Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 あたしは、小さい頃から見えていたそれを、黒い「もやもや」って呼んでいた。
 そういう呼び方をしている理由は、他の誰にも見えなくて、正しくはなんて言うのか、わからなかったから。
 まだ小さかった頃、夜にお手洗いへ行こうと思った時に、その「もやもや」が見えた。
 とっても怖かった。
 お母さんは、気のせいだよって言ってくれたけど、絶対、そんなことないもん。
 「もやもや」は、きっとおばけなんだ。だからあたしにしか見えないんだ。
 ずっとそう思ってたのに……頭の上とお尻に「もやもや」が見えてしまった男子がいる。
 日野光樹。
 いつもきつねのお面をつけている、変な男子だ。
 最初は気のせいかと思って無視してたんだけど、参観日の日、きつねのお母さんを見て、気のせいじゃないって知った。
「―――あら、あなた?」
 きつねのお母さんは、とっても綺麗な人だった。
 テレビで見る女性の歌手も霞むぐらいの、すっごい美人。
 男子も女子も、他のお母さんも先生も、初めて見た人は、ぽかんと口を半空けにしてしまう。だけどそれだけじゃない。
 きつねのお母さんも、頭の上とお尻のあたりに「もやもや」したのが見えたんだ。
 呆然と見ているあたしを見て、きつねのお母さんは、にっこり笑った。
「―――内緒にしておいて、頂戴ね?」
 あたしは訳もわからず、ただ頷いた。
 そもそも、誰に言ったところで、信じてくれないと思うけど。
 でも、あたしが「もやもや」の事を誰かに喋ったら、きつねが遠くに行っちゃうかもしれない。
 それだけは、いや。
 
 廊下の先に「もやもや」が見えていた。
 六年生の教室の前、お札を取ってくる扉の前で、意地悪するように揺れている。
 じぃっと目を凝らせば、踊っているような気もする。
「……怖くないもん……」
 小さいから平気だって、自分にいい聞かせる。
 あたしの膝下ぐらいまでしかないんだから、近くまで行って、蹴っ飛ばしてやればいい。
 きつねに偉そうな事を言った手前、階段を降りていくなんて、できっこないし。
「よしっ!」
 覚悟を決めて、六年生の教室に近づいていく。なんだか妙に廊下が滑る。雨で濡れてる感じじゃなくて、小さな物を一杯踏みつけているみたい。
 気持ち悪いなぁ、なんだろう。
「もやもや」に、一歩、一歩、近付いて行く度に、胸がどきどきする。
 唇をぎゅっと結んで、それでも近づく。あとちょっと。
 最後の数歩まで近づいて、あたしは「もやもや」を睨みつけてやった。
「そこ通るんだからっ、あっち行きなさいよっ!」
 片足を振りあげた、その時だった。
 ざらざらって、なにかの音が聞こえるのと一緒に、足元がふらついた。
「――やっ!?」
 履き慣れていない下駄と浴衣のせいで、立っていられない。
「きゃあっ!」
 足首が変に方向に、ぎゅうって、曲がっちゃう―――痛い!
「………っ!!」
 すごく痛い。
 捻った足首に手を添えるだけで、電気が走ったみたいになる。
 額から冷たい汗が流れていって、目頭が熱くなってくる。涙がでてきた。
「―――水原、大丈夫かっ!?」
 後ろから、きつねの声がした。
(やだ、あの馬鹿。下で待ってろって言ったのにっ!)
 こんなみっともないところ、絶対に見られたくなかった。
 歯を食いしばって起き上がろうとしてみたけど、駄目。痛くて立てない。
「……許さぬ」
 いつも呑気な、人の気も知らない、きつねとは思えない声。
 背筋が、ぞくって震えた。
 本当に怒ったその声が、自分に向けられているのがわかって、悲しくなった。
「……ぁ、う」
 ごめんって謝ろうとしたんだけど、捻った足首が凄く痛くって、声がだせない。
 早く謝らないといけないって、思うのに。
 嫌われたくないって思ってるのに、一緒にお喋りとかしたいなって思うのに。
「許さぬぞ、悪党めっ! 正義の怒りを受けてみろっ!」
 きつねの声が、びりびりと、空気をつんざくように響く。……って、誰が悪党よっ!
