三章 恋のいいお年、故意の言い落とし


 日課のように行っていたお気に入りウェブサイトのサーフィン。そこで、ある掲示板のスレッドに目が留まった。『もし昨日に戻れるとしたら、あなたはどうしますか?』、ってタイトルだ。すでに二件の書き込みがあったけど、俺はそれを無視してこう書き込んだ。『可能なら絶対に戻りたい』、と。
「そんなことがあるわけないけどな」
 夜食のサンドイッチ片手に、俺は独り言をぼやく。親は可愛い一人息子を置いて海外旅行中で、加えて今は学校もない。こうしてコンビニのおにぎりやサンドイッチを頬張りながら一日中寝るかパソコンをするかの毎日だ。もっとも、まだこの生活が始まって一日目だが。
 本当は今日も明日も学校に行くはずだった。“あんなこと”さえ、起きなければ。
「はあーあ、やってらんねー」
 俺はディスプレイの表示を切ると、そのまま背後に倒れこむ。ちょうどいい場所に枕か何かがあって、頭がずぼっと埋まりこんだ。なんだか意識もとろんと落ちてしまいそうだから、このまま寝てしまうか。
 俺は足の指で器用にマウスをつかんで、電源を落とす。その勢いでL字倒立の体勢になって電灯の紐も引っ張ろうとしたがつかめず、つかんだとしても、勢いよく引っ張りすぎて電灯ごと落とすといったギャグも起こしかねないから、仕方なく立ち上がって電気を消す。辺りは一瞬にして闇に包まれて、光は姿を消した。なんてしょうもないことを言ってみては、自嘲するように笑う。
 こうなってしまったのは、もしかしたら俺に非があるからかもしれない。俺が学校に行けずにこうして自分の部屋でぐだぐだと過ごしているのは、俺自身が原因なのかもしれない。
 そんな柄にもないことを考えながら、俺は何度も寝返りを打つ。なかなか眠れない。
「……ちくしょう」
 誰もいないのをいいことに、震えた声で漏らす。所詮俺は、その程度の人間に過ぎない。自分が取ってしまった行為に後々後悔するような、チキン男子高校生だ。名前に竜って入ってるのが恥ずかしいくらい、チキンで臆病だ。ん、チキンと臆病って、同じ意味だっけ。
 とにかく俺は、後先考えずに行動して後悔するような人間だ。そして今も、そのテンプレートに見事に当てはまっている。俺が、俺がいなければ。
 まだ、“あいつはいたかもしれないのに”。
 後悔先に立たず、って諺があった気がする。まったく、昔の人間ほど真理を説いているってのは本当だったんだな。
「あー、駄目だ駄目だ」
 無理矢理目を閉じて、一刻も早く夢の世界に誘うようにと睡魔に懇願する。こういうときに限って睡魔は遅刻しているらしく、意識は冴え渡ったままカフェインフィーバー状態で活性化を続けている。ごめん自分が何言ってるのかさっぱり分からねえ。
 暇を持て余して、俺は携帯を開く。友人から何件もメールが来ているが、悉く削除して無視を決める。どうせ内容は全部同じだ。他人の見掛け倒しの偽善なんて受ける気にもなれない。謂れのない慈しみなんて享受する方からすればありがたいを超えてむしろ目障りなんだよ。
 携帯の電源を切って、部屋の隅に放る。いつも携帯のアラームで目覚めているが、学校に行く必要のない今となっては、朝早く起きることも煩わしい。
 くそ、くそ、くそと愚痴をこぼしながら、俺は次第に暗闇に慣れた視覚で、天井を見上げる。二メートル三十センチほどの、そこまで高くはない天井。椅子に登って背伸びすれば、驚くほど容易く届いてしまいそうな天井。仮に、あれが、あの天井が「学校」、「俺の求めていたはずの結果」だとする。
 そして、俺は手を伸ばす。今のままでは、永久に天井に手が届くことはない。椅子、という媒体を得ることによって、俺はようやく「天井」を得ることができる。
 だけど、俺には。今の俺には。媒体となり得る、「椅子」がない。頼るべき、土台がない。俺は一人では元通りの日常を取り戻すことも、あまつさえ第一歩を踏み出すこともできない。
 粋がっているように見えて、本当は強がっているだけの、チョイ不良高校生。それが俺にはうってつけの代名詞だった。
「……寝るか」
 ようやく睡魔が出勤したようなので、俺は強く目を閉じる。まぶたの裏を流れる赤血球が視界を蹂躙して、角膜にシャボン玉を貼り付けたように鮮明すぎる色が動き回る。夜鳴く虫の声が三半規管を攪拌して、俺の意識は次第に思考と脳味噌の坩堝に融けていった。
 俺は今日も明日も、きっとこうして眠り続ける。罪の意識を背負いながら、「夢」に逃げ続ける。
 それもそのはず、俺は。
 俺、大神竜司は――――間接的とはいえ、“同級生の女子を殺してしまったのだから”。

