ゐら<ゑ☆レま〃レヽω
T=〃レヽレニゎ
「いつ帰ってきたんですか」
冷や汗だろうか。
妙にさらさらとした水っぽい汗を拭うことも忘れ、巳貴は訊いた。
梢は戸惑うように「昨日」とだけ言った。
何か引っ掛かるものがあったが、巳貴は気に留めぬよう自らに言い聞かせ、梢同様視線を落とす。
あまりにも突然の再会は、二人の間に明らかな動揺を与えていた。
それは亀裂と言ってもいい。
互いに年齢も、性別の差異も気にすることなく一緒にいられたあの日。
別れを告げることも無く引っ越した梢。
「さよならが言えなかった」。後日巳貴の元に届いた手紙にはそう書かれていた。
巳貴は納得できなかった。
家が比較的近所だったこともあり、暇さえあれば二人は手を繋いで遊んだ。何故あそこまで気があったのか、今もって巳貴には分からない。とにかく巳貴にとって梢は特別だった。
幼馴染。二人の関係はそう表現するのが適当だろう。しかし、あの別れで味わった喪失感は、巳貴の人生で未だ最大のものとして残っている。
確かに、巳貴は梢を愛していた。その感情は複雑で、家族のような、恋人のような、その時々で虹色に変化する「愛情」だった。
同じく梢も巳貴を愛していた。巳貴より一つ年上の彼女は、巳貴のそれとは異なる、はっきりとした恋として。
共に小学生の高学年。まだまだ子供としての比率が大きい年齢で、それでも梢は巳貴が好きだった。
照れることを知らない巳貴の行動や言動に一々やきもきしながら、梢は二人でいられる幸せを噛みしめていた。
前触れ無く急に決まった引っ越し。別れを告げる勇気が出せず、しかし何も想いを伝えることが出来ぬまま離れ離れになることだけは避けようと、毎晩どうしようもなく泣いた。
結局、梢は巳貴に直接さよならを言えぬまま去った。
彼女は自らの臆病さを呪った。どんな形でも、と思い手紙を書いた。
巳貴からの返事を待ったが、半年経っても彼からの手紙は届かなかった。
怒らせてしまった。嫌われてしまった。
梢は悲しみに暮れ、また泣いた。
時間と共に悲しみは癒えたが、消えたわけではない。
巳貴もまた、彼女の悲痛な告白を幼い感情に任せて無視してしまったことを、いつまで経っても後悔していた。
「どうして・・・急に」
美しく成長した梢を前に、巳貴はどうするべきか迷っていた。
今すぐにでも逃げ出したい。しかし、もっと話を―――あの時止まってしまった時間を、再び動かしたい衝動に駆られ動けない。
「ちょっとね、用事があって。大したことじゃないんだけど」
その微妙なニュアンスで、巳貴は気付いた。
「また、向こうに帰るんですね」
「うん」
「いつまでこっちに居るんですか」
梢は視線を広場で遊びまわる子供達に移し、短い間を置いてから、
「明後日・・・いや、明々後日くらいかな」
3日後、梢はこの街から再び居なくなる。
それを聞いて巳貴は決心した。
「今、暇ですかね」
「・・・暇だよ」
当初のレポート作成という目的は今日中には果たせそうにないが、巳貴にとって今最優先されるべきなのは目の前に居る梢だった。
それは昔から全く変わらない、彼の、彼にだけある掟。
「お昼、一緒に食べませんか。おごります」
「懐かしいね、ここ。まだあったんだ」
巳貴が案内したファミレスを見て、梢は心底感激したようだった。
思ったよりも店内は空いている。巳貴は応対に出た店員に隅の奥まった席を希望した。なんとなく、「二人きり」を実感したかった。
「何にします?値段気にしなくていいですよ」
運ばれてきた水で喉を潤してから、巳貴は勧めた。
「ねえ」
しかし梢はメニューには触れることも無く、巳貴を見据え言った。
「なんで敬語なの」
ぎくり、として巳貴は梢を見た。怒ってはいない。ただ、何か―――捨てられた猫のような、様々なものが溶け合った難解な表情をしている。
「それに名前も。昔は梢って呼んでくれたのに、どうして『さん』付けなのよ」
「なんでって言われても・・・」
理由は巳貴自身にもわからなかった。ただ無意識に漠然と、昔のように向き合うのが憚られた。
再会したその瞬間から、梢は昔の彼女とは違って見えた。もちろん容姿が成長したというのもある。だがそれ以上に、何か決定的な違和感が巳貴を躊躇させていた。
「まあいいわ。ごめんね」
そう言って梢はメニューを手に取った。
梢はピラフのサラダセット。巳貴はペペロンチーノを注文した。
「辛いの苦手じゃなった?」
「何年前の話ですか」
梢の問いに、巳貴は苦笑して答える。それに、ここのペペロンチーノはそんなに辛くないのだと、巳貴は言った。
