Neetel Inside 文芸新都
表紙

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      (18)


 一瞬、なにが起きたのかよくわからなかった。いや、実際は、甘夏の顔が青褪めたかと思えば胸を押さえて前方右斜め四十五度の方向に倒れたというところまで、視覚は事細かに情報をとり込んだのだが、『よくわからない』という一種の思考の空白(タイムラグ)をあえてつくり出すことで理解への備えを整えたかっただけだった。
 柿田の口から煙草がこぼれ落ちる。それを気に留めてなどいられなかった。すぐさま駆け寄って甘夏を仰向けにした。「おい、ジジイ! どうしやがった、てめえ!」
「甘夏さんっ、大丈夫ですか!?」
 保奈美がそばにひざをつくと、苦しげに表情を歪ませながらも声をしぼり出した。
「く……か、鞄から、壜を持ってこい、若造……」
「わかった」
 すぐさま甘夏の鞄を手にし、口を広げる。まさぐる手間も惜しいような気がして、テーブルの上に中身をぶちまけると、手帳や古い革財布のほかに小壜が落ちてきた。そういえば、当初軍資金を強引に共有化した際に、見たような気がする。ともかくそれが薬剤だということはラベルからうかがい知れたが、だからこそ、柿田は強く歯軋りをせざるをえなかった。
「ジジイ。この野郎、ふざけやがってっ」
「柿田さん、どうしたんですか?」保奈美が切迫した顔をむけてくる。
「てめえがからだのどっかに爆弾抱えてんのはよぉくわかったぜ。だがな……だったらよ、どうして肝心の薬がこんだけしか残ってねえんだよっ!」
 突きつけた小壜の中で、わずか二錠の錠剤が弾き合う音が鳴った。医学的知識など皆無に等しい柿田でもわかる――どれほど薬効が高いとしても、たったこれだけで現在の甘夏の症状を完全に沈静化させることは無理だった。そしてそれは、今後似たようなことが起きた場合には、八方塞がりで打つ手がないこともまた示していた。
 しかし、甘夏はあろうことか笑った。さも、わかっていると言いたげに。
「ギャグのつもりかよっ。なんでなにも言わなかったっ」
「待ってください柿田さん!」保奈美が柿田以上の大声で言った。「今はそんなことを言っている場合じゃないでしょう? はやく、それを甘夏さんに飲ませてあげないと……!」
「んなことわかってらあ! 交代しろやっ」
 保奈美の腕力には甘夏の上体は重すぎると判断して、柿田が嚥下しやすい体勢をとらせ、彼女が錠剤二錠とペットボトルの水を甘夏に与える。彼の喉が尺取ると、即効とまではいかないが、徐々に呼吸が落ち着いていき、顔色に余裕が見えてくる。とはいっても、いまだに弱々しさは拭いきれず、常に再発の危険性を孕んでいる以上は、息をつくことはできないけれど。
「おいガキ、足を持て。ちったあ根性見せてもらうぜ」
 せいの、と保奈美と協力してひとまず甘夏をソファの上に横たえさせる。その拍子に足がテーブルにぶつかり、さきほどの甘夏の持ち物が落下した。舌打ちをしつつ、柿田は手帳のほかに革財布を拾い上げる――と、ふとカード入れからはみ出しているものに目が引き寄せられた。それは一枚の写真だった。擦り切れて、何度も触れられたことは瞭然の、さらに柿田にしてみれば失笑を禁じえないような、写真だった。
「ジジイ……てめえはよ、最初っからつかみどころのねえ不可解な野郎だったけど、今回ばかりはマジで意味がわからねえ。ちんぷんかんぷんだぜ」写真を裏返し、甘夏たち――とりわけ保奈美に見えるようにして言った。「俺は視力に自信がねえから、見間違いじゃなけりゃあいいんだが、こいつに写ってるのってガキじゃねえのか?」
「えっ、そんな」保奈美が写真に顔を近づける。「ほんと……私だ」
「なんでてめえがこんなもん持っていやがる」
 甘夏は黙っている。苦しさゆえ、というわけだけではなさそうだ。
「傷み具合は相当だし、どれだけ少なく見積もっても写真のガキは今から二年は幼いぜ。誘拐のターゲットの写真を入手したってわけじゃあ、どうにもなさそうだな」
