ファイター・イン・ザ・トイレット!
ぬるぬるとでかかった屁をなんとかこらえきった。
危ないところだった、実まではまだいくらかのモラトリアムがあるもののいま屁をこいたらいま黒板に集まっているみんなの注目のスポットライトがおれに一斉掃射されるところだ。自分の屁のにおいに耐えられるのは自分だけだ。
数学の吉崎はかゆくもないだろう首筋をぽりぽり書きながら微分を積分している。一番うしろの席で助かった。おれは腹をそおっとなでた。
電撃/激痛。
もこもこ、っと腸のなかで糞が悶えた。痛覚神経が必死に宿主にSOSシグナルを第一種優先で鳴らしている。はやく糞をしろなにをしているうるせえいまは授業中なんだせんせー糞してきますなんてぜってー言いたくないメーデーメーデー自律神経構造物は生態的に不必要な待機状態を維持している痛みをBダッシュで倍増しろやめててててててててててて
ぽた、と鼻筋を汗が滴り、机の木目を拡大した。
まずい。本当にやばい。授業が始まってまだ三分。こんなことなら念のためにトイレにいっておけばよかった。さっきまでは小康状態で、わざわざトイレにこもって授業に遅れ「あいつうんこだったんじゃね?」疑惑の霧が教室に充満させるほどでもない、とおれは思った。
甘かった。
おれは、アマチュアおなか痛い検定準一級として、悔しいけれどまだまだ未熟だった。
プロならこんな真似はしない。前の授業中に頭が痛いフリをしてずっと俯き空ゼキを残して休み時間に教室を去り教室に立ち込めるうんこ色の疑惑の霧を「あいつ風邪だったんじゃね熱あんのかな」疑惑の暖かいオレンジ色へと変えていたことだろう。
それは、思いやりの風だ。決して学校でうんこしたしないの噂話の原料を運んできたりはしない、爽やかな、風。
おれの腹のなかで、暴風雨が吹き荒れていた。
ジャンクフードばっか食ってるからだと思ったやつ、死ね。食生活にはこれでも気をつかっている。朝は味噌汁にパンに白身魚、給食はあやしげな煮物は残すし、夕飯は朝とは絶対違ったメニュー。栄養満点なのになぜか健康崩壊。眼球よりもデリケートな腸内は物体が通り抜けただけで宿主に甘ったれたゆとりの痛みを送ってくる。いたいよいたいよなんとかしてよー。こっちのセリフだ糞ミミズもどきちぎれて死んじまえ。
おれも死ぬけど。
吉崎と眼が合った。が、吉崎は生徒の顔色には数式上のゴミほども気にならないらしく、助け舟を出すこともなく(出されても迷惑だが)つうっと黒板に向き直る。
腹を抱えたまま、こいつらは、とおれはさほど仲良くもないクラスメイトどもを見渡す。
――こいつらは、いったい一生でおれと同じ痛みを何回受けるんだろう。いっちゃ悪いが、この痛みは、出産にだって引けをとりゃあしない。出そうになった声をかみ殺していられるのは、おれが、恥をかくのが死ぬほど嫌いだからだ。全身汗だくになろうとも、呻きも嘆きもあげてたまるか。おれは、そんじょそこらの過敏性腸症候群とはわけが違うんだ!
