Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 3 風祭優―探偵―

 風祭優の朝は早い。
 自身が所長を勤める探偵事務所、風祭探偵事務所には彼女しかおらず、彼女が起きないことには営業が始まらない。まずは自室のベットから抜け出し、寝間着を脱ぎ捨て仕事着に着替える。白いワイシャツに赤いネクタイを締め、黒いベストを羽織る。そして、まだ少し寝癖の残るセミロングほどある茶髪の上から黒のソフト帽を被り、それと同色のジーンズを穿く。
 まだ二十歳そこそこの外見にその格好は少しアンバランスで、似合っているというよりは着馴れているだけというような印象。
 自室を出ると、そこは事務所だ。十畳ほどのコンクリート打ちっぱなし。
 その窓際にデスク、すぐ横に本棚、中心に応接セットがあるだけという殺風景な部屋事務所だ。優はドアからまっすぐデスクに向かい、そこそこ立派な黒革の椅子に座る。そして、足元に置かれた冷蔵庫からブラックの缶コーヒーを取り出し、プルトップを開け、唇に乗せて傾けた。
「……ぷはっ。目え覚めたぁ」
 カフェインが脳内を巡るような錯覚で、重かった目蓋が一気に持ち上がる。
 椅子を回転させ、背後の窓を隠しているブラインドを持ち上げた。かしゃん、という音と同時に、室内が光で満たされる。眼前に広がるのは、横浜の街。近代と文明開花が中和する不思議な街。優は昔からこの街が大好きだった。本当はみなとみらい、ランドマークタワーの周辺に事務所を構えたかったのだが、それは家賃が高すぎるし、そもそも保証人もいない優には借りられるはずがない。
 いつか、一流の探偵になった時、桜木町に事務所を構えることを夢想していると、事務所のドアがノックされた。
「ん?」
 ドアの方に視線を投げると、返事も待たず、人が入ってきた。
 その男は、ワックスでぺったりと黒髪を後ろに撫でつけ、体は細い。紫のスーツに派手な柄のワイシャツ。開いた胸元に光る金のネックレスに、手首に巻かれた金の腕時計。
「相変わらずわかりやすいわねえ、五十嵐」
「お嬢に言われたかねえや」
 彼の名は五十嵐龍典。芝山組というヤクザの若頭である。
 五十嵐は応接セットの長ソファに座り、タバコに火を点けた。
「それで、なにか用?」
「用がなかったら来やあしませんよ。――お嬢は、エンジェルブレイン社をご存じで?」
「ああ、ゲノムだか医療だか、よくわかんないことやってる会社でしょ」
 優の実生活に関わるものではないので、そんなに印象は強くない。しかし、逆を言えば、そんな優が知っている程度に有名な会社だということだ。
 優はもう一口コーヒーを流し込み、飲みきった缶を部屋の隅にあるゴミ箱に投げ入れ、片眉を上げる。
「それがなに?」とゴミ箱から五十嵐に視線を移した。
「実は、その会社はいろいろ――よくない裏側がありまして。政治家への賄賂、病院との癒着等々」
「……悪いことならなんでもやってそうな感じね
「ええ。で、ここからは噂にすぎねえんですが、どうやらAB社は人間を拉致して、なにかやってるらしいんで」
「拉致? 拉致してなにやってんの」
「それを、お嬢に調べてもらおうって話ですよ。拉致の証拠を集めてほしいんです」
「……で、金を脅し取ろうって?」
 怪訝そうな優の表情を見てか、五十嵐が口元に手を当て、静かに笑う。「それもありますがねえ。あっしは、自分のシマでそんな胸糞悪いことが起こってるってのが、我慢ならねえんですよ。毟れるだけ毟って、潰すまでしないと気が収まらないほどにね」
 優は帽子に手をやり、すこしだけ位置をずらすとため息を吐いた。
 確かに拉致だのは気に食わない。が、しかし。自分が関わるとなったら話は別。
命だって懸けるかもしれない仕事である。
 悩んでいる優を見て、埒があかないと思ったのか、少し大きめな声で五十嵐は「お嬢。断ったら、ここの事務所を引き払ってもらいますよ」と言った。
 優が二十歳で事務所を持てたのは、ヤクザのバックアップがあったからなのだ。ヤクザでは手の出せない仕事を請け負うという条件で、この事務所を借りている。つまり、優は基本的に絶対服従なのである。
 それを思い出したかのように、帽子を深く被り直し、また深いため息を吐いた。
「OK、わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば!」
 デスクに足を乗せ、ふてくされたようにベストの内ポケットからチュッパチャップスを取り出し、口にくわえた。
 甘さの向こうに見える五十嵐のにやけた顔に、蹴りでも入れてやりたいと、優は思った。