 目が覚める。睡眠的な意味でも、足を洗う的な意味でも。朝っぱらからひぐらしが忙しなく鳴いていて、鼓膜が掘削工事されてしまいそうだ。窓を開けたまま寝ていたらしい。暑いから仕方ないか。とりあえず飛び起きていの一番に窓を閉め、即座にエアコンのスイッチを入れる。直後、ちょっと魚臭いクーラーの風が前髪を撫ぜた。
「あぢー」手団扇でばっさばっさと顔を扇ぎながら、カーテンを開ける。朝の眩しい日光が燦々と降り込んで、窓の外の景色が角膜を焼かれたように白っぽく見える。いい天気だ。昨日のもやもやした感じが嘘のように、天晴れな天気模様だ。
 そう、嘘の“ように”。
「……はあー」
 大きく吐いたため息はクーラーの風に混ぜっ返されてすぐに消える。一晩経てば忘れられるかと思ったが、現実はそう甘くはないようだ。携帯には相変わらず、友人からのメールが大量に…………ない。
「………………」
 ん、ちょっと待て。俺こんなにメール消したっけか? 六月九日以前のメールしかないぞ。しかも消すのも面倒くさくて放って置いてるはずの迷惑メールも、八日までの分しかない。寝ぼけて一括削除でもしてしまったか? いや、それなら全部消えてるはずだ。なら、指定して消した? でも、そんなことした覚えはない。あー駄目だ、わけわかんねー。どういうことだってばよ。
 考えるのも面倒になって、とりあえず朝飯を食べようと台所に向かい、冷蔵庫を開ける。卵とハムがあるから、ハムエッグでも作るか。フライパンを温める。フッ素加工はしてないから空焚きでも大丈夫。油を軽く引いて、生卵の御光臨。じゅわっと心地よい音を上げながら、透明だった卵白がみるみる白くなる。あ、ハム敷くの忘れてた。慌てて下に滑り込ませる。「あっちちち」火傷したかも。何とか無事に焼き上げたので、昨日予約で炊いておいた白飯を茶碗に盛り、即興ながらも昔ながらの朝食完成。箸でずぼずぼとハムエッグに穴を開け、しょうゆを投入。こうしないと茶碗から溢れてしまう。
 歩きながらハムエッグ丼を食べて、またも足の指でテレビのスイッチを入れる。ちょうどいつも見ているニュース番組が始まっていた。フェードインHYPERだ。相変わらずメインの鳥羽アナの髪型がダサい。
「全国六月九日の朝に、フェード・イン!」
 そしてお決まりの言葉――――、へ? 六月九日? おいおい、今日は六月十一日だろ? とうとう全国ネットのニュースまで時間感覚がおかしくなっちまったか?
 続いて、ニュースが流れる。そこで俺は、度肝を抜かれるどころか狐につままれるようになってしまった。
 既に知っている内容が、とうとうと流れていたのだ。無許可捕鯨問題、男子高校生の自殺、総理大臣の辞任会見の真相。どれもデジャビュとも呼ぶべき既視事象で、一語一句シャドーイングすら出来そうだった。
「なんだよむぐ……どういうことなんだよもぐもふ」
 口にハムエッグを突っ込みながら唸る。いくらなんでも全国放送のニュース番組が日付を間違えるとは思わない。だからといって、今日が六月九日ってのも考えがたい。それに、もし今日が六月九日だとしたら、まだ、“アレ”が起こる前だってことだ。だとしたら、まだ止められるかもしれない。
 ……だが。
「俺にそんなことができるか?」
 まずもっての問題だった。見た目だけ不良でハートはチキンな俺がそんなことが出来ると思うか? 答えは否だ。俺にはそんな度胸はない。一人の人間の命を左右する権利なんて、俺にはない。
 あるとすれば、一人の人間の死亡を、ただ、見守る権利だけだ。
「…………」
 俺は米粒を咀嚼しながら考える。あの時俺があいつを拒絶してしまったがために、あいつは死んだ。悲しみのうちに死んだのか、喜びのうちに死んだのかはわからない。ただ一つわかっているのは、“あいつは確かに最後まで一つのことを信じてた”ってことだ。
 あいつは最後まで、信じていた。
 俺は最初から、信じていなかった。
 そして今俺は、何の所為かはわからないが、「昨日」に戻ってきている。これはもしかしたら、誰かが俺に罪を償えとでも言っているのだろうか?
「……んなわけねー」
 俺は自分の考えにさりげなく突っ込みを入れて、携帯を開く。メール着信一件。男友達からだった。メールの内容は、見覚えがある。
『今日はいいニュースがあるんだ。絶対に学校来いよ!』
「へえへえ」
 言われなくとも、と俺は心中で返事した。