が、痛いものは痛い。二十分レベルなら日常茶飯事、鼻歌だって歌ってみせるが四十分レベルは生きて帰れない危険性がある。
「えーでは」吉崎が眼鏡のつるを中指で押し上げた。ファックしたいのかこの枯れチンポとか考えたのがよくなかった。
「御堂、この問い一から問い三、解いてもらおうか」
こいつの脳みそを解いてやりたい。一本の長い筋にしててめえの口から腸に突っ込んでもう二度と数学教師だった自分を思い出すことがないようにしてやりたい。
もう死にたい。
なんで、おれなんだよ。
わかりません、と三度も言ったが(声が震えていたからか何人かこっちを振り向いた。危険度B+のモーション)吉崎は頑として口を真一文字に結んでいる。まるで自分の気持ちはその口が語っているとばかりだ。その融通の利かなさのせいで数学者になれなかったんじゃねえのかと言いたかったが言ってしまったらたぶん吉崎は本気になっておれを殺しにくるしその衝撃でおれはうんこをもらす。それはやばい。絵的にやばいし、嗅覚もたいへんだし、このクラスで守られてきた愛と友情の幻想が壊れる。まあでもいっか委員長が三つ編みだろうが花瓶が毎朝変えられていようが誰もおれの腹治してくれないんだもんなよーし男御堂大介度胸一発脱糞しま
チャイムが鳴った。
すこし変わったチャイムだった。
「三年C組御堂大介くん、三年C組御堂大介くん、至急二階職員用トイレまできてください」
タイミングは完璧だった。
教室を出させてくれたのも感謝する。
なんでトイレなんだ。
おれは失笑の渦のなか、わけもわからず教室を転がり出た。
*
この世でもっとも幸福な瞬間は糞を垂れているときである。
これに関しておれは絶対に譲るつもりはない。もちろんオプションはいくつかある。芳香剤のかおり漂う自宅のトイレで、家族はみんな出払っており、学校をサボり糞終わらせたらゲーム漫画アニメやり放題の午前十時三十二分が一番いい。つぎに、授業中のがらんとした校舎で垂らす糞もまたいい。だがいずれにせよ隠密行動が絶対条件だ。同じ歳のガキどもに「あいついまごろウンコしてんのかな」と思われることほど屈辱はない。その観点から捉えれば、校内放送で呼び出されて糞しているいまは肉体的には最高精神的には最低最悪の糞だった。
狭い個室の中、ケツ丸出しでおれは考える。
なぜ校内放送なのか。
なぜいまなのか。
なぜトイレなのか。
わからない。まあ、わからなくってもいい。糞をしてるのがクラス全員にバレるのとクラス全員の前で脱糞するの、どちらか選べといわれたら土下座したってこっちだろう。
だから土下座して感謝してやってもいいが、肝心のおれを呼び出したやつの姿はトイレになかった。が、まあ、タイミングを見計らってくるんだろうと思って待ち構えていると、案の定扉がノックされた。おれは入ってますよとノックし返す。「そういうことじゃない」と突っ込まれた。若い女の声だった。
「わかった、あんたらおれを樹海に送りたいんだろう。死んで欲しいんだろう。わかったちょっと待ってろケツ拭いたらいく」
「はあ? なに言ってんのよミドーくん。べつにあたしは気にしないから、そのままでいて」
「あんたが気にしなくてもおれが気にするんだ」
「ま、そりゃそうだろーけど……いいわ、簡単に説明するわね。理解してもらわなくていいから補足説明はしません。まずわたしたちは政府の人間です」
「総理大臣に駅のトイレ倍にするようにいってくれ」
「善処します。わたしたちがきみをトイレに呼び出したのは、きみの腹痛をある機械を使って波長化し受信したからです。相当やばかったみたいね……一万八千ペイン。これ9mmパラベラム鎖骨に喰らうより痛いじゃない、よく耐えていられたわね」
「鍛えてるんでね……で、やさしい役人さんは糞にいきたいといえないで縮こまってる可哀想な男子生徒を無事トイレまで導いてドア越しにおれの下痢のにおいをくんかくんかしてるってわけだ」
「内臓そのもののにおいよかマシよ。御堂大介くん、あなたにお願いがあります」
「あなたの痛みを、貸してください」
「痛み……?」
「そう、いま、この惑星めがけてエイリアンの軍団が迫っています」
「……………………は?」
「われわれは、彼らの宇宙船へ『痛み』の電波を送って撃退するシステムを開発しました。ハイパーコンピュータKAL8000は、この世でもっとも烈しい痛みを受け、そしてそれに耐えてきた個体をエントリーデータバンクからドブさらいして、あなたを探し出しました」
「木星にでもいってろピーのピーまじりのピー」
「惜しい、エイリアンは金星を根城にしているチンピラども。銀河パトロールが来るのを待つには絶対的に時間が不足、だから、お願いします。あなたの腹痛で地球を救って」
ぶぴっと屁が出た。
痛むから、笑うこともできなかった。
地球を救え?