 どういうことか教えろよ。そう言って一歩前に出ると、保奈美が割って入ってきた。
「ちょっと待ってください」戸惑いの中にも芯のようなものが、瞳の奥に透けて見える。いつからこんな目をするようになったのかは覚えていないし、記憶する気もないが、はじめからそうではなかったことは確信をもって断言できた。「なにも今そんなことを聞かなくたっていいじゃないですか。甘夏さんを安静にしてあげることが先です」
「おまえは気になんねえのか。当事者中の当事者だぞ」
「それは、そうですけど……」
「私を心配する必要はない」甘夏の声が聞こえ、ふたりは彼に視線を揃えた。彼は、いまだに自力で起き上がるまでは回復していないが、口調は安定の兆しがある。「むしろ、黙っていたらそのまま地獄へ寝堕ちしてしまいそうだ……しゃべらせてくれないかい」
 ためらいもなく、まるで再考不可能の決定事項であるかのように『地獄』と口にしたことに疑問を抱きつつも、柿田は次の言葉をうながした。「いいぜ」
「……こうなることを回避する体(てい)をとり繕いつつも、本当は望んでいたのかもしれないな。いつだって、本当の気持ちがどこにあるのか、わからないまま生きてきた。それをほんの少しだけ、かいつまんで話してみるとするか。生意気な若造と――保奈美ちゃん。大切なきみに」

                  ◇

 直接的に戦火を体験したわけではなかった。ただ、敗北を喫したあとの、復興へむけて歩みはじめた希望感と、その実、完膚なきまでに破壊された文明が放つどこかすさんだ空気が綯い交ぜになった時代のことは知っていた。そして甘夏博光(ひろみつ)は、後者の雰囲気を感じることのほうが圧倒的に多かった。犯罪が日常的に起こる町、土ぼこりの舞う人いきれを眺めつつ、幼心ながら「希望なんてのは嘘っぱちだ」と思っていた。とはいえ、幼少期の世界なんてものは金魚鉢なみに狭いもので、徐々に視野や考え方は広がっていくものだが、生の初期段階で世の歪曲を知っていたことが問題だったのだろう。彼自身もまた、捩じれていった。
 精神的に。
 その捩じれの結果というべきか、彼は、若いころから町のゴロツキとして名を馳せていた。せっかく新憲法や教育基本法で小中学校の義務教育が制定されたにもかかわらず、ろくに学校にいかずに悪さばかりしていた。暴行恐喝といったタイピカルな悪事はもちろんのこと、年上の女のところに入り浸ったり、暴力団と関係を持ったりと反道徳的な行為には一通り手をつけたと記憶している。人間としては最低級だった。
 だったが、それでもやはり人間である以上は食べていかなくてはならず、労働は避けては通れない道になりつつあった。特に、順調に『復興』を進め、むしろ『成長』への過渡期の情熱に溢れていた当時の日本においては、その風潮はもはや全体意思と言っていいものだった。甘夏は職を転々としたが、基本的に肉体を資本にする仕事がメインだった。ホワイトカラーへの憧憬など微塵もなかった。クソ食らえとさえ思っていた。綺麗なスーツは、彼の汚れた原風景とあまりにもかけ離れていたのだ。
 しばらくして、甘夏は身をかためることになった。喫茶店で知り合った、年下の女が相手だった。子どもはほどなくして生まれた。未熟児の気があったが、元気な女の子だった。
「名前は佐恵子がいい。それ以外は認めねえ。文句はねえだろ? 敏子(としこ)」
 赤ん坊の頬をつつきながら、甘夏は妻にむかってにやりと口を曲げた。
「昨晩ずっとぶつぶつと考えたすえにできた名前だもんね。私としては文句のつけようはないなあ」敏子は意地悪い顔で返してくる。
 ばれたところで問題はないはずなのに、なぜだか甘夏は顔に熱がこもるのを感じた。
「なんだよ。俺がテメエの娘の名前考えちゃ悪いのかよ」
「べっつにー? なんにも悪うございやせん」
「このアマ。どうだかな」甘夏は煙草をくわえ、マッチを手繰り寄せる。
「あっ、それはだめ」
