Neetel Inside 文芸新都
表紙

田舎とコンビニ
その顛末

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 24時きっかりで閉まっていたよく分からない名前のスーパーは閉店時間を早めた。
 個人営業だったのだろう、小さな町のコンビニらしき何かは、店主の病気という形で息を引き取り、跡には更地だけが残った。
 ここはのどかな田舎。住んでいる若者は何もないこの町が嫌になり、一定の年齢を迎えれば大抵は夢や希望を抱いてどこかに出て行ってしまう。
 無論、その何割かは夢潰えた挙句、苦笑いを浮かべながら帰ってくることになる。
 そんな彼らと俺の違いを強いて上げるとするならば、俺には地元に帰る勇気がなかった。
 なにせ、親、結婚、人間関係。田舎に帰るということは、すなわちそんな物とと向き合わなければいけないというのを意味する。
 夢から逃げ、その先でもまた逃げ、逃げて逃げて逃げ延びたこの土地で、自分を知るものが居ないこの土地で、このコンビニを始めてはや五年目である。初めのうちは物珍しさもあり盛大に歓迎してくれたこの町だが、すぐに町の一部として認識したらしく、特に目立ったこともない平凡な毎日が続いていた。
「おはよーございます。夜勤お疲れ。てんちょー」
 自動ドアの開閉音と同時に朝のさわやかな空気とハキハキとした高めの声が店内に届く。
「あぁ。おはよう。御影<みかげ>さん」
 御影さんと呼んだのは、俺の胸ほども身長もない女性と呼ぶにはすこし幼い女の子だった。御影さんはうちで雇っているアルバイトで、はて、何人目だったか。
「もー、アタシ年下なんだからさん付けはやめてって言ってるでしょー?」
 御影さんは小さな体をめいいっぱい大きく見えるように両手をぶんぶんと振って抗議する。その姿は小動物がじたばたともがいているようでなんというか、庇護欲をかきたてられる。
「すまないね。どうも癖で」
「年下なんだし呼び捨てでもいーよ?」
「呼び捨てはちょっと……」
 年下とか雇用者とかそういったもの抜きでも、女性を呼び捨てで呼ぶのは相当な勇気を必要とするものだと思う。
「ま、まぁー。レディにさんを付けるのは当然ではあるけどね!」
 へへへと口元を緩ませたまま、たいして凹凸の無い胸をはり、腰に手を当てている御影さん。あれは、威張っているのだろうか。それが、御影さんの精一杯なんだろうか。
 まぁ、本人は鼻息を荒げて満足しているのでよしとしよう。
 なぜたかがさん呼びでここまで喜ぶのかというのも、この店で御影『さん』の事をみんな御影『ちゃん』と呼ぶ。本人曰く、高校生らしいが、その身長はおおよそ中学生にも劣っている。
 しかし、高校生なのは履歴書にも記載されており、念のため事実確認も行った結果、御影さんは間違いなく女子高校生である。しかも、今年受験生である。つまりは、セブンティーンだ。
 だが、その身長と言動もあいまって誰一人として御影さんが高校生だということを認めようとしない。
 あまり言わないが本人はそれをコンプレックスだと思っているらしく、猫かわいがりされた鬱憤が溜まりに溜まった頃になると自分を『さん』付けで読んでくれる数少ない人間である俺にこうして絡んで来ては無駄にさん付けで呼ばせて自尊心の補強を行っているらしい。
「じゃ、アタシ着替えてくるから」
「ん。どうぞ」
 そういうも御影さんは動かない。まだれぃでぃー扱いが足りなかったのだろうかとレジの一部を持ち上げて入り口を作ってやる。
「どうしたの?」
 御影さんは動かなかった。
「覗いてもいーですよ」
「なっ」
 代わりに、シャツから少しだけ肩を露出させ、妙にぎこちないウインクを寄越す。