互いに牽制しあっているような、妙に息苦しさが残る会話だった。
本当に話したいのはこんなことじゃない。そう思いながらも、きっかけが無い。
料理が運ばれてくるまで、二人は黙り込んでいた。
定型文を口にするウェイトレスに、「どうも」と返す巳貴。それが沈黙を破った。
「巳貴くん大人っぽくなった」
ぽつり、と梢が漏らす。
「・・・まあ、多少は」
なんと答えていいかわからず、巳貴はおざなりに場を濁した。
「今、17歳?」
手元のピラフなど気にも留めぬように、巳貴の目だけを見つめながら梢が訊く。
昔はなんともなかったが、今の巳貴は正面から目を覗き込まれるのが苦手だった。
「まだ16です。誕生日12月なんで」
居たたまれなさを覚え、パスタに視線を落としたまま言った。
「あ、そうか。そうだったね」
「梢さんは18ですよね」
「うん。早いね」
梢はしばし目を閉じて、何事か思案しているようだった。
「ねえ、巳貴くん」
窓の外に広がる穏やかな日常を、どこか遠い国の出来事のように眺めながら梢は巳貴に語りかける。
「幸せって、どういうことだと思う?」
「なんですか急に」
突拍子も無い梢の言動に危うくパスタを詰まらせそうになりながら、巳貴は彼女の横顔を見た。
微笑んではいるが、やはりどこか寂しそうだった。昔のやたらと活発だった面影は微塵も無い。
「何かあったんですか」
そういえば彼女は何のために戻ってきたのだろうか。
用事があって―――そう彼女ははぐらかしたが、ではその用事とは何なのだろう。
「何も無いわ。そうよ、大したことじゃないもの、あのくらい」
意味不明の言動に眉をひそめながら、巳貴は梢同様窓の外に視線を移す。
「よく分かりませんが、幸せって言うのは定義できる類のものではないと思いますよ」
いままで幸せについてなど考えたことも無かった巳貴であったが、何故かこの時は自然と言葉が出た。
「その人が幸せだと思えば、きっとその人は幸せなんです。他人が『あなたは幸せだ』とか、そんな風に決められるものじゃない。外からは限りなく不幸に見える人でも、本人は幸せかもしれないし、そうでないかもしれない。通念で形式的に程度を区分しても、結局は的外れだと思います、俺は」
梢が訊きたいのはこんな事じゃないと、巳貴は理解しながらも、他に言うべき言葉が見つからなかった。
「随分突き放すわね、あなたは」
「・・・すいません」
そんなつもりは無かったが、確かにそうかもしれない。
巳貴は誤魔化すようにパスタをフォークでくるくると巻き取った。
「最後に信じられるのは自分だけってことかしら」
「というか、自分は幸せだと思いながら生きて行きたいな、と」
「そう・・・」
梢は再び巳貴に視線を戻し、その美しい瞼を細めた。
「そうよね」
そう言った梢の微笑みは、見ている巳貴の胸が痛むほど、寂寥に満ちていた。
二時間ほどファミレスで過ごし、外へ出た。
まだ日は高かったが、巳貴は今更課題をやる気になれず、家へ帰ることにした。
「梢さんは何処に泊まってるんですか」
ふと、湧いた疑問を口にする。
彼女の住んでいたマンションは引っ越したときに引き払ったはずだった。
「駅前のビジネスホテル」
「家族の方は」
「来てないわ。私ひとり」
そうですか、とだけ言い、巳貴は左手首の腕時計を見た。
「また明日、会えますか」
真っ白な日傘が反射する陽光に目を細め、言った。
驚いたように梢の肩が震え、同時に日傘も傾く。
「迷惑だったら、いいですけど」
「・・・ずるい言い方を覚えたのね」
悪戯っぽく笑いながら、梢は頷いた。
「お誘いありがとう。もちろんお受けするわ」
明日また、あの場所で。
約束を交わし、梢は駅に向かって歩き出す。ホテルに帰るのだろう。
巳貴は追わずに、公園へ。木陰のベンチに腰掛け、一息ついた。
早速、後悔していた。梢を昼食に誘ったこと、未練がましく明日の約束まで取り付けてしまったことを。
そう、未練なのだ。巳貴が梢に抱いている感情は。
自ら関係を断ったあの日から、ある種トラウマのように梢の存在が巳貴の中から離れない。それどころか、どんどん膨れ上がっていた。
しかし、もうその未練は忘れるべきだった。忘れなければならなかった。
会ったときから梢に感じていた違和感。
その正体に、巳貴は先ほど気付いた。いや、最初から気付いていたが、認めるのを脳が拒んでいた。そんな気がする。
そして梢の態度、表情の端々に映る暗い翳。
それら全てはきっと―――
彼女の左薬指に嵌められた、銀色の指輪が原因なのだ。