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4.「何でもいい」が一番困る(2011/3/22)

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 食べ終わった朝餉(あさげ)の皿を片付け重ねながら、清美は問う。
「安田くん。夕飯は何が食べたいかね?」
 冷蔵庫の中身が少なくなっており、今日は買出しに行く必要があることを思い出したのだ。
希望があるならば予め訊いておいたほうが、献立を考える手間が省ける。
「んー? 何でもいいよ」
「また『何でもいい』かね。さしもの私も、その返答には些か飽きてきたのだが」
 義之が座ったままメールチェックのために携帯の液晶画面から目を逸らさずにいると、清美は奥歯を一度軽く噛んだ。
「それに『何でもいい』とは言っても安田くん、さすがにカエルの卵だの、ヘビの生き血だのを差し出されたら嫌だろう? まだ生きている芋虫とか。もちろんきみがそういった類のものを望むのであれば、私は喜んで調達する所存ではあるがね」
「うん。とりあえず、ゲゲゲの食卓にするのだけは止めような」
 義之はお化けのディナーをうっかり想像してしまった自分を呪い、二の腕をさすった。
「でもよ、食えるものなら本当に何でもいいんだぜ。大体、朝を食い終わったばっかりだってのに、晩飯のことなんか真剣に考えらんねえよ」
「なるほど一理ある」
 清美は食器をちゃぶ台に置き直し、正座したまま、考え込むよう口元に手を当てた。
「いっそのこと、清美が食べたいものにすればいいんじゃね? あ、もう時間だから行くぜ。今日は打ち合わせで、ちょっと早めに出なきゃいけねえんだった」
「ふむ、ではそうさせてもらおうか。行ってらっしゃい、安田くん」
 上着に袖を通し、鞄を手に取り急いで家を出る義之。
 そんな彼を見送って清美は、先の姿勢を保ちつつもほくそ笑んだ。
「……言質はとったぞ、安田くん?」
 その場にいない者へ呟く。

 清美には、かねてより思うところがあった。
 「何を食べたい?」という質問に対する「何でもいい」という答え。実際のところ、これが一番困るのである。
 清美の頭には料理のレシピがざっと三百以上は記憶されているし、食材の旬も知っていて、鮮度を見る目もある。義之が言葉にせずとも彼の欲するところを察して、上等の一皿を盛ることも彼女には容易だろう。またどんな料理を作っても彼は美味しそうに食べるので、その点で言えば世間一般の主婦に比べて清美は恵まれているのかもしれないが、現状の問題点はそこではないのだ。
 女性が恋人を連れてショッピングに行った際、二種類のイヤリングなりワンピースなりを両手に持って「ねえ、どっちが似合う?」と問いかける心理も似たようなもので、ここで訊かれた男衆の最もやりがちながらもやってはいけないことが「どっちでもいい」などとぞんざいに返すことである。ほぼ確実に「もっとちゃんと考えてよ」とお叱りを受けるだろう。
 さて清美個人に焦点を戻すと、彼女は既に「何でもいい」という無気力さの滲む普遍的回答への切り返し手段を温めていた。
 今日はそれを実行する日である。