 六月だってのにやけに暑い。じりじりと照りつける日光に腕が炙られているみたいだ。猛暑日も近いか、と思えるほどの体感温度。まだ時間帯的には早いので、通学路に生徒の姿はほとんどない。
 俺は時折散歩する老人を挨拶を交わしながら、通学路の歩道を一人のこのこと歩いていた。ずいぶんとスローペースだが、家から学校までは五分弱なので全くもって問題ない。始業開始五分前に家を飛び出しても、余裕で間に合う。だからいつも大体教室に着くのは、始業の三十分以上前。暇でしょうがない。家にいても同じことだから、しょうがなく学校にいるのだが。
 そんなことを考えているうちに、校舎の姿が見えてきた。あの時と――――いや、いつもと全く同じだ。
「もしこれが現実だったら……」
 “アレ”をとめられるかもしれないのか、と俺はつぶやいた。むにゅ、と頬を抓ってみる。痛くない。じゃなくて、痛い。どうやら夢でも幻覚でもないようだ。だとしたら今、俺は本当に、「六月九日」にいる。俺が人生で最大の後悔を犯した、あの日に。
 思いに耽っている内に、昇降口まで歩いてきていた。靴を脱いで、学校指定のスリッパに履き替える。リノリウムの床にスリッパの音がパタンと響いて、鼓膜と校舎内に残響が残る。俺と同じく早めに登校した生徒が、ぱらぱらと点在しながら歩いている。俺はそれを一瞥して、教室のある三階へと向かった。
 かつ、かつと階段が鳴る。じわり、じわりと、教室が見える。
 ああ、嫌だな。そんなことを考えながら、教室の中をそーっと覗く。

