Neetel Inside 文芸新都
表紙

UNTIL THE DAY I DIE
The Sons of EVE

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 夢の中で僕は過去へと遡っていく。
 あの日、僕は一人で街をぐるりと周回する電車に揺られていた。
 時折やってくる振動を感じながら、反対側の窓から外を眺めている。
 どれもすぐに流れていってしまう。確固とした記憶として留めるには余りに短いそんな景色を眺めるのが僕は好きだった。
 それに、僕がそんな景色を求める時とは、確固としたものを否定したい時でもあるから、そういう意味で僕はこんな風に一人で電車に目的もなく乗り込んでは、ただ時が過ぎ去るのを待って座り続けている。
「生まれた時」からの僕の習慣。


 ガタン、ガタン。


 だから彼女と出会ったのはきっと偶然。
 彼女の名前はイブ。
 詳しい素性は誰も知らない。


「ねぇ、前もそうやってずっと電車に揺られてなかった?」
「……そう……ですね」
 初めて彼女と出会った時、僕はそうやって敬語で答えてしまっていた。
 見た目だけなら彼女は僕よりも幼く(彼女が十六歳だという事を知ったのはもう少し後の事だ)、着ているものも色褪せしたシャツの上に野暮ったいコートで、ボロボロに穴が開いたデニムは到底オシャレを狙っているようなものではなく、みすぼらしいだけだった。
 それでも僕がその時萎縮したのは、そんな格好でも一度目を合わせてしまうと、その視線を逸らす事が出来なくなる程美しい容姿を備えていたのと、そしてそれ以上に、彼女の言葉には到底僕には真似出来そうもない重さを持っていたからだった。
 僕と対面するようにシートに座っていた彼女は、そんな僕を見てふふん、と鼻で笑うような、もしくは誘惑でもされていると思わずそんな勘違いでもしてしまいそうなるような、そんな甘い微笑を浮かべた。
「いつから見てたんですか?」
「別にずっと見てないよ。一時間前に電車から降りた時に君を見かけて、こうしてまた乗ったら君がいたからってだけ。今日だけだったら偶然乗った電車が同じだったと思うだけだけど、前もそうやってずっと同じ場所に座ってたから」
「……そうですか」
「敬語なんて使わなくていいよ」
「そうかもしれないけど、なんでだろう」
「なに?」
「つい、使ってしまうから自分でもどうして敬語で喋っているのか分からないし、それをやめろと言われても、すぐに直せそうにはないですね」
「私がおばさんくさいとか?」
 そんな事はないです。
 でも、そうかもしれません。
 実際、彼女は凄く大人びていた。その丸く愛らしい大きな目はとても子供っぽいのに、その視線はなにもかも見透かしているようで、僕はその時、ようやく彼女から視線を逸らす事に成功した。
「君さ」
「はい」
「大事なものが二つあって、その内どちらか一つを手放さないといけなくなった、としたらどうする?」
「……必ず手放さないといけない?」
「そう」
 どれくらい悩んだだろう。
「……せめて大事なものが遠くへ行ってしまったとしても、そのままであってくれればいいと願う事しか僕には出来ないかもしれません」
「ふぅん」
 その相槌に一体どんな解釈をすればいいのか、僕には分からなかった。
 ただ彼女は最初と同じように、僕へと胸を射抜かれるような視線を向け、にやにやと笑っていた。
「いい事言うね」
「そうですか?」
「君、名前は?」
「相原蛍です」
「名前も、いい名前だね。綺麗な名前」
「あなたは?」
「イブ」
 僕ははっとして彼女を見つめ返す。
 この街に住んでいて、その名前を知らない人はきっといない。
 気がつけば生まれ、そしていつか死んでいくこの街の歩みをずっと見続けてきた唯一の存在。
 僕もその存在は耳にしていた。
(……この子が、イブ?)
 見た目だけなら到底信じられなかった。
 だけど、同時に彼女が見せるその仕草や佇まいを追っていけば、確かに彼女がそうなのだろうと思わずにはいられなかった。


 元娼婦のイブ。


「どうかした?」
「……想像と違っていたから、ちょっと驚いて」
「想像よりよかった? 酷かった?」
「そのどちらでもないです」
 僕はその続きをどう言えばいいのかうまく言葉を紡げなかった。
 彼女はそれを気にするようでもなく、静かに続きを待っているようだった。
 時間なんて、存在しないというように。
「そもそも僕はイブという存在を人として捉えていなかったのかもしれません。それはきっと噂話の中にだけ存在していて、その空白こそが正常な存在だと思っていたのかもしれない。それが――」
「それが?」
「――僕とそう変わらない女の子だったと言う事に驚いているんだと、そう思う」
「空白の存在とセックスは出来ないよ」
 彼女は嘲笑うかのように、僕がまだ経験した事のない行為を口にした。
 彼女はその事を理解したのだろうか。もしかすると気付かないうちに僕はそれに反応した行動を取っていたのかもしれない。
「命が今ここに二つあるでしょう?」
「僕と、イブの?」
「そう。その命が長く存在するか、それとも短く終わるか。その間にどんな経験を重ねるか。きっと色々あるだろうけど、でも命の重さ自体には変わりはないのよ」
 果たして、僕と彼女の命の価値は同じなのだろうか?
「だから、どこかで一つ命が消えて、誰かがその重みを失っても、周りを見渡せば変わりの重さを見つける事は幾らでも出来るよね」
「……なにが言いたいんですか?」
「長く生きる、って言うのはそういう事かな、って話。命に関わらず、なんでもそう」
「でも変わりを見つけられないものもあるんじゃないですか?」
「例えば?」
 人が人を愛する心とか。
 僕がそう告げると、彼女は今までとは少し違う表情を浮かべた。
 喜んでいるようでもあり、だけど悲しんでもいるようで、また寂しそうでもある、すべてがごちゃ混ぜになったようなその左右非対称の表情は空気を伝わって、僕にも伝染したようだった。
 ガタン。
 その振動がしばらく続き、僕と彼女以外誰もいない電車が駅に滑り込もうとする頃、流れた放送にかぶせるように、
「そうだね」
 とだけ、彼女は言った。
 そしてそれ以来僕は一度もあの時と同じ表情を浮かべるイブを見ていない。

     

「蛍はどうしたいの?」
「どうって」
「分かってるくせに。ねぇ、昌子」
 そうイブがカウンター越しにママに声をかけた。この街でママを昌子と呼ぶのはきっとイブ一人だけだろう。
 ママはあらかた注文が片付いたようで、僕達のほうへとやってくると、ふん、とわざとらしく鼻を鳴らした。
「どうせ、蛍に意気地がないってだけなんだろ?」
「分かってますよ。でも、そんな簡単に意気地が出るものでもないでしょ?」
「そうやってずっと言い訳してりゃいいさ。大体久しぶりにイブが来たと思ったらなんだい、あんたの恋愛話に付き合うために来たのかい?」
「まぁ、たまにはいいじゃない。私も昌子に会いたかったし」
「相変わらず可愛い顔して可愛い事言ってくれるね、イブ。羨ましいよ。私なんか毎日化粧に二時間かけてるって言うのにあんたは昔から変わらず若くて綺麗で」
「まあね、元売れっ子ですから」
 イブは照れる素振りもなく、当然の事と言うように頷いて見せた。だけどそんな様子にもママはいつものように皮肉を言う事なく、楽しそうに笑っている。
 仲間外れにされた僕はやれやれ、と肩をすくめてみせるのが精一杯だった。
「拗ねないでよ」
「拗ねてないよ」
「そういう甘えた言い方は、好きな人の前でするものだよ」
 イブが「そういう甘えた言い方」をするから移ったんだ。と言いたくなるけれど、言えば逆にからかわれそうなので黙っておく事にした。
 初めて出会ってそれなりに月日が経ち敬語を使う事がなくなった今でも、僕は時々彼女の本音や思惑がどこにあるのか掴みかねる時があり、そしてそういう時僕はいつも緊張とうろたえを覚えてしまう。そしてそれを心地よく感じてしまうのだから性質が悪かった。
「ねぇ、昌子」
「そうだよ。あんたイブに相手してもらおうなんて十年早いよ」
「……そんなつもりはないですよ」
 大体彼女の方こそ僕を相手になんてしないだろう。
 僕はカウンターに置かれたジントニックを少し乱暴に口に運んだ。
 体が少し浮くような感覚を覚え、僕はそれに引っ張られるように天井を見上げる。
(……相談する相手を間違えたかもしれない)
 そんな風に思いながらも、こうやってイブを頼り、ママのバーへと呼び出したのは自分だった。
 隣の椅子に座った彼女はロックグラスの縁を指ですっとなぞりながら、小さく鼻歌を歌っていた。
 聞いてみると店内に流れている音楽に合わせて歌っているようだったが、僕はその曲名を知らなかった。
「これ、なんて歌?」
「Heaven’s kitchen」
「この店と同じ名前だ」
「て言うか、この歌が好きだったからバーの名前もこれにしたんだよね」
「そうそう。イブと二人で考えたんだよ。あぁ、懐かしいね、あの頃」
 ママが追憶するように視線を中空へと漂わせた。
 ゆっくりと、一つ一つ思い出を振り返っているのだろうか。
 一体どれほどの思い出をママはその胸に抱えているのだろう。僕には想像する事も出来ないほどだろうか。
「イブ、ママって昔から皮肉をよく言ってたの?」
「うん、変わらない」
「よく店が潰れなかったね」
「どういう意味だい?」
 ママがじろりと僕を睨む。
「いや、よくお客さんが逃げなかったもんだなって」
「よく言うよ。十五年もやってんだよ。あたしの口からはいい事しか出てないって事じゃないか」
「へぇ、もうそんなに経つんだ。時の流れって早いね」
「イブ、あんたはもっと店に顔を出しなよ」
「そうね、そうする」
 そういう二人を僕はふと見つめていた。
 十五年。
 以前ママは二十年ほど生きているという話を誰かから聞いた事がある。
 この街でそれだけ生きているというのは珍しい事だった。大抵はなんらかの理由でそれよりも早く人は死んでしまう。
 老いる事もなく、永遠の命を与えられているはずなのに、僕達は元来の人間の平均寿命すら生きる事が出来ていない。
 だからママはこの街の中でかなりの長寿と言えた。どうして彼女がそんなにも長く生きていられるのか理由は誰にも分からない。
 そしてそれはイブも同じだ。
「若葉ちゃんだっけ」
「あぁ、うん」
「私はその子に会った事ないけど、蛍その子の事好きなんでしょ?」
 彼女に直接尋ねた事はないから僕は噂でしかそれをしらない。
 イブ。
 彼女はママよりも更に長い年月を生きている。噂では四十年近いとも言われている。
「だったら少しは行動で示さないとね」
「行動って例えばどんな?」
「友情と、愛情はまったく別物って事よ」
「分かりにくいよ」
 きっとこの街の中で、誰よりも彼女が多く心臓の鼓動を鳴らし続けてきたのだろう。時の刻む音を聞き続けてきたのだろう。
 僕は時折尋ねたくなる。
 君が誰かと並んで歩くたび、その誰かはいつも君からその姿を消していったのだろう。その繰り返しを君は何度行ってきた。あの時、君は命の重さは幾らでも替えが聴くと言っていたけど、それは本当だろうか。本当なら、何度出会いと別れを繰り返し、そこに至ったのか、もし嘘なら、君は今までも、これからも悲しい思いを胸に抱いているのだろうか。自分だけが取り残される事に。
「あなたが望む関係のためには、今の心地よさを捨てないとね」
「……もし、それで今の心地よさも、望む関係も失うかもしれないとしても?」
「だって今のままじゃ、そこに愛情はないもの」
「想っているだけじゃ駄目って事?」
「分かってるでしょ?」
「……分かってるから、困ってる」
 だけど聞けない。
 本当の気持ちを求めた時、君がどういう反応を示すか分からないから。
 もし、あの日のように、左右非対称の表情を君が浮かべた時、僕はきっとどうすればいいか分からず困ってうろたえる事しか出来ないから。
 自分の意気地のなさに僕は時折泣き出したくなる時がある。
 口を開く事によってなにかが壊れてしまう事。
 口を紡ぐ事によってなにかが壊れてしまう事。
 それは同時に存在する。
 そして僕はそのどちらを選べばいいのか分からないままだ。

     

「こんばんは、イブ」
 彼女を送る途中、そんなふうに彼女はよく声をかけられた。
 バーを出て繁華街を二人で並んで歩いているだけだと言うのに、もう僕はまた新たにやってきたその人が何人目なのか分からなくなってしまった。
「うん、元気?」
 彼女はその一つ一つに笑みを零しながら答える。子供から中年、男女問わず誰にでも変わらない態度で。
 僕はそうやって彼女と誰かが会話をしている間に、ふと視線を漂わせた。ふと人ごみの中に以前僕をしつこく店に誘ったボーイを見かける。視線に気がついたようだが彼は隣にいるのがイブだと分かるとこそこそと人波の中にその姿を隠そうとしていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「ふーん。蛍の好みの女の子でも見てるのかと思った」
「そんな事はしないよ」
「本当かなぁ?」
 わざとらしいその言葉に僕はつい嘆息してしまう。そういう時の彼女は年相応の女の子らしさを垣間見せる。少し煩わしくて、少し愛らしい仕草で。
「だってイブが僕の知らない人と話しているから退屈なんだ」
「また拗ねてるの? しょうがないでしょ。私にも付き合いがあるんだから」
「君は顔が広すぎるよ」
「まぁ、この辺りの人達はね、大体顔見知りだから」
 なんでもない事のようにそう言う。
 僕はそれにどう返事をするべきか少し迷う。
 元娼婦。
 彼女がいつ頃、自分の体を売るのを止めたのか僕は詳しく知らない(そんな事を聞ける勇気なんてある筈もない)。それでもその当時の彼女には毎日ひっきりなしに客が訪れていた、と風の噂で聞いた事がある。
 僕は気付かれない程度に、誰かと会話を行う彼女の横顔を覗く。
 きっと誰もが、彼女の美しさに魅了されたのだろう。華奢で瑞々しく、相反するような淫靡さを漂わせるその肢体に心奪われ、時にあどけなく、時に妖しさを惑わせたその表情が歪む時に、己の欲望を剥き出しにしたのだろう。
「じゃあね、バイバイ」
 軽く彼女が手を振り、対照的に声をかけていた男は恭しくお辞儀をして離れていった。
 多分、僕は幸運なのだろうと思う。
 僕は彼女のそのボロボロの衣類に隠された裸体を見た事なんてない。性行為によって得られる官能に咽ぶ彼女の顔を見た事なんてない。
 だけど今僕達はこうやって並んで歩いている。
「ねぇ、蛍」
「なに?」
「なにか考え事してた?」
「大した事じゃないよ……やっぱりイブってここで働いてたんだなって実感してるだけ」
「あはは」
 イブが僕の言葉に笑った。なにが面白かったのか分からずに首を傾げると「君がそんなに客観的に捉えてる事が面白くて」と言う。
「しょうがない。僕は当時の君を知らないから」
「そうだね。うん、まぁ、知ってたら――」
 彼女はまだ収まらないのか、少し肩を震わせながら言う。
「――よかったね。私が元娼婦で」
 その台詞に僕は、奇妙さを感じてしまうほど実感が込められているものだと気がつく。だけど僕はその言葉の真意をうまく理解する事が出来なかった。
「そうかな」
「そうよ」
「でも、僕はイブが今娼婦だとしてもきっとこうやって歩いていられると思うよ」
「そう?」
「多分ね」
「そう」
 そう、短いやりとりをして、もう一度彼女は「そう」と言い、その後には「やっぱり蛍はいい子だよね」と続いた。
 そして少し我侭な素振りで「蛍歩くの早い」と口を尖らせる。僕達の後ろには雪に刻まれた足跡が続いていた。それを見比べると彼女が小柄なせいもあって、確かに二人の歩幅には若干のずれがあった。
「ごめん」
「だからもてないのよ」
「気をつける」
 そう言って彼女に歩幅を合わせようとしたけれど、それでも彼女はまだ納得がいかないようで「ちょっと腕組んでみようか」と言い出し、僕が答えるよりも先にその手を絡めてきた。
「酔ってる?」
「ちょっとね。いいじゃない。このコートあんまりあったかくなくて少し寒いの。それにこうしていれば周りの人も気を遣って話しかけたりしてこないでしょ?」
「そうかもしれないけど」
「恥ずかしい?」
「ちょっとね」
「じゃあ、今日から慣れていけばいいよ」
 そう言って、結局僕は彼女の言いなりになってしまう。
 そうしている間、彼女は少し楽しそうで、そういう彼女を見ていると僕はまぁ、いいかと思い、受け入れてしまった。
 こんな僕達を周りはどんな風に見ているのだろう。
 恋人。
 きっと、ない。彼女の事を誰もが知っているこの街で、僕なんかが彼女の恋人として見られる訳がない。
 友人。
 それならまだあるかもしれない。他愛のないスキンシップではしゃいでいるのだろうと思うのかもしれない。
 だけど多分違う。
 僕と彼女は――
「ねぇ、蛍」
「どうしたの?」
「人間を形成する要因とはなんだと思う?」
「形成? ……性格とか考え方とかそういう事?」
「そう。そういうものってどうやって個人の中で作られていくものだと思う?」
「……生まれつき持っているものが大半なんじゃないかと思う」
 しばらく考えてそう答えた。
 だって実際に僕が生まれた時、僕は既に僕だったから。気がついた時、僕はこの街にいてその時既に僕は僕として存在していたから。
「多分だけど、遺伝子――それがちゃんと僕達に存在しているなら――の情報って確かに僕達に刻まれているんだと思う。そりゃ、僕には両親がいる訳じゃないから誰かのものを受け継いだりはしていないのかもしれないけど、それでも僕の中に、僕と言う一人を生み出すための情報がそこにはちゃんとあって、それに基づいて今の僕があるんじゃないだろうか、そんな風に考えた事があるよ」
「遺伝子、ねぇ。確かにそういうものはあるかもね」
「イブはそうは思わないの?」
 彼女の言い方がどことなく否定的なもののように思えた僕はそう尋ねていた。彼女は少し沈黙してから「蛍ってさ、結構真面目に勉強とかするでしょう」と問われ、首を縦に振ると「なんかそういう思考ね」とよく分からない事を言った。
「人を成形するのは環境よ」
「環境?」
「そう。環境。それに比べれば遺伝子に刻まれた情報なんて些細なもの。環境次第で人は善人にも悪人にもなるし、もっとシンプルに言えば明るくなったり暗くなったり、おおらかだったり神経質だったりと幾らでも変わっていくの」
「例え同じ遺伝子でも?」
「そう。全く同じ遺伝子でも」
「ええと、確認するけど環境って言うのは、人間関係とかっていう事だよね」
「うん、そう。他にもあるけど。例えばある日手にした小説だったり。ふと耳にした音楽だったり。何気なく見かけた風景の中にもそれは含まれるし、蛍だったら――」
「……僕だったら?」
「――これから初めてセックスをした時に成功か失敗かだったりで今後のセックスへの心がけが変わったりとか?」
「……馬鹿言うなよ」
 僕はがくりと肩を落とし、これ以上ないほど大げさに溜め息を吐いた。
 彼女はそんな僕の姿に満足なのか、一人で笑い、そうしている内にその話題は僕達の間から遠ざかっていった。
「いつまでこうしているの?」
「腕を組むの嫌い?」
「そうじゃないけど、それにそのコートが寒いならもっといいのを買えばいい」
 僕は当然のようにそう答えた。
 イブだって僕と同じようにカードを持っている。それを使えば服なんて幾らでも好きなだけ購入できた。
 それでも彼女はいつも使い古されて擦り切れた衣類を身に纏い、僕はそれ以外の姿を見た事がない。
「服なんてどうでもいいじゃない。見た目なんて気にしてもしょうがないよ」
「僕が言っているのは別に見た目の問題じゃ」
「本当に見た目の問題は気にしてないの?」
 まっすぐに見つめられ、僕はぐっと押し黙る。彼女の細い白金色の髪が小さく揺れた。
 いつものように僕は、その視線に吸い込まれる前に逃げるように逸らしてしまう。
「気にしてないよ」
「はいはい」
「それでどこまで腕を組んでいればいいの?」
「駅まで」
 そう言ってまた一つ彼女が腕を引き寄せた。
 僕はその言葉にやれやれと観念しながら溜め息を零す。
 彼女が言う駅とは繁華街の入り口付近に作られたセントラル駅の事を指す。名前の通りこの街の中心にあるその駅は広大な面積を使って作られていて、終日人が行きかっている。
 僕達が住んでいるこの中央区から東西南北へと路線が走っており、そこからぐるりと一周する形で絶えず電車が走っているのだが、僕が普段利用しているのは中心街のみを走る電車ばかりで、あまり遠出をした事はなかった。中心に作られたからか、この街には大体のものが揃っていて、他の地区にまで行く必要がないからと言う理由もある。
「イブは中央区から出た事あるの?」
「あるよ」
「どんなところ?」
「どんなって言ってもそんなに大差ないよ。北区はあまり行かないけど」
「どうして?」
「生活環境課の本部があるから。あんまり好きじゃないし、職員に会いたくないしね」
 僕は首を傾げた。生活環境課はそれぞれの地区に設置されているが、僕達にとって役所のようなものなので苦手と思うような理由が思い浮かばなかった。彼女がそれ以上を続けようとしないので僕もそれ以上追及する事はなかったけれど、ふと訪れた沈黙を誤魔化すように僕は空を見上げる。
 街灯が夜道を照らしている。そのおかげで夜の中でも街は明るく照らされて舞い降りる雪の白さがはっきり映っていた。
 道路にはきっと皆家へと帰ろうとしているのだろう、僕達と同じ方向を向いた無数の足跡が続いている。
 僕達はそれに流されるようにして駅へと歩いた。やがて遠目にも巨大なホームが視界に入ってくる。他の人達はその入り口へと向かっていたけれど、僕とイブはそこを素通りし細い路地裏のような道を横切ってホームの裏側へと向かった。
 さほどの距離ではないのに周囲の人影が殆ど消え失せる。僕はその感覚を味わうたび、いつも奇妙さに襲われる。
 一体、僕と彼女が向かっている場所はなんのためにあるのだろう。普通の人達が訪れない場所をどうして彼女は選んだのだろう、と。
 駅の裏手は、綺麗に整備された正面とは違い、もう長い間放置されているようで張られている外壁材がぐにゃりと曲がり剥がれかけていた。その先を見ると既に最初に張られていたものは崩れ落ちてしまったのだろう、無理やりにはめ込まれたレンガがでこぼこに並んでいる。
 そして駅の天井に守られて雪が届いていない道路には延々と大小様々なテントが張り巡らされていた。
「あれ、おかえりなさい、イブ」
「ただいま」
「なに、デート?」
「うん、そんなとこ」
 テントから少し離れた場所にドラム缶を使って焚き火が行われていた。そこに集まっていた集団のうちの一人がイブを見かけて声をかける。僕とそう年は変わらないように見える彼女は、イブと同じようにぼろぼろの格好をしているが、向けられた笑顔は明るいものだった。
「デートォ? ってなんだ、蛍じゃないか」
「こんばんは」
 僕も声をかけられ頭を下げる。何度か話した事がある中年の男性は、イブと腕を組んでいるのが僕と分かって、すこし詰まらなさそうな顔をした。彼は「なんだよ、またイブに遊ばれてアホな男がほいほいついてきたのかと思ったよ」とあまり僕にとっては面白くない事を言ったが、それを聞いたイブはけらけらと笑っていた。
「私に下手に手を出してくるような男なんてそうそういないよ」
「分からないぜ、イブ。最近はお前の事知らずにナンパしてくるようなバカなガキがいたりするんだから」
「その時は追っ払ってくれるんでしょ?」
「当たり前だ」
 それを聞いて焚き火に集まっていた人達が声を出して笑い合っていた。
 イブも笑いながら、そこに加わろうとし、組まれていた腕がするりと解かれる。
「ありがと。送ってくれて」
「いや、いいよ。じゃあ僕は帰るから」
「うん、気をつけてね」
「うん、ねぇ、イブ」
「なに?」
「……風邪ひかないようにね」
「分かった」
 じゃあね、と手を振られ、僕はそれに答えながら、周りにいた人にお辞儀をし、背を向けて駅の正面へと向かう。
 狭い道を今度は一人で歩きながら、僕はイブの事を考えている。
 元娼婦で、今はホームレスのイブ。
 そうは言っても住む家がない訳ではない。それは彼女だけじゃなく、あそこにいる人達全員が帰るべき家を持っているはずだった。それでも彼女達はこの駅の裏側を自分達の家とし、帰るべき場所としている。
 誰もそこには触れられない。
 彼らの生活を脅かすような真似は誰にも出来ない。生活環境課すら、彼女達がここで暮らす事を阻害する事も立ち退かせることも――実際それは行われすらしていない――出来はしない。
 彼女――イブがそこを自分の居場所だと決めた時から、この薄暗く、走る電車の騒がしい音が絶えず響くこの場所に彼女がその身を寄せた時からそれは始まった。
 それは今では集団となり、コミュニティとなり、そして家となった。
 彼女の存在を礎として。
 彼らにとって、家と言えるのはこの駅の裏側ではない。
 イブと言う存在そのものがそうなのだ。
 そしてその集団の事を、外の人達はこう呼んでいる。
 イブの子供達、と。

     

「これをある家に届けてほしいんだけど」
 そう言われ、僕が受け取ったのはなんの変哲もない茶封筒だった。手に取った封筒は重みも厚みも大して感じられず、入っているのはせいぜい数枚の紙切れだろう。
「僕が?」
「そう」
 小さくイブが頷く。
 学校からの帰り、ふと駅裏に立ち寄り集団から少し離れた場所に腰掛けていた僕を見かけた彼女は、軽い挨拶だけを交わすと、そう切り出してきた。
「蛍にお願いしたいんだけど」
 お願いしたい。
 イブはよくそういう表現をする。
 決して彼女は命令をしない。強制をしない。この路上の家族の誰にも。
 ただ一言こう言うのだ。お願いしたい。
 座っていたため、いつもと違って小柄な彼女が僕を見下ろしている。
 駅の屋根に塞がれて、落ちる陰の中で彼女が微笑んだ。
 きっと、断ったところでその笑顔が歪む事もない。そう、しょうがないね、とだけ彼女は言うのだろう。
 代わりは幾らでもいる筈だった。
 だけど僕はそういう時、首を横に振った事は今まで一度もない。
「いいよ」
「本当? ありがと」
 封筒を何度か裏表とひっくり返す。紐で閉じられただけの簡素なものだった。
「中身は見ない方がいい?」
「別に見てもいいけど、訳分からないと思う」
「じゃあ、見ないでおく。その家どこにあるの?」
「西区」
 封筒と一緒に受け取った、住所が書かれている小さなメモ帳を見ながら頷く。
「今から行ったほうがいいのかな」
「ううん、そんな急ぐものじゃないから一週間くらい空いても平気」
「そう、じゃあ学校が休みの日にでも行ってくるよ。なにか他にする事はある?」
「じゃあ、封筒を渡した相手に元気かどうか聞いておいてくれる?」
「うん、分かった」
 彼女の柔和な笑みに、僕も小さく笑い返す。
 立ち上がりながらコートの裾についた雪を払い落とした。屋根があっても風向きによっては雪が降り注いでくる事があるらしい。
「じゃあ、今日はそろそろ行くよ」
「うん、またね。あ、そうだ。蛍それ持っていく時、若葉って子一緒に連れて行ってくれる?」
「どうして?」
「ちょっと、ね」
 首を傾げたが、どうやらそれ以上なにかを続けるつもりはないようだった。
(まぁ、いいか)
 彼女が言わないのなら、僕が知る必要はないと言う事なのだろう。
 僕は「分かった」とだけ告げ、彼女に封筒を持った手を軽く振る。
 彼女は変わらない笑みを浮かべていた。


「蛍君、帰るの?」
 そう声をかけられ振り返ると、ホームレスの内の一人が声をかけてきた。
 僕とそう変わらない年齢に見える彼女は、どこかに行く途中なのか、僕の隣に並ぶ。
「そうだね、君はこれからどこかに?」
「うん、ちょっとイブに買い物頼まれて」
 駐輪場に停めてあった自転車に鍵をかける。顔を上げると柵の向こう側で僕を見て彼女が立っていたので、僕はそのまま自転車を押して、しばらく彼女と歩く事にした。
「蛍君ってさ。イブとよく遊んでるよね」
「よく、って言うほどかな。まぁ、君がそう言うならそうかもしれない」
 そうだよ、と彼女は少し口を尖らせた。
 軽く脇腹をつつかれて、自転車を押しているため抵抗できない僕はなんとか身を捩じらせてそれを堪える。
「イブの事好きなんでしょ?」
「……好き?」
「そうじゃないの?」
 真顔で聞き返され、僕は少し困りながら苦笑をする。
 好きだよ。
 でも、君の言う「好き」とは違うと思うけどね。
「君と同じ気持ちで僕もイブの事を好きだよ」
「えー、本当? それ」
「本当だよ」
「ふーん、じゃあ、だからイブも蛍君とよく遊ぶのかな」
「そうかもね」
「じゃあさぁ、蛍君もうちに来ればいいじゃん」
「駅裏?」
「そう。いつもイブと一緒だよ。他の皆もいるし楽しいよ」
「うん、考えたことはあるけど」
 正直にそう答える。彼女はそれに喜んでいるのか、白い息が少し弾んだ。
 けど、僕はそれに首を横に振る。
「今のところ、その予定はないかな」
「えー、なにさ、それ」
「今の暮らしも結構満足しててね」
「そっかなぁ、こっちの方が絶対楽しいけどな」
「君は、もう自分の家に帰らないの? 学校にも行ってないみたいだけど」
「帰らない、行かない。つまらないもん」
 きっぱりと彼女は答えた。その質問をされる事そのものがつまらない、そんな風な顔をして。
 彼女は果たしていつ頃からあの駅裏を自分の家と決めたのだろう。
 生まれた時、既に決まっていた自分の家を飛び出したのだろう。既に決まっていた学生と言う身分をほっぽりだしたのだろう。
「うんざりなんだよね。ああいう生活」
「ああいう生活?」
「毎日決まった生活。学校もそうだし、その頃、つるんでた連中とか。バカバカしくってさ。私がしたい事ってそこには全然なかったし、それをずっと続けてもずっとそのままだと思うと憂鬱でさ。それならいっそ飛び出ちゃおうって」
「でも、変えようと思えばどこでも自分を変える事は出来たんじゃないかな」
「そうかな。私はそう思わないな。多分イブもそう思ってるんじゃない? だから今駅裏に住んでるんじゃないの?」
 彼女は少し普段より饒舌になる。
 僕は彼女の鬱憤に触れてしまったのかもしれない。
「だってさ。変だよ。生まれた時、自分が何者かもう決められているのって。生まれた瞬間、誰にも言われないのに、自分の頭の中が自分に命令してるんだよ。あなたはここで暮らしなさい、ここでこういう生活を送りなさい、ここと言う場所にいる人達と日常を営んでいきなさい。おかしくない? 普通人間って自分でなにをしたいか決めて、自分で行きたい場所を決めて、自分の心で一緒にいたい人達を探して、見つける筈じゃない」
「……そうだね」
「だから私は自分の頭を無視する事にしたの。ねぇ、理性と本能ってよく言うじゃない? どっちが理性でどっちが本能なのかな? あの決められた暮らしを続けるべきだって考えた事もあるよ。それって本能? 理性? そこから飛び出そうと思った私の衝動は本能? 理性?」
 僕にも分からなかった。
 もし、彼女がここにやってくるまでの毎日を苦痛だと思っていたにしても、それを続けろと彼女に告げたのは、自分に課せられた運命を遂げるべきだという、冷静な理性なのかもしれないし、もしくは遺伝子に刻みこまれ彼女の心を無視し押さえ込むような強制的な本能に寄るのか。
 そこを飛び出した彼女の行動が、がむしゃらに耐えられない毎日から突発的に逃げ出そうとした本能的な心なのか。
 それとも、その毎日を続ける事が無意味で、価値がないものだと、客観的に下された判断による理性的なものなのか。
 どちらと言う事も、僕には出来なかった。
「変わりたかったんだよ。私」
「どんなふうに?」
「私らしくない自分を感じていたから、私らしい私に」
 変わる。
 ふとイブが言っていた事を思い出す。
 人間を形成する要因。
 彼女もイブと同じように思っているのだろうか。だからそれまでの環境に身を置く事を拒んだ。そういう事なのだろうか。
 環境。
 僕を取り巻く環境。
 僕が暮らす部屋。僕が通う学校。学校で過ごすクラスメイト。
 工藤若葉。葛城直人。
 駅裏。ホームレス。
 イブ。
「蛍君は今の暮らしに満足なんだ」
 問いかけてくる彼女。
 僕の答え。
「そうだね」
 そう答える。
 今、僕は満足している。
 そう思う。
 今までを棄てた彼女が今の暮らしに満足しているように、今までの生活を棄てずにいる事に、僕は満足している。
「そっかぁ。じゃあ、蛍君はまだしばらく駅裏には来てくれそうにないね」
「遊びには行くよ。もし君達が帰る家がある奴は来るな、って言うならまたその時にどうするか考える」
「そんな事言わないって」
 僕の冗談を受け止めた彼女が、大袈裟な動作で僕の肩を叩いた。その振動が自転車に伝わり、備え付けられていた籠に入れられた封筒がバランスを崩す。
「なに? それ」
「イブに頼まれたんだ。西区のある家に届けてほしいって」
「へー。西区まで行くの? 面倒くさい……でもイブのお願いなら断れないよねぇ」
「まあね」
 そう。誰も彼女の願いは断れない。
 そこに強制はない。
 代わりがいるからと言って断って、実際他の誰かがそれを果たしても、そのために彼女が断った誰かを切り捨てるような事もしない。
 ただ、僕達がそうしているだけ。
 イブと言う母の頼みを断れる子供になどなれない。たったそれだけの事。
 あの日のように腕を組んで歩くような事があったとしても。
 僕達は恋人ではない、友人ではない。
 僕もまた、彼女の子供の一人。
 愛よりも、友情よりも、尊く重い感情に名前はないけれど。
 家族、と呼べばそれは全て成立させる事も出来る。

       

表紙

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Neetsha