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-09-

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 自然の反動か、屋敷が閉じようとしているのか分からないが、書斎の扉はシロを挟み込んで止まっていた。シロは単純に鱗道を追ってきたようで首を傾いでいる様子であったが、シロであれば意思存在にどかされて扉が閉まることはないだろう。
「シロ、そのまま扉のとこにいてくれ。扉が閉じてきて痛くなってきたら、そこまで無理はせんでもいいが……おい、ええっと――鴉!」
 シロから『わかった!』という返事を背中に受けて、鱗道はシロを跨いで書斎に戻った。暗くなった実験室から飛んできた鴉は机上の止まり木に両足を付けたところである。律儀に鱗道に頭を向けるのは、聞こえているという主張なのだろう。
「アンタがいた書斎には、昴やそこらの動物以外は俺達しか来ていない、と言ってたな。なら、あの実験室は下の剥製部屋と繋がってないか? さっきちらっと言った友人が剥製部屋に閉じ込められてるんだが」
『前半の言葉は少し不正確ですが――確かに実験室と剥製部屋は収納ハシゴで通じています。ですが、昴がまだ屋敷にいる間に壊れてしまい、開けられるのは下の剥製部屋からとなってしまいました。その為、ハシゴは普段から下ろされていたのですが、先程部屋に入った時にはハシゴは上げられていましたね』
 それだ、と鱗道は口の中で呟いた。鴉は嘘をつくメリットがないと言い切って、昴の他に書斎に訪れたのは動物を除けば鱗道とシロだけであると言っている。猪狩が書斎に来ていないのであれば、前回、猪狩は剥製部屋から実験室に上がったのだろう。そしてオカルト趣味が本当であったことを悟り、床に散乱するガラスを知って今日は頑丈な靴を履いてきたということだ。だが、何故か今は収納ハシゴを使っていない。収納ハシゴを使えない原因が屋敷による妨害なのか猪狩の状態なのか、残念なことに知る術はないようだ。ふと、鱗道は説明前に置かれた言葉に疑問を抱いた。
「……鴉、不正確ってのはどういう意味だ?」
 この鴉は仔細に拘り、問題や誤りがあれば正確に指摘する。その鴉が自ら発したはずの言葉を不正確だと言ったことに引っかかりがあった。鴉は鱗道から顔を逸らすことなく、
『私と接触をしたのは昴と貴方方だけですが、書斎を訪れたというのならばその限りではありません――昴は、行方不明になっているのでしょう?』
「ああ……そう、らしいな。アンタは、その事について何か知らんのか?」
『残念ながら。昴は何も言わず私をここに置いていき、二度と来ることはありませんでした』
 言葉は淡々と、仔細について語り始めた。オルゴールの調べにも似た音で奏でられるは、最初の独り言に似た無機質で無感情な言葉である。
『三十五年以上前に多くの人間が屋敷に来て、口々に行方不明であることを話しながら、痕跡を求めて屋敷を捜索したようです。その時に書斎も多くの人間が来ました。ですが、動かずにいた私は触れられることなくただの作り物だと判断されましたし、実際に詳細な捜索をしたとは言い難いでしょう。また、他に書斎を訪れた者も同様で私に気が付くことはありませんでした。それらを接触とは言えないと判断し、数に入れておりません。
 ただ、特殊な事例ならば一度……数ヶ月前に書斎の扉を開けた人物が中に入ってこなかった事がありました。何故か扉を開けるのに手間取っていたようですが、中に入ってくることなくすぐに扉を閉めたようです。私は……気が付いていましたが……振り返らず、人物および正確な状況確認が出来ませんでした』
「すぐに扉を閉めた、のか?」
 時期的にも、扉を開けた人物は猪狩で間違いないはずだ。一方で、室内に入らず扉をすぐ閉めるというのはあまりにも猪狩らしくない行動である――と、書斎に訪れ実験室に入る前の鱗道ならば疑っただろう。しかし、今は屋敷が扉を閉めてくることを知っている。扉を閉めたのは猪狩の意思ではなく、屋敷が猪狩を書斎に入れるのを拒んだからだと考えるべきだ。理由は、想像もつかないが。
『人物を確認できなかった不始末、誠に申し訳ありません』
