Neetel Inside 文芸新都
表紙

少女よ早く僕を踏め
【僕編】 後編

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 次の日の昼休み、新山達に校舎裏へ呼び出され、いつものようにご褒美を戴いた。痛み、蔑み、罵倒、軽蔑、侮蔑、それら一雫が僕の胸の中に浸透し、じわりと、微かに、しかし確実に広がり、快楽となる。
 最高のプレイを楽しんだ僕の所へ、例の如く様に加奈がやってきた。
「お兄ちゃん……」
 いつもなら僕の緩んだ顔を見て本当に女子高生かと疑わしくなるほど鼻の下を伸ばす彼女だったが、その日ばかりは違っていた。酷く深刻な表情で、おろおろしているのが見て取れた。
「どうした」
 僕はシャツについた後藤の唾液を指で舐めながら尋ねた。もちろん、真剣に。
「今の光景、人が見てた」
 ドキリとした。
「確かなのか?」
 妙な汗が出るのを感じる。加奈は深刻な表情のまま頷く。
「相手は何人だった?」
「一人。女の子だった。校舎の上の階から見てたの。多分、お兄ちゃんのクラスの人だと思う」
「僕の……?」
 思い違いじゃないのか。この目立たない校舎裏の情景に気付くなんて。
「たぶん合ってる。お兄ちゃんをストーキングする時に教室で見たことあるから」
 さらりと恐ろしいことを言ってくれる。だがそんな事を気にしている場合じゃない。
「どんな奴だった? 髪型は? 何色だった?」
「普通の黒髪に、セミロングだったよ。教室で見た時に関西弁を話してたからなんとなく覚えてるんだ」
 黒髪で、セミロングで、しかも関西弁を話す奴。
「空島か……」
「空島?」加奈は首を傾げた。さすがに僕のクラスメートの名前まではまだ把握していないらしい。
「空島青(そらじませい)。みんなからはアオって呼ばれてる。元々関西の奴だったんだけど、高校入学を機にこっちに引っ越してきたんだ」
「その人ヤバイの? 消そうか?」加奈の目から光が消える。本当に殺しかねない。
「消さなくていい。でもヤバイやつだとは思う。関西の中学では風紀委員があったらしくてね、委員長をしていたらしい。正義感が強いみたいで、虐めとか許せないって以前教室で言ってたな」
 つまり見て見ぬふりをしてくれる確立は低い。その事は加奈も察したらしく、顔が青くなっていた。
「そんな人なら、今日にも虐めがあるって公言しちゃうかも」
「説得するしかないだろう。上手く誘導して、黙らせるしかない」
「だったら私が」
 加奈がそう言って行こうとするのを、僕は制した。
「早まるな。ここは加奈じゃなくて、虐められている僕が行ったほうがいい」僕は立ち上がった。「心配しなくて良い。僕が上手くやるさ」
 複雑そうな表情をしながらも、加奈は頷いた。
「大丈夫だよね、お兄ちゃんなら。こんな所で私達の性域が犯されたりしないよね」
「大丈夫だ、加奈。僕らの性癖はこれからも満たされるんだよ」
「そうだよね。これからもお兄ちゃんのアヘ顔を見ながらパンツグチョグチョに出来るんだよね」
「それはご勘弁願いたいね」僕は身を翻して校舎へ向かった。
「ええっそんな……。あ、ちょっと待ってよ、お兄ちゃん」加奈も慌ててついてくる。

 颯爽と教室へ向かった僕達だったが、残念ながら空島の姿はなかった。さすがに教室の前にいると目立つので、人気のない廊下で加奈と会議する。
「ど、どどどどどどうしようお兄ちゃん。もしかしたらもう職員室に行ってるのかも」
「それはないな」
「どうして?」
「もし先生に言いに行ったとしたら、もうとっくに誰かが校舎裏にやってきている。それがないと言うことは、まだ動いてない証拠だよ。もしかしたら、昼休みには言いに行かないつもりかもしれない」
「どうして?」
「心理だよ。普通の人間なら誰かを糾弾する際、自分が発言者だと言う事は隠したがるんだ。自分が密告者だと知られたくはないからね。でも、そうじゃない人種もいる」
「そうじゃない人種?」
「一般的に、正義感が強くて行動力のある人間の事だよ。そう言った人間は高確率で皆の前で罪人を弾劾するんだ。したがると言っても良い。自分の中の正義が絶対だと思い、揺るがない行動を見せようとする」
「じゃあ、空島さんはクラスの前で新山さん達が虐めをしていると訴えるつもりなの?」
「そう。そしてその条件に当てはまり、一番都合の良い時間がある」
 僕と加奈は同時に声を出した。
「ホームルーム」
「じゃあそれまでに空島さんを見つけなきゃ駄目って事だよね」
「ああ」
「空島さんがどこにいるか、誰かに聞いたら駄目なの?」
「僕は話しかけられる人間を教室内に作っていない。空島の場所なんか聞いたら、クラスの奴等は奇妙に思うだろう。ひょっとしたら僕に何を言われたか空島に尋ねるかもしれない。それが原因で虐めの件が漏れても困る」
「じゃあやっぱり私が聞いてくる」
「いや、やめておこう。加奈の存在はなるべくクラスの奴等に悟らせたくない。それに、変な虫が加奈についても困るだろう?」
「お兄ちゃん、やっぱり私の事心配してくれるんだね……」
 加奈が目を潤わせる。当然だろ、と僕が言うと彼女は僕のシャツを軽くつまんだ。
「もう、お兄ちゃんのせいでパンツビチャビチャだよ」
「はは、触らないで」
 僕は時計を見て、まだ午後の授業までに時間があることを確認してから教室を後にした。
「お兄ちゃん、どこに行くの?」
「食堂だよ。加奈も行くだろ? 昼食がまだだ」
「でも、空島さんが……」
「ホームルームにならないと行動しないって事は逆に言えばそれまでは安全である可能性が高いって事だよ。昼ごはんくらい食べられるさ」
「そっか、そうだよねぇ」
 加奈は感心したように息を吐き出すと僕の横に並んだ。
 パンツははきかえなくて良いのだろうか。