  1

 AngelBrain社。
 主に医薬品の制作販売、遺伝子治療の研究と、人の体に関することを専門的に行っている大企業である。
 最近では自らの病院経営や介護施設の旗揚げ、医療福祉関係以外にも、様々な業種に手を出し始めているであり、その活躍は目覚ましい。
 社長の名前は。大学卒業後同業種の会社に入社。大学時代から天才の名を欲しいままにし、それは会社でも同様だった。
 二十七歳で独立。AB社を立ち上げ、業績をのばし、今では業界ナンバーワン。
「……まあ、ネットで調べられる情報なら、こんなもんかしら」
 五十嵐が帰った後、優はパソコンでAB社の情報を検索していた。わからないことがあれば、人は検索する。探偵もその例からは漏れない。
「拉致ったとしても、その拉致った人でなにやってんのかしら……。まあ、なんとなく想像はつくけど」
 大方、新薬実験とか臓器の抜き取りとかだろう。
 優は今までの経験上から、そんな予想を立てていた。
 だいたい人間が拉致される理由なんて、金か情報目当てで行われるのだ。優はそんな現場に、幾度となく当たってきた。
「……とりあえず、潜入かな」
 そう言って、パソコンの電源を切って椅子から立ち上がった。

  2

 事務所から出て階段を降りると、そこは関内という街だ。桜木町の隣にある、それなりに大きな繁華街。その街に、優の事務所が入った雑居ビルがある。
 その繁華街を桜木町方面に向かって歩き、優がやってきたのはコーヒーベルトという喫茶店である。昭和からそのままやってきたような古めかしい外観、そしてコーヒーの味に惚れ、こうしてちょくちょく足を運んでいる。
 ドアを押すと、ベルが優の来店を店中に響かせた。
「いらっしゃい」
 カウンターの中にいる、マスターの斗賀薫が、笑顔で軽い会釈をしながら言った。優は薫の前に座ると、コーヒーを注文し、辺りを見回す。店内には優以外の客はいない。
「これから仕事かい?」
「そ。これが結構やっかいな仕事でさあ。断れたらよかったんだけど、そういう訳にもいかなくて」
 コーヒーが目の前に置かれ、いただきますとカップを持って口の中に流し込んだ。
香ばしい匂いと、大人の味としか言えないような、すっきりとした苦み、そしてその裏に隠れたほのかな甘みが、口の中でいっぱいに広がった。
「相変わらず美味いわね」
「ははっ、ありがとう」
 こだわってるからね、とグラスを磨き始めた。
 それだけ言うと、途端に静寂が広がる。優にも薫にも喋る気がないからだ。
 そんな状況が五分ほど続き、優のカップが空になって、優は立ち上がる。ズボンのポケットから財布を取り出し、コーヒーの代金ちょうどをカウンターに置いた。
「ごちそうさま。また来るわ」
「毎度ありがとう」
 そのやりとりで、優は店を出た。
 体の中に広がるコーヒーが、優の奥底からやる気を引き出し、ハキハキとした足取りで、優はネットで調べたAB社の住所へと向かった。