「馬鹿言ってないで早く着替えてください。遅刻になりますよ!」
「じょーだんだよ。じょーだん。動揺しすぎ、てんちょー」
 あははと楽しそうに笑いながら御影さんはスキップでバックヤードに消えていった。しかし、ブラの肩紐が見当たらなかったのだが気のせいだっただろうか。
「高校生にからかわれて、俺、何してんだろうな」
 騒がしい御影さんが居なくなり、急に静かになった店内で一人ごちる。
 最近、ふとした瞬間に考えてしまうのだ。この状態は何なんだろうな、と。
 別に現状に不満があるわけではない。確かに、細かなところで言えば売り上げだとか、パートさんの勤務態度だとか小さいことをあげれば色々ある。しかし、ある程度経営は安定しているし、生活も何不自由ないので概ねは順調だ。
 だがしかし、これは、この姿は過去の自分に誇れるのだろうか。何をするわけでもなく、何もしないわけでもない。中途半端にただ流れに身を任せ漂うようにして生きている。そんな毎日を繰り返しているとふと声が聞こえてくるのだ。
(僕、久保<くぼ>さんの事が、わかりません)
 その声は俺の空っぽなはずの胸をざわつかせる。あれは、セミがやたら五月蝿い夏のある日のことだった。彼女は、俺を愛していたらしい茶髪の人はそう言って俺の元から去っていった。
「てんちょー着替え終わったよー」
 バックヤードから元気な声が聞こえて来る。と、同時に現実に引き戻される。
「あぁ、わかったよ樹<いつき>くん」
 また感傷に浸っていたからか、それとも疲れていたからか、泣かしてしまった彼女の名前を口にしていた。
「てんちょー……」
 肩甲骨程まで伸ばした黒髪を揺らしながら御影さんはやれやれと肩をすくめてため息をつく。
「まーだ引きずってるんですか? 女々しいですね」
 御影さんはうんざりだとため息を吐き捨て、ギロリと俺をにらみつける。
「そ、そうだね。ちょっと疲れてたんだよ」
 答えにならない答えを返しながら二、三歩後ろに後ずさる。
 正直、この後の展開は予想できる。
「そんな事言って、てんちょー。そうは言っても、アタシのこと樹くんって呼ぶの何度目だと思ってるんです?」
「ははは、ごめんね」
 本当、何してるんだろう。
「噂だと、その樹くんってのココのアルバイトだったんでしょ?」
「ま、まぁね」
「さらにー噂によると相手から告られてたのに最終的にフラれたらしいじゃないですか。まったく、どれだけの事したんですか、てんちょー?」
 田舎という閉じたコミュニティはどうしてこうも噂話がすきなのか。
「そうだね、何をしたんだろうね」
 俺が彼女が去っていた理由を本当は知っていた。それは、俺が何かをしたからではなく、何もしなかったからだろう。
 いつも何かをしてくれたのは彼女で、俺はそれにただ流されていただけだけでその好意に甘えていたのだ。樹からすれば、何もしてくれない俺に不安を抱くのは当然のことだったのだろう。
「だいたい、その人の事好きだったんですか?」
 痛いところを突かれた。年下に好意を向けられて、年甲斐もなくドキドキしたのは事実だが、それが単なる優越感だったのか、はたまた恋だったのか。
「どうだろ、今となっては、わからない。かな?」
 そう、彼女が居ない今となってはもうわからない。
「そうは言っても、その樹さんとか言う人が居なくなって三年はたってるんですよね?」
「そうか。三年、もう三年たったのか」
「あーもーはっきりしないですね! 今日という今日はしっかり話してもらいますからね!」
 我慢できないといった様子でその長い髪を揺らしながら俺に近寄ってくる御影さん。
「か、勘弁しておくれよ」