 昼食を食べて教室に戻ったが、予想通り特に変わった点は見られなかった。とは言えやはり多少の不安もあったので、教室に入る時はさすがに緊張した。
 ようやくホッと胸を撫で下ろしたのは五時限目がいつもと変わらない調子で開始されてからだ。
 五時限目は数学だった。
 この先生の授業はつまらない事で有名だ。淡々と問題を出し、淡々と理解不能の解説をしていく。授業に出るより、家で自習しているほうが遥かに実になるので僕はこの先生の講義をいつもほとんど聞いていない。
 ボーッと頬杖をつきながら眠気と戦っていると、ふと視線を感じた。
 視線の主は確認しなくても分かった。
 空島青と言う女子は窓際の真ん中の座席、つまり僕のいる席から一つ机を挟んだ向こう側に座っていた。視線の出所は、まさしくそこからだった。
 僕はあえて空島の視線を無視した。今ここで僕が彼女を意識していると悟られるのはまずいのだ。
 しかし、そこでふと気付く。
 僕はこのクラスの人間の顔を、新山、後藤、稲本以外まともに覚えていなかった。
 空島ってどんな顔をしていただろう。
 顔を思い出そうと記憶を掻き出す。漠然と、もやの掛かった輪郭だけが浮かび上がる。
 気になる。
 それは耐久レースに似ていた。決して見てはいけない。だが規則と言うのは強く禁じられるほど破りたくなる物だ。だが、ここで彼女と目を合わせるのは得策ではない。目が合うと言う事が、彼女が行動を開始する導火線にもなる気がしたのだ。
 十分、二十分と時が経つ。その間僕は彼女の視線を無視し続けた。
 やがてチャイムが鳴った。
「きりーつ」緩い声で先生が言う。
 皆が立ち上がるその一瞬を狙って、僕は空島を睨んだ。油断していたのか緩んだ表情でこちらを見ていた空島と思い切り目が合う。彼女は驚いたように目を丸くした。
 あぁ、こいつこんな顔だったのか。頭の中のもやがスッと晴れるのを感じた。
 僕はそのまま彼女を睨み続けると、「礼」と言う号令にて視線をそらし、授業が終わった瞬間に廊下に出た。
 少しくどい演技だっただろうか。そうは思ったが、どうやら狙いは成功したようで空島も僕の後を追いかけるようにして廊下へ姿を現した。そのまま彼女を誘うように階段を上り、人気のない三階へ足を運ぶ。静かに耳を澄ませ、階段を上ってくる音が聞こえるとそのまま曲がり角で身を潜ませた。息を殺して待っていると、足音が徐々に近づいて来る。
 そして空島が曲がり角から姿を現した。こちらに気付き、びくりと体を震わせる。
 最初に抱いた印象は眼が強いと言う事だった。丸く大きな瞳で、貫く様な目力。一瞬ひるみそうになったが、なんとかこらえた。
「あっ……」空島がバツの悪そうな顔をした。
「授業中人の事をジロジロ見て、後までつけて、何の用?」僕は壁に背を預けたまま、表情を変えずに言った。
 実を言うと彼女と二人きりになる方法はいくらでもあった。それでもわざわざこの方法を選んだのは、このセリフをこのシチュエーションで一度言ってみたかったからだ。
 待ち伏せしている側と言うのは意外とドキドキするのだな、などと感じた。
 そんな僕の心情も知らずして空島は申し訳なさそうに顔を伏せる。
「いや、別につけるつもりはなかったんやけど……ごめん」
「謝らなくていいよ。何か話があったんでしょ?」
 僕が言うと空島は顔を上げた。
「うち、見てもうてん」
「僕が虐められるのを?」
「気付いてたん?」空島は目を丸くした。
「何となくだよ。孤立している僕にわざわざ接触を計ろうとするなんて、これ以外にあまり想像がつかないから。それに、空島さんは正義感が強いって聞いてたし」
「そんな、正義感とかちゃうよ」空島は手を振って否定する。「でも、亥山君を助けたいとは思ってんねんか」
「いいよ、助けなくて」
「えっ?」予想外の言葉だったのだろう、空島は声を上げた。
「普通の虐めとは違うんだ。複雑な事情があって虐められているんだよ。普通の虐めだったら、とっくの昔にクラスの皆も加担してる。加担までいかなくても、僕が虐められていると言う事実くらいは知ってるはずさ」
 そう、これは普通の虐めではない。僕と加奈の性癖を満たす儀式である。正直加奈が僕の体操服を舐め回している写真が世に出回った所で、僕も加奈もダメージはない。
「事情って、何なん?」
「それは言えない」僕は意味深に首を振った。もちろん演技だ。
「でも、空島さんが僕を助けようとして虐めの事を先生に言ったりするとまずいんだ。僕じゃなくて、僕の妹が、酷い目に合わされる」
「妹さんが……?」お前妹いたんだって顔で空島は呟いた。僕もとりあえず重々しく頷いておく。
「だから僕の事は放っておいてほしい。下手に動いても、この問題は解決しないんだ」何故なら性癖の問題だからである。
「でも、先生に言わんと亥山君はずっとこのままやん。辛くないの?」
「辛くなんてないさ」むしろ気持ち良い。
 空島は澄んだ眼で僕の顔を見つめる。僕はなるべく、視線を逸らさないよう努めた。
「わかった……。ホンマはホームルームで先生に言おうと思ってたんやけど、亥山君がそこまで言うならやめとく」
 どうやら予想通り、帰りのホームルームまでがタイムリミットだったらしい。このタイミングで話がついてよかった。ホッと安心する。
 それと同時に、少し拍子抜けもしていた。虐めを許さないと言っていた彼女がいとも簡単に折れたからだ。所詮は他人事と言う訳だろうか。人は大人になるにつれて誰かに干渉することを面倒臭がる。
「分かってくれて」嬉しいよ、と言おうとしたところで「ただ」と空島が続けた。
「うちはまだ君を救う事を諦めたわけやない。安心して、亥山君には平和な高校生活が戻るから」
 全く分かっていない。今の僕にとって、この生活こそが平和な高校生活なのだ。
「うちが単体で動く。大丈夫、こう見えても喧嘩は強いんや。そんな簡単には負けへん。ようは事態を明るみに出すとマズイからそれを避ければええんやろ? 簡単や。うちが偶然見かけたという形で新山さん達に話をつける。それで問題ないはずや」
 どうやら虐めの首謀者が新山達と言う事も知っているらしい。まぁ虐めの現場を見たのなら当然か。それはともかく、どうにかして彼女を抑えなければ。
「あの……」
「あ、もう時間や。教室に戻らんと。あ、でも二人で戻ったらまずいんか。新山さん達に勘繰られるかもしれんもんな。うちらがここでこうして話したって事はバレへんようにせんと」
「あの……」
「あ、携帯電話貸して? うちのメルアド登録しとくわ。なんかあったら相談してな?」
「あの……」
「それじゃもう行くわ」
 空島はそこまで言うと階段の方へと駆けていった。と、顔だけひょこり曲がり角から覗かせて最後にこう言う。
「亥山君、いつもおどおどしてて声小さいけど、話したら普通やん。これからそうやって堂々とした方がええで」
 そして彼女は姿を消した。
 僕は、いつもの教室での自分のキャラクターを保つのを忘れていた事と、計画の破綻と、新たな悩みの種に頭を抱えた。
 そしてそこで気づく。
 僕が新山に虐められるのが性癖であるように、空島が困っている人間を助けるのもまた、性癖に近い自己を満たすための行動なのだと。
 面倒臭いことになりそうな予感がした。


