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偶発的導入.1の章

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 当たり前に思っていた事があった。
 あの頃は、分からなかったことです。
 でも、それは何か特別な事じゃあない
 ただ、いつも一緒に居たかっただけなのです。
 ある日を境に、いつの間にかあなたは遠くなってしまった。
 当たり前は当たり前じゃあなくなってしまいました。
 でも、それが恐ろしくてしょうがないのです。
 ただ、いつも一緒に居たかっただけだったのに・・・

 目的は、ただこの世界に悪意をぶちまけること。その一点だけを目的として、静かに活動を開始したのでした。
 そこは、人通りのほとんどない寂れた地方の商店街。不況のあおりを受けて、屋根についていたアーケードの維持費すら捻出できず、とうとう青空市のようになってしまったもの悲しい商店街でした。街灯だってもうありはしないので、夜に(とくに深夜にでも)なるともう、そこは何も見えない闇の中です。
 闇は、醜いものを隠してくれます。
 だからこそ、取って置きの悪意をそこにため込む事だって、実は可能でした。
 そうしてため込んだ、もうどうしようもない程の絶望的な悪意をその場所から、世界に向けてぶちまけたかったのです。
 そうする事できっと、この世界で見殺しにされる「てて無し」の子どもの数は100倍に増え、老人は虐待され、身体障害者は駆逐される。そんな理想的な世界が始まるのです。

 彼は、世界から「光を愛せざるもの」と呼ばれ、一部では熱狂的に愛され、また一他方では絶望的に忌み嫌われました。
 「メフィスト・フェレス」と、そして「悪魔」と通俗的には呼ばれていました。
 しかしそうであっても、実はそんな事など、何の悲しみにも及ばないと彼は考えていました。彼は、ただ「いつも一緒に居たかっただけ。」なのです。それは、彼でなくとも、どんな誰であろうとも、この世界に生まれ、そうして生きていく中で、一度は必ず誰かに向けて抱く感情の中のひとつ。それも、全体から見るに実に陳腐な感情だったはずです。
 その感情を持つことは、どんな人にあっても、全く責められるものではありませんでした。
 それが例え、彼のような一他方で絶望的に忌み嫌われている存在であったとしても。

