Neetel Inside 文芸新都
表紙

少女よ早く僕を踏め
【青編】 前編

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 発端は小さな変化だった。
「あれ?」
 昇降口にて、自分の靴箱の鍵がなくなっており奇妙に思う。取っ手の部分に引っ掛けていた簡単なナンバー式の施錠が消えていたのだ。嫌な予感がして靴箱を開ける。案の定、上履きとなるスリッパがなくなっていた。
「パクられたんかなぁ。でも昨日はちゃんと鍵かけたし……」
 その時、横に誰かの気配を感じた。
 クラスメートの亥山君だった。
「あ、おはよう」
 挨拶すると亥山君も「おはよ」とそっけない返事を返してくれた。学校で話しかけるといつもこうだ。基本的にあまり長い返答をしてくれない。
「今日は随分ゆっくりなんやね」
「もう早く来る必要がないからね」
「えっ? 何で?」
「そのうち分かるよ」
「教えてくれてもええやん。ケチ」
 亥山君は私の言葉を無視して靴を履き替える。なんだか以前より扱いがぞんざいになってしまった。もっとも、それだけ気を許してくれているのだろうが。
「それじゃ」と先に行こうとする彼の後姿に声をかけた。
「亥山君」
「何?」無表情で彼は振り向く。
「うちの上履き知らん?」知るはずがないのを分かっていても、つい尋ねてしまう。
「いや、知らないけど。無いの?」想像通りの返事。
「うん。鍵ごとどっか行った」
「鍵かけてなかったの?」
「いや、確かにかけたんやけど……。困ったなぁ」
 頭を掻きながらうつむくと、ふと視界の端に見覚えのあるものが入り込んだ。手を伸ばし、拾い上げる。私の靴箱の施錠だった。
「鍵って、それ?」亥山君の言葉に私は頷いた。「ペンチで切られた様な跡があるね」亥山君が私の手元を覗き込む。
「いたずらかなぁ。性質(タチ)悪ぅ。どうしよう」
「とりあえず職員室行ってきたら? 替えの上履きがあるかもしれないし」
「そやな、そうするわ」
 私は靴を下駄箱に入れ、亥山君と別れて職員室へと向かった。冷えた廊下でスリッパが無いのはきつい。今は春だが、それでも足元が薄ら寒く感じた。
 職員室は昇降口から職員用のトイレを挟んですぐ横にある。私が扉を開けると、教員からの視線が集中した。普段この時間に生徒が来ることはあまりないので、当然と言えば当然だろう。一瞬居心地の悪さを感じたが、そうも言っていられない。私は担任を見つけると声をかけた。
「先生、スリッパあらへん?」
「スリッパ?」先生はきょとんとする。
「そう、スリッパ。ロッカーの施錠がペンチで壊されてて、スリッパがパクられてん」
「壊された? 施錠が?」先生は眉をひそめた。「一体誰に?」
「んなもん分かったら苦労せんわ」
「勘違いとかじゃないのか?」
 私はポケットから先ほどの施錠を取り出すと、先生に見せた。不自然にねじ切れたような施錠を見て、先生の顔が曇る。
「こんなんなってたら勘違いも糞もないやろ?」
「ううん……確かにそうだな」先生の言葉は鈍い。誰かがスリッパを盗んだと言う事を認めたくないようだ。面倒事が起きて欲しくない、そう言う感じ。だがこうして証拠を提出している以上、ごまかしは利かない。
「分かったら予備のスリッパ頂戴、先生」
「あそこに卒業生のがあるから、好きなの持っていきなさい」
 先生は部屋の奥に置いてある大量のスリッパが入ったダンボールを指差した。名前が書いてあるスリッパや、落書きがしてあるスリッパ、プリクラの貼ってある物もある。その中から、適度に綺麗でサイズが合いそうなものを選んだ。綺麗とは言ってもそれなりに使い古した感じは出ているが、これくらいは目を瞑らねばならない。
「じゃあこれ貰って行くわ」
 私が職員室を出ようとすると、「待ちなさい」と先生に呼び止められた。
「新しい鍵がいるだろう。これ使いなさい」
 先生が新しいナンバー式の施錠を手渡してくれる。
「どうも、おおきに」
 少しおどけてわざとらしい関西弁で言うと、先生はポソリと「もう壊すんじゃないぞ」と言った。
 鍵が第三者によって壊された事を暗に認めていないと言う意味合いがその言葉に孕まれている気がして、少しむっとしながら私は職員室を後にした。