 バイト先に新山がいた。窓際の一番隅、いつもの席だ。
 彼女は僕が来た事に気付くと手招きした。そんな事は初めてだった。
「何?」近づいて声をかける。
「今日、空島が私達の所へやってきたわ」新山の顔は不機嫌そのものだった。
 内心、ギクリとした。まさかもう行動しているとは思わなかったのだ。だが僕は動揺を押し殺し、平静を保つよう努めた。
「空島って、同じクラスの?」
「しらばっくれんじゃないわよ。あんたが頼んだんでしょ? 虐められているから助けてって」
 ほれ見た事か。単体で動くといっても、結果的に僕が疑われる事になるのだ。知ったような事を言ってはいたが、空島は何も分かってなどいない。
「そんな事してないよ」
「嘘つけ。じゃなかったら何でわざわざ『虐めをやめなさい』なんて言ってくるのよ。本人はたまたま見かけたとか言ってるけど、嘘に決まってるわ」
「だから知らないよ」
 しかし新山は微塵も信じた様子はない。
「あんた自分の立場分かってんの? あんたが誰かに助けを求めんのは勝手だけどね、そしたらあんたの妹は社会的に終わんのよ? きっと学校で虐められるわね、あんたみたいに」
「分かってるよ。だから僕は何もしていない」
「可愛い子だものね。ひょっとしたらレイプされちゃうかも。淫乱雌豚女、とか言われちゃって」
「だから僕は何もしていないって言ってるだろ!」
 思わず声がでかくなった。視線が僕らに集まる。店長が何事かとカウンターから顔を出した。
 急な僕の態度に怯んだのか、新山は狼狽したように身を引いた。
「じゃあ何、まさかあれは空島が勝手にやったとでも言いたいの?」
「ああ、そのまさかだよ。大体なんで僕がそんな事しなくちゃ行けないんだ。僕がみすみす」
 そこで口が止まる。僕がみすみすあんなに気持ち良い時間を手放すわけないだろう、そう恫喝したかった。しかしそれを言うと僕が虐めを受け入れている真の目的がバレてしまう。
「みすみす?」
「僕がみすみす、リスクを犯すような、ここまでの努力を無駄にするような事、するわけないじゃないか……」何とか詰まり詰まりそう言った。
「まぁ、それもそうか。大体、助けを求めるとしたらあんな関西弁の奴より先生にでも言うわよね」
「そうだよ……」
「分かったわ。じゃあ、信じてあげる」新山はそう言うと何か考える様に視線を落とした。「……でも不味いわね。このままだとあの女、教師にでも言いかねないし」
 新山はそこで目だけを動かすと、僕の顔を見た。そして何かを思いついたようにニヤリと笑う。
「そうだ。あんた、空島を止めなさい」
 急な新山の申し出に思わず顔をしかめた。
「何で僕が」
「あら、嫌ならいいんだけど。ただ、逆らうと大切な妹と、あんたの為に行動してくれている空島がどうなるか分からないわよ?」
 その口調は驚くほど冷徹だった。容赦ない女王の目だ。彼女はやる。
 きっと新山は空島が教師に密告するよりも早く、彼女に筆舌に尽くし難い様な酷い事をするつもりなのだ。
 あんな事やそんな事、ああ! そんな事まで! 
 そしてそれを脅しに、彼女をも黙らせる。
「……やるよ」僕に断るという選択肢は用意されていない。
 予想通りだったのか、新山は冷えた微笑でますます口を歪めた。
「明日中には何とかしなさいよ」
「分かった」
 僕が頷くと、丁度カウンターから店長が声をかけてきた。
「亥山君、そろそろ出勤時間だけど……大丈夫?」
「あ、大丈夫です。すいません。今行きます」
 僕は従業員室へと向かった。
 従業員室には鈴木さんがいた。
 僕を見るやいなや「さっきの大きな声は夫婦喧嘩ですかな?」とからかい口調で言ってきた彼女に僕は「黒乳首は黙ってくださいよ」と言って黙らせた。
 空島青。彼女のせいで、案の定面倒くさいことになった。


 早朝、教室へ入ると驚いたことに机に落書きがされていなかった。そんな事は入学してから初めてだった。
「飽きたのかな」
 さすがに華も恥らう女子高生が毎日こんなしょぼくれた男子生徒の机に落書きをし続ける訳がない。むしろ今まで毎日ご丁寧に落書きを継続していた事の方が驚きだった。
 こうやって彼女達は少しずつ僕から卒業していくのかもしれない。それはまるで嫁入りする娘を見送るかの様な寂しさがあった。
「もう、大人に、なったんだなぁ」
 僕が机の前で一人涙ぐんでいると不意に肩を叩かれた。振り返ると、鬱陶しいほど明るい笑顔を浮かべる空島が立っていた。
「おはよ……えっ?」彼女は涙目の僕を見て虚を突かれたかの様に目を白黒させた。
「どうしたん? 何で泣いてんの?」
「別に、なんでもないよ」僕は慌てて涙を拭う。
 空島は「それやったらええねんけど……」と呟くと、ふと僕の机に視線をやった。
「そう言えば昨日な、教室で張ってたらあの子らが亥山君の机に落書きしようとしてたし、止めてん」
 お前のせいかよ。僕は内心舌打ちをした。
「その時ちゃんと虐めをやめるよう忠告しといたで」そして空島はにこりと笑う。
「これで亥山君の高校生活にも平和が訪れるはずや。亥山君いつも学校来るの早いし、この事を早く報告したげよって思って待ってたんや」
 なるほど、だからいつも人がいるはずのないこの時間にいたのか。ただ、彼女が昨日行った事は無駄だった。
 偶然現場に居合わせたふりをして虐めについて言及する、そこまでは悪くない。ただ役者が大根すぎて演技だった事がバレバレだ。昨日の新山の態度を見ていればそれが良く分かる。
「空島さん、その事なんだけど」
「ええって、お礼なんか」
 勘違いもはなはだしい。
「違うんだ。昨日新山から連絡があってね。君を止めないと、僕の妹だけでなく君まで酷い目にあわせるって言われた」
 緩んでいた彼女の表情が一変する。
「えっ? それって」
「君が虐めのターゲットになるかもしれないって事だよ。君がこれ以上行動をすれば、まず僕の妹が酷い目に合わされる。そして次に、狙いが君へと移行する可能性があるって事だよ」
 空島は黙り込んだ。追い討ちをかけるように僕は続ける。
「君が思っている以上に新山達は凶悪なんだ。僕は妹を酷い目に合わせたくないし、他の誰かを巻き込みたくない。お願いだ、もう僕の事は構わないでくれないか。この件からは手を引いてくれ」
 ショックを受けたように青ざめる彼女の顔。もう一押しだ。
「困るんだよ、君に行動されると。それに、もしそれが原因で君が虐められでもしたら……」
 僕が気持ち良くなれない。
 空島は黙り込んだ。しばし沈黙が僕らを満たす。やがて、空島はそっと口を開いた。
「……優しいんやね」
 彼女は愛しさすら感じさせる柔らかな表情をしていた。
「うちは、やっぱりそんな亥山君を救いたいよ」
「だから……」言葉を返そうとした僕を空島は手で制する。
「うん、分かってる。うちが動いたら亥山君の妹さんが危険な目に合うんやもんね。うちは大丈夫や、でも妹さんは分からへん」
 そこで少し逡巡した後、彼女は尋ねてきた。
「なぁ、一つだけ聞いていい?」
「なに」
「何で亥山君の妹さんなん? 何か理由でもあるん? 原因さえ分かれば対策だって出来るはずやで」
「だからそれは言えない。言うわけにはいかないんだ」僕は首を振った。
 すると空島はずいとこちらに一歩迫ってきた。思わず一歩引く。
「何でなん? うちに信用がないから?」
「そうじゃないよ」
「……そやな、分かる。やっぱり心を閉ざしてる亥山君にとって、うちはまだそんなデリケートな部分を話せるほど信頼出来る相手になってないんやな」
 全く分かっていない。
「うちは諦めへんで!」空島は僕をビッと指差す。声が大きくて怯んだ。
「うちは亥山君のナンバーワン、いやオンリーワンになってみせる」
 彼女は窓から空を見上げ、天を仰いだ。
「そしていつしか君の凍った心を溶かすんや」
 空島の目は爛々と燃えている。僕はもはや言い返す事を放棄した。
「うちは一度決めたことは達成するまで諦めへん。亥山君、覚悟しときや」
 そこまで言うと空島はフフフ、と不気味な微笑を浮かべ、教室の入り口へと向かっていった。
「まぁ、せいぜいこれから一人でいられる時間を楽しむんやな」
「どこに行くの」
「トイレや」
 彼女はその言葉を最後に姿を消した。
 僕は頭を抱えた。


