「ごめん、沢辺君」
保健室で、鼻血がほぼ完全に止まった渡辺が言った。
「いや、気にするなよ」
渡辺はため息をついた。
「僕、大丈夫かなぁ……迷惑掛けたりしないかな」
言葉の後に、また深いため息が続いた。
「大丈夫だって。自信がないなら、喜多に教えてもらえばいいんじゃないか」
「……うん。そうなんだけどね」
渡辺の声が少し小さくなった。
「なにか都合が悪いことでもあるのか?」
俺がそう聞いてみても、返事はない。
何か都合が悪いのは確かだ。
「そりゃ、西野に教えてもらえばいいんだよ」
帰り道再び会った喜多が言う。
確かに、西野はソフトボール部だけど、いくらなんでも……。
「だってさ、あいつら、生まれた時から同じマンションにいたからさ」
……おいおい、マジかよ。
「それに、西野はさ、ソフトボール部の主力だから、レギュラーでもなかった俺より、いくらかマシだろ」
そう言われて、浅田なら猛烈に反論するだろうけど、俺には返す言葉が見つからなかった。
代わりの言葉を探していると、喜多が言った。
「まあ、西野から教わりにくいのはわかるけど……正直、怖いよな」
「だったら……!」
思わず声を荒げた。
「気持ちは分かるけど、俺には無理なんだよ」
「え?」
「まぁ、アレだ。深い理由ってヤツ? ……あんまり、話したくないけど」
「話してくれ」
俺は黙って喜多の目を見つめた。
それに観念したのか、喜多は1つため息をついてから、話し出した。
「野球は、野球好きの親父に習ったんだ。別に、中学までどうってことなくて、むしろ地区で一番だったんだ……あ、俺、ここには住んでないからね」
「知ってるよ。渡辺もでしょ」
「そうそう。でもさ、やっぱり猿山の大将みたいな、井の中の蛙とも言うのかな、俺より強いヤツは山ほどいる訳じゃん」
「……」
その時、俺が通っていた中学で、最強を誇っていた外野手を思い出した。
全国準優勝になって学校を騒がせた、主砲4番打者で、打率6割7分の怪物と評された。
同じ高校に行っているらしいが、面識がないから分からない。
そんな事を考えているうちに、話は進んだ。
「悔しくて、本当に悔しくて、今までより一生懸命練習したんだ。高校に入ると、俺が負けた相手がいてさ、そいつを勝手にライバル視して、ホント、勝手に燃えてただけなんだけどね」
その時、喜多が自分の制服の袖をまくった。
見た瞬間、背筋がざわついた。
「そしたら……ほら、俺の腕、見ての通り……ポンコツになっちゃったんだ。よくあるでしょ? 頑張りすぎてスポーツ出来なくなっちゃうって話」
針の後があった。
俺の中で、話の展開がうっすらと見え隠れし始めた。
もしかして……。
「奇跡的に……って言ってもそんな大した怪我じゃなかったんだけど、ちゃんとリハビリすれば復帰出来るって話になったんだ。高校一年の今頃から、今年の春やっと復帰できて……でもさ、その時にはもう、取り返しがつかない位に周りと差が出来ちゃってさ。一年と一緒に基礎練習してると、俺、何やってるんだろ……って思うようになって……結局、辞めちゃったけどね」
……深すぎる。
俺はどうしようもなく、何も言うことが出来なかった。
「頑張って、頑張って、それなのに報われないって、悲しすぎるよね……大野さんに『ざまぁみろ』って言われたけど、確かにそうだなって思えてきてさ。勝手に燃えすぎて、自滅して、まだ頑張れるのに、そこで諦めてたら、どうしようもないよな」
喜多は明らかに空元気を振り絞っていた。
「……俺、泣きそうだぜ」
そう言っているが、喜多はすでに泣いていた。
「……」
こういう時、なんて言ってあげればいい?
どう言えば慰めてあげられる?
俺の頭には何も浮かんで来なかった。
「じゃあね」
「うん、また」
結局、何も言えずに別れた。
悔しくて、電柱を蹴飛ばした。
爪先を強打した。
痛かった。
(……ざまぁみろ)
そして、大野さんの声を頭の中で聞いた。