Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集 参
ロールシャッハテストを/53

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 積み上げた物がガラガラ崩れると怒りや無表情を通り超えて笑えてくる。壊す時は一瞬で爽快感さえ生まれる。
 私がこれまで経験したものでは、休み時間中作っていた積み木が目の前で薙ぎ払われた時、夏休みの課題で作った自由工作が展示中に壊されていた時、ずっと尽くしてきた男に彼女が出来たからと言われた時、高校三年最後のテニス県大会試合直前にコーチの気紛れで登録を外された時、そして今。

「ごめん、彼女妊娠しててさ……」
 ほう、それはとても面白い。医学部医学科の貴方が避妊を疎かになさるとは。
 というか妊娠してるならば結婚するのかしら、もう貴方は実習に入っているのだから得意の医学技術で堕胎なさらないのかしら、妊娠って数日で判明にまでは至らないわよね、だったら数ヶ月前から貴方は私を裏切っていらしたのかしら。
 まぁそれは存じ上げずに随分と愚かな行いを披露致しましたこと、滑稽でしたでしょう。
 ざーっと脳内で流れた反論は言葉にならなくて、そう、とだけ呟いた。
「香織が受験だってわかっていたから言い出せなかったんだ」
 だったら会いにも来なきゃ良かったのにね。そうか、精神安定剤として会ったり食事したりセックスしたりして下さったのね、それはとても丁寧なご配慮を。 
 半個室となっているダイニングバーで緩やかに流れる音楽の何かわからない弦楽器の音と、隣の席の声と店員の声が響く。ずっと手にグラスを持ったまま彼の話を聞いていた。
 これは所謂別れ話という類のものだ。
 目の前の彼氏、おそらく今日中には彼氏ではなくなっている人、とは私が高校生の時に家庭教師として出会い、今の今まで三年程長期に渡ってお付き合いをしてきた。某有名私立大学の医学部医学科の六年生で後は国家試験を受けて実家の皮膚科を継ぐという予定の人。
 対して私は彼の家庭教師の甲斐もなく一度目の受験に失敗し、予備校に通いながらも彼との交際を続け、最悪な事に、というよりもふざけていたために二度目の受験をも失敗し、三度目となる今年髪の毛と体重と精神と自由時間を削って彼の大学に匹敵する程の国立大学医学部医学科に合格した。ようやく彼と対等な位置に立ち、同じ医者として生きていく目処が付いたところだった。
 それが入学して三ヶ月が経ち、夏休みどうしようかと話し合おうとしたこの時期に別れを告げられている。私の人生計画である、医学部卒業、大学病院で勤務医、開業医の彼の家に嫁ぐという安定ルートが破壊された。合格してから数ヶ月お祭り騒ぎでかなり浮き足立って、新しい環境にも慣れようと必死に前を向いていたら、背後から切りかかられた気分だ。
 何だ、合格のために削ったのはこの人もなのか。
 持ったままのグラスから水滴が掌、手首、腕まで流れてきた。瞬きを忘れていたようで、一度目を閉じて開くと瞼の内側にコンタクトの引っかかる感覚があった。目を見開いて固まっている私とは対照的に目の前の男はずっと俯いて小刻みに動いている。自分で自分の言葉に頷くように、小さくヘドバンをしているようだ。
 どうしたの、そんなに貴方の別れ話はロックなのかしら。
「ほら、二浪目だったから絶対うかって欲しかったし、いや、えっと……」
「何……」
「ホントごめん」