 空島から見た現状はなかなかにややこしい。
 ある日たまたまクラスで虐められている子を見つけた。話を聞くとどうやら妹関連で何か脅されているらしい。虐められっ子を助けたい空島は当然脅しの原因を探ろうとする。原因さえ分かれば対策が出来る。しかし虐められっ子は自分に心を開いてくれない。
 それならばまずは虐められっ子と仲良くなるところから始めよう。
 ……実に遠回りな行動だ。一体何が空島をそこまでさせるのかは分からない。
 ただ一つ言えること。
「迷惑千万」僕は呟いた。「休み時間の度に話しかけて来るのはやめてくれないか」
 昼休み、食堂へ行こうとした矢先に僕のもとへやってきた空島に言った。
 今朝の事があってからと言うもの、頻繁に空島が声をかけて来るようになった。ほとんど相手をしなかったが彼女は諦める様子がない。
 彼女の行動は今までクラスの最下層に居た僕を浮かび上がらせる。まるで塗り絵を完成させるかのように、僕の存在が色彩を増していくのだ。
 おかげで今日はお昼の新山達による快楽の時間がなくなってしまった。持ってきた白米弁当もあとでゴミ箱行きになるだろう。食べるには少し質に不安が残る。
「ええやん、うちはもっと亥山君と仲良うなりたいねん」
「僕は別になりたくないよ。大体、あまり僕に構いすぎると友達いなくなるよ」
 今はまだ大丈夫だが、クラスの日陰者だった僕に構うと空島の友人達は彼女と距離を置くだろう。そのうち孤立して、今度は空島が虐められてしまうかもしれない。それだけは避けねば。常に虐められるのは僕でなければいけないのだ。女子高生が放つ蔑みの視線や表情が、僕の生きる糧となるのだから。
「大丈夫や、心配ない。それに亥山君と仲良うなると、うちの友達は減るどころか増える事になんねんで? 最高やろ?」脅しに近い発言をしたにも関わらず、空島は全く気にする様子がない。
 どこが最高だ。僕にとって今の空島の行動は虐めに近い。彼女こそ本当の虐めっ子だ。巧みに人の精神を苦痛へと追いやっている。まるでなぶり殺しだ。
 そこで僕はハッとした。
 もしかしてこれは彼女なりの攻めなのでは?
 もしかしたら空島は相当なドSで、こうやってありがた迷惑な行動で僕の立場をより追い込み、その苦しむ様を見て楽しんでいるのではないだろうか。ありえない話じゃない。
「空島さん」
「ん? 何?」
「このクズって言ってみて」
「えっ? 何、急に」空島の顔が強張る。しかしそれすら罠に思えた。僕がMだと気付かないふりをしているのでは。
「いいから。ネタ振りだよ。一度関西の人とやってみたかったんだ。ほら、このクズって、真顔で、感情を込めて」
「何か知らんけど、おもろくなるんやんな。言っとくけどうちは笑いにはうるさいで?」
「いいから」
 僕の真剣な表情に、空島も顔から笑みを消す。そして僕の方を見て口を開いた。
「このクズ」
 僕は目を見開いた。口が自然と開き、手に汗が滲む。空気が一瞬にして変わった。瞳孔が開くのを感じる。息が出来ない。
 僕の表情を見て、空島も緊張した面持ちになった。
 僕は、ゆっくりと口を開いた。
「全く……センスがない」
「え、どう言う意味?」空島が不安げな表情をする。
「そんな事聞くなよ。言うまでも無いことなんだから」
 僕は吐いた溜息と共に空島の脇を抜けて食堂へと向かった。
 食堂では既に大半の席が埋まっていた。しばらく視線をさまよわせると外のテラスに加奈がいるのが分かった。加奈もこちらに気付いたらしく、嬉しそうに手を振る。
 と、急に加奈の顔が強張った。目を細くし、眉にしわを寄せ、こちらをうかがっている。
 まさか。僕は恐る恐る後ろを振り返った。
 空島が、にんまりとした笑みを浮かべていた。
「何でいるの」
「いやぁ、うちも学食やしどうせやったら亥山君と一緒に食べようかと思て」
 空島はタハハと笑うと、ひょいと僕の向こう側を見つめる。
「可愛い子やなぁ。亥山君にあんな友達がいるなんて意外やったわ」
 どうやら僕と加奈を兄妹だとは思わなかったらしい。彼女はそう言った後、ハッと気付いたように表情を変えた。
「あ、ひょっとして彼女? うちお邪魔やった?」
 気まずそうだ。でも、チャンスではある。ここで追い払ってしまおう。
「うん。……誰にも言ってないんだけど、実はあの子は僕の彼女なんだ。教室で会って騒ぎになってもまずいし、いつもこうやって食堂で落ち合うことにしてる。ここなら人がごった返していてあまり目立たないし」
 同じクラスの人間も食堂を使うわけだから、嘘としては少し無理がある気がした。まぁ、駄目元だ。こんな手に引っかかる人間などよっぽどのボンクラしかいないだろう。
「あ、そっか。じゃあうちは一人で食べるわ」ボンクラだ。
「うん、ごめんね」
 一人でご飯を食べさせるのは少し可哀想な気もしたが、ここで加奈と知り合わせるとまたややこしい事になるかもしれない。危険因子は排除するに限る。
「お兄ちゃん、私が彼女って本当?」
 この人ごみの中でもハッキリと伝わってくる野太い声だった。肩に手を置かれ、思わず身がすくんだ。びっくりするほど冷たい手だったからだ。
 目と口と鼻から血を垂れ流している加奈が、僕の肩に顔を乗せた。
「うわぁ」僕は思わず彼女と距離をあけた。だが加奈は動じない。
「お兄ちゃん、ついに認めてくれたのね」加奈はずいと僕に一歩迫る。僕は思わず後ずさった。
「私達、ついに禁忌に手を出してしまったのね」
 あの距離で僕らの会話が聞こえるはずがない。だが、ここにいると言う事は恐らく自分が彼女と言われた部分だけはしかと耳にしたのだろう。我が妹ながら恐るべき地獄耳だ。
「お兄ちゃんって?」空島は加奈の様子を微塵も気にせず、ただただ不思議そうに首を傾げる。僕は諦めて白状した。
「ごめん、これは僕の双子の妹なんだよ。名前は加奈って言うの」目立つ前に僕はハンカチで加奈の顔面をグリグリと拭いた。
「この子が例の……? 双子やったんや……」そう言って彼女は目をぱちくりした。「でもさっきは彼女やって言うてたのに」
「そうよ、私がお兄ちゃんの」
 僕はヘッドロックをすると加奈を黙らせた。強く腕を締め付けると加奈は妙な喘ぎ声を出す。
「やだなぁ、冗談に決まってるじゃないか。言ってみたかっただけだよ」
「妹にしか発揮されないお兄ちゃんのS性……」腕の中から何やら呟きが聞こえる。
「随分変わった妹さんやね」加奈を見て彼女は珍しい物でも見るような顔をした。
「普段はこんなんじゃないんだけど、僕が他の生徒と話していたから驚いたんだと思うよ。ほら、僕って友達いないから」
「自分で言う事ないやん」クスクスと空島が笑った。「でも、妹さんやったらうちも一緒にお昼ご飯、食べれそうやな」
「もちろんだよ」こうなった以上仕方ない。僕は頷いた。
 僕の腕の中で「ええーっ」と加奈が嫌そうな声を上げるので僕は更に腕を締め上げる。頭蓋骨がメキメキと崩壊する音を立て、彼女は黙った。
 