  3

 ランドマークタワーにポイントを合わせ、そこから少しだけ離れた場所にある横に大きなビル。そこがAB社である。
 高さはそこまでないのだが、ブロックにたくさんのガラスを貼り付けただけのような重厚感ある外観をしていて、優はあまり好きではなかった。今からそこに入るのかと思うと、依頼のプレッシャーも合間って胃が痛くなってくる。
「ち」舌打をしながら、ベストの内ポケットに入っていたチュッパチャップスを取り出した。
 ミルク味のそれを舐めながら、このビル唯一の入口である自動ドアに視線を向ける。警備員がおり、もちろん受付もあるため、どう楽天的に見ても見つからずに侵入するのは無理な話だ。これから犯罪をしようというのに、目立つのは賢くない。
 人の出入りが激しい正門では、そこまで徹底したセキュリティは行われていないので、大して怪しまれることなく進入できる。
 しかし、問題はここからだ。
 優は、ビル唯一の入り口である透明な自動ドアを見る。
 いつも変わらず、警備員は一人だけ。おそらくは社員証を持たなければ入れてはもらえないはずである。しかし、優は社員証は持っている。五十嵐が持ってきた、内通者の社員証から偽装した優の顔写真と名前が書かれた社員証を。
 それを首から下げ、素知らぬ顔で警備員の横を通り抜けた。
 まず目に飛び込んできたのは、受付を中心とするエントランスだった。
受付の後ろには、会社の背骨と言える様な、エレベーターホール。高い吹き抜けと清潔感のある白い大理石の床、舐められるのではと思えるくらいにピカピカで、会社の顔としては満点だ。
 汚れた街で育ち、探偵を営んできた優は、少しだけ緊張してしまう。
そんな自分を、汚い野ネズミだな、と。半ば自嘲気味に思った。
 内通者からもらった見取り図を頭の中で展開させる。
地上五階建てのビルは、一階に受付や食堂など、仕事にはあまり関係のない施設が集中していて、二階から四階まで一般社員が働くオフィスらしく、様々な課の名前が書かれていた。そして五階は、まるまる社長の為のスペースらしい。そんなに広いスペースをどうするのか優にはまったく想像できない。
 とはいえ、社長なんてそんな成金趣味多いのだろう。
 簡単に、元手のない状態でも会社を立ち上げられる世の中だ。突然小市民が一国の主、だなんてよくある話。
 しかし、次の日には国が滅ぶというのも、よくある話。
 成功のチャンスは石ころと同じように転がっているが、破滅のきっかけもそれと同じ程度にある。
 その後、優は通りかかる社員達に話を訊いてみたのだが、有益な情報は得られない。
 得られても、せいぜいこの会社の株価や給料の平均、そして仕事のしやすさ程度。
 これではまるで、転職するための情報探しのようだった。
「仕方ない。ちょっとターゲットを変えて……」
 そう言うと、近くを歩いていた清掃員らしき男性に話しかけることにした。
 灰色の作業服の帽子には、とある清掃会社のロゴが入っており、AB社と契約している外注の会社だとわかる。まだ新人なのか、二十歳そこそこのニキビ面な青年だ。
「すいません」
「はい?」
 手押し車を止め、優を怪訝そうに見る。フォーマルというわけでもなく、かと言ってカジュアルという格好でも無い優のファッションがこの場に似合わないということを考えているのだろう。
 だが、優はそんなことに構わず話を聞き始めた。

 しかし、結論から言えば結局なにも情報は得られなかった。
 清掃会社の青年なので、AB社の情報をなにも持っていないのは、当たり前なのだが。
 きっと自分はやけになっていたのだろう、優はそんなことを思い、後頭部を掻きながら、ため息を吐いた。
 そしてズボンのポケットからチュッパチャップスを取り出し、口の中で舐め始める。今回はチェリー味。
 その後も、口の中をチェリー味で満たしながら、オフィスを巡ってみる。しかし、皆楽しそうに仕事をしており、楽しそうな普通の会社、というような印象を受けた。
「……なんか、拍子抜け?」
 それが優の感想だった。
 拉致というイメージが先行してしまい、彼女の頭の中には悪の秘密結社的なイメージがあったのだ。そんな妄想が恥ずかしくなって、軽く頬を掻いた。
「いやあ。バカだわ、あたし……」
 そうぼやきながら、目的の部屋の前で立ち止まる。
 それは、見る者に「大事な物が入ってます!」とアピールするような厚く重そうなドアだ。掛けられたプレートには、書庫と書かれている。
 中に入ろうとノブを掴んで引いてみるが、やはり鍵がかかっている。どうやら、ドアの横に備えられたアンテナに社員証をかざせば開くのだろう。
 どこもセキュリティに気をつかう時代。
「いつかこんなこともできなくなるのかもねえ……」
 それなら、探偵業に専念できるかもしれないと思いながら、社員証をかざした。
 