 いや、ごめんはいいよ、それよりどうするのよ、貴方まだ学生なのに子供って。結婚するの、相手誰なの、そんなのでいいの、長年付き合っている私より子供出来た数か月の付き合いのその女なの。もしかして数ヶ月じゃないの?そうか、それは私の女の勘という物は酷く薄鈍で鈍感で役立たずだ。そうやって全て捨てないと合格できない医学部でこの先やっていけるのかしら。
 貴方のガキだったら今すぐ孕むよ、それでも出来た方が勝ちなんだ。私が女らしくない方向に力を注いでいたらぽっと出の女に負けるんだ。
 何だそれ、私の、過去の私の努力を……。ああ、面白い、笑えてきた。
「よくわからないけれどお幸せに?かな?」
「……ありがとう、香織なら俺が居なくてもやっていけるよ。俺なんかより全然頭良いし、強いし、大丈夫だよ」
 それが追い討ちだった。手に持っていたグラスを机に投げつけると、二人の真ん中に位置していたサラダに当たって割れたグラスが机に広がった。ガラスと野菜のシーザーサラダの完成だ。そんなに謝るならこれ食ってみろよクソが、謝罪は行為で示せ。
 一瞬全ての音が無くなり、全ての動きが止まり、時が止まったように思えた。
「ちょ、お前……落ち着け……」
 いきなりの私の行動に彼は震えていたみたいだった。震えていたのは私かもしれないけれど。周りが時間を取り戻す。
 店員が来る前に出ようと思って、横に置いてある鞄を取った。
「帰る、これ私のお金。ご祝儀代わり」 
 財布から千円札をあるだけ、三枚引き抜いて机に置くとその部屋を出た。かつかつとヒールを鳴らして廊下を歩いて、驚いたような腫れ物に触れるような目で見てくる店員を無視して店を後にした。地下にあったから階段を登って地上に出ると、店のブラックボードと行灯のようなライトが目に付いた。蹴り飛ばしたい衝動に駆られながら通りを抜け、駅に向かう。
 沢山の人間で溢れた駅前で悔しさがこみ上げてきた。ヒールで地面を踏みつける勢いで歩く。
 何なのかしら、どういうつもりかしら、心外も甚だしい!!一緒に祝ってくれてたじゃない、これから私が貴方の受験支えようとしてたじゃない!!
 ……あの野郎、何だよ頭良いって!!頭良かったら二浪もしてねぇよ!!俺なんかよりって皮肉かよ、てめぇの大学と変わらない場所に二浪だよ。
 くっそ、怖かったのか、自分が追い抜かれそうで、自分の場所まで追いつこうと走ってきた私が。その程度の男か、自分と同じ位置に立たれたら怖いのか、それで他の女に走ったのか。どうせ看護科か何かなんだろうがよ、散々言ったよな、看護科に気を付けてねって。頭の良い女は嫌いなんだろ、本当に低レベルのプライドだな。
 そんな男を三年以上信仰して崇拝して愛して来たのか。とんだ盲目でセンスの無い女だな私は!
 で?何だ?俺が居なくてもやっていけるって、強いって。てめぇの前でぼろぼろ泣きでもすりゃ弱いのか、ぱっと見で弱者じゃねぇとてめぇは支えねぇのか。そんな上っ面だけで判断するような男なのか。だから妊娠なんかさせちまうんだよ。私と付き合ってきてどこをどう見て強いって思ったんだよ、お前も盲目の能無しなのか、強かったらこんなに、こんなに傷付いてねぇよ!!こんなにお前なんかに……。
「ああぁぁ……」
 駅前の通りの信号に捕まり足が止まった事でしゃがみこむ。高いヒールのせいで全然地面に触れられない。地に足が着かない。歯を食いしばって耐える。
 誰も見て見ぬフリだ。信号の変わる音がして、立ち上がると立ちくらみのする中、前に進んだ。歩くのも立つのも億劫で、駅の壁に寄りかかる。
 スマホを取り出して友達にメッセージを送る、今暇?飲めない?緑色のふきだしが二つ並んで、今電車で帰宅中というメッセージが対面上に表示される。どうした?どこで飲む?ぽんぽんと表示されるメッセージに私の家で、と返事した。