 空島のラーメンを見て、たまにはラーメンにすればよかったかな、などと考える。僕と加奈はカレーうどんだ。何故か毎日カレーうどんだ。
「うちもカレーうどんにしたら良かったかなぁ」
 ネギと天カスが大量に入ったカレーうどんを見て向かい側の空島がのんびりと口を開く。僕と加奈はそれどころではなかった。
「お兄ちゃん」隣から困惑した加奈。要注意人物と一緒に食事を取ることになったのだ。無理もない。
「すまん」僕は空島に聞こえないよう小声で謝った。
 空島は僕らの様子にも気付かず、気さくに加奈に話しかける。
「あ、自己紹介がまだやったね。はじめまして、うちは空島って言うねんか。お兄さんのクラスメートやねん」
「あ、これはどうもどうもご挨拶が遅れまして。亥山加奈です」
 加奈は妙におっさん臭い挨拶を返す。彼女は人当たりが良いので相手に不信感を抱かせない。我が妹ながらさすがだ。
「お兄ちゃんが誰かと一緒って珍しいね」
「あ、驚かせた? ごめんなぁ。うち鈍臭いから昼ごはん食べるの遅れてしもて。そんな時に亥山君がおったから一緒に食べよかなって。それに」空島は僕の方を見るとにっこり微笑んだ。「亥山君とも仲良くなってみたかったし」
 何かが折れる音がした。加奈の割り箸だ。
「へ、へぇ。どうして兄と? 普段教室では目立たなくて、特に友達がいるとは聞いたことなかったけれど」声が震えている。
「えっ?」
 空島はあからさまに表情を固くする。虐められているから、と言うべきか迷っているのが見て取れた。僕が虐めにあっている原因は加奈だ。その事を果たして本人が知っているのか空島は分からない。下手に発言出来ないのだろう。
「あ、そ、そやなぁ。まぁ……」彼女は視線をそらせた。焦っていたのか、顔が赤い。「気になってたから……かな。亥山君が」
 最低だ。顔の表情も相まって、愛の告白にしか見えない。
「そ、そうなんだ。良かったねお兄ちゃん。それにしても、大胆告白ぅー」
 おどけた物言いはしているが目は笑ってない。黒く濁った目で、少しずつ折れた割り箸の先端を机の下でにじり出していた。このままだと突き刺しかねない。
 僕は空島に気づかれないよう割り箸を持つ加奈の右手に自分の左手をかぶせた。そのままゆっくりと彼女の手を僕の膝上へと運ぶ。ギョッとして加奈がこちらを見てくるので僕は目で訴えた。
『落ち着け』
 加奈は顔を真っ赤にして表情を緩ませる。鼻の下が伸び、口から涎が垂れてくる。引くぐらい気持ち悪かった。こいつホントに女なのか。
 加奈は手のひらを上へ向けると指を絡めるようにして僕の手を握ってきた。俗に言う恋人繋ぎだ。予想外の行動に眉を潜める。見ると加奈はうっとりとした視線でゆっくりと頷いていた。その瞬間僕はアイコンタクトが微塵も伝わっていなかった事を悟った。
 僕は気を取り直してうどんを口へ運んだ。いつの間に用意したのか、加奈も左手に新しい箸を持ち、口へ運ぶ。どうやら僕の手を開放する気はないらしい。
 僕らのうどんを啜るタイミングが完全に重なり、空島が笑った。
「何?」思わず尋ねる。
「いや、ごめんな。ホンマに双子ねんなぁと思って。こんなに綺麗に行動が重なってるから」
「お兄ちゃんと私は一心同体だもの」加奈がどや顔をする。余計な事を言われては困るので僕は繋いでいる手に力を込めて加奈を黙らせた。
「仲、ええんやね」
「それなりにね。同じ年だし、家事も協力してる。普通の兄妹よりは仲良いんじゃないかな」
 加奈が何か言おうとしたので更に手に力を込めた。骨が軋むのが手の感触でわかる。それと同時に加奈が徐々にアヘ顔を浮かべた。慌てて手を離すと少し残念そうな表情。本当にこの妹、大丈夫なのだろうか。頭の線とか、切れていないだろうか。さすがに心配になる。
「ええなぁ。うちは一人っ子やさかい、兄妹とか羨ましいかも」空島はこちらの様子などまるで気付いていない。
「空島さん、一人っ子なんだ」
「小さい頃にお母さんが死んでしもてね。家族はお父さんだけやってん。仕事で忙しいにも関わらず、うちとよく遊んでくれたねんか」
「お父さん、警察官だっけ」
「よう知ってんなぁ」
「有名だからね」僕はうどんをひと啜りした。「正義感が強いのもお父さんの影響?」
「正義感とかちゃうよ。ただ、曲がった事が嫌いなだけ。うちな、こう見えても護身術出来んねんか。お父さんが教えてくれてん」
「へぇ」割とどうでも良いが、そんな事はおくびにも出さない。
「お父さんの教えでな、いつも弱い人の味方でいろって言われてんねんか。曲がった事が嫌いなんも、たぶんそれがきっかけやと思う」
「お父さんは今も警察官を?」
「うん。最近はホンマに忙しいみたいであんまり家に帰って来おへんけど」
「寂しくないの? 家に帰っても一人なんでしょ?」加奈が尋ねた。
「小さい頃はいっつも一緒にいてくれたしなぁ。うちも高校生になったんやし、わがままは言えへんよ」
 空島は少しばかり乾いた笑いを漏らしたあと、ふと虚ろな表情を浮かべた。
「でもまぁ、寂しないって言ったら嘘になるかな」
 空島は黙り込んだ。気まずい沈黙が漂う。僕は空島を直視する事に耐えかねて視線を加奈の方へ逃がした。
 その時の加奈の表情は忘れられそうもない。
「空島さん」加奈が慈愛に満ちた表情をする。「うちも、両親が共働きであまり家に帰ってこないの、出張が多いから。普段はお兄ちゃんと二人で晩御飯を食べる事も多くて、だから、その」
 嫌な予感がした。
「いつでもうちに来てね。一人で寂しい時は晩御飯とか、一緒に食べよう?」
 僕は加奈を見て固まった。
「でも、迷惑やろ? ええよ」空島は困惑したように手を振る。
「ううん。お兄ちゃんの初めての友達だもん。大歓迎だよ」
 人当たりが良い加奈は感化されやすい。空島の話を聞いて情でも移ったのだろう。
「ねっ? 一緒に食べよう? ご飯」
「う、うん」
 空島がチラチラと僕を伺うようにしてこちらに視線をやってくる。
 僕は溜息をついた。
「来なよ。うちはいつでも大歓迎だし」
「ホンマに?」
 少し嬉しそうな顔。
 ああ、僕は本当に思う。
 最悪だ。
 昼食を終え、西校舎まで戻ってきた。休みの喧騒は、徐々に授業のそれへと移ろう気配を見せる。
「それじゃあ空島さん、いつでもうちに来てね。良かったら今夜にでも」階段の前で加奈が言う。
「……ホンマにええん?」
「大丈夫よ。ね? お兄ちゃん」穢れを知らない透き通った目で加奈は僕に訴えてくる。何も意図を孕んでいない純粋な厚意。僕はただ「ああ」としか言えなかった。
 加奈は嬉しそうに微笑むと、階段を昇って行った。加奈のクラスは二階だ。一階に教室がある僕と空島はその背中を見送る。邪魔者を取除くと言う目的をすっかり忘れている妹に僕は溜息をついた。まぁその抜けている部分が憎めないわけなのだが。
「ええ妹さんやね」
「まぁね」
「亥山君が守ろうとするのも分かる気がする。詳しい事はわからんでも、あの子を泣かしたくない」
「……」妹の為ではなく、快楽の為だとはとてもじゃないが言えない。
「ちょっと気になったんやけど」急に思いついたような空島。
「何さ」
「君、何で教室やとおどおどして自信なさげなん?」
 一瞬呼吸が止まる。普段は抜けているくせにツッコミが意外とするどい。
 スポンジが水を吸い込むように、空島は僕の中に違和感無く浸透してくる。厄介な存在だと疎んじてはいても、警戒していても、何故か繕っている自分を保つ事を忘れてしまう。
「気のせいだよ……ですよ」
 僕は視線を伏目がちにすると、背を丸くして声を小さくした。ボソボソしゃべって、おどおどして、職場に一人は居そうな情けない新入社員をイメージする。
「そうそう。それがいつもの亥山君やんな。何? なんかスイッチでもあんの?」
「そそそんなのあるわけななないじゃないですか」僕は甲高い笑い声で顔を歪めた。
「二重人格と違うよねぇ。じゃあ演技? 上手いなぁ。でも何で演技なんか……」
 さすがに今更ごまかすのは無理か。むしろ彼女には僕のこの一連の行動がただのコントにしか見えないはずだ。さて、どうやってこの疑問をかわそうか。
「ちょっと、邪魔」不意に声をかけられ振り向く。
 新山だった。後ろに稲本と後藤もいる。
「あんたら……」空島があからさまに鋭い視線で新山達を睨んだ。
 以前まで彼女達の仲は別段悪いわけでもなかったはずだ。でもこの状態に至るまでの過程は容易に想像がつく。
「誰かと思ったら陰キャラと関西弁じゃないの」
「誰が関西弁や」お前だ。
「何で話し相手のいない亥山と関西弁が一緒に居んの?」
 稲本が言い、後藤がハッと表情を変えた。
「亥山ぁ、あんたもしかして」
「ち、違うよ」突然凄むので慌てた。昨日の事を勘ぐっているのだろう。
「うちはな、個人的に亥山君と仲ようなりたいなぁと思っただけや」
「何? あんたその陰キャラに気でもあんの?」稲本が侮蔑したように笑う。
「何ですぐそういう発想になるんや?」
「だってそんなキモイ奴、近寄ろうとすら思わないもの」
「キモイって、亥山君のどこがキモイんや? はっきり言ってみいや」
 少しよく考えればろくでもない返答が来るであろう問いを空島は解き放つ。
「その背筋丸いところ、視線合わせないところ、覇気もないし、喋り方もオタク臭い」稲本は鼻で笑うと、嫌悪感を顔に表す。
「これだけ言われて反論ひとつしないなんてプライドもないんじゃない。ゴミカスみたいで、見てるだけで気分悪くなりそう」
 そんな、酷すぎる。心をガラスの破片で傷つけられた様だ。
「確かにそうや。亥山君は人とまともに会話もでけへんヘタレや。けどホンマはなぁ」
「もういい」
 無為な口げんかを中断したのは新山だった。
「空島、アンタが私らの邪魔をしないなら何も言わないわよ。邪魔しないならね」
 そして彼女はそのままするどい視線を僕に向け、ぎょっとする。
「何であんた笑ってんのよ」
「へっ?」
 僕は顔を押えた。確かに顔が緩んでいた。
「本当だ、何でだろう」
「ほんとキモイわね」新山は溜め息を吐く。「とりあえず、あんたも分かってんでしょうね、余計な事したらどうなるか」
「わ、分かってるよ」
「まあ、くれぐれも行動には気をつける事ね」
 新山達は教室へ歩いて行った。遠巻きに聞こえる教室の喧騒をBGMに、僕と空島が取り残される。
 悲しさと悔しさを孕んだ空島の表情に、僕はうな垂れた。
「亥山君、何で言い返さへんかったん?」攻めるような口調だ。
「今はまだ、仕方ないんだよ。それは空島さんもよく分かってるだろ。耐えなきゃ駄目なんだ」
「でも……。どうにかすることでけへんのかな」
「わからない」
 五限目のチャイムが鳴った。
 まさか僕の罵倒大会が良すぎて黙っていた等とは口が裂けても言えない。