 その瞬間、けたたましい、心の後ろめたい部分を突くサイレンの音が、社内中に響きわたった。

「え! え!?」
 優の心臓が飛び跳ね、何が起こったのか確認しようと無意識に辺りを見回す。
 そうこうしてる間に、警備員が四人、優を取り囲んでいた。
「い、五十嵐……あたしにバッタモン掴ませたわね……!」
 今すぐ五十嵐に思いつく限りの暴言を吐きたいところだが、それはずっと先になるだろう。まずは、この警備員達をなんとかしなければ。
「いいか、大人しくしろよ……!」
 警備員の一人がそう言うものの、捕まるワケにはいかない。優は「……ごめん、ねッ!」と言って、まずその警備員の腹に右足での前蹴り。
 慣れた動作の為キレイに決まり、警備員一人が沈んだ。
「なっ!」
 その警備員と位置を交代するようにして、蹴りに使った右足で一歩踏み込み。驚いているもう一人のアゴに右フック。
 ほぼ一瞬で二人倒し、残った警備員と向かい合う。
 優が格闘慣れしていることを察したのか、二人とも拳を上げたまま様子を見ている。それで膠着状態になることを期待したのだろうが、それは甘い。
 まず一人、一瞬で距離を詰め、拳を掴んで引っ張り、その勢いを利用して右ストレートを鼻に叩き込む。鼻血を吹き出しながら沈んでいき、そのままもう一人の警備員に向かって投げ飛ばした。
 抵抗力を失っているので簡単に飛んでいき、最後の警備員はすぐ攻撃に移れない。その隙に優は、渾身の前蹴りを叩き込んだ。
 気絶した警備員と堅い壁に挟まれた最後の一人も、あっけなく沈んだ。
「ふう」襟を直し、すぐにその場から走り去る。
 すでに場所は割れているだろうし、警察に通報されている可能性も否定できない。エレベーターで一階に降りようかと思ったが、それは途中で止められればアウトなので、非常階段へ向かって走る。
 優はベストの内ポケットからケータイを抜き、五十嵐にコール。
 すると、三コール程で電話の向こうから呑気な声が聞こえてきた。
「どうしました、お嬢」
「どうした、じゃない! あんた、あたしにバッタモン掴ませただろ!」
 いつも通りな五十嵐の声にとは反対に、荒れる優の声。電話なのでまったくこちらの状況が伝わってないのが、妙に腹立たしい。
「何言ってるんですか。ありゃあ間違いなく本物だ。社員が直接横流ししてくれたもんなんですぜ」
 優は角を曲がる。非常階段まであと少し。
「何言ってんの!? 現にセキュリティに引っかかってるんだって!」
「そんなはずは……」
「そもそも、その内通者ってのはどういうコネで繋がったのよ!?」
「それは……、AB社の拉致を知って、調べて行く内に、その男にぶつかりまして……」
 思わず、優は立ち止まった。
 今なんて言ったか、この男は。
「……そ、そんなもん罠に決まってんじゃない!!」
「……面目ない話です。こっちでも、用心はしてたんですが」
 じゃあ、最初から罠だったのか。それとも、その社員だという男も知らなかったのか。
 優には判断がつかない。
「五十嵐、あたしはこの依頼から降りるわよ!」
「ええ。そうしてください。お嬢、ご無事で」
 そこまで言って、五十嵐との電話が切れた。
 優も少しスピードを上げ、最後の曲がり角を曲がる。
 見えるのは非常階段の簡素な入り口のはずだった。
「やあ、野ネズミちゃん。待ってたよ」
「……」
 そこにいたのは、金髪のオールバック、水色フレームのメガネ。そして白衣という奇抜なファッションの優男だった。細い目は害意を感じさせず、その口元は甘い言葉をささやきそうな色気がある。