 呼び出した彼女は高校からの親友と言うか、親友を通り超えて変な距離感の子だ。お互いに苗字をさん付けで呼んでみたり、気分次第で呼び名を変えあったり、誕生日にプレゼントは送り合わないがメールしたり、それでいてお互いの呼び出しには応じられる限り応じる。彼氏と、いや元彼氏だけれど、あいつとこの子が死にかけていたら私は彼女を助けるだろう。ああ、この考え方がダメだったのだろうか。
 フラれたり、不合格だったり、ある一点で自分を否定されると自分の全てが否定された気分になる。全てがダメのような気になる。頭も顔も性格も容姿もセンスも声も動作も何もかも、何もかも全てダメな人間に思ってしまう。こんなダメ人間に未来はあるのかしら。
 私も電車に乗って最寄駅に降りたので、彼女とは駅で待ち合わせる形になった。塾講のバイトの帰りだった彼女は黒のパンツスーツに水色の半袖ブラウスで、着崩したリクルートといった装いだった。明るい色のロンパースにオープントゥのヒールを履いたリゾートみたいな私とは全く正反対に近い格好だ。
「東堂さん暑苦しいー」
「あっついよ、実際!バイト帰りなんですー私は葉山さんとは違って働いて来たんですー」
「そりゃすまんかったねー。お疲れースーパー寄って酒買って行こうよ」
 二人で帰り道途中の大型スーパーに寄ってお酒とツマミを買うと、両手に袋をぶら下げて歩く。買い物袋に金がかかる事に文句を言いながら、私の家に着いた。彼女は私の親に挨拶をして、私の親も彼女を喜んで受け入れた。
 彼女は私と違ってとても真面目な人間だ。中身は少し面白いけれど。
 同じ高校に通っていたものの、彼女は部活動でも優秀な成績を修めて、その上スポーツ推薦ではない推薦を取って私の元彼氏と同じ大学に入り、今も奨学金を受けながら大学三年生として就活を視野に入れて動いている。そんな人なので、私の親からの信頼は絶大だ。
それに対し、私は彼女と同じ高校に滑り込み、彼女の恩恵を受けて毎回赤点を免れ、入った部活のテニス部も遊び半分だったけれど強い子とダブルスの息が合ったからかそこそこの成績で、高校三年から受験勉強を始めて、元彼氏のせいで医学部に憧れて、浪人したから絶対医学部と思ってこの様だ。つくづく安易な人生設計によるバカな生き方だ。
 玄関から階段を登って自室に辿り着くとローテーブルの上に買ってきた物を置いて、彼女はトイレに行った。その間に軽く部屋を片付けて、クーラーを入れる。そしてTシャツとジャージに着替えて、彼女用の部屋着も取り出した。
「東堂さんお着替え下さいませ」
「ん、ありがとーあのさーコンタクト外していい?洗面台借りていいかな?」
「いいよいいよ、トイレの横だから。多分メイク落としもあるし、何でもして」
「いやメイクは落とさないわ、眉毛無くなるから」
「やっべー怖ぇー」
 わけのわからない笑いが起きて、私は階段を降りて台所でコップと大皿を取り出した。すぐ横に母親が来る。
「香織ちゃん、ご飯の残り出そうか?何かツマミとか作ろうか?」
「んーいい、買ってきたから。五月蝿かったらごめん」
「あんま由里ちゃんに迷惑かけたらダメよ?」
「はーい」
 適当に返事をして冷蔵庫から烏龍茶のボトル取り出して、それも抱えて階段を登った。
 人と話したりする事で少しずつ溜飲は下がってくる。今思えば妊娠というのも本当か嘘かわからない、体の良い別れ文句の一つだったのかもしれない。部屋に入ると私と同じ格好に眼鏡姿の彼女が袋の中の物を取り出していて、私もコップや皿を並べた。彼女の眼鏡は顔に合っていないらしく、鼻筋をずるずると落ちてきて、何度か彼女は眼鏡を押し上げた。