 考え込んでいた鱗道の沈黙を勘違いしたらしく、鴉の言葉は妙に沈痛であった。
『私は――振り向くことが、どうしても出来ませんでした』
 鱗道が責めるつもりなどないことを口にする前に、不意に鴉の嘴が高く掲げられた。驚くほどに滑らかで、あまりに自然な動きであり、
『昴が私を置いて書斎に姿を見せなくなり、三十五年以上が経過しています。もともと病弱であった昴は当時も病がかなり進行していました。そんな昴が三十五年以上経過した今、書斎に来るわけがない。そう分かっていてもその時の私は何故か――今までこんなことはなかったのですが――扉を開けようとしている人物を昴だと思ったのです。そして、恐れてしまった』
 懺悔か後悔、しかし一番は恐怖を拭えない己を恥じているかのように自身への苛み――そんな声は高く、硬く、鋭く、非常に冷たい。
『生き物ではないと、失敗作と、また言われるのではないかと――長く静かにここに留まっていた私は、そんな事実を突き付けられることを恐れてしまって……確認を怠ったのです。あるまじき不手際でした』
「……仕方がないことだ。俺が言って慰めになるかは知らんが」
 鱗道は己の短い髪を掻きながら、多弁ではない頭の中で言葉を探した。これ程知識があり、思考があり、僅かであっても感情を有しながら、会話や意思疎通が出来ずに生みの親から失敗作と言われ続けた、この鴉の孤独を察したからだ。シロとはまた違う孤独の形だろう。
「俺が遭ってきた話の中に、呪いってもんがある。人間が悪い願望を物に吹き込むんだが……中には人間側も呪うつもりがないこともあってな。ネガティブな言葉ばかり聞く側が呪いにしちまって……誰でも、そういう言葉を聞くのは辛いし、嫌なもんだ」
 また、先ほど長く鴉に触れていたことで感じ取った乾いた湿度の感覚が、覚えのあるもの――呪物の持つ湿度に似ていると思ったのも言葉を探す理由であった。呪物であれば一応、蛇神の力が及ぶ分野である。ただ、鴉や屋敷の呪いは蛇神に食わせれば清められるようなものとは、また少し違うのだが。
「アンタの生みの親を悪く言うつもりはないが……アンタが怖がるのは当然だ。俺だってこの髪色で散々言われてきて……今では大分慣れたつもりだったが、まだちょっと過敏になる時があるみたいでな」
 灰色の髪を掻いていた手を下ろし、鱗道は腕を組んだ。湿度と共に乾いているとも感じていたのは、鴉の意思が液体金属とかいう妙な金属に宿っているからだろう。理由はそれ一つだけではない。
 昴が鴉や屋敷に染み込んだ意思存在に対しての「失敗作」という言動は呪いに近いものとして注がれたのだろう。だが、昴が行方不明になったことで新たに注がれることはなく、呪いの湿度は乾いていった。今は陸にあっても波の浸食が刻まれ、水の存在を語る岸壁のように、呪い自体がかなり昔の物となって名残だけがある形だ。こうして、乾いた湿度を鴉や屋敷は漂わせることとなったのだろう。
 鱗道が考え、語っている最中に鴉の嘴は下げられている。赤い目があまりに真っ直ぐに鱗道を見てくるものだから、鱗道は小さく笑った。
「あんまり見つめてくれるなよ。大したオチのある話じゃないし……こういうコンプレックスは他人がどうこうできる問題じゃないからな。ただ、そういうもんだって誰かから認められるだけでも気は軽くなるだろ? それに……ちょっと下心があってな」
『下心、ですか』
「なにかは知らんが、アンタは酷く自分を責めてるみたいに見えるんで……もし、後ろめたさがあるならそれを誤魔化すためでもいい。俺を助けてくれないか」
 鱗道の言葉に鴉の首が僅かに傾げられ、元の位置に戻る。鴉から言葉はなかったが、疑問がある時の自然な仕草と同じように見えた。舌の回る鴉にあまり多くを聞かれないためにも、鱗道は言葉を続ける。
「俺の友人の猪狩晃という男が、屋敷に危ない目に遭わされ続けてる。今、剥製部屋に閉じ込められてるのがそいつでね……どうにかして助けたい。その為にはこの屋敷や昴について詳しいアンタの力がいるんだ」
 鴉からすぐに返事はなかった。沈黙し微動だにしない鴉はやはり剥製か置物のように見えて、目の前にあるというのに見失いそうになる。剥製部屋のカラスの剥製の群れにこの鴉が紛れ込んでしまったのなら、たとえ他の剥製と違って赤い目をしていようと見付けるのは困難だろう。それを繋ぎ止めているのは至近距離に立つことで感じ取れる、乾いた湿度のお陰でしかない。故に鱗道は、見失わないためにも鴉を真っ直ぐ見続けた。