「当然だ! 貴様らの、あくぎょーざんまいなど、お見通しだっ!」
「…………?」
 きつねがなに言ってるか、わかんないんだけど。
 でも良かった。あたしが嫌われてるわけじゃないんだ。
 捻った足首は本当に痛いのに、顔が少し緩んでしまう。安心してしまう。
「きつね仮面、変身っ!!」
 良かった。きつねが馬鹿で、本当に良かった。
 いや、良くないってば。
 だって、変身とかバカなの? 
 あんた今年で十歳でしょ……っていうか、あたし、本当に足が痛いんだってば。なにを呑気に変身してるのよ。バカきつねっ! 鈍感っ!!
(もーーーー!)
 なんか段々と、腹が立ってくる。
 バカきつね、後で絶対、殴ってやるんだからねっ!
 足が治ったら、まず最初に蹴ってやる。柔らかそうなほっぺたも抓ってやるんだから。
 それから、たこ焼きに焼きそば、綿菓子に焼きとうもうこし、林檎飴も買わせてやらなきゃ。あっ、フライドポテトも食べたいし、喉渇くからジュースも必要よね。
 えーと……慰謝料って言うんだっけ、こういうの。
「きつね仮面っ! 参上っ!!」
 やかましいわ。このっ、
「バ……っ!」
 足が、どんどん痛くなってくる。
 ぎゅーって歯を食いしばる。
 耐えきれそうにない、いたいよぅ。お母さん。
「~~~~~ッ!」
 痛くて、痛くて、たまらなかった。嫌な汗がたくさん流れだしていく。だから、
 だから、あたしの側を通っていく風が、とっても、心地良く感じたんだ。
「…………風?」
 旧校舎の窓は、全部閉まっていた。たぶん、しっかり鍵もかけられているはず。
 その旧校舎の窓が、なにかを怖がるように、悲鳴をあげた。
 風がどんどん強くなっていく。勢いを増していく。
 窓の外から吹き込んだ、突風じゃない。部屋の内側で生まれた風が、吹き荒れてるんだ。
 なに、なにが起こってるの?
「くらえっ! さいしゅーひっさつおーぎすぺしゃる! てんこー……!!」
 バカが、なにか言ってるけど、無視。
 どんどん、どんどん、風が強くなっていく。目に見えるぐらい、渦巻いている。
 お月さまに照らしだされた、廊下の黒い影。
「もやもや」が、白い風に吹き飛ばされた。
 一気に、廊下の隅まで流されて、消し飛ぶ。

『のわあああぁぁあああぁぁあ~~~~~!?』
『ひょえええぇぇぇええぇぇええ~~~~!?』

 その時に、不思議な声を聞いたような気がした。もうわけわかんない、なんなのよ。
 捻った足首があまりにも痛くって、まともに考えられなかった。
「水原」
 でも、きつねの声だけは、はっきり聞こえた。
「だいじょうぶ?」
「……遅いわよ」
 どうにか顔を上げると、きつねのお面を付けた男子が、手を伸ばしてくれている。
 頭の上とお尻に、黒い「もやもや」が見える、おばけの子。
「……き、きつね……?」
「なんだよ? ……あっ、お前、その足ちょっと見せてみろっ!」
 捻った足首を抑えていた手を、きつねに払いのけられる。
 その代わりに、ひやっと冷たい手が添えられる。
 顔が、真っ赤になった。
「なにすんのよっ、ばかっ!」
「いたっ! た、叩くなってば! 治してやるからっ!」
「どーやって治すって言うのよっ!」
「痛いの、痛いの、とんでいけー!」
「バカーーーーッ!!」
 すっごく恥ずかしい。なにそれ。
 あたしたち、もう十歳なのよ。四年生なのよっ!?