 歩く中で、今日はついていない日だと思った。この時はまだ、自分の靴箱が荒らされていたのはたまたまいたずらの対象になってしまったからだと考えていた。
 事態の本質をようやく実感する事になったのは教室に来てからだ。
「何、これ」
 机の上に置かれたそれを見て、私は呟いた。
 それはスリッパだった。昨日まで私がはいていた物と似ている……様な気がするが、本当の所どうかは分からない。なぜならスリッパはカッターか何かでズタズタに切り刻まれており、ほとんど原形がなかったからだ。
 不意に教室が妙に静かな事に気付いた。先ほどまで皆の話し声でうるさいくらいだったのに。奇妙に思い、周囲を見渡した。すると一斉に皆が視線を戻し、何事も無かったかのようにおしゃべりを開始する。
 クラス全員が、私が机の上のスリッパを見てどう言った反応を取るか様子をうかがっていたのが分かった。
「なぁ、誰? これやったん」
 声を張って私は皆に尋ねた。だが返事はない。まるで私の存在などなかったかのように、皆は話を続ける。亥山君に言われて、皆が私を避けはじめているとは知っていた。でも、これほど遠かっただろうか? 私はこれほど皆と距離を空けているつもりはなかった。
「あ、智(とも)ちゃん」
 私は隣に座っている女子に話しかけた。花山智、私がこの学校に入って初めて仲良くなった子だ。彼女の机を囲むようにして三人の女子がいる。いずれも以前まで私と仲の良かったメンバーだ。
 私が話しかけると智ちゃんはぴくっと体を震わせた。心なしかその表情は硬い。
「な、何?」
「このスリッパ誰が置いたか知らん?」
 私が尋ねると智ちゃんは小刻みに首を振った。
「さぁ、私は知らない」
「あぁ、そっか」
 ありがとう、と私が言うより早く智ちゃんは逃げるように私から目を逸らした。なるほど、随分とそっけなくなってしまった。
 そうだ。亥山君。亥山君なら何か知っているだろうか。私は彼の姿を探した。でも机に彼の姿はない。どこか行っているのだろうか。溜息を吐くのと同時に、亥山君の後ろの席の女子と目があった。彼女の席には他に二人の女子が集っており、三人ともこちらをニヤニヤと眺めていた。
 新山美里と、その取り巻きの後藤と稲本だ。
 私は彼女達とは折り合いが悪かった。
「何見てんのよ」新山が口を開いた。
「別になんもないわ。そっちこそ、なんやねん」
 すると新山は蔑むような笑みを浮かべた。
「私達はただ朝っぱらから叫んでる可哀想な子を観察してるだけよ。スリッパそんなにされて、あんた虐められてるんじゃないの?」
「うちが虐められる訳ないやろ。それより、虐めをしてるんは」
 あんたやろ、と言いかけて黙った。下手な事を言って亥山君に被害が出るのが怖かったからだ。ただ、新山は私が何を言おうとしていたかは分かったみたいで、馬鹿にしたように口を歪める。
「あんた何も知らないのね」
 新山に合わせて後ろにいる稲本と後藤もクスクスと笑った。後藤の笑い声は甲高く、耳にしていると不快になった。
「何がやねん」
「別に。知らされてないなら良いわ。あんたがあいつにとってそれだけの存在って事だから」
「意味分からん。言いたい事があるんやったらはっきり言ったらどうや」
 すると新山は肩をすくめた。その行動が妙に癇に障る。
 このスリッパの犯人は彼女達ではないかと思った。でも彼女達のターゲットはあくまで亥山君であり、私ではないはずだ。それに、亥山君と違って私には脅されるネタもない。私は抵抗が出来る立場なのだ。それに、それだけの気概も持ち合わせている。虐めるには相手が悪いことくらい新山も分かってるはずだ。
 その時、チャイムが鳴った。と、同時に教室の扉から亥山君が姿を現す。彼は戻ってくると真っ直ぐ自分の席に着いた。私とは目も合わない。
 亥山君に教室で話しかけてもほとんど会話にならない。私が一方的に話すだけになってしまう。どうも亥山君の中には何かスイッチがあるらしく、そのスイッチが入ってしまうと私とはなかなか会話してくれないらしい。
 ──あんたがあいつにとってそれだけの存在って事。
 新山の声が脳裏にチラつく。あいつとは亥山君だろう。彼は私に何か隠しているのだろうか。いや、でも亥山君とは良好な関係を築いていたはずだ。隠し事なんてしているはずが……。
 私はそこで始めて、自分が不安になっている事に気付いた。