『イガリアキラ――というのは、先ほど、屋敷の外を歩いていた人物でしょうか。そう言えば、その時は他にも人影がありました。その内一つは、貴方ですね』
 ああ、という鱗道の言葉は肯定の返事である。同時に、ステンドグラスから感じた視線のことに思い至った感嘆でもあった。あの視線の主は、そしてシロが何か動いたと言ったのは、この鴉であったのだ。
『猪狩……と言うのであれば、昴の血縁ですか? ――遠目には、あまり似ているとは思えませんでしたが……けれど、あの時私は……昴かと思って、外に視線を向けたのです』
「最近、書斎の扉を開けたのもその猪狩で間違いない。血縁だし、昴をよく知るアンタが間違えるのは無理もないんじゃないか?」
 昴の話になると緩急や抑揚が目立つようになる鴉の声を聞きながら、鱗道は一つの仮説を補強していた。昴をよく知る鴉でさえ、猪狩を勘違いしたらしい。となれば、やはり元々は同じ存在であった屋敷に染みた意思存在もまた、猪狩を昴だと間違えているのではないか。下見に来ただけ――というのが本当であるならば、その時から猪狩が屋敷から出られなくなったという理由も、帰ってきた主を二度と失わないためだと考えられる。しかし、攻撃行動の意図がやはり分からない。似た別人だと分かって排除しようとしているのならば随分と行動が過激すぎやしないか。失敗作と捨てられた恨みを晴らそうとでも言うのだろうか。
『客人。私に出来ることは限られています。なにせ、屋敷に同じ意思存在が染み込んで活動していることに三十五年以上気が付かなかったのですから。さらに、この贋作に密封されていますから鳥の姿で出来ないことは何一つ出来ません。例えば、ドアノブを回すことのように』
 出口不明のままさまよう鱗道の思考を引き留めるように、鴉の静かな声が頭に届いた。澄み渡ってよく通り、硬質で怜悧な声質は思考に耽っていても聞き取りやすい。加え、語っているのだとわかりやすく主張するためだけに嘴を開く親切心もある。
『私に出来ることは、私の知っていることをお伝えすることだけ。そんな私が貴方の助けになるとは思えませんが、貴方は私の声を聞き取ってくださった最初の方です。貴方に恩を感じ、その恩に報いたいと思っていますし、そうせねば私を作った昴の名折れとなりましょう』
 右翼を一度大きく開いてから胸の前に畳む仰々しい仕草も、硬質な声以上に堅苦しい言葉もこの鴉には似合いである。胸に畳んだ翼に合わせて嘴を深く下げた鴉の頭が再び鱗道を見つめるまでは、鱗道はそれらを好意的に受け取っていた。
『どうぞ、客人。私を好きにお使いください』
 鴉の言葉に、鱗道が顔をしかめたのはその目に映っている筈だ。上げられた頭の僅かな揺れは、驚きか戸惑いかは分からないが、この鴉に限っては無駄な行動ではないだろう。
「俺はアンタの助けが欲しいし、手を借りたいだけだ。別に、道具として使いたいわけじゃない。そんな言い方はよしてくれ」
 鱗道の言葉を、鴉がどのように受け取ったかは分からない。表情もなく、挙動の殆どは強固な意思の元に統率が取られているからだ。それ故に目立つ不意や無駄な行動だけが、鴉が沈黙した時に語る唯一のものであるのだが、
『生憎、この贋作に手はないのですが』
 雄弁なる鴉を知るには、やはり語らせるのが一番手っ取り早いようである。
「……アンタ、分かってて言ってるだろ」
 鱗道のついた溜め息に鴉は反応を返さない。それが答えであると言っているような物だ。昴の「失敗作」という言葉が弱い呪いとなって鴉を捕らえ続け、頑なに己を生き物ではないと言い張らせているが、妙な冗談も言うし孤独や嘆きなども窺わせている。鴉の言う確証や証拠などには到底足らないのだろうが、鱗道にはそれで充分であった。
「俺は、アンタを協力者として接させて貰う。そうなると……いつまでもアンタや鴉じゃ失礼だな」
 とは言え、鴉に名前がない事を知っている鱗道は頭を捻った。シロが問うた時の悲哀を繰り返させるのも忍びないが、鴉が昴に呼ばれていたという言葉はどれも長すぎて呼びにくい。
