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今でも時々、考える。
あのとき、本当はどうしたかったんだろう、と。
もちろん、終わってしまった時間を振り返っても、それは取り返せない。
そもそも、自分は助けてもらった身、断崖絶壁から落ちかけた手を掴んでもらっておきながら、それに文句をつければいいというのだろうか? そんなはずない。それはとってもいけないこと――
ザルザロスは言った。おまえは人形だと。
エンプティもそう思う。
造られた存在だから、なんの責任も感じずに眺めていられた瞬間もあったし、モノでしかないから、感じられない思いもたぶんたくさんあったと思う。
最初から、人間に生まれていれば。
普通に生きている『誰か』だったら。
でも、エンプティにはそれがどういう気分なのか、やっぱりどうしてもわからない。
この蒸気船は、エンプティにとって揺り籠であり、墓場であり、売られていくためのショーケースだった。
もし、人形に幸福があるとしたら、それは誇りを持てる、立派な、大好きなご主人様に買われていくことだと思う。
それを誰かは惨めだと笑うかもしれないが、エンプティは構わない。
なぜならこの機械仕掛けの頭の中には、数えきれないくらい、思い出せないくらいの記憶がある。
それは本当に、得難いもので――
だから、決着をつけよう。
わたしは自分に誇りを持ちたい。
あの二人のためだったら、消えられる。
おしまいになってもいい。
そう思える、二人だったから。
「ねぇ、慶様」
「ん?」
慶は甲板から、無限に波打ち続ける大海原を(どこまでも赤い、誰かの血で染まったような――)眺めながら、生返事をした。
自分の手のように大切にしていた剣を折ってしまった騎士は、いつしかこんな表情をするようになるのかもしれない。
この人は本当に遠くを眺めるようになってしまった。景色が綺麗だ、なんて生涯気づかないような人だったのに。
エンプティは、そんな主人の隣で、付き添うように欄干にもたれている。
「ずっと、聞きたいことがあって」
「なんだよ、いまさら。なんでも聞けよ」
「……怒りませんか?」
「いま怒ろうか?」
きゃーっと怯えるふりをして、おどけるエンプティを見て、慶は肩をゆすりながら楽しそうに笑った。
それが、人形には、とても悲しい。
「あのね、ザルザロスって、いたでしょう?」
「そんな、いたでしょ、なんて言われてようやく思い出すようなおとなしいやつじゃなかっただろ」
「うん。……ねぇ、もし、あのときわたしが退かなかったら……」
慶の七色の瞳が、何かを見つけたような青色に染まっていくのを見ながら、エンプティは続けた。
「慶様が来てくれた時、絶対に退かないって言ったら、……慶様、どうしてました?」
助けに来てくれて、嬉しいと思った。
よかったとも思った。これで助かるとも思った。
ずいぶん無茶をしたなと後悔もしたし、もうやめておこうと反省もした。
それでも。
心の何処かで、何か、大切な、踏み入って欲しくない場所を侵されたような、そんな――喪失感もあって。
それがいけないことだと、悪いことだと、恩知らずで、厚かましくて、身の程知らずの、馬鹿げた驕りだとわかっていて。
エンプティは思った。
最後までやりたい、と。
ほんの少し、胸のどこかで。
平気そうな顔をして、笑顔で席を譲りながら。
これは、『自分の』だと、思ってしまった。
それがずっと、
引っかかっていたのだと思う。
心と名乗りたいだけの、消せない記憶のどこかで。
「……もし」
「はい」
「もし、おまえが本気で退かないって言ったら」
「……はい」
「おまえは、退かないだろ?」
「……慶様に言われたら、退きますよ。それなら、どうです?」
「そんなの、意味ねぇよ」
「意味なんて……慶様は、負けられないはずでしょ。リザナ様のために。わたし、弱いですよ。負けちゃいます。そしたら、慶様、リザナ様を救えないでしょ。どうするんですか」
「どうもしねぇよ。おまえが、やりたいって言ったら、やらせるしかないだろうが。でなきゃ――なにやってんだか、わかんねぇよ。……ま、それぐらいで終わる俺じゃないってこったな」
あっはっは、と呵々大笑する慶を見て、エンプティの口元が綻ぶ。
ずっとそうなればいいと、ご主人様の心からの笑顔が見てみたいと被造物は願っていた。
くすぐってみたり、突き飛ばしてみたり、縄で縛ったりしてみたが、効果なし。
でも、一度でいいから笑わせてみたかった。
その願いは、叶わなかった。
「ねぇ、慶様」
「ん?」
「負けようとしてますよね」