 相変わらず食堂はざわめいている。
「ごめんごめん、友達と話してたら遅くなっちゃったよ」遅れてやってきた加奈ちゃんがいつもの席に座った。
「大丈夫やで。じゃあとりあえずご飯買おっか」
 昼休み、テラスにて加奈ちゃんと亥山君とお昼を食べる。それはもうすっかり私の日常と化していた。
「どうしたの? 青ちゃん、今日は元気ないね」
 箸が止まっていた私を見てカレーうどんを食べていた加奈ちゃんが言う。気のせいか、この兄妹は毎日カレーうどんを食べている気がする。
「え? あぁ、うん。大丈夫。ちょっと今日は色々あって」
「鍵の件か」亥山君の言葉に、私は苦笑した。
「鍵?」
「何でもないんよ」とだけ言って誤魔化しておいた。

 昼食を終え、教室のある西校舎の階段で加奈ちゃんと別れた。二人きりになり、私はようやく尋ねる。
「亥山君」
「何?」
「うちに何か隠しとることない?」
「隠してること?」
「そう。今日の朝、新山と揉めたんよ。亥山君は教室におらんかったから知らんと思うけど。あいつに言われたわ。あなた何も知らないのねって、知らされていないのなら良いって。それって、君がうちに何か隠してるって事やんな?」
 私が問い詰めると、亥山君は「あぁ、その事か」と頭をかいた。
「別に隠してるつもりはなかったんだけど。すぐ気付くと思っていたから」
「気付くって、何を?」
 すると亥山君はバツの悪そうな顔をした。
「実は……」
 その時、チャイムが鳴った。昼休みの終わりだ。
「もう五限か」亥山君が呟く。
「ああもう、タイミングの悪い。とりあえず戻ろうか。ええな亥山君、詳しい話は後でキチンと聞かせてもらうで」
「わかったよ」
 教室までやってきてふとドアの傍のゴミ箱に目が行った。珍しい。普段使われないはずのゴミ箱に物が詰まっている。そもそも、こんな邪魔な場所にゴミ箱などあっただろうか。
 ふと覗き込むと中に沢山の紙が捨てられていた。紙の多くは細切れにされているが、時折妙に大きな紙も混ざっている。それは表紙だった。妙に大きな、本の表紙。あぁ、そこで気づく。本を丸ごと捨てると文句を言われるから中身だけ裁断して捨てたのか。これだけ量が多いのをみると何冊か一気に捨てたのだろう。それにしても一体何の本なのだ。
 刻まれた本の中に背表紙らしき紙があり、名前が書かれていた。
 悟った。
 それらは全て私の教科書だった。

 最初に来たのは悲しさや心の痛みではなく、怒りだった。
「誰や」
 自分でも驚くほど低い声が出た。唸る様な、噛みしめるような声。その声を耳にして、感情がコントロール出来ないところにある事を悟る。吐く息が驚くほど震えた。手も。いつの間にか拳を握りこんでいた。
「誰や!」
 隣のクラスにまで響くほどの声で叫んだ。頭に血が昇りすぎて心なしか少しふらつく。クラスの皆がピタリと会話を止め、いっせいに私に視線を寄せた。何事だ、そんな顔。
 私は端から順にクラスメイトの顔を睨んだ。女子から「ひっ」と短い悲鳴が上がるのを耳にして、私は今酷い顔をしているのだと感じる。血走った目でもしているのだろうか。
 体が怒りに包まれているのに対してどこか第三者の視点で状況を観察している自分がいた。体は怒り、心は冷静、そんな感じ。まぁ観察者と化した心が我を忘れている肉体に自制を言い聞かせたところでまるで効果はないのだけれど。
 視線を移す中で、教室の中央付近にいる新山に視線が留まった。同時に、彼女のほうに足を踏み出す。新山の傍にいた後藤と稲本は怒り狂った私が一直線に近づいてくるのを見て逃げるようにその場を離れた。
「どう言うつもりや?」新山の目の前で私は凄んだ。
「何が?」新山は臆する事なく真っ直ぐこちらを見てくる。
「何が? やないやろ。人の物を駄目にした時はごめんなさい言うんが先ちゃうんか?」
「だから、何が? ちゃんと伝わる言語で話してくれないと、その言い方関西じゃ通じてたかもしれないけどこっちじゃ通じないわよ?」
 新山はこちらを煽っている。反応してはいけない。分かってはいるが、声は勝手に荒くなる。
「人のロッカーの鍵こじ開けたり、スリッパ切り刻んだり、おまけに今度は教科書か? 随分姑息なことするなぁ」
 すると彼女は小バカにするように鼻で笑った。
「何で私があんたの教科書を切り刻んだりするのよ」
「自分の胸に聞いたらどうや? 大方、亥山君だけじゃ飽き足らずにうちも虐めようとかそんな魂胆やろ──」