 敏子にとめられ、甘夏は怪訝な顔でむかった。
「亭主が家で煙草吸っちゃあいけねえのか」
「もうあんたは亭主であると同時に、父親でもあるんだよ」そう言っても理解の及ばない甘夏に敏子はつづけた。「赤ん坊に悪い影響が出るかもしれないって、このまえ聞いたんだ」
「へえ。博識だな、おまえ。東大生だって裸足で逃げ出すぜ」
「ちょっと、ばかにしてるでしょ」
「俺のほうがばかだから別にいいだろ」
「それもそうか」
「あっさりと納得すんじゃねえ」
「あはは。でもさ、博光にはそのケンカで鍛えたからだがあるじゃん。ほらほら、私と佐恵子のためにもっと働いて、じゃんじゃんお金稼いできてよっ」
 バンバンと背中をたたかれ、痛い痛いとこぼしつつも甘夏は笑った。さすがにそのときは、そのときばかりは、精神の捩じれが直ったように思えた。希望というもののかたちに触れかけた気がした。妻と娘の笑顔を守っていくことができるのは自分しかいないと、これからまっとうな人生が歩んでいくのだと、自信をつかむことができたような気がした。――だがそれは、むしろ自信過剰に近いもので、希望に触れかけたことより陥った錯覚であり、己の人間性を過大評価した上での妄想でしかなかった。
 年をとり、佐恵子の成長にともない家庭というものが質量を増していくうちに、甘夏の中でプレッシャーが肥大していくのだった。元来粗暴で、楽をして生きていくことを信条としていた彼に、本質とでも表すべきかつての自分が怠惰をささやいてくるのは、はじめから時間の問題だったのかもしれない。同時に仕事はうまくいかなくなり、しだいに酒に溺れていった。
「ちくしょうめ。イカサマだってのはわかってるんだ、いつか化けの皮剥いでやる」
 ギャンブルで負けた帰り、甘夏はカップ酒を片手に道を歩いていた。すると、横道のほうから帰宅途中らしい女子中学生ふたりが近づいてくるのが見えた。片方は佐恵子だ。黒いセーラー服がよく似合っている。彼女は二年生になっていた。酔っていた勢いもあり、友人共々おどかしてやろうと思い、甘夏は電信柱の陰に隠れて待った。
 だが、ふたりの会話が聞こえてきて、それを実行するには至らなかった。
「こんどパパと一緒に遊園地いくんだ。そのあとデパートに連れていってもらってね、なんでも好きなもの買ってくれるって! ああ、なにがいいかなあ迷っちゃう」
「いいなあ公美(くみ)ちゃんのお父さん優しくて」
「甘夏さんのパパってどんな人?」
「……別にいいよ。うちのお父さんは」曖昧に佐恵子は笑った。「話すほどでもないから」
「いいじゃん、聞かせてよ。毎月プレゼントもらっているでしょう?」
 単純な話、あの公美とかいう女子は佐恵子をおよそ勝ち目のない比べ合いに引きずり込んで、父親の金回りのよさを、ひいては家庭そのものの豊かさを自慢し、幸福を確認したいだけなのだろう。甘夏はそう理解しつつ、娘のほうも友人のくだらない真意に気づいているだろうと思った。頭のいい子だからだ。
 佐恵子は少し黙ってから答えた。感情を凍てつかせた低い声だった。
「ほんと、なんでもないの。ほんとうに、いないほうがいいくらい」
「えっ。どういうこと?」
「そのままの意味。いなくなればいいのよ、あんな人。毎日まいにち仕事もろくにしないでお酒ばっかり呑んで、お母さんに迷惑かけてる。いなくなれって、いつも、思ってる」そこまで言ってから、冷たく眼を細めて公美に振りむいた。「だから公美ちゃん。私のお父さんはあなたのお父さんとは比べ物にならないくらいクズで、どうしようもない役立たずで、その娘である私だって、あなたよりもずっと不幸で、幸せとは無縁なの」
 これで満足? というふうに首をかしげると、公美は目を丸くしつつも頷いた。
「じゃあ、私これから寄っていくところあるから」