 ホームルームが終わって教室を飛び出した。駐輪場から自転車を取り出し、空島から逃げるように学校を後にする。真っ直ぐ家に向かい、鍵を開けて中に入った。まだ加奈は帰ってきていない。父も母も仕事だ。母は今週いっぱい出張と言っていた。
 部屋に鞄を置き、着替えてリビングのソファーに座り一息ついた。なんだか今日は随分疲れた気がする。
 インスタントのコーヒーを淹れて一人飲んでいると、玄関の扉が開いた。加奈だろう。
「ただいま」リビングの扉が開き、呑気な声が聞こえてくる。聞きなれないイントネーションに、僕は視線を向けた。
 空島青が立っていた。
「うわー!」思わず叫ぶ。突然僕が叫んだので「うわっ」と空島も声を出した。
「びっくりしたぁ」
「こっちのセリフだよ。何で居るの」
「帰りに偶然会ったから私が連れてきたんだよ」
 空島の後ろから加奈がひょっこり顔を出した。猫の様に得意げな顔だ。
「そう言う事や。亥山君、うちから逃げようと思っても甘いで」
「甘いんやで、お兄ちゃん」
 加奈が真似て関西弁で僕を指差す。とんだ裏切りだ。僕は今日何度目かになる溜息をついた。
 どうやら加奈と空島は相性が良いらしい。真っ直ぐな空島に感化されやすい加奈と言う組み合わせだ、それは当然と言えば当然なのかもしれない。二人が知り合ってまだ半日程度だが、もう随分と打ち解けている様に見えた。
 会って間もないのにまるで昔からの友人の様に仲良くなる。こういう現象はしばしば人間関係を成立させる上で起こりうる事でもあった。僕も似たような経験をした事がある。今は別の高校に行っている友人がそうだ。初めて会った瞬間から何となく波長が合いそうな気がし、実際会話してみると驚くほど話しやすく、すぐ打ち解ける。そう言う人間は親友として、文字通り生涯の友になるものだ。
 だが僕は加奈が今までその様な相手といる所を見た事がなかった。加奈は要領も器量も良いから交友関係は広い。しかし基本的に僕にベッタリと張り付いているので深い仲の友人など出来る訳がないのだ。
 だからかもしれない。加奈が初めて親友と呼べる仲になれそうな人間に出会った事は、双子の兄として非常に嬉しい事だった。ただ、問題があるとすればその相手が空島であると言う事だ。どうやら昼間思っていた以上に事態は厄介な方向に進んでいるらしい。
「へぇ、ここが亥山家ねんな。綺麗な家やなぁ」空島がソファーに座りながら言う。
「お兄ちゃんがいつも掃除してるから」
「へぇ、亥山君家事してるんや」感心した様子だ。
「家事は主に僕達二人で分担してるんだよ。だから加奈の言い方には少し語弊があるな。僕を立てすぎだ」
「出来た妹やね」
「そんな、出来た妻なんて」
「言ってない」僕と空島の声が重なった。思わず顔を見合わせる。空島がクスリと笑った。
「おもろい兄妹やな。いっつもこんなん?」
「まぁ、ね。おかげで歯止めをかけるのに苦労するよ」
「ちょっとお兄ちゃん、それどういう事?」
「賑やかで毎日楽しいって事だよ」
「本当に?」首を傾げて僕の顔を覗き込んでくる。僕はコーヒーを啜り「本当本当」と適当に相槌を打った。
 そこで、ふと感じる。
 こうして家に誰かを上げるのはもう久々の事だ。
 中学時代の友人ですら上げた事のないこの家に、昨日話すようになったばかりの奴が上がりこんでいる。この時間帯にこうしてリビングが賑わうなんて思いもしなかった。
 悪くない。心のどこかで、そう感じている。
 今まで僕達は性癖を満たすと言う名目で行動を起こしてきた。高校で僕が孤立しているのも、加奈が部活に所属しないのも、空島と接触したのも、全てその為だ。
 でも、それはもしかしたら僕達の心にぽっかり空いた穴を埋める為にしていた行動に過ぎなかったのではないだろうか。
 寂しさの穴。
 互いに寄り添うようにして生きてきた僕達兄妹は、いつの間にか排他的になっていた。誰も寄せつけず、誰にも頼らず。ただお互いだけを信じていた。どれだけ深い交友関係を築いていても、それは形だけでしかなかったのでは? そんな気すらしてくる。
 僕は──僕達は、人間関係を希薄にしすぎたのかもしれないな。
「どうしたの、お兄ちゃん? 希薄って?」
 どうやら声に出ていたらしく、加奈と空島が不思議そうに視線を寄せる。
「いや、何でもないよ。……それより空島さん」
「何?」急に指名されピクリと体が反応する。
「うちは基本的に僕らしかいないから、これからも気軽に足を運んでくれていいよ」
「えっ?」空島は目を丸くした。予想もしなかった言葉なのだろう。こちらの意図が分からない、そう言いたげな彼女に僕は笑顔で応じた。
「……うん、ちょくちょく来るわ」
 何か感じたのか、空島は嬉しそうに言った。