「俺は鱗道というもんだ。犬の方はシロ……ってのはもう分かってるか。それで、俺からはお前を一時的にクロと呼ばせて貰うが、構わんか?」
『構いません。客人、改め、鱗道』
 生みの親と縁もゆかりも無い男から呼び名を与えられることを鴉があっさりと受け入れたことは鱗道には意外であった。
『カラスを意味する異国語のクロウから、一文字欠けさせるとは。なかなか皮肉が効いていて好ましいとすら』
『黒いから!』
 カラスの言葉に鱗道が何かを言うよりも早く、扉の間に挟まり続けていたシロが得意げにひゃん! と鳴き、
『黒いからクロだよ! 人間って、そうやって呼ぶことが多いの!』
 更に得意げに語り出す。鳴き声に反応してシロを見ていた鴉の頭が、まるで頷くように上下に動いた。
『――なるほど。シロ。貴方が言うと強い説得力があります』
「シロの名付けは俺じゃないぞ」
 とは言ったものの、シロの言葉の内容まで鱗道は否定しなかった。
 腕を組んだ鱗道の側を止まり木から離れた鴉――クロが円を描きながら飛ぶのを見て、鱗道は軽く首を右に傾けた。広くなった左肩にクロの両足が乗る。ずっしりとした重さに肩が下がったが、構えていたより軽く感じたのはクロが上手く体重分散をしているからのようだ。人の肩に乗り慣れているのだろう。
『鱗道、私が協力する貴方の目的を改めて確認します。イガリアキラの救出、ということでよろしいですか』
 鱗道の肩に乗っても硬質な声に大きな変化はない。側で見れば七色に輝く黒羽根の美しさと硬く鋭い嘴の重厚感に圧倒される。贋作という言い方では聞こえが悪いが、野生のカラスよりも理想を追求された造形をしているのだろう。山積みになっていた試作品らしいカラスの生首もそうであるが、剥製にもカラスが多かった。昴はカラスを好んでいたと考えるべきだ。
「それは、最初の目的だな。俺の一番の目的は無事に帰ることなんだが……欲を言えばこの屋敷に関して解決の糸口を掴みたい。そもそも猪狩はこの屋敷の問題をどうにかしようと俺を連れて来てるからな……」
 しかし、と鱗道は一人、頭の中で呟いた。物を持ち出せない、行方不明者がいる――猪狩はその原因が昴のオカルト趣味にあると考えて、鱗道に調べて欲しいと言った。調べた結果では蛇神の力で壊して欲しい、と。嘘ではない、と思っている。だが、それが全てではない、というのも確信があった。言葉や行動の端々に見えてくる違和感は意図されたものだろうか。半端に鱗道に知らせる理由はなんだろうか。聞き出すためにも、まず猪狩との合流が最優先である。
『私と会話が出来る貴方であれば、屋敷に染みた意思存在と会話をして解決に至ることが出来そうですが』
「そうなんだが、屋敷の奴は全体に広がっていて何かしようっていう時に集まるみたいだからな……散らばってる状態だと、俺じゃ何処にいるかも分からんし、今の所クロみたいに声を聞いていない」
 想像していたよりも軽いとは言え歩き出すと、左肩に乗った重量の影響で体が左側に寄ってしまう。鱗道は意図的に右側に寄るように歩こうとしながら、書斎の扉に挟まり続けるシロへと向かった。
「そういうのは俺よりもシロの方がよく分かるんだが……なぁ、シロ。お前、屋敷が何か言ってるのを聞いたか?」
 シロは立ち上がっていて廊下へ頭を向けていた。扉には尻がかろうじて挟まっているくらいで、前傾になり、手摺りの隙間から一階を覗き込むようにして――
『聞いたことない。けど、今、下に誰かいるよ』
 鱗道はシロを大きく跨いで手摺りへと走り寄った。シロの視線の先を辿る。エントランス、階段、その傍ら――猪狩が宝物庫だと言っていた階段下の部屋に入る扉の前に、ステンドグラスの光を避けるかのような人影があった。
「猪狩――いや、まさか」
 濃い青が湿っているような色合いのローブを着込んだ、顔色の悪い陰惨な表情の男である。強い光を受ければ見えなくなってしまうほど薄い、まさに人の影、でしかない姿であった。
「……まさか、猪狩、昴……か?」
 乱れた髪にやつれた顔付き。けっして猪狩晃は見せた事が無い表情をしているにも関わらず、何処か似ているという印象が強かった。剥製部屋で見た写真よりも一層痩せ、老け込んでいるように見える。あの写真より年月が経っている姿に間違いないのだろうが。
