LittleBAR
01.マリリンモンローのマティーニ
中に入り、トビラが閉まる。
たったそれだけのことで、キョウコさんはまるで別の世界、子供っぽく言えばおとぎ話の世界に入り込んだように感じました。
店内を埋め尽くすように並んでいる瓶、瓶、瓶。それらのほとんどがウィスキーの瓶でしたが、もちろんキョウコさんにはわかりません。
瓶の他には本、本、本。まるで図書館のようにきっちりと、けれどジャンルは節操無く並んでいます。
その多くはカクテルの教本でしたが、ジャズの全集、ヘミングウェイやシェイクスピアの小説、漫画のコミックス(城アラキ作品)が混ざっています。
店内に流れる音楽。J-POPぐらいしか聞かないキョウコさんは「ああ、ジャズっぽい」ぐらいの感想しかありません。実際流れているのはジャズなので、間違いではありませんが……うーん、もうちょっと良い感想をいただきたかったところです……
光量が抑えられた照明。ピカピカに磨かれた床。背もたれのないイス。
「いらっしゃいませ」
そしてバーテンダー。ちょうどキョウコさんのお父さんぐらいの年齢でしょうか。白髪が渋く、首元には蝶ネクタイ。パリっときまった黒いベストとシャツがとてもそれらしく見えました。
「どうぞ、お好きなところへ」
「は、はいぃ」
もともとバーなんて慣れておらず、前に行ったのもいつのことか覚えていません。
おそるおそる、ドキドキしながら端っこのイスに座りました。木でできたカウンターがすべすべとしてとても心地良い手触りでした。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
カウンターごしに渡されたおしぼり。もくもくと湯気が立っています。
受け取り、手の中でわしわしとほぐすとラベンダーの香り。
つい顔を拭きそうになりましたが、化粧が落ちてしまうのでぐっと我慢。
(さて……どうしましょう……)
メニューを受け取り、パラパラと眺めるものの……よくわからないカタカナばかり。てきとうに頼んで変なのが出てきたらがっかりするので、キョウコさんは悩みます。
すでにジョッキビールを呑んだ身。そこまで呑みたいわけではありません。
ですがウィスキーやブランデーは苦手なキョウコさん。
うーんうーんと悩み、メニューの文字を追いかけて……見つけました。数少ない、キョウコさんが知っているカクテル。
「マティーニください」
バーテンダーは「かしこまりました」と言い、カウンターの奥へと行きました。
ここでキョウコさんは一安心、作り方やレシピを訊ねられたらどうしようと心配していたからです。
手持ち無沙汰なので、カウンターを覗き込みました。
細長いグラスに大きな氷、水が入り、クルクルと混ぜられました。それが何だかよくわからない蓋で押さえられ、水だけが捨てられました。
そこにあれやこれやとメジャーカップでお酒が入り、またクルクルと混ぜられます。
(あれ? もう終わり?)
目の前に冷えたカクテルグラスと、そこに入っているクシに刺さったオリーブ。そこになみなみと注がれました。
そしてその隣には、小皿。
(この小皿、何に使うんだろう……)
それはそれとして、無色透明な液体、そこに沈むオリーブはまるでエメラルドのようだ、なんてキョウコさんは考えてしまいました。
写メを撮りたい。そう思いながらも恥ずかしいので我慢。
そっと口元に近づけると、つぅんとくる、柑橘系とはまた違った香り。
それを、一口。
(苦い……すごく、辛い……)
舌がひりひりとする苦さ、辛さ。
(もしかしたら、二口目から甘くなるのかも……)
こくり
(やっぱり苦い! 辛い!)
それがマティーニの良いところだったりするのですが、どうやらキョウコさんはイメージが違ったようです。
ふと目に留まったのが、オリーブ。
(……もしかしたら、これを食べればおいしくなるのでは? チョコレートパフェのウエハースのような効果で)
むしゃ
むしゃむしゃ
(塩辛い……なんなの、これ)
その辛さがオリーブのオイル漬けの良さなのですが、やっぱりキョウコさんはわかっていません。
(そっか。この小皿はクシを置くところなのね)
正解!
クシを小皿に置き、いざ三口目。
こくり
(だが苦い!)
ああ、やっぱりダメみたいでした……
(咳き込みそう……ちょっとおいしくないかもしれない……)
すっかり意気消沈、心が折れかけたとき。
「そう言えば」
バーテンダーがキョウコさんに話しかけました。
「マティーニは数多くのレシピがあることを知っておられますか?」
「い、イイエぇぇぇ。5、6個ぐらいですか?」
「それが、その数200以上。まだなお増えているのです」
「え、そんなに?」
(この苦い、これが?)なんて思ってしまうキョウコさん。
「マティーニは非常に有名なカクテルです。
007シリーズではジェームスボンドも召し上がっていましたし、かの文豪ヘミングウェイやイギリスのチャーチル首相も愛飲していたそうです。
ただ、彼らが愛したマティーニは、本日作らせていただいたものとはまったく違うレシピなのです」
「へぇ~」
「その中で、あのマリリンモンローが呑んだとされるマティーニがございますが……お召し上がりになりますか?」
「ぜ、ぜひ」
こういったとき断れないのがキョウコさんの可愛い欠点。
バーテンダーは何かが乗った小皿を差し出しました。
一見すると、角砂糖
「角砂糖っぽいですね」
「はい、角砂糖です」
「ほ、ほう……」
間違ってませんでした。でもキョウコさん的にちょっと複雑。
これを、食べるのでしょうか?
