Neetel Inside 文芸新都
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      (21)


 六時限目の授業の終了を告げるチャイムが鳴る。中学生にしてみれば無酸素室からの脱出と同義だ。二年C組の面々は、とたんに遊びの約束や部活の話に花を咲かせはじめる。担任が入ってきてHRが開始されても、静まる気配はまったくなかった。
 保奈美は、黒髪をふたつに縛っていた左右のヘアゴムを外し、軽く頭を振った。髪の流れがナチュラルになり、開放感が訪れる。それからセーラー服のリボンを直したり、ハイソックスをソックタッチで整えているあいだに、担任の話は終わっていた。他事をしつつも重要事項は聞き逃さないようにしているから、今日はたいした連絡はないみたいだ。
「ホーナちゃん? いっしょに帰ろ?」
 声のしたほうを見ると、萌々子が立っていた。小学生のころから仲のいい友だちだ。
「いいよ。でもちょっと待って」
「なんかあるの?」
「瑠南ちゃん部活がお休みらしいから、一緒に帰る約束してるんだ」
 と。
「――おまたせ」
 そうこう説明しているうちに、当の瑠南が教室にやってきた。今年度になってクラスは離れてしまったけれど、昼休みにはいつも集まることができるから、寂しくない。
 保奈美は鞄を持って席を立ち、彼女たちと昇降口へむかう。外に出ると、すでに校庭のあちこちで部活動が練習をはじめていた。体育館のほうからも力強いかけ声が聞こえる。とはいえ、最も熱気と活気があるのはサッカー部だろう。指導者とタレントに恵まれ、ここ数年で急成長し、公式大会をはじめとする対外試合で好成績を次々と収めている。
 すると彼らの蹴ったボールが転がってきた。保奈美が拾い上げると同時に、「おーい、それこっちにくれっ」と声変わりを終えたばかりの声が飛んでくる。雄大だった。前は同じくらいだった背丈には差がつき、顔つきは精悍さを醸し出しつつある。
「う、うん――えいっ」
 保奈美は見よう見まねでスローインするが、あらぬ方向に転々と転がっていく。しかし雄大は簡単に追いつき、そのままドリブルしながら近づいてきた。
「まったく、おまえはあいかわらず運動音痴だよなあ」
 瑠南が口を尖らせる。「なによ梅村。そんなこと言うためだけにこっちきたの」
「いや、別にそういうわけじゃねーよ」
「じゃあなに?」萌々子が首をかしげる。
「……まあ、こんど試合があるから、よかったらおまえたち見にこいよって」
 若干恥ずかしそうに言う雄大。瑠南がすかさずツッコミを入れる。
「私“たち”? ホナちゃん“だけ”じゃなくて?」
「へんな勘繰りすんなっ」
「ほんとにいってもいいの?」保奈美は聞く。サッカー部の試合観戦は以前に一度いったことがあるのだが、そのときは、FWとして先発出場した雄大が妙に調子を狂わしてしまって、ポストプレーは失敗する、周りを使えない、独り善がりなシュートは枠外ばかりという散々の出来で途中交代させられてしまったのだ。チームは勝ったが、試合後に雄大のところにいくと「お、おまえが見てるからだ!」と怒られてしまったため、気にしていた。「私がいかないほうが、梅村くん頑張れるじゃないのかな?」
 雄大は思い出したというふうに、苦い表情をつくった。「あ、あのときは違うんだ。いや違うって言うか……ゴメン。梨元は全然悪くねえよ」
 むしろよかった――その言葉はうまく出てこなくて、けれど口の動きだけは保奈美に気づかれたみたいで、彼女は疑問符を浮かべて覗いていくる。
「? なにか言った?」
「なっ、なにも! つうか近えーよ!」
 あとずさると同時に、ちょうどグラウンドの仲間が呼んできたので、これ幸いとばかりに雄大は離脱を図る。「とにかく来週の土曜日、空いてたらでいいからな!」
 走り去ったあとに、瑠南が難しい顔をして呟きはじめた。
「なんか最近攻勢に出てきてるなあいつ……。私もなにかしないと……」
 よくわからなかったが、安易に触れてはいけないような気がして、保奈美たちは黙って歩みを再開させた。校門を越えて遊歩道を進んでいると、萌々子が口を開いた。
「ねえねえ、明後日の日曜日みんなで買い物いかない?」
 保奈美は首を横に振った。「ごめんね、予定があるの」
「えー? なになにー」
「お墓参りにいくんだ」
 そう――その日は命日だった。
 甘夏博光の。
 彼のことを思い出すと、三年前、誘拐事件が迎えた終焉とその後の顛末も浮き上がる。
 結果的にいえば、甘夏は病院に搬送されたもののすでに手の施しようがないほど死に隣接していた。息を引きとったのは、その二日後だ。しかし、その最期はけっしてバッドエンドではなかったと思う。ベッドの横には保奈美がいて、そして佐恵子が付き添っていたのだから。今でも彼女の甘夏に対する気持ちはよくわからないままで、問いかけようとは思えないけれど、あのときだけはきっと『娘』としてそこにいたのだろうと、保奈美は感じる。
 その佐恵子はといえば、甘夏の葬儀のあとに義孝と離婚した。もはや、彼との関係を修復する気はなかったのかもしれない。自ら家族を取り壊し、彼女を選んだ保奈美とともに――新しい家族を築いていくことを、出直すことを決意したのだった。
 その際に、保奈美の苗字は佐恵子の旧姓である小園(こその)に変わった。小学校からの知り合いにはたまに「梨元」と呼ばれ、気まずい空気になってしまうこともあるが、いちいち気にしようとは思わない。それは過去でしかないからだ。
 佐恵子は、友人を通して見つけた企業で再就職を果たした。専業主婦をしていたころとはかけ離れ、バリバリのキャリアウーマン然としているが、たぶんそれが本来の彼女の姿なのだろうと思う。帰りが遅いことが多くて、ときには愚痴のひとつでもこぼしたくなるし、母子家庭としての辛さはそれなりに体感しているけれど、保奈美は、今の輝きのある母のほうが断然好きだった。
 裕福と言えなくなって、身の回りには様々なマイナスの変化が起きたけれど、朝は洗濯など家事のサポートをしつつ、昼は瑠南や雄大や萌々子という大切な友だちに囲まれて、夜は母とマンションの小さな食卓で笑い合う、そんな生活が大好きなのだ。
「そういえば、前々から気になってたんだけど」萌々子はびしっと保奈美の鞄にぶら下がっているものを指さした。「なんでそんな古いストラップつけてるの?」
「おかしいかな……」保奈美は軽く笑む。
「うん。だってイラックマって私たちが小学生のときに流行ってたやつじゃん。今JCのあいだでアツいのはね、こびとコレクションなんだよ!」シュールな造作の人形が、萌々子が突き出した手の中でにやついている。正直、どこがツボなのかよくわからない。しかし彼女は瑠南にも矛先をむける。「瑠南ちゃんもだよ! みんなで持とうよ!」
 保奈美は、瑠南と目を見合わせてあははと笑い、言った。
「でもいいんだ。私にとってこれは、とっても大事なものだから」
 あの日、未来への道標を授けてくれた――優しい青年から受けとったものだから。
 保奈美は空を見上げた。
 もうあの人のところに、手紙は届いているだろうか。

