Neetel Inside 文芸新都
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      (16)


 留守を預けていたあいだになにがあったのか。柿田は考えようとするが、うまく頭は回らなかった。動揺という名の泥につかまり、フルアクセルは空転を繰り返す。
 浮かんでくるのは甘夏の考えの読めない顔だった。身代金を独り占めするために、自分が不在のあいだに保奈美を別の場所に連れ出したという憶測が、現在では最有力候補になる。ちくしょうが、と柿田は歯軋りする。誘拐に消極的だと感じた場面もあったが、そんなことはない。あの堅気とは違う眼差しの老人はしたたかで、それにもまして自分が間抜けだっただけ。計画から蹴落とされたのは自分だったのだ。思えば、瑠南たちに近づき保奈美と距離を縮めていったのも、より彼女を油断させるためかもしれなかった。
「あああっ! ふざけんじゃねえ!」
 八つ当たりぎみにソファを蹴り飛ばす――とはいえ、諦めるのはまだ早い。時間的にそこまで遠くまでいっていないはずだから、捕獲できる可能性はある……なんて考えている間も惜しいような気がして、柿田は顔を上げた。
 と。
「入れ違いだったんですね」
 いきなり背後から声が聞こえ、振り返る。
 ドアのところに保奈美と甘夏が立っていた。ふたりは手を繋いでいた。
「ど……」柿田はうろたえつつ言った。「どこにいってやがったんだ、てめえらっ」
「どこって、柿田さんを探しに外へ……」
「なんでだよ」
 怒気さえ孕んだ声で言った。本来なら最悪の事態にならなかったことに安堵すべきだったかもしれないが、そこには自分でもよくわからない種類の感情があった。
「えっ?」
「なんで探そうなんて思ったんだよ! 俺はいなかったんだぞ? 逃げようと思えば逃げられたかもしれないじゃねえか! 誘拐なんてそれで終わりだったろうが!」柿田は甘夏のほうもにらみつけてつづけた。「ジジイ、てめえもそうだぜ。ガキを連れてひとりトンズラできたはずだ! なんでそうしなかった!」
 甘夏は肩をすくめて半笑いで言った。「それはおかしな質問だな。私はきさまの共犯者なんだろう? それ以外に理由なんているのか?」
「ふざけんじゃ――」
「私なんですっ」保奈美がかばうように言った。「私が柿田さんを探しにいこうって言ったんです。甘夏さんはついてきてくれただけで……だから、そんなふうに怒鳴らないで」
「そういう話じゃねえ」
「心配だったんですっ。瑠南ちゃんとケンカして、なんだかすごく苦しそうに見えたから。傷ついてるんじゃないかって……心配になったんです」
 柿田は返す言葉を失ってしまった。保奈美の願いを聞き入れたわけでは、けっしてない。ただ、さきほどの美月との会話の中で感じた胸でせめぎ合うなにか――それが再び顔を出してきて、「なんで心配するんだよ」と呟くことしかできなかった。「なんで俺のことなんか心配しやがる……」
「この子の行動は、きさまを思ってのことだ」甘夏があきれ気味に口を開いた。「なんでもクソもないんだ、そういう感情は。はじまりは見えないのさ。友人も恋人も――家族も、気づいたときにはそうなっている。人を思うっていうのは、むしろ思う前にできてるものだ」
「……ずいぶんとクセえこと言うじゃねえか」
「でも、それわかる気がします」保奈美がやんわりと微笑みながら言う。「私の柿田さんに対する、その、思いっていうのも、同じなのかもしれない……少し、ちょっと、恥ずかしい気もしますけど。きっと、ほんとは瑠南ちゃんだって一緒のはずですよ」
「きさまだって本当はわかってるんじゃないのか?」
 甘夏がすべてを見透かしたような瞳をむけてきた。心の揺らぎを正確に観測するレンズ。柿田はたまらず目をそらす。肯定しているようにとられたかもしれなかった。


「もう我慢できません」
 そう佐恵子が言ったのは、午後四時をすぎたころだった。固定電話を眺めていた目を、蒲郡は彼女に移した。吉見やほかの捜査官も似た反応を示している。
「我慢できないです」佐恵子はもう一度、小刻みに肩を震わせながら呟いた。カーテン越しに入射してくる茜色の斜光が、鬼気迫る表情を燃えているかのように照らしていた。
 吉見が聞く。「えっと、どうしたんですか?」
「どうしたじゃないですよおっ!」佐恵子の放った怒声は、リビングの壁を重く伝った。「保奈美はっ、保奈美はどこなんですか? 必ず助けてくれるって! どれだけ待てばいいんですか? 毎日まいにち置物みたいにここにいるだけで、ちゃんと捜査してるんですか? 警察ってこんな役立たずだったんですかっ」