「一杯目は何?」
「季節限定のチューハイかなー」
「じゃ私発泡酒ね」
 二人で注ぎ合って乾杯ー!とグラスを鳴らし、一気する。ふひー、と大きく息を吐き出して、ツマミに手をつける。
 他愛のない世間話をして、少し酔ってからフラれた事を告げると彼女は一瞬目を見開いた後に独り者仲間入りおめでとーとグラスをこちらに向けて差し出した。ひでーと苦笑いしながら持っていたコップで再度乾杯をして飲み合う。
「浮気相手妊娠させたって仰ってさ、意味がわかりかねますわ」
「妊娠ってどうするのかな、結婚?学生でしょまだ?」
「そうだけどするのかなー。何のために医学部に通っていらっしゃるのかしらって感じ!ま、嘘かもしんないけど」
「嘘で妊娠は無いでしょー。だとしたら酷いわ、幻滅する。良かったじゃん、今わかって。葉山ちゃんこのまま結婚するって思ってたし」
「私も思っていたよーーーー」
 コップをローテーブルに置くとそのまま上半身を床に倒して額をフローリングに付ける。酔って熱い顔にフローリングはひんやりとして気持ち良かった。髪の毛が全て前に落ちてきて顔を隠す。勢いをつけてばっと起き上がると酒が回って頭はふわふわとして視界は霞がかったのに手先は痺れた。
 身体を起こして見た彼女はクッションを肘掛のように使って寄りかかっていて、グラスを持った手の人差し指で眼鏡の縁を上げながら目を細めて笑った。酔っているからか優しい笑みに見えた。
「葉山だったらすぐ彼氏出来るよ」
「いやいや東堂も出来ないのに私なんかが……てか東堂みたいな美人こそ早く彼氏作りなよー私はそのおこぼれを頂いてさー」
「いや、私は……もう男はいいや……」
「そっかー……私もー」
 私が今日男にフラれて傷付いたように、彼女も過去に男で傷付いている。
 きちんとした彼女には珍しく、私に迷惑をかけるのを嫌う彼女には珍しく、当日に呼び出されて彼女の家に誘われて明け方まで飲んだ事がある。明け方まで飲んだというよりは最初飲んで酔っ払ってからは朝までただただ語り合った。
 その時詳しくは聞かなかったが、良い雰囲気になった男に付き合う前にキスかそれ以上の事をしたにも関わらず今は付き合う時期じゃないと言われたらしい。理解が出来ないと言った彼女は私から見てもかなり傷付いているようで、私は顔も名前も知らないその男の不幸を数ヶ月程毎日祈ったくらいだ。だからこそ、彼女の恨みは如何許りのものだっただろう。
 それほどのトラウマを持つ相手に平気で男の話をするのも私だが。
 彼女は不思議な人で、人柄から沢山の人が寄ってくるのに大事な要所で頼るのは私のような役立たずだし、良い雰囲気になるのはその男のようなろくでなしだ。
 這いずるように動いて、ベッドに背中を預ける。そこに彼女もグラスとクッションを持って隣に座った。ゆったりとした仕草で私と目を合わせ、鼻筋を滑る眼鏡を上げる。
「私達男運無いねー」
「ねー、何でだろー」
「東堂さんは友達の運も無くて大変だねー、私みたいないい加減で二浪で先行き不安な奴が友達で」
「は?葉山こそ大変じゃん、私みたいな女の子同士の恋愛話出来なくて、付き合うと評価下がりそうな女が友達で」
「はぁ!?ガチで言っているの?」
 顔を歪めて声を上げた私に、彼女は眼鏡がずれてレンズを通さないために視点が合っていないような目で、ガチ、とうなづいた。彼女の発した言葉を理解出来なくて私はローテーブルからコップを掴むと、一気に喉を潤した。
「逆でしょ、どう見ても。私が東堂の評価下げそうな女だよ」
「だって私片親だし」
「片親なんかごまんといるよ!それが何なの?」