 数ヶ月前、メフィスト・フェレスは、ゲーテの記した通り、人間の魂ひとつを目的として、その少女のもとへと、舞い降りました。しかし彼は、ゲオルグ・ファウストがこの世に呼び出した悪魔ではありません。はるか昔より、永の年月をこの世界で存在し、そうして、人間の魂を条件に、その人間の欲望をかなえ続けてきた悪魔でした。
 ある時は、海に飛び込み死んだ少女を深海の底で女王にしたり、またある時は、誰からも愛されずそのコンプレックスから自らの子宮を引きずり出した醜い少女に恋人を見繕ったり、またある時には、愛する人の血肉になりたいと切望する少女の体を切り刻み調理した事だってありました。
 そうして、願いをかなえた暁に、魂だけを胸に抱え、少しばかりの芳情の念と共に、次の人間の元へと行くのでした
 由美が、メフィスト・フェレスを初めて目にした時に感じた感情は恐怖ではなく、歓喜でした。
 ようやく、自分にも世界を幸せにするチャンスが巡ってきたと言う歓びです。
 「どんな願いでもかなえて差し上げましょう。ただし、ひとつだけ。あなた様が死んだ時に、その魂をこのメフィスト・フェレスにいただけはしないでしょうか。これは、とても幸せな条件なのですよ。人は皆死に行きます。そして、死に行く後にあるものなど、どんな誰であっても、大差など無いのです。だからこれは、悩む余地などあるはずの無い話なのですよ。」
 メフィスト・フェレスは、もう何十回、何百回と繰り返した同じセリフをいま一度、由美と言う少女の前で語りました。
 この話をすれば、たいていの人間はこの後、「本当にかなえてくれるの?」「魂を渡すとどうなるの?」など予定調和な疑問をぶつけてきます。メフィスト・フェレスは、その不安をまるでドアトゥードアを実践する訪問販売の営業マンの如く、一つ一つ解消していく事で、魂を手に入れてきました。
 しかし、由美はその予定調和を崩すように、メフィスト・フェレスに語り掛けました。
 「あたしは、敬虔に神を信じてきた。そんなあたしの前には、きっとあなたは現れてなどくれやしないのでしょうね。と、少しばかり、悲しみにくれていました。でも、あなたは、あたしの目の前に現れてくれた。それは、とても幸せな事なのです。ありがとう。ありがとう。」
 そうして、由美はその穢れない右手で、メフィスト・フェレスと握手をしました。
 初めての反応に少しだけ面食らったメフィスト・フェレスを横目に、由美は、静かに語りかけました。
 「この世界に溢れている悲しみを無くしてください。そうすれば、あまりにも意味のないこの命なんて、あなたの好きにしていただいて大丈夫ですよ。・・・そうなのです。例え、私が生きていたとしても、それによってこの世界に溢れている悲しみが減る事は無い。なぜなら、あたしに出来る事は、ただ、祈る事だけだから。」
 そういって、由美は頭を下げました。
 「分かりました。貴女の願いはきっと叶えましょう。ただ、その願いが叶った暁には、自分以外の幸せを真剣に願い、真剣に訴える美しい貴女の魂はいただきますよ。」
 「もちろん差し上げます。ただし、一つだけ条件があるのです。」
 「それはどのような条件なのでしょうか?」
 「本当にこの世界から悲しみがなくなってしまうかどうかを確認できるようにお願いいたします。」
 「出来る限り、ご希望には沿いたいと思いますが、果たして、どうすればこの世界から悲しみがなくなったと言う事を確認できるのでしょうか?そもそも、悲しみとは感情と言う質量なのです。無くしてしまう事など出来やしません。出来る事は、その感情をその人の元から引き離し、どこかに隠し置く位の事なのです。」
 「それは、丁度良かった。実は、あたしの理想もその通りだったのです。不況のあおりを受けて、屋根についていたアーケードの維持費すら捻出できず、とうとう青空市のようになってしまったもの悲しい商店街があります。その商店街の外れには、所々が、風雨にさらされていた影響で、少しだけ黒ずんでいる古びたコンクリートの2階建ての建物があるのです。その建物、父の所有するものなのですが、実は、もう何にも使っていなくて、しかも、その商店街がもうほとんど機能していないものですから、近々、取り壊そうかなんて話まで出ているわけです。その建物の中に、悲しみを溜め置いていただきたいのです。」
 「随分と失礼な質問かも知れませんが・・・それはなぜ?」
 「この世界から、悲しみがなくなったとき、全世界のあまねく人々に、過去には悲しみと言う感情があった・・・と言う事を、教え伝えていく為にです。悲しみを知らない世界では、きっと新しい悲劇が数多く生まれる事でしょう。悲しみを遺産として残す事で、誰もが知っているが経験していない悲しみと言う感情だけが残れば良いのです。それで、世界中は幸せになるのです。つまり、この建物の中では、悲しみをどんな人にだって閲覧できるようにして下さい。場所の名前だってもう決めているんですよ。全世界の悲しみが一同に会す場所なので『中央悲劇閲覧センター』なんてどうでしょうか?」
 由美の嬉々とした願望とキラキラとしたその眼差しに、メフィスト・フェレスは気がつけば、ただ、この少女の願いをかなえる事ばかりを考えるようになっていました。
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 この世界に溢れる悲しみの総質量はこの星を覆う海水とほぼ同等であることをメフィスト・フェレスは知っていましたから、この願いを叶えると言う事の絶望的作業量だって、ある程度理解していました。しかも、その作業を完了させるまで、目の前にいる少女の魂には、手を出す事が出来ないのです。契約とはそういうものでした。
 それでも、メフィスト・フェレスはこの少女の願いを叶えよう。と、心に誓いました。
 「それは、随分と大変なことではあります。しかし、必ず、その願いを叶えて見せますよ。」
 そう言うと、メフィスト・フェレスは由美にもう一度握手をするべく、手を差し伸べました。
 「それでは、あの建物は取り壊さないように、父に伝えておきます。きっと・・・きっとお願いしますよ。」
 由美は、握手に応えるわけでもなくニコッとだけ微笑んで、そうして、少し物悲しい表情を浮かべ、静かにうつむきました。
 しばらくして、メフィスト・フェレスは無言のまま(それは、声を出す事で決意がぶれてしまう事を恐れて、ではあるのですが)由美の部屋を後にしました。
 メフィスト・フェレスが部屋から出て行き、しばらくした後、由美は、その透き通るように白い手を目の前で組み「神様。あたしは、今悪魔と契約しました。人類の幸せの為とは言え、悪魔と契約したあたしをお許し下さい。」とつぶやき、その夜は一晩中祈りをささげたのでした。