 また明日。そう残し、町のほうへと歩いていく佐恵子の美しい後ろ姿――それを、甘夏は拳を握りしめて見ていた。湧き上がってくるのは、羞恥に起因した憤怒だった。娘の口から自分の評価を直接聞くのははじめてだったが、まさかここまでばかにされているとは思っていなかったのだ。怒りのボルテージは上がる一方だった。父親の責務はほとんど果たしていないくせに、プライドだけは一丁前にあった。それこそ、実に迷惑な話ではあるけれど。
(俺をコケにしやがって。泣いたって許さねえ)
 甘夏は大またで佐恵子のあとを追う。気配を感じて振り返りかけた彼女の腕を捕まえる。
「きゃっ」
「佐恵子っ。散々ぬかしてくれやがったじゃねえか、ああっ?」
 すぐに、さきほどの会話を聞かれたのだとわかったのだろう。露骨に軽蔑の意を瞳ににじませて、吐き捨てるように呟いた。「盗み聞きしてたんだ……サイテイ」
「話をそらすな。問題はそのひねくれた口だ」
「別に、本当のことじゃない、ばかっ」
「おまえっ。親父にむかってなんだその口の利き方は! そんなふうに育てた覚えはねえぞ!」
「お父さんに育ててもらった覚えなんてないっ」雪崩を起こしたような言葉だった。「さっきの話聞いてたんならわかるでしょ? 私はあなたのことが大ッ嫌いなの!」
「……! このやろう!」
 佐恵子の髪を引っぱり上げると、甘夏はカップ酒の中身をすべて彼女の頭にかけた。アルコール度数の高いそれは、女子中学生の感覚を焼く。「うああうっ」呻いても容赦しない。酒まみれになった顔を無理やり上げさせて、リード代わりに髪をつかんだまま歩き出す。
「こい! 説教してやる……親不孝者には折檻だ!」
「いだあっ、いたいい。やめてっ」
「うるせえ! 黙ってこい!」
 通行人がなにごとかと目をむけてくるが、「俺はこいつの親父だ、なんか文句あんのか!」と怒鳴り散らしてずんずん進んでいく。当時は世間一般の認識として、親の、特に父親の権威は強力で、現代ではDVや虐待めいたことでも教育・説教という一言で片づけられてしまっていた傾向があったため、通行人にさほど気にかける仕草は見られなかった。
 二階建てアパルトマンの外階段を、佐恵子を引きずりながら上る。二〇三号室が甘夏家の住居だった。中に入ると、内職中の敏子が疲れた目をむけてきた。おかえり、と言う。
 それを無視し、玄関前の台所に佐恵子を薙ぎ倒して、平手打ちを見舞った。二発、三発と乾いた音が連続する。それでも甘夏の身勝手な怒りはおさまらなかった。
「このばか娘が! 調子にのりやがって!」
「やめてっ、博光! 佐恵子、泣いてるじゃない!」
 敏子が血相を変えて駆け寄り、佐恵子を引き離す。佐恵子は腫らした頬に涙を刻みながらも、フーッ、フーッ、と手負いの獣のように甘夏をにらみつけていた。
 すると悲しそうに鼻を動かしてから、敏子は言った。「酒くさい……あんた、まさか佐恵子に」
「こいつが悪いんだ。親父を尊敬できないこいつが」
「昼間っから酒呑んで、ほっつき歩いて……どうせまたスッてきたんでしょ」
「今日はいけそうな気がしたんだ。それより佐恵子だぜ。俺を、親父をばかにして、失礼な口をたたきやがった。おまえも一発……」
「そうね、佐恵子が言ったことはだいたいイメージがつく」敏子は、自分にしがみついている佐恵子の頭を包み込んでから、甘夏のほうをむいた。彼女と同じ眼をして。「でもね、私はこの子の味方。あんたとは違うの」
「なんだと」
「ぜんぶ佐恵子の言うとおりよっ。えらそうなこと言って、そのくせ一銭だって稼いできやしないで、せっかく私が貯めたお金もドブに捨ててきてっ。佐恵子があんたを尊敬できないんじゃない、あんたが尊敬できない父親なの。大黒柱が聞いてあきれるわっ!」
 その言葉は甘夏の安っぽいプライドに直撃した。そして安っぽいがゆえに、揺らいだ。
「て、てめえまでナメた口利くのか。ふざけるなっ!」
 勝手にからだが動いていた、と申し開きする用意もないが、次の瞬間には敏子を蹴り飛ばしていた。「お母さんっ」と身を寄せる佐恵子もろとも、さらに畳に転がす。この程度のことは、数年前から日常茶飯事だった。いつも腕力をもって、妻子を支配していたのだ。