 ……。
 あっ。
 しまった。
 
 血の気が引く。一瞬で、興奮が消える。教室の空気が変わるのが分かった。
 椅子を引く音がして、亥山君が席に座る。そういえば彼の席は新山の前だっけ。皆の視線が私達から亥山君に移った。
 たぶん皆、こう思っている。
『やっぱり亥山って虐められてたんだ』
 彼は皆に自分が虐められている事が漏れるのを恐れていた。それは騒ぎが大きくなる可能性を危惧してでもあったし、自分の立ち位置が虐められやすいポジションである事を理解しているからでもあった。一度その事実が露呈すると皆からも虐められる可能性がある。直接言葉には出さなかったが、彼はそれを恐れていたのだ。
 だけど、私がばらした。
「あ、あの……」「空島さぁ」私の言葉に、新山が話を被せる。「私があんたのスリッパや教科書を切り刻んだって言うけど、証拠はあるんでしょうね?」
「んなもん……」
 ない。何も。
「まさかあんた、証拠もないのに人を疑ってたわけ?」
「し、証拠がなくても誰かが見てたかもしれんやろ」
「じゃあ聞きましょうか、誰か今日の昼休みに空島の教科書を切り刻んだ人を見た?」
 その問いかけと同時に私は周囲を見渡す。誰も手を上げない。皆が新山に加担しているとは考え難いから、誰も反応しないと言うことは誰も見ていないと言う結論に帰結する。
「そもそも、本当に教科書が切り刻まれたの? 私に言いがかりをつけたくて言っただけじゃないの」
「うちはあんたとちゃう。そんな姑息な真似するかい」
「あの、アオちゃん……」そう言い辛そうに口を挟んできたのは智ちゃんだった。「アオちゃんの机に、ちゃんと入ってるよ、教科書」
「えっ?」
 私は思わず自分の机に駆け寄った。中を見る。確かに、机の中に私の教科書はちゃんと入っていた。昼休み前と同じく、依然としてそこに。もし例え一冊くらいなくなっていたとしても、私が見たような、あんなゴミの量にはならない。
「そんな、でも確かにゴミ箱にうちの教科書が……」
「それってこの紙くずの事?」
 いつも間にか新山がゴミ箱の中を覗いていた。
「確かにゴミは多いわね。掃除の時とかたまに見るけど、いつも割と空っぽだった気がするから珍しいわ。でも、これを自分の教科書と勘違いするのは無理があるし、まして私のせいにするなんて有り得ないわよ?」意地悪い笑顔で新山は言う。
「ちゃんと見たんか? ウチの教科書の表紙が入ってんのを」
「どこに?」
 新山はゴミ箱を持つとその場にひっくり返した。同時に、多くの裁断された紙が散らばる。
「あんた何やって……」言いかけて、言葉に詰まった。
 そこには私の教科書の表紙など一枚もなかったからだ。裁断された紙があるだけ。その紙もよく見ると教科書の切れ端ではなく、いらないプリントを切っただけの物みたいだった。
「このどこが教科書なのよ? 自分の教科書が切り刻まれてた? しかもそれが私のせい?」
 言葉が出ない。時間が止まったような感覚に襲われるのに、新山の声だけが私の鼓膜を揺さぶる。
「それに私が亥山を虐めてるとか言ってたわよね? 本人に聞いてみなさいよ。私に虐められてるのかどうか」
「えっ?」
「ねぇ亥山、あんた私に虐められてるらしいけど、そうなの?」
 新山がわざとらしく回りくどい聞き方をする。皆の視線が亥山君に移った。私も、亥山君を見る。
 彼はちらりとこちらを見た後、静かに首を振った。
「嘘……」
 不意に、朝の光景を思い出す。
 彼がもう早く登校する必要はないと言っていた事。
 新山の、あの言葉。