                  ◇

 かさり、と音を立てて柿田淳一は手紙を折り畳み、鞄の中にしまう。これでもう何十通目だろうか。定期的に送られてくる、学校での生活や身近にあった他愛ない出来事が綴られたそれらの束を見ていると、まるで足長おじさん(ジョン・スミス)にでもなった気分になる。“施設”という意味では立場が逆転しているし、大学進学のための資金援助もしていないけれど。
 被害者から加害者にむけての手紙は、世間的には目を疑うレベルのものかもしれないが、ふたりのあいだには特例措置が設けられていた。保奈美が強く要望したためだ。
 それを思うと、三年前の誘拐事件の後日談は特例異例のオンパレードだっただろう。捜査を妨害したともいえる瑠南や雄大は、動機その他諸々の観点から、厳重注意で済まされたみたいだし、自身の裁判では保奈美が被告人を擁護する発言を連発して、傍聴席や報道陣を賑わせた。『正義? 悪? 少女を救った誘拐犯!?』という見出しで一時期お昼のワイドショーに引っぱり出されたが、すぐに首相の辞任や重大な事件が起きて、大衆の短期記憶から忘れ去られていった。とはいえ保奈美や自分にとっては、そちらのほうが都合がいいと思う。余計なしがらみは無用だ。
 やることがなくなり黒色の短髪をいじっていると、部屋のドアがノックされた。
「柿田ァ、入るぞ」刑務官の門石(かどいし)が嬉しそうに近づいてくる。入所したころから、彼にはなぜか気に入られていた。「もうそろそろ時間だな。荷造りはできたか?」
「まあな。おかげさまで、中身なんてないようなもんだけどよ」
 ガハハと一笑する。「おまえ、そりゃあ贅沢ってもんだ」
「これから娑婆に出るってのに、心許ねえ気はしねえか?」
「ぬかせ。外で女が待ってる奴のセリフじゃないだろ」
「いつのまに俺に女ができたんだよ。自然発生か? ボウフラの類か?」
「? だって柿田おまえ、この前可愛ええ彼女が面会にきてたろ?」
「ああ……ちげえよ。あいつはわざわざ結婚報告にきやがったんだ」
 また豪快に笑う。門石は笑い上戸なのだ。正直、年がら年中辛気臭い刑務所にはマッチしていない。「なら昔の女かい。ほかの男にとられて悔しかったんじゃないのか」
「別に。あいつの旦那は人間じゃねえからな」
「わけがわからないぞ」
「馬なんだよ、牡馬。もうガキが腹ん中にいるらしいぜ。生命の神秘だよな」
「……なんか知らんが、触れちゃいけない事情があるのか……」
 すると、再びドアが開いて別の刑務官が顔を出した。ジェスチャーを門石に送る。彼はうんうんと頷いて、柿田にむき直った。
「よっしゃ! 準備が整ったみたいだぞ、柿田!」
「ようやくかい。やれやれだぜ」
 柿田は鞄を持って立ち上がり、門石について部屋をあとにする。薄暗い廊下を抜けて、玄関口から青空の下に出る。目の前には護送車用の大きな門がそびえている。
 歩きながら、門石が口を開いた。「まあ、これで刑期満了。晴れて自由の身になるわけだが、だからって調子に乗ってまた悪さするんじゃないぞ」
「誰にむかって言ってんだ」
「誰でもさ。俺は毎回、こう言っちまうんだ」
「心配性だな」
「心配なんだよ」
 柿田は鼻で笑う――よくもまあ、俺の周りにはこんなやつばっかりだ。
 門の前までくる。人が出入りできるのは、横の非常口みたいな扉だけみたいだ。最後に門石と握手を交わして、塀の外側に足を踏み出す。少し肌寒い、秋の風が吹いている。
 ふと見ると、道路の反対側に白いワゴンが停まっていた。
 何人も乗れるようなファミリー車だ。
 そしてそのとなりには――優しげに微笑む女性と、気のよさそうな男性と、中学生くらいの男の子が、立っている。







 フルーツ・イン・ザ・ルーム<了>

       

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