『昴? 昴がどこにいるというのですか、鱗道』
「……クロは見えていないのか?」
 クロは鱗道の肩に乗ったままであり、頭の方向も一致している。クロの視界に昴の人影は入っているはずだ。だが、クロは鱗道の言葉に小さく『ええ』と返事を寄越し、探すように頭を動かし続けた。
 昴の人影は僅かに手を動かし、階段の下を――宝物庫を指差した。口元が動いたようであるが、じっとりと暗い眼差しはそれ以上を何も伝えてこない。ゆらりと影が揺れたかと思うと、人影は宝物庫の扉を開けることなく中へ入るように消えていった。
「クロ、先に確認しておきたいことがある。アンタは、どこまで彼方の世界が分かるんだ?」
 鱗道は手摺りに手をかけて、じっと階段下を見つめたままにクロに問うた。
『彼方の世界、とは?』
「ああ、そうか……オカルト的にはなんて言えばいんだ……アンタのように意思だけの存在だとか、シロみたいな妙な犬とかがいる側で……普通の世界とは少しズレているようなのを言うんだが」
『厳密ではありませんが、物質界に対しての精神界でしょうか。そういうものでしたら、私は物質界に所属しているため、形を持たない物を見ることは出来ず、振動を有さない音を聞くことは出来ません』
 答えるクロの頭もまた、そちらを真っ直ぐに見つめている。が、その目に先ほどの人影はやはり映らなかったのだろう。頭は宝物庫の扉前ではなくもっと階段に近い、ステンドグラスの影の中に向いているのだから。
「振動の無い音……ってのは、シロは鳴き声があるから分かるって事か? 全く分からん、というわけじゃなさそうだが、俺より見聞きは不得意そうだな……なぁ、シロ。今の人影、なんか言ってたようだが……聞こえたか?」
『ううん。聞こえなかった。なにか言ったような気は、僕もするけど』
 シロの耳が白い被毛に埋もれるように垂れている。聞き取れなかったことを残念がっているらしい。シロにも聞き取れなかったのならば、「見る」ことが不得意な鱗道に見えたことが、あの人影に出来る精一杯の主張であったと考えるべきだろう。
『鱗道、本当に昴がいたのですか』
 クロの言葉には少しの焦燥を感じ取れた。信じられないのも無理はない、と思いながら鱗道は頷きかけて……首を横に振った。
「と、思うが、正直なところ分からん。あれが本人だったか、俺には判断が出来ないんだ。当人に会ったことはないし、声も聞こえなかった。写真で見た程度だからなぁ……青っぽいローブを羽織った、五十手前くらいの男だったが」
 クロが、青いローブ、と言葉を繰り返した。何か思い当たる節があったのか、繰り返されたのはその言葉だけである。が、クロは己の思考を振り払うように――同時に、けっして振り払えない結論を受け入れたように、
『昴は私を作った時でも四十代後半であり、姿を見せなくなるまで過ごした年月はけっして長いものとはいえません。五十手前となれば、行方不明になった直後の姿であったということでしょう』
 硬質な言葉が丁寧に、一律で紡がれ――
『鱗道。私には見えず、貴方には見える彼方の世界に、そんな昴の姿があったとなれば、つまり――』
 クロの言葉はそこで途切れた。鱗道が首を逸らしながら肩の鴉を見れば、嘴を掲げるように高く上げている。己の不手際を恥じ入っていた時と動作としては同じであるが、込められた意味合いは大きく違って見えた。書斎では僅かなブレを見せなかった鴉が微かに震えていることに気が付けたのは、クロが肩に乗っているからだろうか。
「……言わんでいい」
 鱗道の呟きに、クロが嘴を下げた。
 猪狩昴は、行方不明になった直後に死んでいる。あるいは、死んだからこそ行方不明になっている。聡明であるクロは、その事は分かっていたはずだ。病が悪化している体調も把握していたようであるし、書斎の扉を開けたのが昴であるはずがないと言うことも分かっていた。だが、分かっていても受け入れられるかどうかは別の問題だ。感情に折り合いを付けるのは、人間であろうと意思存在であろうと、自力で成さねばならないことに違いはないだろう。
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