「あ、竜司。おはよう」

 ――――やっぱり、現実、か。
「お前なんでこんな時間に学校にいるんだよ……」
「だって別に家にいる意味もないし。竜司もどうせ同じ理由でしょ?」
 まだ“無事”であることには胸を撫で下ろしたが、相変わらずの調子で少しムッとする。
「うるせー、お前の料簡で勝手に決め付けてんじゃねえよ」
「へへーん、竜司の考えてることなんてすぐにわかるし」
 俺がつっけんどんに言い放っても、こいつが引き下がることはない。昔からこいつに口喧嘩で勝ったことはないし、そもそも殴りあいでも勝ったことはない。それくらい、強靭なやつだ。――――俺が引きこもる原因となる、常人離れした趣向も含めて。
「今日も竜司を驚かせるようなこと、いっぱいしちゃうかんねー」
 あいつは嬉しそうにそう言って、教室の中を駆け回る。目障りだから頭を掴んでやろうかと思ったが、逆に掴まれて殺されかねないのでシカトを決め込む。
「はっはっはー」
 癪に障る鳴き声をあげながらスパイダーウォークをしたり、いきなり窓ガラスを割り出したりその他諸々の意味不明な行動を繰り返すこいつの名前は、新堂奈津紀。残念ながら、俺の幼馴染だ。昔は一緒に遊んだりして、特に問題児だとは思うこともなかったが、それが間違いだった。
 奈津紀は人には見えないところで、何度も問題行動を繰り返した。学校のウサギ小屋のウサギを一匹残らずぐちゃぐちゃに殺したり、路地裏で数人の男に襲われているかと思えば逆にボコボコにしてたり、活発だった同級生の女子を自殺に追いやるほどの精神的嫌がらせをしたり、嫌いな女子の誕生日会に覆面で乗り込んでめちゃめちゃに荒らして帰ったり――――とにかく、迷惑をかけているやつだった。しかもそれがすべて誰にも犯人だとばれずに終わっているもんだから、末恐ろしい。
 いや、誰も知らないわけじゃない。ただ一人、こいつが犯行を働いたということを知っている人間がいる。無論、俺だ。だっていつもその“犯行”につき合わされているのは、俺なのだから。
 そして、今日。先述した内容のうち、一部分だけが覆されることになる。「ダレニモバレテイナカッタ」はずの“犯行”がばれる日が、まさに今日なのだ。そして、今日が過去の六月九日だとすれば、あいつがしようとしていることは手に取るように分かる。
 だからといって、俺は奈津紀が大事件を引き起こす前に止めようとは思わない。……いや。
 止められるわけがないと言った方が、より正確だ。
「ねー竜司」
 そんな俺の心情など気にも留めず、奈津紀はあっけらかんに言う。
「驚かして、腰抜かすんじゃないよー?」
 うるせー。あの時みたいに情けない醜態を曝すわけにゃいかねーんだよ。
 「お前」という名の尊厳を、壊さないためにも。

 やがて生徒が続々と登校してきて、二人の感情(正確には俺一人)が鬩ぎあっていた教室は、やかましい喧騒で埋め尽くされた。まったく、朝からよくこんなに元気あるな、こいつらは。
「おっす竜司! ビッグニュースだろ! 新堂さんが来てるんだぜ!」
「……ああ、そうだな」
 かのメールの送信者、朝倉が執拗に話しかけてくる。饒舌な奴だ。舌が回りすぎて千切れてしまうんじゃないかってくらい、こいつはよく喋る。クラスでも一、二を争うだろう。俺からしてはいてもいなくてもいい存在なんだが、どっちかというといなくていい。唾が飛んでくるから。あと、ビッグニュースではない。
 独り言のように話し続ける朝倉は無視して、奈津紀を見やる。どうやら奈津紀も奈津紀で同級生とくっちゃべっているようだ。こいつらから言葉を取ったら、いったい何が残るんだろうか。まあ、人間の一個体か。
 HRの時間だというのに担任はまだ来ない。これもあの時と全く同じだ。ということは、俺は「アレ」を阻止できるということになる。ほんの少しの勇気と、努力さえあれば。そう考えるとあのときの自分はよっぽど恐怖に戦いていたんだと思って、苦笑した。
 始業のチャイムが鳴る。と、同時に前の扉を開けて、初老の男性教師が入ってきた。担任の前村先生だ。最近めっきり頭の白髪が目立ってきている。表情こそは元気に振舞っているが、その目の奥に生気はない。それもそうだ。先生はついこの間、長年相伴してきた妻を殺されてしまったのだから。
 ……犯人は知れているが、俺の口からは言わないことにしておこう。
「それでは、朝礼を始めますね……」
 予想通り消えてしまいそうな声で、前村先生が細々と朝礼を進める。いつも大した内容は話さないから特に聞く必要はない、というかもう知っていることだろう。俺は一番後ろの席であるのをいいことに机に突っ伏す。朝礼中だというのに、喧騒は小さいながらもまだしつこく続いている。担任の話を聞く奴なんて、大体半数ぐらいだ。後は携帯をいじったり、隣の席の奴と話したり。私立の高校なんて、そんなもんだ。
 で、こういうときには大体、委員長キャラが痺れを切らして注意を促すものだが。
 このクラスの場合、ちょっと違う。委員長ではなく、ある人物がクラスの注意を引くのだ。
 そしてそれは、誰もが望まざる、最悪の行為。ふとした瞬間に――――そいつは動き出す。
「すみません、ちょっとトイレ行ってきてもいいですか?」
 そういって立ち上がったのは、奈津紀。何を考えているか分からない奥ゆかしい笑顔は、邪気を孕んでいるようにも取れる。
「ええ、構いませんよ」
 そして戦慄の引き金を引く前村先生。何も知らないのだから、しょうがない。そんなことを言っている間にも、あれよあれよと奈津紀は教室を飛び出した。気に留める人間は、俺以外には誰もいない。
 だからこそ、俺はこの道を選ぶ。
「先生」
 前村先生の目線がこちらに向く。
「体調が悪いので、保健室に行って来てもいいですか?」