「正しくは、角砂糖を模したお菓子です。甘くておいしいですよ」
ちょっと安心。
食べれそうですね。
「映画、しちね……申し訳ございません、タイトルはど忘れしてしまいましたが、ある映画の中でマリリンモンローがマティーニに砂糖を入れろと言ったのです」
「普通は入れないんですか?」
「砂糖を入れるという話は聞いたことがありませんね。
実はマティーニを呑んだことがなく、あまりに苦くて、辛かった。だからそんな言葉で出てきたのです」
ぎくり
キョウコさんの鼓動が高鳴ります。
自分とマリリンモンローの呑んだ感想が、まったく同じだからです。
「マリリンモンローと言えば、アダルトで、色艶のある美女を多くの人がイメージしていることでしょう。
ですがその映画では飄々とした、どこか少女的な愛らしさが感じられます」
「へ、へぇ~」
ドキドキ
高鳴る鼓動が止まりません。
「そこで私が思うことですが……初めて呑んだときの味とは、かけがえのないものなのかなと思うのです」
「……そうなんですか?」
「例えばビールですと、初めて呑んだときはただ苦いだけだったと思います。
ですが、気づけばその苦さをおいしいと思うようになっています。
それが悪いはずはありません。ですが……少し物悲しく思ってしまうのです」
「なるほど……」
「ですので、そのマティーニの味は、大事な思い出として残していただけたら、私は嬉しく思います」
「…………」
ぱくっ
カリコリ
角砂糖のようなお菓子を口に投げ込み、噛み砕き、飲み込みました。
マティーニの苦さが吹っ飛ぶような、甘さ。
「……なんでわかったんですか? 初めてってこと」
「お気を悪くされたのなら、申し訳ございません。
職業柄、そんな勘が働いてしまいまして……」
気分を悪くするどころか、キョウコさんはすぐにでも笑い出したい気分でした。
バーテンダーから悪気は感じられません。それどころか、わざわざ映画の話をする回りくどさがキョウコさんの好みだったのかもしれません。
グラスの霜が晴れ、水滴が流れ落ち、ちょっとぬるくなってしまったマティーニ。その残りをごくりと呑み干ししました。
やっぱり、苦い。それがキョウコさんの初めてのマティーニの味。
「何か、お作りいたしましょうか?」
「……お水、ください。口の中、ヒリヒリしちゃって……」
バーテンダーはにこりと笑い、きんきんに冷えたポットからグラスに注ぎました。
■コラム 第1回~マティーニのあれこれ~
◆マティーニ
ショートカクテルの王様、と比喩されるマティーニ。あまりお酒を呑まない人でも聞いたことはあると思います。
どれぐらい有名かと言うと、『マンガやアニメで、クシに刺さった丸いのが入った透明なショートカクテルが出てきたら間違いなくマティーニ』ってぐらい有名です。
作中でも書きましたが、マティーニは実在した著名人、そして多くの文学作品、映画に登場します。
日本の作品で言えば『101回目のプロポーズ』で浅野温子さんがバーでいつも注文していたそうです。
そのシンプルさゆえに人気があるのだろうと思うのですが、作者にはもっと別のカラクリがあるからだと、ひっそりと思っています。。
ショートカクテルを注ぐグラス(あの三角形のグラスのこと)、そもそもあれがマティーニグラスという名称です。つまり、あれにお酒を注げばなんでも●●マティーニとなるわけですね。
そりゃあ有名になるってもんですよ。ちょっとインチキっぽい気がしますね。
それゆえ、店独自のマティーニがあるようです。覚えている限り、桃のマティーニ、すいかのマティーニ、チョコレートのマティーニをいただいたことがあります。いずれもジンベースだったので、普通のマティーニの中にそれぞれの良さが入っていて、とてもおいしかったです。
特に2月14日に、男性のバーテンダーに作っていただいたチョコレートのマティーニ。いつもよりほろ苦い味でした。きっと忘れません。
◆マティーニのオリーブ
ずっと考えているのですが、あのオリーブってどのタイミングで食べるものなんでしょうか。最初こそ途中で食べたりしてましたが、今では最後に食べています。
そもそも、あのオリーブはどんな働きがあるのでしょうね。キョウコさんも言ってましたが、チョコレートパフェのウエハースみたいなもの?
……今書いていて思いましたが、マティーニ通の間では、あのオリーブが食べずに残す、というのがあったりして……いやいや、そんなまさか……
うーん、どうなんでしょう。
◆マリリンモンローが出ていた映画
作中で言っていた映画は『七年目の浮気』です。スカートがまくれ上がるシーン、と言えばピンと来るかもしれません。
「ななねんめ」ではなく「しちねんめ」と読むそうです。