 その日から、空島は度々僕の家に来るようになった。僕がアルバイトから帰ってくると、時折加奈と楽しそうに会話する二人の姿が見られるのだ。予測したとおり、やはり波長が合うみたいだ。
 加奈と空島の仲が良くなるのに比例して、学校で空島が僕に話しかけてくる事も多くなった。しかし相変わらず僕はクラスの日陰者を演じていたし、クラスの皆も僕をその様に評価している。そんな僕を構い続ける空島を、クラスの皆は奇妙に思い始めた。
「最近、空島変わったな」
「知ってる。亥山と仲良いよね」
「仲良いって言うより空島が一方的に話しかけてるだけだろ、あれ」
「もしかして空島って亥山が好きなの? 趣味悪っ」
 そんな事が密やかにささやかれる。

 空島は徐々にクラスの友人達と疎遠になって行った。
 空島は亥山が好き。そう勘違いしたクラスの女子達が気味悪がって空島と距離を置きだしたのだ。
 僕の存在がクラスで疎んじられていたのもあるが、何より空島の立ち回りが下手糞だったのもある。僕なら誰とも交友関係を変えないよう努めるが、空島にはそんな細やかな立ち回りは出来ない。
 この現状は、ある種の危険性を孕んでいると感じた。
「空島さん」ある休み時間、いつものように話しかけて来た彼女に言った。
「何?」
「最近、自分がクラスで孤立してるって分かってる?」
 すると彼女は眉を寄せた。
「そうなん?」
「そうだよ。妙な噂も流れてるみたいだし、あまり僕に構いすぎないほうが良いよ」
「噂って?」
「僕らが付き合ってるかもしれないって」
 一瞬加奈の教室の方から殺意の波動を感じたが気のせいだろう。
「ええっ? ほ、ホンマに?」空島はあからさまにうろたえた。
「うん、ホンマに」
「うちらいつの間に付き合ってたん?」
「噂だって言ってんだろが」
「やんな、噂やんな」ホッと胸を撫で下ろす。
「だから学校ではあまり僕と一緒に居すぎないほうが良いよ」
 空島はしばらく黙り込んで僕の目を覗き込んできた。難しい顔をしている。
「最近新山達にちょっかい出されてる?」
「最近はご無沙汰だね」
「うちと話すようになったから?」
「多分ね」
 新山は「私たちの邪魔をするな」と言い、事実空島は彼女達を邪魔しているわけではない。しかし、空島の存在が新山達への牽制(けんせい)になっている事は明らかだった。ここ数日は、恐喝料の徴収もない。
 すると空島はにっと笑った。
「ならええんちゃうかな。……亥山君は噂とか、気にする?」
「このポジションだよ? 今更どんな噂が流れようと、どうでもいいよ」
「じゃあええやん」
「君はそれで良いの?」
「ええよ」きっぱりと断言される。意思の強さを感じた。
「ひとつ聞きたいんだけど」
「ん?」
「どうしてそこまでしてくれるの?」
 空島はきょとんとした。意味が分からないと言う様子だ。
「普通たかがクラスメートに、そこまで世話を焼いたりしないでしょ。だから何でかなって。僕がクラスメートだから? 孤立しているから? 加奈の兄だから? 曲がった事が嫌いだから?」
 矢継ぎ早に繰り出される言葉に、彼女はしばし考えこむ。自分としては考えうる可能性を軒並み提示したつもりだ。少なくとも、彼女が僕を好きだからと言うことはまずない。中学時代の僕を知っている新山ならともかく、高校においては誰かに好かれる要素を一切見せていないからだ。
 やがて彼女は口を開いた。
「最初は、たぶん曲がった事が嫌いやったからやと思う。亥山君の事は入学して一週間くらいから気になってたよ。全然クラスに溶け込めてない子がおるって。そういう子が周りにいるのはあまり気持ちよくなかったし、どうにかしたいなって思ってた。そこで虐めやろ? 考えるより先に行動してもうてん」
「今は?」
「今は……なんやろな。知り合ってから思ったけど、なんか亥山君って放っておけへんねん。加奈ちゃんの事もあるけど、それを除いてもやっぱり助けたいって何となく思ってしまうんよ。あと、それに」
「それに?」
「今はもう友達やろ、うちら。助ける理由なんかそれだけで充分やと思うけど。大体、噂話一つで距離置いてくる子とはあんまり付き合いたくないわ」
 確かに。不意な正論に僕は思わず噴き出した。
「何? 何で笑ったん?」
「いや、別に」
 なるほど。
 真っ直ぐな、一貫している人間の言葉ほどスッと入り込んでくる。