「お、落ち着いてください」
「落ち着く? 他人事だからそんなことが言えるのよ。保奈美は今だって怖い思いしているはずなのに……もう、ほんとは、殺されているかもしれないのに……」自分の言葉に怯えるように、頭髪を握りしめながら膝をフローリングの上に下ろす。
「やめましょう、佐恵子さん。考えるべきじゃないです」
 差し伸べた吉見の手を、佐恵子は怨念すら映した眼差しで振り払った。
 蒲郡はその様子を見て思った――どうやらやはり、一人娘の失踪という事態は彼女に対して外面以上の負荷(ストレス)をかけていたみたいだ。たぶん、ギリギリまで溜め込んでしまうタイプなのだろう。さっきまで平静な手つきでコーヒーを淹れていたと思ったら、いきなりこんなヒステリーを起こしてしまったのだから。吉見の驚きは理解に苦しまない。
 とはいえ、それがすべて保奈美への愛情から起因していることを考えると、申し訳ない気持ちが胸で深くにじむ。自分たちが不甲斐ないことは事実なのだ。
 すると、玄関のほうから鍵を開ける音がした。義孝だ。スーツ姿の彼は、蒲郡たちに軽く会釈を流してから廊下に消えようとした。その背中に佐恵子が追いすがった。
「義孝さんっ。帰ってきてくれたのね」
「な、なんだ?」
「今日早いのは、一緒に保奈美を探してくれるからでしょ?」
「違う」佐恵子の腕を引き剥がしながら言った。「資料を部屋に置いてきてしまったから、とりにきただけだ。またすぐに出る。あと夕飯はいらないから、ひとりで片付けておいてくれ」
「え……違うの? なんで違うの? 違うって、なに」
「だから仕事で」
「あなたの子どもは仕事なの? 保奈美はいないの?」
「なにいってるんだ、佐恵子。僕の言ってること、わかるか」
 あはは、と佐恵子は笑った。胡桃の殻が触れ合うような、乾いた笑いだった。
「わかってないのはあなたのほうよっ! 保奈美がいないのに平気な顔して会社にいって、私の気持ちや保奈美の気持ちぜんぶ無視して、わかろうともしてないじゃない!」
「おい、自重しろよ。人がいるんだぞ」
 蒲郡らを横目にとらえながら、義孝は佐恵子の両肩をつかむ。しかし、彼女の表情はさらに嫌悪に歪んでいった。「結局、あなたはそうなのよね。ずっとそう」
「なに?」
「気にしてるのは世間体ばかり。家族でさえも、その道具」乱れた黒髪を整えようともせずに肩を揺らす。「私、知ってるのよ? あなたが本当は女性が大っ嫌いってこと。どんな教育を受けてきて、どんなふうにそう思うようになったのかはわからないけど、結婚して数ヶ月経つころにはもう気づいていたわ。ああ、この人は私をセックス可能な家政婦ぐらいに……いいえ、もっと下の存在にしか思ってないんだって。でも、私もばかだった。それでも一度得た安定にしがみついていた」
 義孝の顔色が変わった――それは、佐恵子の指摘が事実に相違なかったからだった。彼が結婚に対して唯一求めていたものは、「幸せな家庭を持つ一人前の男」と書かれた看板だけだった。交際費ホテル代結婚式費用及び将来的な生活費養育費その他諸々のすべてを含んだ、高額な買い物だった。すべては世間体のためで、つりあいのとれる容姿なら同居人(あいて)は誰でもよかったのだ。
「もし、保奈美が男の子だったら少しは違ったのかしら。あなたの唯一認める種だったなら……でもね、今はあの子が女でよかったって思う。私は自分の子どもに、あなたみたいな大人になってほしくないから」そう言ってから、佐恵子は憐れむように頬を緩めた。「あの子はあなたのそういう考え見抜いていたみたいだけどね。どうして保奈美が黒いランドセルを背負っているか知ってる? 少しでもあなたに男の子を感じてほしいからなんだって。六歳の女の子がね、そう言ったのよ。黒が好きだからなんて、嘘。あの子が好きな色はパステルピンク。いなくなった日も、その色のカーディガンを着てた……」
「なんだその話。聞いてないぞ」義孝は目元をひくつかせながら唸った。
「だから、聞く気すらなかったんでしょう? 笑わせないでっ。仕事と自分の格にしか興味のない寂しい人。人生をかけた壮大なオナニーよね」
「女のくせに、うるさい! 黙れっ!」
 冷静なイメージが瞬時に崩落する。義孝は眼鏡の奥の眼球を剥きながら、佐恵子を押し倒した。そして、いつかと同じように顔面を殴ろうと拳を振り上げたときだった。
「旦那さん」
 蒲郡が手首をつかまえていた。ぎりぎりと、見た目以上の力で。
「それ以上は我々が出る幕になります」
「なんだあんたは。これは夫婦の問題だっ」
「十中八九大事な世間体とやらが粉々になりますが、それでも?」
