Neetel Inside 文芸新都
表紙

リベラル・ハート・ファミリー
第一話② 八回表、ワンナウト二塁一塁

見開き   最大化      

第一話② 八回表、ワンナウト二塁一塁

 唐沢雄一――プロ六年目の投手。大学・社会人ドラフト五順目でロッテに入団後、最初の三年は
二軍暮らしだった。四年目の七月に、空きが生じた先発枠を掴み取り、その後は、そこそこの成績
でなんとか先発の地位を守りぬいている。四年目は後半だけで三勝、翌年は自身初の二桁勝利(十
勝十二敗)をあげるも、被本塁打数が多く、それに伴い防御率も良くない。とはいえ、精密なコン
トロール(昨年の与四死球十九は、十二球団の百投球回以上の投手の中で最少)を持ち、自分から
崩れる心配は少ないため、首脳陣からはある程度の信頼を勝ち得ているようである。球速、球威共
に平凡だが、低目を丁寧に突く投球術と、打者を惑わす二種類のスライダーで、粘り強く投げ続け
る、地味ながら、チームに一人はいて欲しいタイプの投手に成長した――(今年度発行の野球ガイ
ドより抜出)

 六年目の今年、雄一は、人生何度目かの瀬戸際にいた。
 踵辺りが、もう崖から食み出している。もし、今日駄目なら――
 ――新外国人、昨年のドラフト一位辺りに、押し出されてしまうことだろう。

 四月十八日、金曜日。現在の日本球界の盟主・ソフトバンクホークスとの三連戦。
 雄一は、今年三度目の登板を、今日、迎えた。
 ここまでの二試合、雄一は最悪だった。
 オープン戦で好結果を残し、順調な調整振りをアピール。シーズン開始時には、監督から「今年
の三本柱の一人」と高い評価を与えられ、実際に開幕三戦目(ホーム開幕戦)を任せられた。しか
し、雄一はそこで醜態を晒した。二回三分の二、被安打九、被本塁打三、八失点――四球を恐れ、
球が尽く打ちごろへ向かって行き、狙い打ちされたのだ。気負いすぎた、とだけ、雄一は言った。
 そして、先週の二戦目。前回よりは良かったものの、それだけ、という内容だった。四回六失点。
被本塁打、二……課題は、解消されるどころか悪化の一途を辿っていた。

 そして――今日なのだ。

 選手生命を左右しないとも限らないこの日のマウンド、雄一は意地を見せていた。
 打者が面白いように、スライダーを引っ掛けてくれる。雄一のいい時のパターンになっていた。
ソフトバンク打線は、ロッテの内野にノックをつけてくれているかのごとく、内野ゴロばかり打っ
ていた。
 正捕手の宮城も、今日の雄一の出来に手応えを掴んでいた。とにかく今日はスライダーが切れる。
前二戦ではゼロだった三振も、今日はこの七回までで四つ奪えている。雄一のスライダーは、時折
評論家が思い出したように“魔球”と形容する程度にはいい球である。調子さえ良ければ――いいコースに決まり、また切れがあれば――、そう簡単に打たれるレベルの球ではなかった。が、それ
が今年ここまではなりを潜めていたのである。今年もいけるかな、と、宮城もいい気分になってい
た。
 
 三対一、ロッテリードで八回表を迎える。
 この回、先頭バッターをあっさり打ち取った雄一は、次のバッターにこの試合初の四球を与えた。
それは、よりにもよって、相手の一番。昨年の盗塁王。俊足である。宮城はすかさずマウンドへ向
かった。優れた捕手は、ここぞというときであまり迷わないものだ。試合の、選手の、ポイントを
本能で知っている。
「雄一さん、どうかしました?」
 宮城は、東北福祉大卒の自由枠捕手で、三年目である。昨年からレギュラーを掴んだ。雄一の二
つ下に当たる。
「いや、なんでもねー」
「…まあ、次の中野さんは当たってないですから、外のスライダー打たせましょ。ゲッツーとれた
ら、今日はいい日になるんじゃないですか?」
「…うん」
 その時の、雄一の、どこか納得していない表情が、宮城の奥にしこりとして残ったが、時間なの
で戻らなくてはならない。振り向いて、
「低めですよ」
 と呟いた。