『あんた何も知らないのね』

 そこで、ようやくなぜ彼が今まで早く登校していたか理解した。
 彼は毎朝机の上の落書きを消すために早朝に登校していたんだ。だから虐められなくなった今ではもうその必要はなくなった。
 以前、新山達が彼の机に落書きをしようとしていた事があった。でもそれは、あの日だけじゃなかった。毎日机が落書きされていたのだ。だから彼は朝早く登校していた。そして必死に隠蔽していたのだ、自分が虐められているその証拠を。
 それは、少し考えれば分かる事だった。
『すぐ気付くと思っていたから』亥山君はそう言った。
 普通の観察力をしていれば、予測がつくはずだったのだ。
「あんたって確か、正義感が強いとか言われてたっけ」不意に新山が言う。「じゃあ人の事これだけ侮辱しといて、何もなしって事はないわよね?」
 彼女は真下を指差した。
「謝ってくれない? ここで。それ相応に」
「……」反論のしようもない。
 クラスの皆が傍観者に化していた。当然のように誰も新山を止めようとは、私をかばおうとはしない。
 私は亥山君を見た。彼はこちらに背を向けている。高い壁で彼と隔てられた気がした。彼にとっては、私は裏切り者と変わらないのかもしれない。せっかく近づけたと思ったのに。私は、自らの選択でそれをふいにしてしまった。
 この場において、私に味方はいない。
 土下座、新山は私にそれをしろと言っている。
 ハメられたな、そう思う。普通こんな手に引っかかるだろうか。自分の性格が完全に仇となった。私は地面に膝をついた。両手も、その場につく。
「どうしたの? 何の騒ぎ?」
 頭を下ろそうとした時、教室の空気を割ったのは五限目の家庭科の先生だった。

 昼休み終わりから五限目の僅かな間に、私は友達も信用も失った。
 あくまで虐めはないと主張したい学校側と、面倒な事に巻き込まれたくないと言う教師の姿勢と、状況に整合性がとれる新山の話。クラスで完全に孤立した私に勝ち目はなかった。
 亥山君が虐められていたと言う事実と、それに準ずる彼の証言があれば状況はどうにかなったかもしれない。でも、そんなものはもちろんなかった。私が頼れるものはそんなあるはずのない希望的観測だけだったのだ。
 職員室で教員の詰問を受けようやく教室に戻ってきた時、もう私の居場所は存在しない様に思えた。
 その日は一人で帰宅した。今日は最悪な事があった、でも明日頑張ればまだ立て直せる、そう思って。
 我が家に差し込む夕景の光が寂しさを一層募らせる気がして私の心をより憂鬱にした。
 まだ真新しい一軒屋の門を抜ける。家には誰もいない。
 玄関を入ったすぐ傍にある部屋が私の部屋だった。引っ越してきた時、広くて居心地の良い部屋を父に当てがわれたのだ。お前の方が家に居るんだから、父はそう言った。
 先日ようやく自室の片付けを終えたばかりで、部屋の中は妙に生活感がない。自分なりにコーディネートした部屋だが、どうにも自室で過ごすのが嫌で普段はリビングで過ごしていた。自分の部屋だと本当に孤独に襲われる気がしたから。
 でも今日は別だった。今日だけは、独りになりたい。
 私は自室のベッドで横になると、目を瞑った。
 まだ、父が私と一緒にいてくれた頃の事を思い出した。警察署内にある道場によく連れて行ってくれたっけ。父の同僚の刑事さん、みんな良い人ばかりだった。誰も子供を連れて来た父に文句も言わず、私とよく遊んでくれた。
『いつも弱い人の味方でいろ』あの頃、父は言った。
 じゃあ自分が弱者になった時はどうすればええんよ?
 こらえきれずに、私はひっそりと泣いた。こんな時でも、意地を張って声を抑えてしまうのが辛く、また情けなかった。

