みなそこにいる
待ち人の既読
好きという言葉がある。
私がとても苦手にしている言葉だ。
多分、いやきっと実際に言われたら嬉しいに決っているし、私だって言われる度に嬉しいのに、どうしてかその二文字の言葉だけは言うことが出来ない。
――君の事が好きだよ。
――私も。
なんて便利な言葉だろう。自分の感情を、相手の言葉に同調するだけで伝えられる。
けど、この返答を選ぶ度に彼は少しだけ、ほんの少しだけ、寂しそうな顔になる。その顔を見るのが私自身とても嫌で、させたくないのだけれど、それでも私は好きという言葉を口にも、文字にも起こすことが出来ずにいる。
ベッドに仰向けに転がったまま、私はスマートフォンを掲げながら、ラインに表示された彼の名前をぼんやりと眺める。
私は本当は、彼の事を好きじゃないのではないかと思ったこともあった。馴れ初めだって、彼のアプローチからで、きっと沢山の恥じらいや断られた時の不安に苛まれながらも思いの丈をぶつけようと覚悟を決めた顔を彼はしていたし、その凛々しくて、どこか怯えたその顔に、なんていうか、惚れてしまったのだ。
元々彼に好意は抱いていたし、友人との会話でも時折彼の名前を出した事はあったから、多分両思いということになるのだろう。
授業中に黒板を見つめる横顔。
体格の割に繊細な手つきで、女の子みたいな細かくて綺麗な丸い字を書くところ。
数式を解いている時の活き活きとした表情。
歴史で眠たそうに船を漕いで、先生に頭を引っ叩かれるところ。
美術部で絵筆を持った時の鋭い目つき。
私の手を握る時、壊れ物でも扱うみたいに優しく握るところ。
挙げようと思えば幾つでも挙げられる。でも、それら全てに大して抱く感情を総括した気持ちだけは、言えないのだ。
好きと言えないってことは、好きじゃないのかもしれない。
周りが常日頃から好きと口にしていると聞いてから、私は余計に分からなくなった。
じゃあ彼に抱いているこの気持ちはなんなのだろう。
――明日、作品の詰めに入ってきたから帰るのが遅くなると思うんだ。
飛んできたメッセージを見て、私は画面に人差し指で触れた。
――そっか、別に適当に時間を潰して待っててもいいけど?
既読マークが付いた。けど彼から返答は来ない。多分、考えているのだ。下校時間一杯まで待たせたら悪いし、かといって待ってくれるなら一緒に帰りたいし……。
彼が悩んでいるのは、多分自分と私の都合のどちらを取るべきか。
不思議なものだと思う。
私は指を再び動かし始める。
――困らせちゃったかな? 待たせてるってなると集中もできなさそうだし、明日は先に帰ることにするね
ついでに可愛いのか可愛くないのか分からないスタンプを一つ添える。既読はすぐに付いた。
どちらも答えは出ているのに、互いにきっと思っているのは同じことなのに。
その「きっと」がどうしても上手く消せなくて……。
何一つ不安に思うこともなく思っていると断言できたら幸せなのに。
返答が来る。
――ごめんね。
怒ってないよ、と呟いてみる。
書き込んでしまうと責めているみたいに思えてしまうから、口にするだけに留めておいた。
会話は彼の謝罪の言葉で止まっていた。私も彼も、それ以上何も打ち込まないまま時間だけが過ぎていく。
私は身体を起こして、傍の壁に背中を預けると、両膝を抱え、画面の中の文字だけの彼に対して微笑み、口を開いた。
「私は君のことが好き。だから君が幸せと思う事をしてくれたら、それでいいんだ」
だから、怒ってないよ。
目の前では言えない言葉が、こんな小さな画面の前でなら簡単に言えてしまう。「私も」という言葉に寂しそうな顔をした彼が一番聞きたい言葉が、こんなところでなら口出来てしまう。
やっぱり好き、なんだと思う。むしろ好きだからこそ、中々うまく言えないのだと思う。
彼がちゃんと言えるのは、きっと、あの日私に告白した日に、そう決意したからなのかもしれない。
だから、もうちょっとだけ、待ってて欲しい。
いつか、ちゃんと言えるようになるから。
新しい文面が飛んできた。
――ありがとう。
――でも、やっぱり待っていてもらえないかな。
――一緒に帰りたいんだ。
ころん、と起き上がり小法師みたいにベッドに倒れこむ。きっと彼のことだから、この文面を送るまでに沢山色んな事を考えたんだろうし、送信ボタンを押すのだってすごく悩んだと思う。
画面の前で眉根を寄せている彼の顔を想像したら、変な笑いが口から出てしまった。
今、多分私はすごく気持ち悪い顔をしているに違いない。
――分かった。待ってる。
幾らでも待つよ、と私は画面に向かって言って、スマートフォンを胸元に抱く。
だって貴方は、私よりも沢山待ってくれているんだから。