 しかし、ふたりの反抗的な、まるで非人間を見るような眼差しは変わらなかった。むしろ光を大きくしていくのが、煮えくり返った腸(はらわた)をさらに加熱する。
「でてけ」息を荒げながら言った。「おまえらふたりともでてけ! てめえらみてえなクソアマが住んでいいところじゃねえんだ、ここは! もう目の前に現れるな!」
「言われなくても」敏子は財布やらバックやらをかき集めると、叫んだ。「言われなくてもでていってやるわよ、こんなゲスのところ!」
 佐恵子を連れてどかどかと玄関にむかう。すれ違いざまに佐恵子が見せた、深い憎悪が何層にも重なった眼が、少しだけ心の襞に引っかかった。
 結局――その夜はふたりは帰ってこず、翌日も姿を見せなかった。
 そして三日目の午後。帰宅してすぐ、家の様子に違和感を覚えた。なんともいえない喪失感だったが、その正体はすぐにわかった。敏子と佐恵子の衣類がないのだ。箪笥や押入れの中を確認してみると、貴重品の類も持ち出されていた。
(本当にでていきやがったのか)
 ちゃぶ台の上に一枚の紙が置かれていた。それは離婚届だった。必要な記載事項はすべて埋められており、あとは甘夏が署名捺印をするだけで法的効果を発揮する。この二日間に彼女たちのあいだでどんな相談がされたのか知るよしもなかったが、つまり――つまりはそういうことらしい。完全に赤の他人になるということ。
 追いかけるだとか、抵抗めいたことはしなかった。甘夏の想像には、それが女々しい行為に映ったのだ。彼は再び、ひとりで暮らしはじめた。
 とはいったものの、一から十まで以前のようにとはいかなかった。捩れ返ってしまった精神はしかし、原形とは異なるふうに捩じれた。一度変形させた金属細工を、自らの手で元のかたちに戻すことが困難なように。その差異を後悔や回顧と表現することを、甘夏はあとになって理解するのだが。『失ってはじめて気づく』と言われれば、それはもはや使い古された常套句で、陳腐かつ耐食性に欠けるメッセージではあるけれど、それ以外のなにものでもないのかもしれなかった。
 彼はしばしば、希望について考えるようになった。紆余曲折の果てに手に入れかけて、愚かにも自分から放棄していったもの。その大切さ。
 ――昔の俺は、ただ妬んでいただけじゃないのか。希望は嘘だなんて、土ぼこりの中にいることが嫌で嫌でたまらなくて、天邪鬼になることでしか誤魔化せなくて、思っただけじゃないのか。本当は憧れていたんじゃないのか――。
 離婚から四年目にして、ついに「出直したい」と感じるようになったのだった。
 やり直しではなく、出直し。今はもう行方の知れない元妻と子をとり戻すのではなく、希望をゼロから見つけにいくことを、甘夏は決意した。
 半年後、職場の同僚を介して知り合った女性と再婚をした。彼女は子どもをほしがらなかったが、それでもかまわないと思った。どちらかといえば、なぜか、胸を撫で下ろしたときのような感覚があったことを認めなければならなかった。
 甘夏はとにかく、真面目ないい夫であることに努めた。もう同じ失敗はしたくない、二度とつかんだものを手放したくはない――そういった強迫観念にも似た思いに突き動かされていた。実際のところ生活は苦しくなかったし、妻ともデートをしたりして、良好な関係を保っていた。どこにも綻びはなかった……そのはずだった。
 ある日曜日、妻が唐突に言った。
「ねえ、わたしたち別れましょうよ」
「えっ」驚いて彼女の目を見返すが、思考は読めない。「どうしてだい?」
「さあ? どうしてかしらね」
 甘夏は焦った。なにか知らないうちに、再び失態を犯していたのかと。
「問題があるのか? 私のなにがいけないのか、不満があるのなら言ってくれ」
「不満はないわ。博光さんはいい人だし、適度に自由がきいていて、快適な日々」
「なら――」
「しいて言うなら、理由はそういうところ」彼女の指先が甘夏の胸に触れた。「そういう、わたしにいつも気を遣って、不満を抱かせないようにしているところかしら」