 気がつけば夜だった。どうも泣き疲れて眠ってしまったらしい。気持ちは幾許か落ち着いている。
「何か食べよ」私は起き上がった。暗闇の中、自分が制服を着ているのがかろうじて判る。そういえばまだ着替えもしていない。
 部屋の電気をつけ、ジーンズとTシャツに着替えた。姿見に映る自分の顔が酷く、思わず笑った。リビングに行こうと自室のドアを開ける。廊下も、リビングも真っ暗なまま。父は帰ってきていない。
 リビングの入り口にあるスイッチを押す。パッと照明に灯りがともり、室内を照らし出した。こちらの部屋の片付けはまだほとんど終わっておらず、荷物の入ったダンボールがいくつか積み重ねられている。私はそれらの脇を抜け、何か食べるものはないかと冷蔵庫へ向かった。
 その時、不意にポケットの中身が震えた。携帯電話だとすぐに気づく。父からのメールだろう。どうやら今日も遅くなるらしい。私はそっと溜息をついた。
 冷蔵庫を開くと、稼動音と共に冷気が漏れ出てくる。中には何もなかった。空虚で無機質な空間。見てると引き込まれそうになり、扉を閉めた。
 時計を見るともう午後の八時を回っていた。この時間から材料を買ってきて料理を作るのはなかなかに面倒くさい。時間もかかる。
「今日は外食かなぁ」近所には牛丼屋もあるし、チェーンのレストランもある。
 食べないと言う選択肢もあったが、妙にお腹が減っているのであまり我慢はしたくなかった。それに、元気がない時ほど何か食べなければならないと思う訳なのだ。落ち込んでいる時に冷えた物は駄目だ。温かいものがいい。
 シャツの上に薄手のジャケットを羽織った。スニーカーのヒモを締め、外に出る。歩いていると、車の窓に映る自分の姿が目に入る。まるで男の子だ。
 昔から、あまり女っぽい服装にチャレンジした事がない。少しは加奈ちゃんみたいに可愛らしい格好をしてみたいものだ。化粧も、今度教えてもらおうかな。
 加奈ちゃんの事を考えると、連鎖的に亥山君の事も思い出してまた泣きそうになった。涙がこぼれないように空を仰ぐ。浮かんだ月の光がじわりと空に溶け込んでいた。
 しばらく何気なしに歩いていると、お洒落な喫茶店が目に入った。こんなとこに喫茶店なんかあったんだと少し驚く。
 あまり歩くのも面倒くさいので、ここで食べる事にした。店が混んでいないか、窓から店内の様子を覗く。外が暗く、店の中が明るいので容易に店内の様子を探る事が出来た。あまりお客はいない。暇そうだ。
 ふと、窓際に座っているお客に目が行った。カーディガンを羽織った女の子がおり、店員と仲がよさそうに会話している。常連だろうか、それにしても二人ともどこか見た事がある気がする。
 お客と店員が誰だか分かった時、私は思わず息を呑んだ。
 亥山君と、新山が、一緒に、仲睦ましげに会話していたからだ。
 一体どうなっているのだ? 状況が理解できない。
 彼がアルバイトをしていると言う事は知っていた。でも、そこで新山と交流があったなんて一言も聞いていない。
 新山はたまたま今日この店に来たのだろうか? 一瞬そう思ったが、すぐにその考えは間違いだと悟った。二人の楽しげな顔は、どうみても虐めっ子、虐められっ子の関係には見えない。きっと彼女はこの店の常連なのだろう。
 まるで心を許しあっているかのような二人の表情、親友のような、恋人の様な……。
 本当は仲が良かったの? じゃあ今までのは一体何?
 不意に店内にいる亥山君がこちらに視線を向けた。一瞬、目が合う。
 気がつけば逃げるようにその場を走り去っていた。
 私は亥山君を裏切ってしまったと思っていた。自分で首を突っ込んで、彼を助けると言っておいて、余計に彼を追い詰めてしまったと。
 でも、そうじゃなかった。
 彼は、私を裏切っていたのだろうか? 奮闘する私を見て心の中で笑っていたのだろうか?
 ネガティブな感情が私の中にどんどん浸透していく。払拭できない。勝手に涙が出てくる。止まらない。
 自分に味方がいない、いや、元からそんな物いなかったのだと私は知った。
「うちってアホやなぁ」
 視界が滲む。世界が歪む。
「勝手に、独りで暴走してたんやなぁ……」
 とんだピエロだ。

       

表紙

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Neetsha