そのまえに、
だれかおれを救ってくれよ。
痛みを遮断する薬は、金星まで探しにいったらあるのだろうか。
おれは、承諾した。
学校の便所はなぜか扉の上に人が通れるくらいの隙間がある。
おもにこれが原因で牛乳をふいた雑巾やバケツいっぱいの水やおがくずのつまったカエルの標本とかがいじめられっ子の頭上に降り注ぐが、おれはこれ、緊急救助用の隙間なんじゃないかと思ってる。扉をぶち破るよりも、上から這い降りてなかから鍵を開けたほうが経済的だ。
そのために、何人汚水にまみれようとも。
隙間から、ごてごてした機械とコードがつながったメットが転がり込んできた。まだケツを拭いてない手で受け取る。
「それは、あなたの痛みを宇宙へと送信する機械です。メット横にスイッチがあるでしょ? それを押せば、痛みが送信されるから」
いちおうかぶってみる。まるでおれのために作られたかのようにぴったりと合う、と思ってから、なにもかも仕組まれていたことを思い出す。
「でも悪いんだけどさ、実はもう、けっこう落ち着いてきちゃってんだよね、腹」
返事はない。おや、と思った。無線かなにかで外と連絡を取っていたりするのか?
「…………ね」
「え、なんだって?」
「ごめんね」
――――ぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ あ あ あ あ あ あ あ――――!!!!!!!
電撃げきげきげき激つつつつ痛痛痛痛痛痛痛痛やめやめやめめめめめめめ
「スイッチを押して! いま、あなたの記憶から最大の痛みの記憶をロードしてるの! お願い、スイッチを押せば止まるから! ぜんぶ終わるから! だから、押して、」
「スイッチを!」
押した。
*
どれぐらいこうしていたんだろう。
タイルの壁に頭をもたれかけさせて、口は半開き、よだれはしたたり、尿も糞も垂れ流し。メットははずれて、床に落ちている。
終戦だ。それだけはわかった。腸のなかぜんぶ出し切ったあとの、あの、空っぽの時間。痛もうにも原因が腸のなかにはもうないと身体がわかって、残念そうなこだまが聞こえてくる、あの時間。
どうだ見たか。おれは口元を制服の袖でぬぐって、どこにいるともしれない神様にむかって笑ってやった。
おれは、生き残った。
おれの、勝ちだ。
腹痛だろうが頭痛だろうが、過ぎ去ってしまえばそよ風にもならない。
おれはパンと膝を打って立ち上がりズボンとパンツを引き上げた。
拭いてなかった。
*
味噌まみれのパンツは、ひとまず放置することにした。学校内でDNA鑑定できるものならしてみやがれ。
扉を引くと、床に転がっているものが視界に入ってきた。
若い女が、眼を見開いて倒れている。
知らない顔だ。口の端からはやっぱりよだれ。
おれはノーパンのままトイレを出る。がらんとした校舎。いまは、まだ授業中なのだろうか。手近な教室に入ると、誰もかもが床に倒れふしていた。全員同じ姿勢なのが気味が悪い。
腹を抱えて、えびみたいに丸まって、
死んでいた。
一人残らず。
校庭に出ると、風が吹き上がってきて、グランドの中央で土煙が渦を巻いていた。
ズボンの裾からダイレクトに侵入してくるつむじ風がくすぐったい。
昼下がりの青空には、燦々と輝く太陽と、はけでぬぐったような薄い月。
傷ひとつないその衛星は、まるで鏡のようだった。
手をサンバイザーにして見上げてみたが、どうやら金星のならずものたちがやってきそうな気配は、いまのところない。
おれ、御堂大介にわかることはたったひとつ。
どうやらもう、誰にも気兼ねすることなくトイレにいけるらしい。