「いーから、いーから、そのまま動くんじゃねーぞ」
「うるさいわねっ! はやく保険室に……って……」
 きつねが手を添えていてくれると、不思議と痛みが引いていく。
 そんな気がしたわけじゃなくて、本当に楽になっていく。
「動かないで、そのまま」
「……う、うん」
 暴れていた熱が、嘘みたいに冷えていく。
 真っ赤に腫れてたところが、小さくなって、元の肌色に戻った。
 信じられない。
「よし、こんなもんかなっ」
「……うそみたい」
「でも、ぜんぶ治ったわけじゃないから。保健室行って、ちゃんとした手当てしてもらわないと駄目だから」
「……うん」
「反対の足でなら立てる?」
 頷くと、きつねは腕の下から肩を通してくれる。
 あたしは寄り添うように起き上がって、捻った足を少しだけ床につけてみた。
「立てる……」
 まだ少し痛みが走ったけれど、さっきと比べると全然平気。
「まだ歩いちゃダメなのだ! ほら、おんぶ。保健室まで連れてってやるから」
「だ、だいじょ――」
「大丈夫だって言っても、連れてくからな」
 言葉が途切れたのは、きつねに言われたからだけじゃない。
「……きつね、あんた」
「うん?」
 あたしに背中を向けている、きつね。
 見間違えかと思ったけれど、頭のてっぺんから、茶色の「耳」が生えている。それから浴衣の隙間からは、おんなじ色の「尻尾」が一本。なにこれ。
「どうしたんだ? ほら、早く背中乗れってば」
「う、うん……あ、でも先にお札手に入れておかないと、お菓子もらえないわよ」
「そんなの、どうでもいいのだ。お前の怪我のが先っ!」
「……」
 きつねは馬鹿の癖に、こういう時だけ、しっかり優しい。
 前に、あたしがこっそり悪口言われてた時も、たまたま男子トイレから現れて(男子トイレっていうのが、格好悪いけど)、あたしの代わりに怒ってくれたのだ。
 あの時も、お礼を言おうと思ったんだけど、
「でも俺は、水原も悪いと思うけど」って言うから、
「余計なことしないでよっ!」って言ってしまった。
 だけど次の日、友達の戸田と一緒に、上手に仲直りさせようとしてくれて、嬉しかった。
「……男子って、ずるいよね」
「なんか言った?」
「……べつに」
 身長だって、あたしとほとんど変わらないくせに、その背中が妙に広いんだ。
 背中に乗る時、重くないかなって心配したんだけど、
「よいしょっ!」
 きつねはあたしを乗せて、軽々と立ち上がってみせる。
 すぐ目の前の、きつねの耳。触ってみると、ふわふわしてた。
「わふーーーっ!?」
「わっ!? びっくりさせないでよっ!」
「ご、ごめん。でも水原が……いや、なんでも……」
 ふにふにふに。手触り良好。
「きゅーーーーーっ!?」
 頭の上のふわふわ耳は、やっぱり本物みたいね。
 ほどよくあったかくて、気持ち良い。あと、この反応が面白い。
「……水原、お前、見え……」
「あら、なんのことかしら? もしかして、秘密があったりするのかしら?」
「い、いや……なんでも――――きゅううううううっ!?」
 うん、この尻尾の方も上々ね。
 ぴくぴく震える耳もかわいけど、ぶわっと膨れる尻尾の方が、好みかも。
「見えてんだろお前ーーーーーーーッ!!!」
「見えてるわよ。きつねの耳も、尻尾もね。やっぱりあんた、おばけだったんだ」
 そう言うと、きつねの耳が項垂れた。
 ご主人様から怒られて、しょんぼりした犬みたいで、かわいい。
「ほらほら、目指すは保険室よ」
「……わかってるのだ……」
 それでもあたしを背中に抱えて、しっかりした足取りで歩いてく。
 うーん、項垂れたきつねって、新鮮で、かわいーかも。えへへ。