 【存在しなかった過去】


「……どうしてここにいるって分かったの?」
 意味深な笑顔を浮かべたまま、奈津紀が訊く。その表情は、朝見せたものとは明らかに変わっていた。
「お前が考えそうなことだからな。その右手に持ってるものも」
「あっははは、やっぱり勘が鋭いねー竜司は」
 奈津紀は右の手のひらを見せ付けるように開く。握られていたのは、スイッチのようなものだった。既にスイッチは押されているようで、赤い凸の部分がへこんでいる。
「……それはガスか何かの起動装置か」
「ん、まあそんな感じかな。クーラーがついてて教室は締め切ってたし、そもそも一酸化炭素だからそこまで臭いも気にならないでしょ。今頃何人か倒れ始めてるんじゃないかなー」
「全く、お前の考えることはいつも奇天烈だな」
 クラスメートが殺されてもなんとも思わないって俺の精神も、どうかしてるが。
「それはそうと、俺がここに来た理由は分かってるな? 奈津紀」
「私を止める気なんでしょう?」
 妖艶な笑いを浮かべながら、奈津紀は目を見開く。ウサギを殺したときの、あの顔だ。暗闇のように深く黒い瞳は、少しでも気を抜けば俺を吸い込んでしまいそうだった。
「そうかもな」
 俺は勇気を振り絞って答える。あの時とは、もう違う。
「何を止めようとしてるかは、俺にも分からねえが」
 俺の言葉を聞いても、奈津紀は尚笑う。
 風の吹き付ける――――屋上の端っこの、柵の上で。