 日がとっぷり暮れて間も無く。腹を空かせて帰ってきた義之は、玄関の扉を開けたとき、直感にも似た違和感を覚えた。いつもこの時間であれば、居間へと続く廊下に面した台所からほんのりと味噌汁の香りや、調理に使った油の匂いなどを伴う温もりが漂ってくるのだが、今日はそれが無いのだ。
 それでも居間には灯りが点いており、清美が不在ということでもない。
「ただいま、清美……飯は?」
 廊下を過ぎざまに台所を覗いても、洗い物カゴに使用済みの調理器具は見当たらなかった。何かを作り置きしてある様子でもなかったので、義之は少し心配になった。
「おかえり、安田くん」
 すると詰め将棋の問題集を片手に将棋盤――木板の真ん中に蝶番があって、折りたためる作りの簡素なもの――と睨めっこしていた清美は顔を上げ、はんなりとした奥ゆかしい笑みと共に言うのである。
「待ちわびたぞ。さあ、早く夕餉の支度をしてくれないか」
「…………は?」
 彼女の発言を理解し切れなかった義之は間抜けな声を出し、ついでに鞄を持つ手が緩んだ。
「最低限、炊飯器で白飯を用意するまではしておいたから」
「いやいや、そうじゃなくって、清美……え?」
「安田くん。まさか忘れたわけではあるまいな」
 清美は駒の一枚を盤上に置いた後、ぱたん、と音を立てて問題集を閉じた。
「きみは言ったはずだ。晩ご飯は『何でもいい』と。そして『清美が食べたいものにすればいい』ともね」
「ああ……確かに言った、かも」
「なればこそ。なればこそ、だよ安田くん。私はきみの手料理を食べたい。だから私はそれ以上の準備をしなかった。さあ存分に、思うさま、いっそ余力を残さぬつもりで腕を振るうがいい。洗い物は私が責任をもって引き受けよう」
 この時点で義之は「やられた!」と胸の内で叫んだ。清美の得意とする論述法、相手の言葉や理屈を流用してのカウンターをお見舞いされたのである。
「あの、ごめん。清美、俺が悪かったよ」
「何の話かね?」
 謝って、朝の軽率な発言を無かったことにしようとしても許されないらしい。
「でも俺、料理とか下手だぞ。殆どやったことねえ」
「そんなことなど百も承知、二百も合点。だけど私は安田くんの手料理を食べたいのだ」
「じゃあさ、が……」
 義之の言葉は途中で止まった。相変わらず控えめに笑う清美から無言の圧力を感じたからである。ここで今さら外食の提案をしようものなら、さらなる反撃と共に、向こう一週間はご飯を作ってくれなくなるだろう。
「それじゃあ、清美は俺に何を作ってほしい?」
「ここで『何でもいい』と答えても困るだろう? 煮込み料理などは簡単ではあるが時間がかかることだし、無難なところで野菜炒めと卵焼きでも作ってくれないか? もちろん食材は揃えてある」
 せめてもの抵抗として投げた質問を、清美は淀みなく打ち返す。
 義之は腹を括った。盤上の王は既に詰んでいるのだ。

 さてさて家事能力皆無の彼が、慣れぬ台所で格闘すること三十分強。出来上がった二皿を見て清美は自分の眉間を指で押さえる。
「安田くん。これは何かね?」
「野菜炒めと……卵焼き?」
「いずれがいずれか」
「多分、こっちが野菜炒め」
 自信なさげに指差す義之。大皿には大きな消し炭が、小皿には小さな消し炭が、それぞれ乗っていた。
「ふむ。確かに傷めているな」
 すると清美は胸の前で合掌してから、大きい消し炭に箸を伸ばす。
「ちょっと待て、清美! お前、これ食うのか?」
「無論だとも。安田くんも、さあ」
 義之も食べろと指先で促される。
 味見もせずに作った彼は、恐るおそる、野菜炒めの名を冠した消し炭を口に運んだ。果たしてその刺激は、予想以上の衝撃を舌に落とした。
 強烈な苦味と酸味と辛味とが連携して襲ってきたのだ。これには清美ともども、二人して口元を押さえて悶絶する。
「卵焼きに至っては、何と形容するのが適当か……」
「お袋のやつが甘かったから、真似てみたんだけどな」
「分量の問題だ。せっかくのほかほか白ご飯を侮辱する甘ったるさだよ」
 しかしここで義之が驚いたことに、なんと清美はそれでも箸を休めようとしないのである。ご飯をよく噛み、清涼感のある漬物で口直しをしながらも、消し炭に挑戦し続けているのだ。
「もう分かったから、食うなよ、清美」
「食べ物を粗末にすべからず、とは私の父と母が教えてくれたことだ」
「俺もよくお袋から言われたけどよ、それ。でも『これ』はもう食べ物じゃねえだろ! 無理すんなよ」
「口を慎みたまえ、安田くん。『これ』はきみの振るった鍋から生まれ出でたものなのだぞ! この期に及んで我々が『これ』をはねのけてしまうことは、すなわち天理人道にもとる行為ではないか」
 そうして止められるのも聞かず、意固地になった清美はそのまま『これ』呼ばわりされた二皿の消し炭を全て平らげようとした。
 必然、義之もそれに付き合わされる。涙目の彼は、昼休み一杯かかって苦手な給食を食べさせられた小学生時代を思い出した。



 翌朝、いつもの起床時間になっても二人は布団から出ることが出来なかった。
「まさか私ともあろうものが、食あたりなどに苛まれるとは修行不足だ」
「だから食うのは止めとけって言ったのに」
「無念」
 それ以上は互いに言い返したり追及したりする気力も無く、両者揃って腹痛に耐えながら一日を寝て過ごしたのである。

 時間に余裕が無かったために致し方ないのかもしれないが、例の受け答えをした際に義之が、「何でもいい」の前なり後ろなりにせめて「清美の作るものなら何でも美味しいから」という意向の補足をしてさえおれば、こんな結果にはならなかったに違いない。
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