 朝倉由美は敬虔なファンダメンタリストでした。
 毎週日曜日には、教会に赴き、一冊の本に書かれている人類の愛と平和を熱心に読み上げ、そうして、「神」に向かって静かに祈るような心優しい少女です。
 「この世界には、きっと悲しいことが多すぎる。だから、人の心だってどこまでもどこまでも濁っていくの。もしこの世界から、悲しい事が無くなれば、もう誰も美しい心のままに、幸せの中をニコニコと生きることが出来るのですよ。その為になら、この命を差し出しても何の後悔も無いのです。」
 いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも・・・由美はそう信じ、そうして、そんな事ばかり祈っていました。
 そんな一人の少女が、悪魔と契約を取り交わしてでも、世界を幸せにしようとする事には、実は、何の不思議も無かったのです。

 翌日から、メフィスト・フェレスはこの世界に散らばるありとあらゆる悲しみを集め始めました。その途中、本当の意味で悲しみをなくす為にはその元凶になる「苦痛」や「絶望」さえもなくしてしまわなければいけない事に、はたと気がつきました。
 悲しみ、苦痛、絶望の質量は無限大に増え、由美の提示した小さな二階建ての建物などわずか2日で埋まってしまいました。それでも、世界中にある悲しみ、苦痛、絶望は減る事は無く、むしろ、メフィスト・フェレスが収集するスピードをはるかに凌駕するペースで増え続けていきました。
 メフィスト・フェレスは悪魔と呼ばれる所以ともなった能力のひとつを使う事で、由美の提示した小さな二階建ての建物の1室を無限の空間に仕立て上げ、そこに悲しみを次々と運び込んでいきました。
 悪魔の能力を使ってまで、この建物にこだわったのは、由美の願いにあったこの場所に「中央悲劇閲覧センター」を作ろうと言う理想を具現化するためでした。
 何日も何日も何日も何日も・・・
 メフィスト・フェレスは世界中を飛び回り、そうして悲しみ、苦痛、絶望を集め続けました。
 晴れる日も。雨の日も。曇る日も。
 メフィスト・フェレスは世界中を飛び回り、そうして悲しみ、苦痛、絶望を集め続けました。
 由美は、毎週日曜日には、教会に赴き、神に対して悪魔であるメフィスト・フェレスの成功を祈り続けました。
 その矛盾には、もしかしたら、由美の無意識下にある、神への失望も相まっていたかもしれません。しかし、そうであったとしても、由美に出来る事は、ただ、メフィスト・フェレスの成功を神に祈る事だけでした。
 ただ、由美の願い空しくも、メフィスト・フェレスの収集するスピードをはるかに凌駕するペースで、世界中に悲しみは蔓延していきました。少しずつ、少しずつ、メフィスト・フェレスに限界が近づいていました。それでも、まだ、世界にある悲しみは減少する事なく、増え続けていきます。
 不意に、メフィスト・フェレスは気がついてしまうのでした。
 この悲しみが減る事の無いまま、いつまでも、とてつもないペースで増え続ける世界に対して、メフィスト・フェレス自身の心の隙間に悲しみが満ち始めていたのです。
 メフィスト・フェレスは飛ぶことをやめました。
 自分の存在の限界に近づくほどに頑張り続け、そうして、悲しみを収集し続けた日々をもってしても、自分自身の中に新しく悲しみの感情を質量として増やしてしまっていただけだったのです。
 メフィスト・フェレスは「少しだけ・・・少しだけ休もう。」とつぶやき、それからもう飛ぶ事はありませんでした。
 それでも、由美の願いをかなえてやりたい。と言う気持ちだけは、色あせることなく今も残っています。
 由美の願いを叶えることによって、メフィスト・フェレスは、由美の魂を手に入れることが出来、それは、由美との永遠の同伴をも意味していました。しかし、メフィスト・フェレスは、由美の願いを叶える事が出来ないまま。

 あの約束の日から数ヶ月が経ちました。

 飛ぶのをやめたあの日以降、何だか少し罰が悪く感じ、由美のもとにいく事の無かったメフィスト・フェレスではあったのですが、その日、由美の部屋へ向かっていました。
 それは、願いの放棄だとか、弱音をはこうとか、ましてや、何かしらの慰めを期待していたわけではありませんでした。ただ、一度、由美に会いたかったのです。

