに極まっている。
そんな親に育てられるのだから、彦田少年の兄弟姉妹も、
いつかは積極的往生をしない保障はない。
否、もしかすれば、次に桜にぶら下がっているのが一人だけとは限らない。
只一人でさえ、美観の損失と風紀の乱れは著しいのだから、
それが同時に二人三人と増えれば、正しく効果は絶大である。
ややともすれば、自殺を流行と勘違いした若者が、
俺も俺もと真似してぶら下がり始めるかも知らん。
それが広まれば、勘違いに留まらず、本当の流行と化して、
日本列島総自殺の祭りが始まるかもしれない。
もっとも、喩えそうなったとしても、自分はどこまでも生きるつもりであるが――
何にせよ、芽は小さいうちに叩き潰して踏みにじり、ついでに根っこまで穿り返すべきだろう。
このような平和思想を、しぶとく展開してはいたが、
しばらくすると、空腹の苦痛に思考を支配されてしまったのであった。
ともあれ、自宅の扉はもうすぐである。