「意味がわからないんだが……」
「端的に言うわ。あなたはわたしを見ていない。わたしというフィルターを通して見える、なにかをずっと目で追ってきたんだと思う。それを守ってきたの。そういえば、再婚なのよね。もしかして、前の奥さんと……お子さんじゃない? どう? 当たってる?」
 彼女と結婚するにあたり、前の家族構成は伝えなかったため、佐恵子の存在を指摘されたことには愕然とした。ふつうに考えれば、子のひとりやふたりいてもおかしくないのだけれど、その次の言葉が問題だった。
「あなた、わたしが子どもほしくないって言ったとき、ほっとしたでしょう」
 ぎくりとした。隠しおおせたつもりだったが、彼女の勘を甘く見ていたのだろうか。
「そ、そんなわけないだろう?」
「いいえ。あなた自身、子どもがほしくなかったのよ。あなたにとって子どもは、本当に大切にしたいと思っていたのは、前の家庭の子どもだけ。わたしとの子どもは代替品じみていて、それでいて前の子の存在が薄れていくような気がして、怖かった」
 そう、だから――と彼女はつづけた。甘夏は反論することができなかった。
「あなたには未練がある。前の家族に。ものすごく、大きな未練が」
「そうなのか? だから、私はいけないのか……?」
「ええ。わたしはね、映写機なんてまっぴらなのよ」
 かすかに笑って言うと、彼女は部屋を出ていく。甘夏はその場から動くことができなかった。自分でも気づいていない心理の奥底を暴かれた気がした。
 未練――再スタートをきったはずの自分の原動力は、いや、原動力とも呼べない操り糸は、ただそれだけの寂しい感情でしかなかった。
 なかったのだった。
 本心を悟ることができた部分は、確かにあったかもしれない。その後、二度目の離婚をしてからは気力を失い、なにをするでもなく年月はすぎていった。わずかばかりに残った敏子や佐恵子の写真を眺めながら、甘夏博光はゆっくりと老いた。
 そんな平坦な日常を波打たせたのは、一本の電話だった。めったにかかってくることはなかったので、訝しみながらも受話器をとった。
「もしもし、甘夏」
『懐かしい声……少し落ち着いた?』
 相手の声を聞いた瞬間、全身に電流が走った――敏子だったのだ。
 戸惑いつつも話を聞くと、彼女は再婚せずに女手ひとつで佐恵子を育て上げたらしい。その苦労を推し量ることはできなかったが、素直に褒めてやりたい気持ちになった。自分にその資格がないことは、十二分に理解していたから、口にはできなかったけれど。
 そして、佐恵子が結婚したことを報告された時点で、敏子に行動に納得がいった。娘が一人前の社会人になり、嫁にいったことで、それまでの使命感が跡形もなく消え去ってしまったのだろう。一心不乱に娘を育ててきた敏子には、交流する人間もいないに違いない。そうして生まれた孤独感と心細さが、いちおうはかつて愛し合った男の電話番号を突きとめさせたのだ。あるいは、美化された記憶が生んだ気の迷いだったのかもしれない。
「そうか……佐恵子も立派になったな」
 呟いてからはっとした。結婚したということは、じきに子どもが生まれるだろう。戸籍上はなんの繋がりはなくとも、血を分けた孫がこの世に誕生するのだ。
 佐恵子が産んだ命――それを思うだけで、涙が溢れそうになった。かつてつかみ損ねた希望が大きくなり、また新たな希望を生み出す。ほかならぬ彼女自身の希望を。
 彼女はちゃんとその子を育んでいけるのだろうか。少年時代に親から酷い目にあわされた人間は、己の子どもにも同じような行為に及ぶことが多いという。でも、大丈夫だと思った。なぜなら彼女は、佐恵子は、頭のいい――素敵な子だからだ。
 その日から、甘夏の生きる目的は孫に会うことになった。
 会いたい。佐恵子の希望に会いたい。理想としては、佐恵子に謝罪し許してもらったうえで穏やかに孫と対面させてもらうのがベストであるが、しかし、彼女が去り際に見せた鬼と見まごう眼差しはいまだに脳裏に焼きついていて、思い出すごとにそれは不可能な計画のように思えてきた。確実に罵詈雑言を浴びせられたあげくに追い返される。ともすれば、再び彼女の心に傷をつくってしまうかもしれない。