『二番、セカンドベースマン、中野。背番号九』
 宮城は、代打を出されなくてよかった、と思った。中野はアンパイだからである。
 初球、右打者中野の内角寄りに構える宮城。小さく頷く雄一。
 スリークォーターが躍り、放たれた。
 ストライク。ミットの構えたところにほぼそのまま収まった。百四十一㌔。
 中野は、ほとんど初球からは打たない。
 いい球だ、と心の中で言ってから、宮城はボールを返した。宮城は、チームの投手の中で雄一の
リードをするのが一番好きだった。コントロールミスがない、というのもあるが、投手と捕手、二
人の力で勝利を掴む感覚。それがチームで一番強く感じられるのが、雄一だったのである。
 二球目、三球目。宮城は内高めのシュートを続けて要求した。中野が打ちたがるが打たない、ギ
リギリのコース。ここを要求できるのが、捕手から見た雄一という投手の強みである。「打ちたが
る」というのが重要だ。「打つ気がない」球では釣り球とは呼べないのだ。「打ちたがるが打たな
い」――これが、ベストの釣り球である。これを利用できる雄一は、もっとたくさん勝ててもいい
筈だ。それが出来ないのは、自分が足りないからだと、宮城は内心で思っている節もあった。
 今年は、雄一さんに一番勝たせる――そう、思い望んだシーズン。三戦目。今年初勝利は間近。
 八回表、ワンナウト一塁。中野への四球目――まんをじして、宮城は絶対の自信を持って、外低
めに構えた。勿論要求はスライダー。二種類の内の、変化の大きい方だ。
 中野は、ここに来ることを知っているだろう。だが、打てない。体が反応しない。高めを強く印
象付けられた打者が――否、人間が、十数秒の間に低めに体の意識を切り替えるのは不可能である
からだ。
 分かっているから、手を出そうとしてくれる。中野はミートが上手い。つまり、当ててくれる。
ゲッツーを取れれば最高、もしファールでも、カウントは稼げる。どう転んでも悪くはならない、
最良の球――
 しかし。
 雄一は、何故か首を縦に降らなかった。
 どうして? 宮城は露骨に嫌悪感を顔に出した。
 もう一度、強く、外角低めに構える。目に闘志を孕ませて。
 しかし、雄一は承諾しない。その顔からは、焦りが垣間見えた。
 ヤバイ――宮城は、審判にタイムを要求した。この状態の投手に仕事をさせるのは、まずい。
「何が嫌なんですか?」
 単刀直入に、宮城は訊いた。
「内にストレートが投げたいんだ」
 ハァ? と、口を突いて出そうになるのを、宮城は必死に堪えた。
「…内は、もう印象付いてますよ。打たれる危険性がデカいです」
「今日の中野さんは当たってないし、元々力もないから、内で詰まらせられると思う。外のスライ
ダーは、ちょこんと合わせられて外野に落ちるかもしれない……」
 ああ、そうか。宮城は合点がいった。前の試合、実際にそうしてタイムリーを打たれたのだ。し
かし――雄一の調子は、あの時とは比較にならないほどいいのに――
「自信、持ってくださいよ。抑えられますって。お願いします。こうしている間にも、中野さんは
意識を切り替えている。外を打てるようになってきてるんですよ!」
「……」
 時間が。
「…投げてくださいよ。投げてくれないと、もう、知りませんよ」

 雄一は、投げた。
 低め、ほんの少し浮いたが、ほぼ完璧なコースに、スライダーがいった。
 しかし、打たれた。
 前回と同じようなところに飛んで行き、ワンナウト二塁一塁になった。
 宮城は、タイムを取った時点で、こうなることも想定に入れていた。入れていたが、ここまで組
み立てたカウントを場当たり的な要求で潰したくはなかったのだ。
 タイムを入れなければ、しかし、あの時の雄一さんでは――
 宮城は、心の中で舌打ちした。
 ほら、やっぱり――そんなことを言いたげな顔をして、雄一は宮城を見ている。
 あんたがあんな顔するから悪いんだ――宮城は、心の中で返した。
 とにかく。このピンチ、なんとか切り抜けなければならない。切り抜けなければ、勝ちはない。
 しかし、相手打者は、日本一チームの三番・小鳥遊。
 雄一は――そして宮城は――この打者の抑え方がまるで分からなかった。
 とにかく、弱点がない。どこでも打てる。それに広角に打てる技術と長打力を併せ持つ。現在、
世界でも指折りの打者であろう。
 はやくメジャー行っちまえ、と他球団の投手と捕手に呪いをかけられている打者だ。
 今シーズンも絶好調。ここまで四割五分、本塁打五本、打点十八。雄一との対戦成績は、通算十
三打数八安打三本塁打。まさにカモにしていた。
 ここで投手コーチが出てきた。
「抑えられるか? 抑えられるというなら、続投だ」
「抑えます」
 これ以外に、どう物を言えというのだろう。
 プロが、「無理です。抑えられません」と言えるわけがない。
 コーチが間を作り、戻っていった。内野手も守備位置につく。投げなければ、ならない。
 ターニングポイント。
 八回表、ワンナウト二塁一塁。
 勝負を、人生を分かつ刻――