 声を張り上げると、彼女は困ったように、自嘲するかのように笑った。落ちてきている眼鏡を上げて、彼女は話を始める。
「葉山とは高二の時に初めてクラス一緒になったでしょ、その時葉山は髪も明るかったし、スカートも短かったし私とはタイプが違って自分が酷く野暮ったく見えたの」
 野暮ったいと言うよりは、彼女は高校に入って意気がっている私なんかとは違って校則を遵守した姿だったのだ。黒髪に膝丈のスカートに指定鞄で、私のような校則破りの奴等とは一線を画していた。実際彼女は不可侵のお嬢様のように見えたし、事実成績も優秀で、清潔で清純な模範的女子高生だった。
「だから葉山と一緒に居て違和感が無いようになりたくてパーマかけたの。黒髪パーマだったけど自分的には大冒険」
「うん、あれ似合ってたよー」
 そんな彼女がある日パーマをかけてきた。長い髪の毛にゆるやかにかかったウェーブは以前からそうだったかのように彼女に馴染んでいて、私や他の子はすぐに称賛をした。
 校則違反のパーマをかけても彼女は彼女で、私のような自染めでムラのある茶髪や前日ヘアピンやカーラーを付けて作る不安定パーマ、左右で異なる巻き髪とは違って完璧だった。
「でもすぐに放課後に生徒指導室に呼び出された。何しているんだって。こんな事してお母さんに迷惑かけるなって。意味わかんなかったよ、何で葉山達には月一の指導の時しか言われないのに私はパーマかけてきたその日に注意受けるのか。しかもお母さんの名前まで出して。でもその時、私みたいな片親はちょっとでも何か違反したらダメなんだってわかったよ。葉山達とは違うんだ、危険因子扱いされるし蔑視されるんだなって思い知らされたよ」
「全然違うよ!」
 ローテーブル側を見つめて自嘲気味に話す彼女に対して出した大声に、驚いたようにこちらに目を向けられた。
 全然違っているのだ、私の記憶と彼女の印象が。私の中で彼女のパーマをかけてきた事実は周囲から彼女を貶めるものでは無かった。
「東堂はずっと真面目で校則なんか破った事無かったから当日に注意されたんだよ!私なんか注意受けても無視し続けたし、頭も悪かったから諦められてただけだよ!大体私東堂の事で生徒指導室呼ばれたからね、東堂さんに悪影響を与えるなって、何だよそれ、知らないよ、勝手にパーマかけていらっしゃったんだよ、私関係無い……ってごめん」
 いきなり喋り出した私に東堂は吹き出した。何それ、と笑う。
 彼女は勘違いをしていただけだ、自分だけが注意された原因が自身の家庭環境にあると。そんなわけないのに。彼女は優秀で優等生だったから、少しの変化も先生の目に付いて即座に軌道修正を図ろうと注意されただけなのに。私に影響を受けたものだと先生は思っていて、私がとばっちりを受けた事も彼女は知らない。
 でもそんなものなのかもしれない。誰も鳥ではないから俯瞰で物事は見れないし、神様ではないから必ずしも正しい判断を出来るわけではないのだ。彼女と二人で笑って、色眼鏡が酷いと爆笑した。
「東堂ちゃんの思い違いだよ、ね?だって東堂は私の憧れなんだから」
「え?……私こそ葉山羨ましかったよ?」
「はぁ?だって東堂は真面目で美人で人望厚くて失敗が無くてエリートじゃん、自分で節制出来て完璧だよ、憧れるよ」
「ふふっ、葉山は偏見皆無で、何もしてないように見えて全部こなして行っちゃって、安定した家族が居るからのびのびしていて、女の子満喫してて羨ましいよ」
 彼女は眼鏡を上げるとレンズ越しに私と目を合わせた。何を言い合っているのだろうと、二人で笑う。コップから汗をかいた水滴が床に落ちて、跳ねた水が私の足にかかった。