 風が強い。高度はそこまで高くないはずなのだが、心持ち風が強く感じる。俺だったらバランスを崩してまっさかさまに落ちてしまうだろうが、奈津紀は違う。俺みたいに、恐怖を抱いていない。度胸がある。そもそもあいつの神経に「恐怖」という感情が存在するかどうかが疑問なのだが。
「少しでも後ろに倒れれば、お前は死ぬ。それは分かってるな?」
「当たり前じゃない。私だって子どもじゃないんだからそれぐらい分かるよ」
 見上げた場所にいながらも、対等な口ぶりで奈津気は答える。
「それを踏まえた上で、お前は今からどうするつもりなんだ、奈津紀」
 俺が訊くと、奈津紀はより一層口の端を吊り上げて言った。
「贖罪だよ。私は今までいくつもの罪を犯してきたでしょう? だから今日この日を以って、私は罪を償って天使になるの。ノー・クライム・エンジェル及び穢れなきジンジャーエンジェルにね」
「言ってる意味がよく分からねえ。とりあえずそこから降りろ、話がしたい」
「話なら今現在してるじゃない。それに、今降りたら竜司まで殺したくなるから駄目」
 強かに怒気を含ませて言い放つと、奈津紀は柵の上に立った。
「私が何しようと、自由なの。竜司も言ってくれたでしょ? 私を縛り付ける鎖はもうないんだって。鎖が解けた今、翼をもがれていない天使が空に飛び立たない以外に術はあるかしら? 答えはノーよ。正しく厭離穢土、私は天に召されるのではなく、呼び戻されるだけなんだから」
「いいから戻って来い。俺を殺してからでも死ぬのは遅くないだろ」
 ぴた、と奈津紀の表情が凍りつく。汲み取るに、驚きと無感情の中間辺りか。
「嫌だ。どうして私が竜司を殺さなくちゃならないの?」
「お前が死ぬなら、俺も死ぬ。それに俺は今まで散々お前の悪事につき合わされてきたんだ、最後まで添い遂げさせてもらうぜ」
「それだったら、私が殺さなくてもいいじゃない」
「ま、お前の裁量によるなそれは。俺が“クラスメート”として扱われるか、もしくは“犯罪者の一人”として扱われるかによって俺の取るべき行動も変わってくる。それぐらいは分かるだろう?」
「………………」
 奈津紀が黙り込む。信じられない、という形相で俺を見下ろしながら、何度も唇を動かしている。俺に読唇術の読み取り技能はなかったが、何が言いたいかはすぐに分かった。
 ――――“嘘だ”。
「嘘じゃない」
 否定してから、俺は言い立てる。状況が変わらないときのために、「用意」をしておいてよかった。
「お前がいつまでも優柔不断でいる気なら、俺にも考えがある」
 そう言って俺は、懐からバタフライナイフを取り出した。昔、父親が使っていたものだ。ずいぶんと年季が入っているが、切れ味は申し分ない。これなら大丈夫だろう。俺はそれを、そっと首にあてがう。頚動脈の脈動がどくんと伝わってきて、全身に悪寒を齎した。ああ、やっぱ苦手だこういう感覚は。
 奈津紀の顔が青ざめる。おやおや、お前はこの程度で驚くような奴だったか。はは、らしくねえな。
「俺が死ねば、お前はいったいどうなるだろうな」
「止めてよ……」
「嫌だね。これはお前には全くもって関係ない。俺はたまたまここにやってきて、自殺を計ろうとナイフを首に突き立てているだけだ。それについてお前にはどうこう口出しする権利はない」
「止めてって言ってるじゃない!! どうしてそうやって私の嫌がることばかりを」
「今更グダグダ言ってんじゃねえ!!」
 場の空気が、切り裂かれたように黙り込む。さて、これで現世も見納めだ。
「一回しか言えないからな。ちゃんと聞いとけよ」
 俺は奈津紀の目を見ずに言った。疾駆する言葉を無視して言った。
「俺は、お前のことが――――」



 最後まで言えたかどうかは覚えていない。その後奈津紀やクラスメート……あわよくば人間には出会った記憶がないから、多分俺は無事に死ぬことができたんだろう。痛みは全身に齧り付くほど苦しいものだったが、喉元過ぎれば暑さを忘れると言う。今は凄くいい気分だ。まさに、天にも昇る気持ちといったところか。
 俺が昨日――「六月九日」に戻ったことで、何か変わったことがあるわけじゃない。結果的には俺が死んだか死んでいないかの違いだけのはずだ。が、それでも俺の中では革新的なこと。言葉に表すことはできないが、俺は確かに自分を変えた。「昨日」に戻ったことで。それは地球規模で考えればナノ以下に些細なことかもしれないが、俺の「世界」には革命を齎した。そして、今、俺は暗闇の中にいる。
 俺は自ら、先行く道を閉ざしてしまった。俺と同い年の人間がいたら、少なくともあと七十年は生きるだろう。ということは、俺は七十年分の功績を今から何らかの形で残す必要がある。

 ――――さて。何から始めようか。
 
sage