 考え直すときもあった。今さらどの面を下げて「孫に会いたい」などとぬかすのか。結局のところなにも改善されていない自らの身勝手さにあきれ返ったけれど、それでも、隠れて連絡をとり合っていた敏子から定期的に送られてくる孫――保奈美の写真が増えていくうちに、思いは際限なく膨らんでいくのだった。
 どんなかたちでもかまわない、と保奈美に会いにいく決心がついたのは、二〇〇九年に入りしばらく経ってからだった。手元にある写真が二年前より更新されておらず、敏子が、最近はろくに撮っていないと心配していたことが気にかかっていたし――それに加え、以前から疾患を抱えていた心臓の病状が去年を界に急に悪化したことが契機となった。残された時間の短さを考えると、どうしても会えずに終わる恐怖心が先行した。
 秋の朝に、日帰りを想定して甘夏は国鉄に乗った。手帳や財布のほかに、旅の用心として強心剤を革鞄に入れ、また、いつか保奈美に手渡せる日を夢見てコツコツと貯めた十一年分のお年玉、二十万円を底のほうに忍ばせて。
 佐恵子たちが暮らす町に着き、駅で入手した地図を片手に在学中の小学校をめざす。変質者だと思われようが、ひと目会うだけでよかった。校門の前で張り込んでいると、終業のチャイムが鳴り、生徒たちが吐き出されてくる。同時に、むこうの塀の陰にいかにも怪しげな風貌の若い男が垣間見えたが、関係ないと無視して門に意識を傾注した。
 そして、そのときはきた。
 ついに会うことのできた孫娘は、佐恵子の面影を色濃く残す美しい少女だった。なにもかもがそっくりで、心を奪われた甘夏は無意識的に近づいていった。

                 ◇

 私は本当に身勝手な男だよ――そう甘夏はかすれた声で言った。
「保奈美ちゃんがここに誘拐されてきたとき、私は通報するべきだった。きみを助け出してやるべきだったんだろう……だが、私はここで若造の共犯者になることを選択した。そのほうが、少しでも長くきみと一緒にいられると思ったんだ」
「てめえがこのガキの祖父(ジジイ)だと?」柿田はすぐに疑問点にいきあたる。「しかしだぜ。最初に家族関係を聞いたとき、こいつは祖父は両方とも死んだって……」
「実際そのとおりなんだろう。佐恵子の中では、父親は存在していない。私は死んでいるんだ。わかっていたから驚きもなかった。許されようなんて思っていなかったよ」
「そんなしけたツラしてよく言うぜ」
 軽く笑ってから、柿田はとなりを見た。保奈美が信じられないといったふうに、睫毛を震わせている。小さくミリ単位で唇を動かした。耳は拾えなかったが、呟こうとしたことはわかった。すると彼女はもう一度、はっきりと聞こえる声で言った。
「おじい、ちゃん……? 甘夏さんが、私の……おじいちゃんなの」
「そうだよ」うっすらと目を細めて答える。「今まで騙していて、悪かったね」
 ふいに保奈美は甘夏の胸に顔をうずめた。鼻をすする音を混じらせながら言う。
「私、生まれたときからおじいちゃんがいなくて……無理なお願いだとはわかってましたけど、ずっと会いたかったんです。お母さんのお父さんは、どんな人なんだろうって……」
 そのあとは言葉にならなかった。保奈美は静かに泣きながら、ときおり「おじいちゃん、おじいちゃん」と繰り返した。その小さな頭を、甘夏は力の入らない手で優しく撫でる。
 ふたりを一歩引いた状態で見つめながら、柿田は思った。
(感動の対面……といきたいところだがな)
 自分たちが窮地に立たされていることに変わりはない。なにかしらの決断をしなくては、なにかを捨てる覚悟を決めなくてはならないのだ。彼は手元の携帯電話を一瞥し、目をそらした。

       

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