「あんた、社長の――」
「天使天(あまつかたかし)です。以後、よろしく」
 右手を腹にやり、わざとらしく大袈裟に頭を下げた。
「よろしくするつもりはないけど……。そうね、ここを通して、通報しないっていうなら、食事くらいはいいけど」
「それは魅力的だ」
「――にしても、侵入者に対して社長自らなんて、大盤振る舞いじゃない?」
「はは。罠にかかった間抜けなネズミの顔くらいは、拝んでおきたいさ」
「……じゃあ、やっぱり」
「ああ」そう言って、笑いを我慢するように手で口元を隠した。先ほどから、動作がいちいち上品だ。
「どこぞのヤクザが、この会社を嗅ぎ回ってるのは知っていたからね。使えば僕に情報が流れる偽のカードを流したってわけさ。この間のチンピラは雑魚っぽいから見逃しただけ」
 やはりヤクザは信用できない。
 全部自分で用意するべきだった。優は憎たらしい五十嵐の顔を思い出し、舌打ちをする。
「しかし――君は別だ。実にいい素材をしている」
 まるで獲物を前にしたライオンのようにいやらしく目を細め、舌舐めずりをする。
 思わず優は自身の体を抱き、一歩退いてしまう。
 それでも、彼女は探偵である。仕事を全うするべく、気後れする口を開く。
「それで、本当に人間を拉致してたのかしら?」
「ああ。してたよ。ちょっと人数が必要だったもんでね」
「……なんのために」
「そうだね、強いて言うなら、世界征服の為――かな」
「せ……?」
 現実離れしたその言葉に、優は一瞬何を言ってるのか理解できなかった。しかし、頭の中で咀嚼する内に理解し、一気に引いた。
「おや、人の夢を聞いてドン引きとは、失礼だな」
「あ、アホか! 今時世界征服なんて、子供だって言わないわよ!」
「最近はいろいろ低年齢化しているからな。大人になるのも低年齢化してきているのだろう」
「何言ってんだこいつ……」
 帽子を脱ぎ、それで顔を隠してため息を吐いた。
 しかし、これはチャンスではないだろうか、とすぐに頭を切り替える。
 こいつさえ締め上げれば、この会社の秘密なんて簡単に手に入るではないか、と。
 優は帽子を被り直すと、不敵に笑う。
 そんな優を見た天使も、なぜか笑い返した。なんのことかわかっていないのかもしれない。
「ふふっ。悪いけどね、社長さん。私も仕事だからさ。悪いけどこの会社の秘密、喋ってもらうよ!」
 そう言って膝を折り畳み、一瞬で天使の懐へ飛び込んだ。
 もらった! 優はそう確信しながら、戦意を奪うための右フックで天使の鼻を狙った。
 しかし、それは紙一重で空を切る。天使は一歩下がっただけで避けたのだ。外れると思っていなかった優は、驚きつつも体のひねりを利用し、左フック。しかし、それも紙一重でかわされる。
「っ!」
 二度のフックの所為で体勢をすぐには戻せず、がら空きになった優の腹に、天使の掌底が突き刺さる。
 まるで映画のワイヤーアクションのように優はまっすぐ吹っ飛び、壁に背中を叩きつけられた。
「っ、く……!」
 内蔵が傷ついたか、骨が折れたかその両方かわからないが、優の口内にじんわりと鉄の味が広がっていく。
「おっと……。女性に対して、すこし力みすぎてしまった。失礼」
 先ほど、まるでハンマーのような一撃を優に与えたその手は、まるで女性の手のように白く細い。そんな力があるなんて信じられないほどに。
「あ、あんた……。何者……?」
 腹を押さえ、壁を頼りに立ち上がる優の声は、掠れ小さくなっていた。
 それに対し、天使は胸を張り、王の様な自信を持って言った。