 義孝は大きく舌打ちすると、佐恵子から離れた足で二階に上っていき、書類――さきほどの資料だろう――を手に無言で家を出ていった。
 静寂が耳に重くのしかかってくる。幾多の犯罪者にむき合ってきた刑事たちは、ひとりの傷ついた女性にかける言葉を探し当てられずにいた。しかし、しだいにささやかな音が生まれてくる。それが、佐恵子が涙をすする声だと気づくのに時間はかからなかった。
「なんで」呆けたように小さく口を動かす。「なんで私はまともな家庭が持てないの……」
 今回だけでないような――かすかに引っかかる言い方だったが、根掘り葉掘り聞くのは警察官の業務領域でも権限でもない。そういうのは占い師にでも任せておけばいい。
「吉見」蒲郡は佐恵子を見下ろしながら言った。「彼女を頼む。落ち着かせてやれ」
「えっ、無茶言わないでくださいよ」
「俺は無茶は言うが無理は言わない」
「考えてみたらなんの弁解にもなってないっ!?」
「とにかく、俺は出てくる」コートを片手に玄関にむかう。
「なにしにいくんですか?」
「聞き込み調査だ。刑事(デカ)は現場百回ってな」
 ドヤ顔で逃げる気だ……という吉見の愚痴は馬耳東風に処して、蒲郡は外に出る。
 西日が真正面から目を刺してきて眩しい。手で庇をつくりながら、犯行現場と目される君鳥小学校の方向を見た。これまで何度も回って収穫はないに等しかったが、だがそれは、今回も徒労に終わる理由にはならないのである。
 ――とは言ったものの、やはり今日も全打席空振り三振で切り上げるしかないみたいだった。目撃情報はなく、遺留品などの足跡も見つけることができない。町内の人々から返ってくる反応は、きまって「知らない」の言葉とジェスチャーのコンボだった。去っていく犬の散歩中の婦人の背中を眺めながら、蒲郡は人知れず溜息をはいた――その次の瞬間だった。
 視界の端に、ふたつの小さな影が走った。
「ん?」
 そちらに近づいていき、十字路に出る。すると、遠くの曲がり角をふたりの小学生らしき子どもが駆けていくところだった。蒲郡ははっとして表情を引きしめた。豆ほどのサイズでなおかつ後ろ姿しか視認できなかったけれど、あれはきっと杏藤瑠南と梅村雄大だ。
 即座に、脳内に学校側に提出させた児童名簿がスライドしてくる。うろ覚えではあるが、確かふたりとも住所は別の方角にあったはずだ。それだけでも疑問なのに、くわえて、予想どおりというべき否か“あのふたりのセット”なのである――注意しろ、と再び刑事の勘が指図するのを感じた。異議を申し立てる気は微塵もなかった。
 ふたりを追いはじめた蒲郡だったが、しかし尻尾をつかむことは難しかった。
 発見しては見失う――それを繰り返すだけの、いたちごっこを演じさせられていた。根性では勝っているつもりだったが、すばやさで圧倒的に負けていた。そして、町の外れまで辿り着いたところで、ついに完全に行方がわからなくなってしまった。というより、そもそもの問題として、追跡の道筋はこれで正しかったのだろうか? と考える。途中からただ闇雲に走っていたような気がするのだ。
「はあ、はあ……ちくしょうめ」
 息を切らしながら顔を上げると、緑色の土手が見える。蒲郡は風に当たりたくて、芝を踏みしめながら上っていった。色を散らしていく美しい夕空と、きらめく河川が広がる。長く眺めているのも悪くなかったが、疲労感が早い帰還を促していた。
 きびすを返そうとすると、
「最近おもしれえことねえよな」
 通りかかった数人の男子高校生の会話が耳に入った。
「ならさ、オレんちの残った花火でもしねえ?」
「季節外れだな。秋だぜ?」
「どうせ線香花火ばっかなんだろ。アガらねえって」
「いやいや、パァン! って飛ぶド派手なやつもあんだよ」
「へえ。だったらクラスの女子とかも誘ってみるか?」
「いいな。でも、その前にどこでやる気?」
「ここでいいんじゃね? 広さあるし、ちょうど水もあるしな」
 そこまで聞いて、蒲郡は高校生たちに声をかけた。
「きみたち」
「え? なんすか?」
「この土手で花火はやめなさい。万が一火事が起こるかもしれん。川を汚すのも駄目だ」
 いちおうの職務の一環として注意したところ、高校生たちは互いに見合ったあと、小声でなにやらぶつくさ言いながら歩いていく。つくづく守り甲斐のない市民だと思う――その一方で、梨元保奈美を必ず救い出さなければならないと改めて強く感じた。
 たとえ彼女が、梨元家の絆ではなかったとしても。

       

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