 大好きな所を言い合うなんて喧嘩した後の小学生みたいだ、ごめんなさいで解決しないような年代になりながらも私達は十年前と変わらない事をする。大好きな所と言いながらきっと大嫌いな所だ。私達は自分には無いものを補い合うといえば聞こえは良いが、互いに対角線上の相手の持ち物を無いもの強請りして羨ましがっている。
 急に世界がモザイクがかかったように見えて、視界がぼやけた。無いものが欲しくて堪らないのだ、彼女も私も。
「あー……何してんだろ、どーしよ、もう。羨ましがられても私はダメだよ。二浪して入ったのに将来わけわかんなくなったし、大学って入ったらサークルとかで楽しいって聞いたのに一年のうちに教養取っておかないとヤバいって山ほど授業入ったし、その授業も大して興味深くないし」
 何度もずり落ちる眼鏡を上げる彼女は、香織、と私の名前を呼んだ。彼女に名前を呼ばれるのは高校以来だ。高校の一番最初に話しかけた時に互いに名前をちゃん付けで呼んで、私のあだ名のかおりんと呼び始め、高校卒業後いつの間にか苗字呼びに変わった。名前呼び捨ては初めてだった。
「大丈夫だよ」
「え?」
 隣から彼女は腕を伸ばして私の二の腕に触れた。スキンシップが苦手な彼女には珍しい柔らかで生々しい触れ合いだった。
「香織は大丈夫、私はずっと味方だし客観的に見ても香織は沢山道を持っているよ。人生は多分迷路じゃないんだよ、ゴールまでの道は一つじゃないしゴールも一つじゃない。なりたいものがある時点で私は羨ましい、それが一過性であってもあるってことが凄いの」
「……ありがとう、由里」
 初めて彼女の名前を呼ぶと彼女の顔は真っ赤になった。触れられた手が熱い。私も赤くなってしまって何だか恥ずかしい、何だこれは、付き合い始める男女みたいだ。長年の友達だったから逆に恥ずかしいのだ。信頼し過ぎていて、距離感がわからなくなっている。彼女は持っていた手をゆっくりと床に下ろした。
「もー何よ東堂ちゃん!そーだなー、私ずっと東堂ちゃんの側に居たいなー。あれだ、どっかお隣同士に家作ってさ、同学年なるように子供作ってさー!」
「……いや、それは気持ち悪いからヤダ」
「ちょ、酷い!!」
笑うと彼女は目を反らしてグラスに口付けた。真っ赤だった皮膚の色は引いて、また白い肌に戻っている。
「えードン引きしないでよー」
「してないしてない、私は無理だなってだけだから。家庭持っている姿想像出来ないわー」
「私もー、でも東堂ちゃんはさらっとしそう!」
 コップを掴んでペットボトルの烏龍茶を注ぎながら言う私に、彼女の小さい声のそうかな、というつぶやきが聞こえた。注ぎ終えて定位置に戻ると彼女は眼鏡越しの瞳で笑った。困ったように笑った風に見えたが、私は笑顔を返しておいた。
 この世界で彼女がずっと私の友達で味方で居てくれる事だけは確からしい。
「全部人生の大事が終わってよぼよぼの老人になったら隣に住もうか、独居老人は危ないからね。葉山の死に目見つけないと」
「いやぁーーーそうなる前に死にたい。ひーーー」
「結局人生死んで終わるからデッドエンドでゲームオーバーですよ」
「急に暗い事言わないでー、何それ東堂さん私励ましてくれてたんじゃないのー」
「励ました励ましたちょー励ました」
 おざなりに言う彼女に私は笑ってゲームって言えばうちジェンガあるよ、する?とわけのわからない提案をして立ち上がった。時計を見ると夜明けまでまだまだ時間があった。

       

表紙

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Neetsha