「僕は。――神になる男だ」

 言うことは小学生の悪ふざけレベルだが、この男は本気で言っている。
 優はそれを、先ほどの一撃で感じ取っていた。それと同時に、ここは逃げるほかないことも。
 しかし、どうやって逃げるか。ここからエレベーターに向かうとしても、負傷した体で逃げきることを考えるのは現実的ではないし、非常階段も同様。つまり優に残された選択枝は一つ。天使を倒すしかない。
 そして今すべきは、体力の回復。
「……ところで、一つ聞いていいかしら」
 優は体力を回復する時間を得るべく、会話をすることを選択した。
「なにかな?」
「さっきの、拉致してた理由は聞いたけど。その人たちを何に使ってるかは聞いてないのよね」
「ああ、そういえば言ってなかったな」
 最初から教えるつもりだったのか、照れ隠しのように頭を掻く。
「僕はね、人間を材料に兵器を作っているんだ」
「……兵器?」
「そう。何事も、まず必要なのは人材だからね。拉致した人間を改造、そしてこの世界に戦争を仕掛ける為の兵器兼兵士にしてるのさ」
「……」
「信じてないような顔だね。一匹見せてあげよう」
 そう言って指を鳴らすと、上からなにかが降ってきた。
 見ると、それは人とカメレオンを混ぜたような何かだった。カメレオン独特の大きなギョロ目。長い舌に鋭い爪、そして全身を被うゴツゴツとした皮膚は、人間に原始的な嫌悪感を抱かせる。
「ひっ……!」
 思わず、優の口から小さな悲鳴が漏れる。血の気も足も引いてしまい、一瞬で戦意まで持っていかれた。
「これは凡作だが、潜入、情報収集に特化したタイプだ。すばらしいだろう。こいつはこの社内に入ってきた社員以外に張り付くよう命令してあってな、これで君の場所は丸わかりだったというわけだ」
 天使は自慢げに改造人間の性能を語っているが、優にはすでに届かない。初めて直で見た改造人間のショックは、とてつもなく大きかったのだろう。
「――どうだ? すばらしいだろう。改造されれば人間を越えることができるんだ。そして、君も運がいい。僕は君が気に入った。改造して、僕の兵士にしてあげよう」
「――っ!」
 優は思わず、元来た道へ振り返り走った。
 考えなどなにもない。体の根っこにある本能が、逃げろと言うから逃げただけ。
「イヤ! イヤイヤイヤイヤ!! あんなのになるなんてイヤ!!」
 あの体は醜すぎる。自分がああなるのかと想像するだけで、全身の毛穴が総立ち、冷や汗も吹き出す。
 こんな仕事受けなければよかった、事務所なんて明け渡せばよかった。そんな後悔が滝のように流れていく。
 逃げきったかどうか確認するため、ふと後ろを向くと。
「――あ」
 そこでは、あの化け物が鋭い爪を振り被っていた。
「おやすみ。今度は、僕の兵士として生まれ変わるんだ」
 天使はそうつぶやき、カメレオンに切り裂かれていく優を、ただじっと見ていた。

  4

 次に見えたのは、白いライトだった。
 眩しさに思わず目を細めていると、光りを遮る影が現れる。マスクをした天使だ。
「ここ……は……」
 掠れた声を出し、起きあがろうとするが、腕も足もガチャンと音を立て、数センチ以上動かない。見ると、手足にはおもちゃの手錠が填められており、優は手術台に、下着姿で固定されていた。
「――ちょっ、なにこれ!?」
 悪趣味なアダルトビデオのようなシチュエーションに、優の皮膚は粟立つ。
 思わず手足に力が入るものの、手錠に固定され自由に動かすことは叶わない。状況は完全に、天使有利。衣服もはぎ取られ、手足の自由も利かないのでは、まな板の上の鯉そのままだ。
「あたしを改造しようっての!? ちょっと! なんとか言え! 言いなさいッ!!」
 天使は返事をしない。黙ってメスを取り出し、ゆっくりと優の肌に添える。
 鋭く光るメス。これから行われることを想像させるのには充分すぎる道具だ。
「あんた、まさか……本気じゃないでしょうね。――本気で、あたしを改造するつもりじゃ……!」
 あのカメレオン男が優の脳裏に浮かぶ。
 ゴツゴツした深緑色の肌。長い舌と鋭い爪、そしてなにより、人間としての魂を失ったあの雰囲気。
 あんな風な姿に変えられただけでなく、自分まで失ってしまうのは酷く恐ろしかった。
「ッ――!!」
 メスの先が、優の腹に飲み込まれていく。迷いのない手さばきで、腹に切れ込みが入る。ぱっくりと割れたそこからは、まるで小龍包から溢れ出る肉汁のように少しだけ血が漏れ出す。 
優にはその血が、まるで自我の様に見えた。
 流れ出す命の源に自分の心を写し、その喪失に涙が流れる。
体内を天使に犯され、プライドを踏みにじられた彼女は、そうして自分を失った。

       

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Neetsha