 しかし、由美はいませんでした。

 この世にいませんでした。

 正確には、何者かに殺されていました。

 それは、遺体すら見つかってはいない不思議な殺人事件。ただ、現場に残された夥しい血痕が「生きているはずは無い」と言う、根拠となり、今は、遺体の捜索と、見つかった暁にその骨が入るであろう墓の建造中でした。

 メフィスト・フェレスは、どうする事も出来ない絶望を、苦痛を、悲しみを抱いていました。
 もしかしたら、泣いていたかも知れません。
 メフィスト・フェレスにとって、ただ、魂を奪うだけの相手だったはずの少女。その少女が真剣に懇願した、世界の幸せ。そして、その瞬間のキラキラとした眼差し。
 メフィスト・フェレスは、あの眼差しを思い出し、もう一度だけ・・・もう一度だけ由美に会いたくて、もう、どうしようもありませんでした。
「きっと人間なら、これを愛だ。なんて・・・そんな陳腐な表現にしたがるのだろうな。くだらない表現だ。」
と、はき捨て、「違う。違う。違う。」と何度も首を左右に振りました。
 ただ、メフィスト・フェレスはどうしても、由美の願いを叶えたくて仕方がなったのです。
 悪魔が、世界の幸せを叶えたくて仕方が無かったのです。
 その為には、ひとつでも悲しみを、苦痛を、絶望を減らさなくてはいけません。
 分かっていたのです。
 分かってはいながら、メフィスト・フェレスは目から溢れる涙を止めることが出来ないままにいました。
 「止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!止まれ!!!!」
 何度叫んでも、涙が止まる事はありませんでした。
 「また、悲しみが増えた。また、あの少女の願いから・・・遠ざかってしまったじゃあないか。これだから、いつまで経っても、世界から悲しみなんてなくなりやしないのだ。もう、あの少女には永遠に会うことが出来ない。永遠の同伴は永遠の惜別になったんだ。」
 涙はそれでも止まりはしませんでした。
14, 13

  

 当たり前に思っていた事があった。
 あの頃は、分からなかったことです。
 でも、それは何か特別な事じゃあない
 ただ、いつも一緒に居たかっただけなのです。
 ある日を境に、いつの間にかあなたは遠くなってしまった。
 当たり前は当たり前じゃあなくなってしまいました。
 でも、それが恐ろしくてしょうがないのです。
 ただ、いつも一緒に居たかっただけだったのに・・・

 目的は、ただこの世界に悪意をぶちまけること。ただ、その一点だけを目的として、静かに活動を開始したのでした。
 そこは、人通りのほとんどない寂れた地方の商店街。不況のあおりを受けて、屋根についていたアーケードの維持費すら捻出できず、とうとう青空市のようになってしまったもの悲しい商店街でした。街灯だってもうありはしないので、夜に(とくに深夜にでも)なるともう、そこは何も見えない闇の中です。
 闇は、汚いものを隠してくれます。
 だからこそ、取って置きの悪意をそこにため込む事だって、実は可能でした。
 そうしてため込んだ、もうどうしようもない程の絶望的な悪意をその場所から、世界に向けてぶちまけたかったのです。
 そうする事できっと、この世界で見殺しにされるてて無しの子どもの数は100倍に増え、老人は虐待され、身体障害者は駆逐される。そんな理想的な世界が始まるのです。

 「悪魔らしく。」
 メフィスト・フェレスはそうつぶやいて、悪意を全世界に向けて放ち始めました。
 由美の望んでいた悲しみ、苦痛、絶望を、書籍、そして映像としてアーカイブ化し、そこに溜まりに溜まった悪意だけを世界に向けて放ち続けたのです。
 願わくば、由美を亡き者にした「マイク」なる人物に、とびっきりの絶望が降り注ぐ事を誰よりも強く願いつつ、悪意を解き放ちました。
 そうして、もう叶ったとしても意味のない悲しみの収集へと、メフィスト・フェレスは再び赴いていきました。
 メフィスト・フェレスの寿命が尽きるまで、「中央悲劇閲覧センター」には悲しみが集まり続けるのです。
 その建物の中で、いつまでも涙が止まらない悪魔への軽蔑と尊敬の念を込めた「ティアーズカード」なるものが配布されるようになるのは、もう少しだけ先の話でした。

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