「……あ、あのさ……気持ち悪くない……?」
「なにが?」
「……ほら、耳とか、尻尾とか……わふーーーー!?」
「なんでよ、気持ちいいじゃないの」
「さわんなーーーーー!!」
 わぁ、いいなぁ。
 なんかいいなぁ。こういうの。
「ねぇ、きつね。それ、みんなには内緒?」
「うん……できたら、絶対、誰にも言わないで。特に母ちゃんには、絶対にっ!!」
「どうしよっかな~♪」
 なんだか、とっても楽しい。
 きつねの知らない秘密を、あたしだけが知ってる。この耳と、尻尾。
「お、おい馬鹿! くすぐったいから触んなってばっ!」
「ダーメ。すぐに助けに来なかった、罰なんだからね」
「やめれぇーーーーーっ!! 落とすぞっ!?」
「落としたら殴るからね。それよりあんたってさ、本当にきつねだったのね」
「……うん」
「もしかして、きつねのおばけ? あ、わかった。あんたが悪いことしたせいで、一家全員きつねの呪いを受けちゃったんでしょ」
「ちがうぞっ! 俺は正義の味方だから、悪いことなんてしないのだっ!」
「本当かしら~? さっきは、嘘ついたじゃないの」
「あ、あれは仕方なくて……でもいつもは、嘘もつかないのだっ!」
「じゃあ、きつねのおばけじゃないなら、なんなのよ」
「俺は、正義の味方、きつね仮面! だがその正体は、妖怪 "あやかしきつね" なのだぁっ!」
「あやかしきつね?」
 きつねの足が、ぴたっと止まる。
 顔は見えなかったけど、絶対に「しまった!」って顔をしてるんだ。
 本当、単純馬鹿なんだから。
「あ、あやかしきつねって言うのは…………正義の……あだだだだだっ!」
「正義の味方が、嘘ついていいと思ってんの? あたしの顔に三度目はないわよ? ほらほら、白状しなさいよ」
「うぅ……」
 きつねの耳と尻尾が、面白いぐらい項垂れた。口が、ぱくぱくって苦しそうに喘いでる。でも嘘ついたから、許してあげない。
「喋ったこと、母ちゃんにだけは……絶対内緒なのだ……」
「わかったわよ」
 きつねがぶるっと震えた。
 お母さんのこと苦手なんだなぁ。あんなに美人なのに。
「あやかしきつねっていうのは、妖怪なのだ。言っとくけど、おばけじゃないぞ。ちゃんと生きてるからな」
「妖怪? お母さんもお父さんも?」
「母ちゃんだけ。父ちゃんは水原とおんなじ、普通の人間。機械の工場で仕事してるんだ。けどな、俺と母ちゃんほどじゃないけど、妖怪とか幽霊の姿が見えるんだ。なんとなく、黒くて、もやもやっとしたのが、見えるんだって」
「それ! あたしと一緒!」
「やっぱりか。じゃあ水原も、俺の頭とお尻に、黒いもやもやが、見えてんの?」
「えーとね、前はそうだったんだけど。今はしっかり見えてるわよ」
「……えっ?」
「犬みたいに三角の尖った耳と、ふわふわのしっぽ。あたりでしょ?」
 得意気に言ってやる。あんたの秘密なんて、お見通しなんだからねっ。
 うーん、すっごい気分いい。
「……見えるの、か?」 
 きつねがの足が、また止まった。石みたいに固まって、全然動かない。
「どうしたの?」
「べ、べつに、なんでもねぇよ?」
 きつねはごにょごにょ言って、もう一度あたしを背負って歩きだす。
 なにを言おうとしたのか気になったけど、その前に、あたしも言わなきゃいけない事がある。
「あのね、きつね――――ありがとう。それから、ごめんね」
「なにが?」
「なにがって…………やっぱ鈍感」
 溜息がこぼれた。いつか、気が付いてもらえるといいなぁ。

       

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