 その日の夕方、久々に新山が店に来た。彼女は窓際の指定席に座り、本を読む。
「ちょっと」
 彼女の横を通った時、声をかけられた。珍しい。
「何?」
「あんた随分空島と仲良いわよね」
 来たか。いつかされる質問だとは思っていた。
「そんな事ないさ」一応そう答える。しかし新山は信じない。訝しげな視線を感じる。
「本当? 付き合ってんじゃないの?」
「付き合ってないよ」
「どうだか」
 探るように彼女は僕の顔を覗き込んできた。視線をそらすと妙な勘違いをされるかもしれないので、僕は彼女を正面から見つめた。まるで浮気を問い詰められているようだ。
 しばらく見つめあった後、「まぁ良いけど」と言うお言葉をいただいた。少し彼女の頬が朱に染まっている。僕と見つめ合うことで照れたのだろうか、などと都合の良い解釈をしておく。
「それとあんた、もう良いわ」
「はっ?」突然の新山の言葉に、思わず間抜けな声が出た。
「もう金とか渡さなくて良いって言ってんの」
「じゃあ加奈の写真は?」
「それは別。使える材料はとことん取っておくのよ、私は。まぁまだ安心するのは早いって事ね」
 なるほど、今の新山の言葉で悟った。
 僕が空島と仲良くすることで孕んでいた危険性が現実になろうとしている。
 つまり、新山の次のターゲットは空島だ。
「良かったわね、ターゲットから外れて」
「完全に外れたわけじゃないだろ。加奈の写真がまだ君の手元にあるんだから」
「よく分かってるじゃない。まぁせいぜい次までにお金を貯めておくことね」意地悪いサド顔をする新山。
 多分、『次』はもうない。でも、その事を彼女は知らない。またこんな毎日が戻ってくると思っている。歪んではいるが好きな男の子と過ごせる、そんな毎日が。
「前もって言っておくよ」僕は真っ直ぐ新山を見つめた。
「何?」
「ごめん」
「はっ? 何が?」
「ごめん」
「意味わかんない」新山は怪訝そうな、それでいて一抹の不安を顔に浮かべた。
 僕はカウンター奥へと引っ込んだ。
「少年、ついに別れ話かい?」とケーキを切りながら嬉しそうにニタニタ笑う鈴木さんに「垂れ乳は黙ってくださいよ」とだけ言った。

 次の日の朝、久々に加奈と家を出た。いつもなら自転車に乗って登校するが、久々に兄妹揃って学校へ行くので押して行くことにした。
 朝の八時。以前は七時半には家を出ていた。空島と話すようになってから机の落書きはすっかりなくなってしまったが、それでも念のためにと学校には早く来るようにしていた。
 でも、もうその必要はない。
 空気は温く、朝の光と共に緩やかに降り注いだ。歩くごとに新鮮な朝の気配が体を包み込む。道は長く輝いており、どこまでも広大に続いている気がした。少しだけ変化しつつある日々が、胸の鼓動を高める。妙にすがすがしい。
 こんなにもゆっくり、にぎやかな通学路を歩くのは久しぶりだ。
「すまん、加奈。僕たちの桃源郷を守り通せなかった」
「ううん、お兄ちゃんが謝る事じゃないよ。元はと言えば私が青ちゃんと仲良くなったのが悪いんだし」
 もう加奈は空島と名前で呼び合う仲になっている。
「悪い事じゃないさ。妹に仲の良い友達が出来て何が悪いって言うんだよ」
「でも……」
「良いんだよ。それに、これでお前も部活に入れるだろ?」
 すると加奈は首を振った。
「どうして? もう障害はないだろう」
「確かにそうだけど、また新山さんに虐めてもらえるかもしれないんでしょ? だったら私も今のうちにお金を貯めて、次の機会に備えないと」相変わらず献身的な妹だ。
「いや、たぶんないよ。もうない」
「えっ?」どうして分かるの? と言いたげだ。
「加奈が空島を家に連れてきた日、僕も彼女の来訪を許可してしまった。考えたんだ、今まで僕達は人間関係を希薄にしすぎたんじゃないかって。僕達が今まで性癖と呼んでいたのは、実はただ寂しさを紛らわせるためじゃないのかって。……だから決めたんだ。空島を許容すると同時に、もうこんな歪んだ生活とは決別しようって」
 加奈は何も言わない。
「これから新山は空島に行動を起こすだろう。加奈の言う通り、もし新山が本気で僕の事を好きなら、空島を疎ましく思っているはず。そうなると何をするかは大体想像がつく」
「じゃあ、青ちゃんは……」
「大丈夫だ。僕が守る。何たって加奈の友達だからな」
 それに、僕の友達でもある。
「僕の予定では一週間、それで全て方がつく。それまで空島には悪いが耐えてもらう。根性あるしたぶん大丈夫だろ。残酷なようだけど、僕にはこれしか方法が思い浮かばない」
「方法?」
「僕達が手っ取り早く普通の高校生に戻る方法だよ。時間をかけて安全性を求めるなら方法は色々あるだろうが、あいにく青春って言うのは一生に一度だ。無駄にしたくない」
「合理的だね、お兄ちゃん」
 無邪気な笑顔を浮かべる加奈の姿に、僕はいたたまれなくなって、視線をそらせた。
「いいんだぞ加奈、軽蔑したって。僕は友達を酷い目に合わせてまで目的を達成しようとしてるんだから」
「お兄ちゃんは馬鹿だなぁ」
 予想外に陽気な声が帰ってきて、思わず加奈を見た。
 加奈は笑っていた。
「お兄ちゃんがそこまでする理由、私の為でしょ?」
「えっ?」
「難しい事はあまり分からないけど、ようは私が部活して、青ちゃんと楽しく過ごせて、そんな普通の楽しい高校生活を私に送らせるためにしてくれるんでしょ?」
 自分のために兄が人を傷つけると知ったら加奈は必ず傷つく。そう思ったから隠していたのにどうやらバレていたらしい。
「言ったでしょ? 私はお兄ちゃんの事なら知らない事はないって。性格、思考パターン、呼吸の仕方やトイレのウンコを座ったまま前側から拭く事だって知ってるんだから」
「朝に言うセリフじゃないな……」
 僕が呆れると加奈は薄く笑った。
「確かに誰かを辛い目にあわせるのは最低の行為だと思う。だけど、それはお兄ちゃんだけのせいじゃない。強いて言うなら、私達兄妹が悪いんだよ。お兄ちゃんの言う、人間関係を希薄にし続けた──新山さんの気持ちを良いように利用していた私達のせいなの。そして私達は今また青ちゃんを利用しようとしている。過去に犯してきたあやまちを知りながら、また同じ罪を犯そうとしている。お兄ちゃん、これは私達の抱えなきゃいけない業なんだよ」
「業か……」僕らがしてきた行為を思い返すとその表現が一番しっくり来る。
「お兄ちゃんが例え世界中の人を殺したとしても、私の大切な人をズタズタにしたとしても、それでも私はお兄ちゃんの味方でいるよ? 私が四十日間拷問されて、命を失うその瞬間であっても、私はお兄ちゃんの苦しみや悲しみを理解できる」
 加奈は僕の目を真っ直ぐに見つめる。
「だから何かを一人で抱えようなんて考えないで」
 加奈の言葉の中には得体の知れない暗闇と、狂気を孕んだ愛情が含まれている。まるで聖母マリアの様な慈愛と慈悲を感じた。
「お前が妹で良かったよ」
「私も、お兄ちゃんが私のお兄ちゃんで良かった」
「そうか。ところで、パンツの状態はどうだ」
「びしょびしょだよ?」
「あとで君にムーニーマンを買ってあげよう」
「大人用じゃないと駄目だよ?」
「ははは、女子高生がオムツをはいているなんてとんでもないな」
「これで授業中にお漏らししても安心だね」
 僕達は少し笑った。そこで、ふと加奈が笑顔を消す。
「あとね、お兄ちゃん」
「ん?」
「私達の行動が、寂しさを紛らわせるためにしてたかはわからないけど、お兄ちゃんは真性のドMで、私は真性のブラコン、それだけは事実だと思うな」
「そうかな」
「そうだよ。きっと」
 どうなのだろう。僕はそっと胸に手を当ててみる。確かに新山の蔑んだ視線を思い出すだけでお尻がくぱぁする気がする。それは嘘偽りのない感情だ。
「まぁ細かいこと気にしても仕方ないか」
「そうだよ、なるようになるよ」
 僕達は一瞬だけ目を合わせると、長く続く道に視線を移して朝陽に身を投じた。

       

表紙

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Neetsha