 小鳥遊には、初球から気が抜けない。初球の打率が三割後半あるからだ。雄一が彼から打たれた
三本の本塁打のうち二本が初球、ということもある。
 この相手は、本当に、極限まで、雄一と宮城のバッテリーが力を出し切らねば、抑えられない。
いや、よしんば出しきれたとして、抑えられるかどうか――
 初球が肝心だった。
 強打者に、初球から内に投げ込むのは憚られる。普通は外から行くものだ。しかし、小鳥遊は外
でも楽に長打を打てる。ならば、内から入った方がいいかも分からない。小鳥遊の打者心理を考慮
すると、初球の外は慣れっこだろう。
 今度は投手心理である。勿論、初球は外で逃げたい。しかし、それがこの小鳥遊という打者にか
かっては逃げにもならないことを、雄一は身をもって知っていた。
 宮城は、内に構える。雄一は、少し怪訝な顔をした。しかし、頷く。
 左打者の小鳥遊の胸元辺り、全力のストレート。百四十三㌔、ボール。
 ちなみに、この百四十三㌔は、雄一の現時点での最高球速である。
 八回でまだ、このボールが投げられる。ここまで、いかに楽に投げていたか、ということが分か
る。力は残っている。勝負の土俵には立てる。
 二球目、小さく、鋭く曲がるスライダーを要求した。しかし、そのコースは、真ん中。
 雄一は、一球目よりも強く、嫌な顔をした。しかし投げる。自分の考えでは抑え切れない。もう、
任せるしかない――雄一は、否応なく宮城の指示する通りに投げるしかなかった。
 それまで、どんなに怯えていても、投げる瞬間にはもうそのことは消し去る。それも、雄一の強
みの一つである。
 集中する。ミットを見据える。体全体で発生させた運動エネルギーが右手の指先に集まり、放出
される。鋭い回転が、空気を切り裂き、ミットに収まる。主審の手が上がる。ストライク。
 ワンストライク・ワンボール。
 さあ、ここからだ。ここからどうすればいい。釣り球は使いたくない。ボール先行は絶対にいけ
ない。次の球で、ストライクを稼がなければならない。どうやって、どうやって……
 意表を突かなければならない。小鳥遊の意識の外を探りだし、それを要求しなければならない。
その作業は、困難を極める。
 そんなもの、そうありはしないのだから。
 見つからないものを、見つけようとして、必死にもがく。
 言葉にならないほど、つらい作業だ。
 そんなことを続けていると、数秒の間にも神経が磨耗される。
 そして、どうでもよくなるものだ。
 宮城が要求したのは、また真ん中。シュート。
 これにはさすがに、雄一も二度三度、首を振った。しかし、変わらない。投げろ。そう言われて
いる。
 大体、そこは、二打席目に今日唯一の失点であるソロ本塁打を打たれたコースだ。その時はスト
レートだったが。
 投げるしかない。投げなければならない。投げなければ生きていけない。投げなければ……
 ――投げた。小鳥遊はこの打席初めて、バットを振った。完璧に捕らえられ、その打球はライト
ポール際――ファール。
 大飛球であった。
 雄一も宮城も、一度死んだ。
 しかし、なんとか息をふきかえした。
 宮城は笑った。雄一も笑った。
 ツーストライク・ワンボール。
 四球目。
 宮城は胸元、ギリギリストライクになるコースに構えた。要求は――大きく落ちるスライダー。
 普通なら、そんなところには投げないものだ。また投げさせないものだ。
 二人は一度死んでいる。
 大きくなった気分のまま、そこに寸分違わず、投げ込まれた。
 小鳥遊は、大きく落ちるスライダーが来ることを勿論予期していたが、それは低めにくるものだ
と決め込んでいた。既に振り切る意識になってしまっている。修正を施したが、いかに小鳥遊とは
いえ、一秒足らずの間に完璧に修正するのは、不可能である。それは人間を超えた域にある。小鳥
遊は、ボールの上を擦った。それは力ないゴロとなり、ショートに転がる。ショートはすかさず二
塁に送球。ツーアウト。セカンドも素早く一塁へ――アウト。スリーアウト、チェンジ。
 ここで、勝負は決した。

 九回は、万全の抑えの小川雅史がいつも通りランナーを出しハラハラさせながらも抑えた。こう
して、雄一は、今シーズン初勝利を記録し、瀬戸際から脱した。

       

表紙

藤沢 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha