Neetel Inside 文芸新都
表紙

無愛そうな結婚
第二話:protect

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 こんなはずじゃなかったのに!
 どうして私はこんなにも束縛されなければいけないのか。私たち夫婦の間には初めから愛がなく、だからこそ私は結婚後も自由に振る舞えると思っていた。それなのに最近の達郎さんは家を出る前に必ずこんなことを言うのだ。
 
「いいか、勝手に外出はするな」
 
 これでは友達とランチにも行けないし、買い物だって出来やしない。そんな不服を達郎さんにぶつければ、ランチは我慢しろだの買い物は俺が帰りに買ってくるだのと言い張るのだ。買い物なんて仕事を早く切り上げてまでもすることだろうか。
 彼だって最初からこんなことを言っていたわけではなかった。
 Cold Marriageで知り合った私たちはそのサイトの名前通り冷たい結婚生活を送っていた。互いに深く干渉しない、ただ一緒に暮らしているだけの生活。
 愛のない夫婦なんていうのは別にCold Marriageを利用していなくとも、全国に多く存在していると思うが、私たちの場合は初めから愛し合っていない。一般的な愛のない夫婦とは違い段々と冷めていったわけではないため、たとえ素っ気ない生活でも私も達郎さんも互いにそれが苦痛だと感じはしなかった。
 だけど束縛はおかしい。こんな自宅軟禁みたいなこと愛があってもおかしい。
 こんなことになったのは、ほんの1ヶ月前のあの時からなのだ。
 
「昨日一日中出掛けてたのか」
「えぇ、少し街の方まで買い物に。あっ、でも家事はちゃんとやりましたよ」
「ふむ、でも、まぁ外出はこれから控えてくれ」
「どうしてですか?」
 私がそう言うと達郎さんは一度黙りこみ、そして少し考えてから押し出すように言葉を続けた。
「買い物にいきたいなら休日に付き合うから、私が仕事しているときに勝手に出かけないでくれ」
 それは私の「どうしてですか?」の答えではなかった。男の人がよく使う話題を摩り替えるという逃げだ。
 私は確かに外出が多かったが、それは家に居ても狭いマンションの一室、二人分の家事などすぐ終わってしまい暇になるからだ。それに外に出て決してやましいことをしているわけじゃない。同窓会とかでもない限り男の人とは会わなかったし、買い物だってモンスターのように何十万とブランドものを手に取るわけじゃない。
 いくら私たちに愛がないからと言っても世間体というものがあるからだ。そのことをお互い十分に理解しているから達郎さんだって女を作るどころか、毎晩きっちりと帰ってくる。周りから見れば私たちは誠実な夫婦だろう。
 それなのに、だ。
 どうしていきなり外出禁止令を出されなければならないのだろうか。私は以降何度も繰り返しその理由を達郎さんに迫ったが、返ってくるのはいつもあの逃げばかりだった。
 ほんと、こんなはずじゃなかったのに。
  
 ◇
 
「それって独占欲っていうやつじゃないの」
「独占欲?」
 それは京子と電話で話している時に出てきた言葉だった。彼女とは長い付き合いで今日も掃除が終わった昼前に「一緒にランチでもどう?」と彼女のほうから電話がかかって来たのだ。彼女はまだ独身のOLで空いた時間を使って前からよく会う間柄だった。
 ぜひともランチには行きたかったが、私は例の件で外に出ることが出来ないと断った。私はその外出禁止令の経緯をひと通り彼女に話し、そしていつのまにか恋愛の話で盛り上がってしまったのだ
「そう、男の人が自分の女には手を出させないって嫉妬し過ぎて、ケータイとか全部チェックしたりするやつ」
「いや、それはないって」
 すぐさまそれを否定する。それは愛してるから起こる問題であって達郎さんにはあてはまらないと思ったからだ。
 親しい間柄である京子には私たちの結婚についての一切を話していたが、やはり愛のない結婚なんて信じて貰えていないのだろうか。おそらく私も急に友達が結婚して「実は恋愛してないんだ」なんて言われても普通に先越されたとしか思わないだろうな。
「何度も言うけど、私たちは愛し合ったりしてないの。だからそんな欲なんか湧かないわよ」
「わっかんないよ~、ずっと一緒に暮らしているうちに愛が芽生えちゃってたり」
「ないない、だいたいそんな素振り全然見せてくれないもん。相変わらず素っ気ない態度」
「だ・か・ら、よ。その独占欲が旦那さんなりの愛の表現なんじゃない」
「うーん」
 どうなのだろうと少し考えてみる。私も達郎さんもきっと互いに嫌いではない。嫌っていたら一緒に生活なんてできないだろう。だけど、嫌いじゃないということが好きであるということではない。
 私だって一人の男の人とずっと過ごしていて、その人が自分に好意を持っているか否かくらいは判断できる。達郎さんが私と結婚するまでどんな恋愛をしてきたかは知らないが、そんな不器用な人でもないような気がする。
 愛のないということを前提で結婚した手前、今更好きになったなど言い出しにくいとか?
 いろんなことを考えてはみるが、私は占い師でも心理学の専門家でもないので、結局は本人に尋ねるしかない。でも、きっと逃げられるだろうな。
「どっちにしたって、外に出れないのは嫌よ」
「そうね、ランチもいけないもんね」
「そうよ」
「まぁ、私は他の相手探すけどね」
「むぅ、薄情な親友め」
 そんな電話での長話をして私は久々に笑った。
 うん、話したらすっきりしたような気がする。やっぱりこのままはイヤだ。今夜こそは達郎さんに理由を吐かせてやる。
 私はひそかにそう決心して、帰りに買ってきて欲しいものリストと早く帰ってくるようにという旨をメールで達郎さんの携帯へ送った。
 

     

 だけどその日達郎さんが帰ってきたのは遅く、夜の22時頃だった。どうして早く帰ってきてね、と言った日に限ってこうも遅いのだろうか。うまくいかない時ほど苛立つことはない。
「ただいま」
「おかえりなさい、遅かったですね」
「悪い……」
 私が皮肉っぽくそう言うと申し訳なさそうに手に持っていた買い物袋を渡してくれた。買い物はちゃんとしてくるのに早く帰ってきてはくれない。まったく律儀なんだか、そうじゃないんだかよく分からない人だ。
「少し飲みに誘われてな。今日は疲れたんで先に寝るよ、飯はいい」
「あ、あの話が……」
「悪い、本当に疲れててな。明日にしてくれないか」
「はぁ」
 こんな時間からじゃ無理かな、とある程度覚悟していたけれど、やっぱりダメらしい。今日こそは理由を聞いてやろうと思っていたのに。せっかくの決心もこれでは台無しだ。ホント、うまくいかないなぁ。
 もしかして私と話し合いたくないからわざわざ飲みに行ったんじゃないだろうか。いつもなら飲みに行くなら連絡を寄越してくれるのに今日に限っては電話も繋がらなかったので、そんなことを疑いたくもなる。
 それに私は外出禁止なのに自分は飲みに行ったりして、仕事上の付き合いかもしれないが、達郎さんだけ楽しんでるみたいで少しずるいと思ってしまう。
「あっ、あとな」
 私がそうやって玄関先でひねくれていると、ネクタイを解いた達郎さんが何か思い出したような表情で私を呼び止めた。私と目が合うと達郎さんは少し申し訳なさそうな表情に変わって、そんな顔を見ると私も少し不安にもなってしまう。
「卵、割れたかもしれん」
「えっ?」
 予想外の言葉に驚きつつも、あわてて買い物袋の中を覗いてみる。なるほど、買い物袋の一番上の卵パック内で卵のひとつが確かに割れていて、少し卵白が出ている。今年の冬は卵の物価が高いのになあ、まだ使えるだろうか。
「すまないな、足りないようならまた買ってくる」
「大丈夫です、割れてるの一個だけですから」
 それを聞いて安心したかのように、そうかと言って達郎さんは寝室へ入っていった。やっぱり妙に律儀な人だ。それにしてもシャワーも浴びず寝るあたり、本当に疲れているのかもしれない。あまりお酒に強い人ではないから。
 再び一人になったリビングで、私にひとつ疑問が浮かんだ。さきほど達郎さんが渡してくれた買い物袋についてだ。
 いつも達郎さんが買ってくるスーパーの袋だが、あそこのスーパーは平日21時で閉まる。閉店間際に買ったとしても今から1時間前。まさか、さすがの達郎さんでも飲みの席にまで買い物袋を持っていってはいないと思うんだけど。どこかロッカーかに預けてたのだろうか。だから卵も割れちゃった?
 今から起こすのも可愛そうだし、そのあたりもまとめて明日訊いてみよう。明日こそは!
 
 ◇
 
 翌朝。ひとつだけ達郎さんに訊ねた。
「今日は何時頃に帰ってきますか?」
「何時って、19時くらいまでに帰れると思うが、どうしてだ?」
 どうして?
 自分で明日にしてくれって先延ばしにしたのに記憶にないのだろうか。たしかにまだ疲れがみえる表情をしているけど、お酒の所為といってもあまりにひどい言葉だ。私は思わずムッとした表情になる。
「話があります」
 私が凛とした態度でそう言い放つと、達郎さんは思い出したのか、身をすくめて情けない顔をする。
「今日は早く帰るから」
「はい、待ってます」
 当たり前だ、とも言ってやろうかと思ったけど、それはぐっと堪える。溜まったものは今夜一気にぶつけてやるんだから。
「あー」
 達郎さんがドアノブに手をかけたところでそんな抜けた声を出す。
「勝手に外出するなよ」
「はいはい」
 その言葉を軽視するつもりはないけど流すように返事をする。慣れたようにその言葉に従ってしまう自分が少し嫌になった。
 
 ◇
 
「もしもし、真田くんの奥さん?」
 
 その日の昼、私が掃除機をかけている時ふいに電話が鳴った。私は仕方なく掃除機を止めて受話器を取る。
 また京子からかな、と一瞬思ったけど考えれば外に出られないって話をしたから電話してくることもないだろう。じゃあ一体誰から?
「はい、そうですけど」
「あぁ、どうも本田です」
「あっ、本田さん。いつもお世話になってます」
 その相手に驚いて思わず受話器を持ったまま頭を下げてしまう。
 電話の相手は本田さんだった。達郎さんの会社の上司の方で家にも何度か来てくれてる人なので、私にとっては達郎さんの仕事の人でも一番馴染みのある人だ。それにしても珍しい、達郎さんがいないときに電話をしてくるなんて初めてじゃないだろうか。しかもこんな平日の昼間に。
「なにかあったんですか?」
「ん、実は真田くんが……」
 私が訊ねると急に本田さんの声が重苦しくなる。そんなあからさまな反応をされると何かあったと言っているようじゃないか。
「えっ、事故なにかでも」
「いやいや、そういうのじゃないんだけど、昨日のことでちょっとね」
「昨日は飲みに行ってたんじゃ?」
 そこまで聞いて私はてっきり達郎さんは本田さんと飲みに行ったものだと思った。そして、もしかして何か迷惑をかけたんじゃないかと心配になる。
 だけどその後、本田さんが話してくれたのは全然違うものだった。
 達郎さんは昨日の夕方、買い物袋を持ったまま道端に倒れていたという。たまたま通りがかった本田さんがそれをみつけて、家に連れて行って休ましてくれたらしいが、奥さんと看病していると腹部に青い痣をみつけたらしい。本田さんは達郎さんに何かあったんじゃないかと問い詰めたが、ちゃんとした答えはしてくれず、そして私にはこのことを秘密にしておいてくれ、と頼まれたというのだ。
 本田さんの話してくれたものは何もかもが自分の知らない話だった。そんな隠し事するような人じゃないのに。
「奥さんには黙っといてくれってきつく言われたんだが、やっぱり伝えておこうと思ってね」
「すいません、話してくださってありがとうございます……」
「今日もまだ疲れてるようだし、何か家でもおかしな様子があったら連絡してくれないかい?」
「はい……」
 受話器を置いた後も、なんだか私はぼんやりしていた。少し驚くようなことを聞きすぎたんだ。
 本田さんは優しい人だ。達郎さんはいい上司に恵まれている。そんな本田さんに迷惑と心配をかけるなんて、達郎さんは何を考えているのだろう。
 1時間。
 2時間。
 私は途中だった掃除機をコンセントに差したまま放置して、いろいろ考えた。
 どうして一人で抱え込むようなことをするのだろう。本田さんにも心配をかけて、私にも何も話しくれない。少しは私を頼ってくれてもいいのに、きっかけがなんだって仮にも夫婦じゃない。ただただ自分の無力さを感じるしかできない。
 私はもう、いったい今夜の話で何を達郎さんに訊けばいいのか、段々わからなくなってきた。

     

「今夜、セックスしましょうか」
 私がそういうと達郎さんにひどく驚いた顔をされた。私もずっと前から言おうと決めていたけれども、いざ口してみると恥ずかしくて思わず顔を下げてしまう。
 別に私が溜まってるからそんなことを言ってみたわけではなくて、もちろん目的は達郎さんの身体の痣を確認するためだった。こんな回りくどいことをしなくても直接きいてみればいいのだろうが、何だかそれは気が引けたのだ。でも今なら思える。こんな恥ずかしい思いをするくらいなら正直にきいておけばよかった。
「い、いや、今日は疲れててな。また今度に……」
 案の定、その誘いは断られる。だがこれも私の予想通りの反応だ。身体の痣をみせたくないなら容易く誘いには乗らないはずだ。しかし私はまだこんなところで諦めたりはしない。
「じゃあ、一緒にお風呂に入りませんか」
 もしかして今、達郎さんにすごくやらしい女だと思われていないだろうか。そんなことが少し不安になるけど、これも達郎さんを心配してのことなのだ。
 恐る恐る達郎さんの顔を窺ってみると、さきほどの驚いた表情とは一転、少し怪訝そうな顔をしている。さすがにここまでしつこく誘えば感づかれたのか、軽いため息も聞こえた。
「本田さんから聞いたのか」
「……はい」
 何だか後ろめたい気持ちと同時に重苦しい空気になる。だけど私も、本田さんもすべて達郎さんを心配してのことだった。それを分かっているのか、達郎さんは黙って自分の服を手で持ち上げてくれた。
「えっ……」
 服が捲られ、あらわになった達郎さんの腹部をみて思わず声が漏れる。見ているだけで痛々しいその痣は、どうみてもただ事ではない。どうしてこんなものを隠していたのだろうか。思わず怒りたくなってくる。
「どうしたんですか、これ」
 本田さんが何度訊ねても答えてくれなかったその問いを、意外にも達郎さんはあっさりと話してくれた。
「酔っ払いに絡まれたんだよ」
「それだけですか」
「それだけだ」
 酔っ払っていた相手はかなり図体がでかかったらしく、理由もなく一方的にやられたのだと達郎さんは話してくれた。なんだか少し抜けた話だが、あれほどの怪我を負っているのだ。
「警察にいったほうがいいです」
 きっと傷害か何かで逮捕できるはずだ。私はそう言ったけど、達郎さんは大丈夫だと繰り返して頑なに警察を拒んだ。変にプライドでもあるのだろうか、男の人は時々よくわからないことがあるから困る。
「じゃあ、せめて病院だけでも」
「あぁ、わかった。時間をみつけて行ってみるよ」
 何とか病院へ行くことには納得してくれたものの、あんなお腹を見せられるととても安心など出来るわけがない。
「本当に大丈夫だから、泣かないでくれ」
 また達郎さんは大丈夫だと言った。そんなに多用すると信用できないんだから。
「泣いてません」
 私は強がってそう言ったけど、本当に涙は零していなかった。ただ目の中が馬鹿に熱くて、いまにも溢れてしまいそうなだけだ。なんだか悔しい。本当にそれはなんだかで、泣きたい理由を書き表したら、きっと色々と矛盾が出てしまう。
 こんなとき、根本的に私は信用されていないのだと強く思わされる。愛がないから、だからそれは当たり前なのかもしれない。だけどこんな時にまで他人行儀をされると、ずっと近くで一緒に暮らしているのに、どこか遠くに達郎さんを感じてしまって、私の心はひどく冷えてしまう。それはすごく寂しいことだった。
 そんな状態の私を気遣ってか達郎さんはおもむろに席を立つ。
「話は、おわりか?」
「まだあります」
 私は慌てて達郎さんを呼び止めた。そうだ、もうひとつ大事な話があるのだ。
 だけど、呼び止めたはいいものの、こんな弱々しい態度で話を持ちかけるのもどうだろうかと少し迷う。まともに聞いてもらえないじゃないだろうか。でも、きっと今話さないといけない、そんな気がする。
「外出を許可してください」
「ダメだ」
 思い切って言った私のことばを、そんな即答で拒否されると今度こそ涙が溢れてしまいそうだ。でも今日は強く気を持って、こんなところで引き下がったりするものか。
「理由を教えてください」
 せめて納得する理由があれば、私だって大人しく家にいる。だけど理由を聞かされずにただ外出をするなと言われるのはもう我慢の限界だ。
「行きたいところがあるなら連れて行くから……」
「理由を聞いてるんです」
 こんなに私が達郎さんに強気な態度をとったのは初めてかもしれない。だけど不思議と怖くはなかった。達郎さんもそんな私に気圧されたのか、少し困った表情を浮かべている。
「すまない……それは、まだ言えない」
「まだ?」
「自分勝手なのはわかってる。それでお前が不自由しているのもわかってるんだ。だけど、今は言えないんだ。いつか絶対に話す、本当にだ。だから、もう少しだけ我慢してくれないか」
 それはいつもの“逃げ”の言葉とは違った。達郎さんは真剣な顔をして私にそう言ってくれた。私は決して納得は出来なかったけど、なんだかこんな態度をされると私が悪いような、そんな気分になってしまう。
 だから、私は、
「いつか、絶対ですよ」
 少しだけのあいだ、許してあげることにした。
 達郎さんはもう一度だけすまないと謝りの言葉を口にして、私と達郎さんのだいじな話は終わった。
 
 ◇
 
「今日は早いんですね」
 次の日の朝、達郎さんはずいぶんと早起きだった。私はパジャマ姿で半分寝ぼけながら玄関で見送る。
「少し仕事があってな、朝は外で適当に食べるよ。帰りはいつもと同じくらいだ」
「はい」
 まだあんな怪我をしているのに無理をしているんじゃないかと少し心配になるが、私は黙って相槌を打った。
「あー……」
 そのあとも達郎さんは何か言いたそうに間抜け声を出したけど、結局言葉に詰まる。何と言おうか迷ってる達郎さんの顔をみて、私は思わずクスッとしてしまう。昨日のことでも気にしてくれているのだろうか。
「勝手に出かけたりしませんから」
「あー、うん」
 
 満足そうに家を出た達郎さんを見送った後、私はひとり分の朝食をつくろうとキッチンに入ったところであることに気付いた。
「あっ」
 燃えないゴミのゴミ袋が置いたままだったのだ。珍しいこともあるもんだ。達郎さんが忘れてしまうなんて、よっぽど急いでいたのだろうか。変に真面目な人だから少し生活のリズムが狂うとミスが増えるのかもしれない。
 どうしようかと、私は朝食のことを忘れてしばらく考え込んでみた。別に1週間くらいゴミを溜め込んでいたからといって大した問題はないが、せっかく間に合ううちに気付いたのだし出しておきたい。でも、自分から家を出ないとついさっき口にした手前、それを破るのもどうだろうかと迷う。
「ちょっとだけ、だしね」
 エレベーターで1階に降りて、すぐのところに出しに行くだけだ。これくらいならいいんじゃないだろうか。そう自分に言い聞かせてみる。本当は単に外に出たいだけなのかもしれないが。
「その前に着替えないと」
 まだ自分がパジャマ姿であることに気づく。どうも家にいることが多くなったからか、着替える習慣がなくなってきている気がする。
 いつも私は一度決めたらすぐに行動に移すほうだった。結婚紹介サイトを巡っていた時もそうだ。何となくいいなと思ったら入会していった。もちろんCold Marriageも例外ではなかった。まさかあのサイトで結婚相手をみつけるとは思わなかったけど。
「よしっ、これでいこう」
 ワンピースを手に取って鏡の前で合わしてみる。ひさしぶりの外出とあってか、妙に私は朝から張り切っていた。
 


     

 広い踊り場に出て、一度大きく背伸びをした。
 やっぱり外はいい。ひさしぶりの外だからか、つくづくそう思えた。ベランダくらいなら毎日出てはいたけど、やっぱりこんな場所でも開放感が違う。まるで森林浴でもしているかのように私は深呼吸までした。
 そんなことをしていると、いつのまにか心もリフレッシュした気分になって、さっきまであった達郎さんに嘘をついたという罪悪感もどこかへふっ飛んでしまった。
 ゴミ捨て場はマンションを出た右隣のコンクリートスペースにある。カラスよけの網を持ち上げて、ゴミ袋を中に入れて、それで終わり。
「よしっ」
 たったそれだけの作業なのに私はとても満足する。
 ひさしぶりの外出だからといって、少しオシャレに気をかけて薄着で来てしまったためか、少し外は肌寒かった。ちょっぴりの後悔。
「衣替えしないとなぁ」
 そんな季節の変わり目さえも、どうやら感じとれてなかったようだ。
 できればもう少し外を満喫していたかったけど、この格好では寒いし、それにやっぱり達郎さんにも悪い気がしてきてそろそろ戻ろうかと思ったところに、近所の奥様たちが揃って同じようにゴミ捨てにやって来た。
 あら、真田さんの奥さん、久しぶりなんて声を掛けられる。そういえばゴミ捨て場は近所の奥様たちの集会所だったっけ。よく長話をしたっけ、なんて私はいまごろになって思い出す。
 長いこと姿をみせなかったことについて訊ねられると、私は体調を崩していたのだととっさに誤魔化した。こんな長い体調不良があるものかと自分で言っておきながら疑問を抱いたが、それでもいちおうの納得はしてくれたようだった。
「お大事にねぇ」
 やはり寒くなってきたためか、あまり深く話し込まずに井戸端会議ならぬゴミ捨て場会議はすぐに解散となった。奥様たちは次々と帰って行き、いつのまにかまた私一人になる。
 変に心配をされたので、なんだか少し申し訳ない気持ちになってしまったが、正直に言ってしまえば、それはそれで心配をされるだろうし、なにより次からゴミ出しをする達郎さんが少し可哀想だ。
「ほら、あれが奥さんを部屋に閉じ込めてるっていう……」「ほんと、可哀想にねぇ」なんていう噂でもされたら、とんだ我が家の不名誉だ。
「うぅ、寒い」
 風がからっと吹いて、思わず身を震わす。私もはやいところ部屋に帰ろう。そう思った矢先、また誰かが私を呼び止めた。
 
「明美」
 
 それはあからさまに奥様の声色とは違うもので、第一近所の人は下の名前で私に呼びかけたりしない。その声を聞いた瞬間、頭の中が掻き回された気分になったけど、どうして声の主が出てこなかった。これも歳のせいなのかな。
 誰?
 そう思いながら振り返った先には、見覚えのある顔があった。すごく懐かしい顔だ。
「隼一……」
「久しぶりだな」
 私はその言葉の後、どう続ければいいのかが分からなかった。声の主は、夏川隼一(なつかわ しゅんいち)――私の元彼氏だった。
 短かった髪はすっかり伸びてしまって、少し暗い印象にさえなったけど、たしかに彼だった。左目の下のホクロだってそうだ、照れた時にする頭を掻く癖だって変わってない。
「そうだね、久しぶり、だね」
 あまりの出来事に困惑するしかなかった。久しぶりといっても、さっきの奥様たちとの久しぶりとは全然違うのだ。結婚してからはそうだし、別れて以来、一度も連絡をとったことはなかった。大学時代に互いに知り合ったものだから、共通の知人はいたけど、いままで彼がどうしてきたかなんて、気になりはしても耳にしたこともなかった。
 本当に、隼一と出会うのは久しぶりなのだ。それもこっそり抜け出た朝のゴミ捨て場で再会するなんて、微塵にも思っちゃいなかった。
 元気だったか。うん。その格好寒くないか。ちょっと寒い。だろうな、最近寒くなってきたからな。そうだね。互いに少し人見知りしながら、そんな探り合いのような会話をする。
 でも、私が彼に一番訊きたいのは、もっと別のことだった。
「どうして、ここに?」
 連絡すらしてないのに、私の住んでるマンションの前で偶然出会うとは、とても思えない。それに彼が近所に住んでるとは考えられない。それならもっと前に出会ってるはずだ。
「この前、ここらへんに住んでるって聞いたから、ちょっと帰りに寄ってみてさ……そんで、たまたまだよ。後ろ姿みて、そうかなって思って声掛けたんだ」
「そう、なんだ」
 そんな偶然ってあるもんなんだなって少し感心したり。
 だけど正直私は彼と会うのが怖かった。ずっと怖かった。だって私は――。
「結婚、したのか」
 その言葉に、私は思わず小さく震える。寒さとは違う何か冷たい感じが、私の背中を襲ったのだ。
 いま、私は指輪などははめていない。きっと彼は知っていたんだろう、私が結婚をしていることを。
「う、うん。それも、聞いたの?」
「ああ」
 彼と目をあわせることができない。別に結婚していること自体は何も悪いことじゃない。もうちゃんと関係は切ったのだから。
 だけど達郎さんと結婚したのは、彼と別れてから一年後のことなのだ。それを彼がどこまで知っているかはわからないけど、四年間付き合った彼ではなく、私は結婚紹介サービスで出会ったよく知らない達郎さんと一緒になった。そのことについて、私はずっと申し訳なさを感じていたのだ。
 それに何より、あのとき私たちが別れた一番の理由は――。
「……早すぎないか」
 そんな彼の言葉が、針のように深く突き刺さった。きっとここから浴びせられるのは私に対する罵声だけだ。こんな時、誰かがゴミ出しに来ればいいのに、こういう時に限って誰も通りはしない。
 ずっと私は顔をあげられないままだ。
「お前のほうこそ、してたんじゃないだろうな」
「違う、そんなこと……」
 弱い否定の言葉はすぐさま彼の声に打ち消される。
「お前だって他の男がいたんだろ、俺と付き合ってた頃から。そいつと結婚するために俺と別れたんじゃないのか」
 そう、私たちが別れた一番の理由は、彼の浮気だった。連絡なしで彼の部屋に行ったら、知らない女がいて、まさにそのときは修羅場だった。その後泣いて謝った彼を、散々私が罵って、終りになった。
 それなのに私は別れてから一年の内に身を固めたのだ。疑われる要因は十分にあるとは思う。だけど、本当に彼と付き合ってる時、やましいことなんてしてなかった。達郎さんと出会ったのは別れた後なのだ。
「本当に違うの、今の人とは紹介サイトで出会って……」
 どうにかそれを伝えるため、私は必死に説明しようと顔をあげたけど、彼は何一つ聞いてない様子だった。
「あんな男のどこがいいんだよ……」
 先ほどまでの私と同じように深く顔を下げて、伸びた前髪がその眼を隠した。何やらぶつぶつ呟いて、そのなぜか達郎さんを知っているような言動に思わず恐怖を感じた。
 しかし、次の瞬間、それは紛れもない恐怖に変わったのだ、
「なぁ、明美、俺たちやり直さないか、もういっかい」
 私はその言語の返事を考えることも、叫び声をあげることすら出来なかった。喉がぎゅっと縮まって、呼吸すら危うい。恐怖が全身を支配して、動くことすら叶わない状態だ。
 彼の右手に握られていたのは、白く光る刃物だった。

     

「どういうつもり」
 強気な言葉を口にしたが、内心はとても怯えていた。
 毎日のように料理で扱っている物のはずのなのに、その刃先が自分に向けられるだけでこんなにも恐怖を感じるなんて思いもしなかった。
「ただ、俺の話を聞いてくれればいい」
「……聞いてる、聞いてるよ」
 なるべく刺激しないような言葉を選んで慎重に話を進める。
 隼一とは付き合っていた当時は何度も喧嘩をしたことがあった。当時の喧嘩の発展の仕方と、現在の状況もよく似ている。だけど喧嘩は喧嘩でも、私たちがしていたのは口喧嘩だった。隼一は時々怒りっぽいところがあったけど、手を出したことは一度もなかった。それは私を大事にしてくれてたからだったと思っているし、だから私はいつも彼を許した。
 最後の時、以外は。
 そんな彼がこんな行動に出るなんて、余程追い詰められているのか、私が追い詰めたということなのだろう。だからといって、こんな行動が許されるわけがない。これでは対等に話をすることなんて不可能だし、一方的に彼の主張を押し付けるかたちでしかない。
「俺たち、やり直そう」
「え?」
「お互い他に相手がいたこと認めてさ、もう一回真っ白のままやり直そう」
 私の脚と同じように、彼の刃物を握る右手も小刻みに震えていた。きっと怖いんだ。私も隼一も、こんなことを望んでいない。
「違うんだよ、隼一……」
 だからこんな脅し、ダメなんだ。私がちゃんと否定してあげないと、ダメなんだ。
「隼一と付き合ってた頃は、隼一しかいなかったんだよ」
 
 ◇
 
 隼一と別れてすぐに私は結婚相手を探すことになった。
 もうすぐいい旦那連れてくるからねなんて、私は実家の人間に告げていたのだ。もちろんそう言った背景には隼一との交際の先に結婚を考えていたからだった。
 でも、4年も付き合っておいて、私たちはあっさりと別れてしまった。おそらく、あまりいいとは思えないかたちで。
 あの後も隼一は何度も謝りの電話くれて、何度も言ってくれた。
 
『やり直そう』
 
 私はその言葉を突き放し続けた。きっと変な意地だったんだろう。隼一との付き合いは学生時代の恋愛と決めつけたのかもしれない。私は電話番号も何もかも連絡先を変えて、彼との関係を一切絶った。
 20歳後半までには身を固めてほしい。家族は強くそう私に望んでいた。長く私に仕事をしてほしくなかったんだろうし、それにちょっとした偏見のようなものがあったのだ。何でもない、長男が家を継ぐみたいな田舎の家庭にある古臭い考え。
 だから、私は必死に結婚相手を探した。
 いくつもの結婚紹介所を回り、セミナーなようなものも受けた。そして、初めて顔を合わせた男性が達郎さんだった。
 どこにでもいるような真面目そうな男の人だというのがさいしょの印象だった。だけど、安心して一緒に生きて行けるような人だとも感じた。
 そんなあっさりとした理由で、私は足早に人生を決めた。
 家族は喜んで、友人たちは驚いた。じゃあ、隼一は私の結婚を知った時、どんなことを思ったのだろうか。それは、裏切りなのだろうか。
 結局結婚は、私にとっての逃げだったのかもしれない。
 
 ◇
 
「隼一と付き合ってた頃は、隼一しかいなかったんだよ」
 どんな脅しのようなことをされても、嘘はつけなかった。決して自分の正しさを主張している訳ではない。彼だけを責めることは出来ないし、私の潔白を証明することもできない。きっと私たちのあいだには色々と重なりすぎてしまったのだ。だから、こんなにも簡単に瓦解してしまった。
「……俺にはもう、お前しかいないんだよ」
 正直なところ、そんなことを言われても困るというのが本音だった。私は身を固めたのだし、今頃やり直すなんて考えることはできない。
 私がたまたま家を出た日に、彼が現れたのは何かの罰なのだ。
 隼一のだらんと下に降ろしている右手の先の白銀の刃先がちらちらと揺れる。私は顔を降ろしたままその動きをじっとそれを観察し続けた。何しろ命に関わるかもしれないことなのだ。
「なんで、俺じゃないんだ……」
 その言葉と同時に隼一の右手が視界から消えた。慌てて行き先を探して、顔を上げた私は彼の行動に瞠目せざる得なかった。
「な、にしてるの……隼一、おかしいよ……」
「あのときからずっと俺はおかしいんだ」
 刃物の先端が、隼一の喉を向いていた。鋭い刃先が柔らかい肉を切り、赤い血が激しい汗のように胸元へと流れる。
「やめて! いますぐに!」
「来るなっ!」
 彼の手に少し力が入ったのか、刃先が深く喉に食い込む。
 あのナイフは私を脅すためでも、傷つけるためのものでもなかったのだ。もしかすると最初はそのつもりだったのかもしれないけど、隼一は結局自分自身にその刃先を向けた。
 逃げることも、涙を流すこともできない。私にとって、一番の苦しみがそこにあった。
 
 ◇
 
 いっそのこと、背中を向けて逃げ出したかった。
 そうすればどれだけ楽になれるだろうか。こんな辛い思いなんか、する必要ないだろう。
 でも、そんなことをしても先にあるのはきっと後悔だけだ。そう考えるともうこのことからは逃げられないような、そんな気がした。すでに前に足を踏み出すこともかなわない、泥沼にどんどん沈んでいくようなそんな感覚。だから一歩もこの場を動けない。
 私はどうすればいいの。
 そんな問掛を視線にのせて隼一をみる。首もとからゆっくりと溢れる赤い血が、同じ質問を私に問い返してるようで胸が痛かったけど、それでも目を逸らすことはできなかった。
 私はなにをすれば正解なのか。その答えが欲しかった。だけど正しい答えがあるなんて期待はしていなかった。現在の結婚をなかったことにして、隼一ともう一度やり直せばいいのか。こんなかたちで再開する愛なんかに、未来なんてあるのだろうか。
 
「いいか、勝手に外出はするな」
 
 こんなときに。こんなときだから、達郎さんの姿とことばが頭を過ぎる。
 それは私にとっての未来の方向なんだろう。決してこどもの時に描いた“幸せ”だと言えるような素晴らしい結婚じゃないかもしれない。だけど、不幸だとも思えなかった。
 私はあれからずっと恋愛とか異性との間に“幸せ”を求めることを諦めていたんだ。必死に追い続けて、幸せな生活を手に入れたって、それが連綿と続くように思えなくなっていたんだ。
 結婚してからもお互いに発展を求めず、ただ淡々と暮らしてきた。でも、それは私にとっての“逃げ”だったんだろう。
 達郎さんは全部知っていた。こうなることもわかってくれていたのに、私を庇ってくれた彼を、私は一方的に嫌った。なんて私はバカな女なんだろう。どうして何もわからないんだろう。
 達郎さんはずっと私の“逃げ”に付き合って、私に不幸を与えないようにしてきた。
 だけど、そんなの全然嬉しくない。他人の幸せを遮って、私は最低の女じゃないか。
 ――ごめんなさい。
 心の中で謝って、ぎゅうと目を閉じた。悲しかったけど、胸が苦しかったけど、涙は出なかった。それは自分に対する悔しさが混じっていたからなのだろうか。
 そんな暗闇を、見続けていた時だった。
 大きなからんころんという音がコンクリートの地面に響いて、目を見開いた視界の端にうつったのは……。
「達郎、さん……」
 動かないと思っていた口から、名前を呼べた。それは刃物という恐怖がなくなったからなのか、彼の姿をみて安心のしたからなのか。きっと両方なんだろう。私は力が抜けたようにその場に崩れて、膝をついた。
 達郎さんはどこから持ってきたのか、スーツ姿のまま落ち葉回収用の箒を両手で持ち、威風堂々と構えていた。どうやら箒で刃物をたたき落としたようだった。喉に向けられていたはずなのに、結構大胆な行動だが、余程上手く叩き込んだのだろうか。
 刃物を失った隼一は痛みを訴えることもなく、ただ達郎さんと対峙していた。達郎さんはゆっくりと移動すると転がった刃物の元まで来て、より遠くへ足で蹴飛ばした。
 どうみても、いまの隼一の状況は圧倒的に不利だった。ここからこれ以上無茶な行動に出るようには思えない。
「……」
 男二人は向き合ったまま、何かを話してるようだったがよく聞こえなかった。しかし、次の瞬間、私まで萎縮してしまうような怒声が響き渡った。
「明美になにをした!?」
 すごく久しぶりに、達郎さんに名前を呼ばれた気がした。
 高校時代、はじめて剣道の試合を観たときだ。普段物静かだったクラスメートの男の子が、竹刀を握ると嘘みたいに気迫のある大声を体育館中に響かせたのだ。剣道には気剣体の一致というのがあって剣道の試合では当たり前の光景らしいのだが、そんなこと知りもしない私は心底驚いた。
 あれから何年も経つというのに、私はあの時と同じことを思った。
 かっこいいって。
 頼れるって。
 やがてゴミ捨て場の前に立つのは達郎さんだけとなり、いつまにか遠巻きには人が集まっていた。誰かがケータイを取り出し、終焉の音が鳴り響こうとしていた。




 

     

後日談
 
「で、あんたの旦那さん剣道やってたの?」
 
 割とどうでもいいような質問が返ってきた。
 久しぶりに友人の京子と駅前のカフェで席を一緒にした時だ。本当に二人で会うのは久しぶりで、電話でもできるような話をたくさんした。やっぱり直接会って話をするのは相手の反応が視覚的にわかって楽しいからだ。
 私はここ最近あった出来事の一切を話した。もちろん、楽しい感じでなんかではなく、自分の無責任さを反省しながらだ。やはりそういう話をすると聞き手の京子も口を開かなくなり、ときどき相槌を打ってくれるだけの静かな会話になる。きっとこんな雰囲気になっても話をできるのは彼女を信頼してるからだろうし、こういう友人を持っていることは頼もしいことだった。
 だけど話が終わると同時にされたのが、そんな質問だった。もっと、もっと大事なこととか、そんな言葉じゃなくてもただ一言「大変だったね」なんて共感の素振りを見せてくれたっていいのに。
 そんな胸中を京子に愚痴っぽく訴えてみると「あんたは惚気話をしたいわけ?」と一喝されてしまった。
 私は首を引っ込めて仕方なく質問に答える。
「うん、私もはじめて知ったんだけど高校までずっとやってたんだって。しかも二段」
「へぇー。あんた、高校の時も剣道部の山本くんが好きだったよね」
「なっ……」
 本当にどうでもいいことを――当時の私にとっては一番の悩みだったことだけど、細かいことまで京子は覚えている。
「もしかして剣道フェチ?」
「そんなんじゃない、たまたま。というか本当に知らなかったし」
 私は昔の自分を思い出してしまった恥ずかしさを隠すようにカップを口に運ぶ。京子は意地悪な女だ。いまも私の反応をみて少し楽しそうな表情をしている。
 だけどそんな彼女でも、いつも私の情けない話を最後まで真剣に聞いてくれた。私もその代わりにと彼女の力になるようなことをみつけようとするが、当の本人は大した悩みも打ち明けてくれないし、問題があってもいつも一人でなんでも勝手に解決してしまう。結局は私は京子に助けられっぱなしなのだろう、これからもずっと。だからこそ付き合いが続いてるのかもしれない。人間の関係なんて意外と偏ってるものだ。
「で、ちゃんと反省してるわけ?」
「はい……」
 なんだか説教を食らってるような感じになる。でも、いまは誰かに叱られたほうがいいのかもしれない。叱って欲しいのかもしれない。大人になると誰も叱ってくれなくなるから、だから時々道を踏み間違えちゃうんだ。このままが正しいと、信じこんでしまって。
「じゃあ……」
 一度左腕の時計をみてから、京子は立ち上がった。どうやら長く話しすぎてしまったらしい。ランチタイムに10分ほど待ってから入った店内も、いまはすっかり空いてしまっている。店員も慌てずゆっくりと皿を片付けている。
「いい旦那さんなんだから、大事にするのよ」
 頭の上にぽんっと手を置かれて、子犬のように撫でられた。上をみると京子は優しいような諭すような、柔らかい表情をしていた。そして、私が驚いて目を丸くしていると早く行くよとすぐに表情を変えて笑った。
 彼女は私なんかよりずっと賢明で、ずっと大人だ。相変わらず私はわからず屋のバカな女かもしれない。でも強く生きようって、彼女といるとそんな曖昧な決意を思わされる。
「京子はいい奥さんになるかもね」
「何それ、嫌味なの?」
 私は一度微笑んでから、京子の後に続いて店を出た。

       

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