 好奇心なのか何なのか、そんなにパーソナルスペースに土足で上がりこんでほしくないものである。
 ならばさてはて、どう切り抜けたものかと思っていたところにちょうど来店音楽が鳴り、来客を知らせる。
「い、いらっしゃいませー」
 これは好機と業務を盾に逃げ切ろうとしたが、相手が悪かった。
「よー女泣かせ」
 入店してきたのは近くの老人ホームに住む一人の老人だった。
「げ……」
「ゲとはなんじゃゲとは。わしは客だぞ!」
「も、申し訳ありません」
 俺は素直にぺこりと頭を下げる。なにせ相手が悪い。
「あーおじいちゃん。今日も早いねー」
「おお、ミクちゃん今日も偶然じゃの!」
 嘘をつけ。この色ボケじじいが。樹の時もそうだったが、かわいい女性店員のシフトを確実に狙って来店してやがる。
「しかし、なんで今日はまだこの女泣かせの糞店長がまだ居るんじゃ? わしゃこいつの顔なんか見たくもないというのに」
 こっちだって出来れば出会いたくはなかった。最初からこのじじいは俺にちょっかいをかけてきて苦手だったが、樹が町を去ってしまってからは明らかな敵意を剥き出しにして食って掛かり、チクチクと触られたくないところを突いてくるから出来れば出会いたくはないのだ。
「おじいちゃん辛辣ー」
「お? ミクちゃん難しい言葉しっとるの。ほれ、飴をやろう」
 俺に向けるしかめっ面とは180度違う好々爺らしい笑顔を浮かべ、ポケットからアメを取り出すじじい。
「もーアタシもー子供じゃないんですけどー」
 そうは言いつつしっかりと飴を受け取る御影さん。彼女の名前は御影 ミクである。今にも歌いだしそうな名前ではあるが、オンチらしい。と、いうかじじい。俺の店の中で勝手に従業員に餌付けしてんじゃねぇよ。
「んー? またいちごミルクなの?」
 あ、食べちゃうんだ。店内なのに。勤務中なのに。これだから現代っ子はっていわれるんだよ。
「でもいちごミルク好きじゃろ?」
「まーね」
 御影さんはまんざらでもない様子だ。いちごミルクが好きとはますます子供っぽい。
「樹ちゃんもいちごミルクが好きでな。今でもついつい買ってしまうんじゃよ」
「ふーん。また、樹さん。ねー」
 相槌をうちながらも御影さんはこちらを見上げてくる。
 これは、まずいかもしれない。と、いうか樹はいちごミルクが好きだったんだな。
「もう、三年も経つんでしょ?」
「ん? あぁそうじゃな。どこかの馬鹿が泣かせてしまったらしくてな、ふっと居なくなってしまったんじゃよ。あれは――」
「ぼ、僕はこれでお暇させていただきますね。御影さん、後はよろしくね!」
「あー逃げたー」
 そんな声を背中に受けつつも、あわてて俺はバックヤードに逃げ込む。後は着替えて家に逃げてしまえばこちらの勝ちだ。
「ふぅ」
 すばやく更衣室の扉を閉め、一息つく。流石にここに入ってくるということはないだろう。
「着替えよ」
 くたくたになったシャツに着替え、薄くなったジーンズに足を通す。また、からだが少し重くなったような気がする。
 ふと視線を上げると、鏡に映った自分が酷く疲れた顔でこちらを見ていた。
「帰ろ」
 更衣室から出ると、店内からは楽しそうな二人の話し声が聞こえてくる。樹君の話題で盛り上がっているのだろうか。本当は話してないで働いてねと注意したかったのだが、相手が相手だったし、そんな声からそれから逃げるようにして裏口からバイクの停めてある駐車場へと向かう。
 今日も太陽がまぶしい。遠くではラジオ体操の音が聞こえてくる。
 もうそんな季節なんだなと元気に騒ぐ子供を横目に、ため息をつきながらバイクに跨り、エンジンに火を入れる。
 少し咳き込むような切れの悪い音を出してバイクは煙を吐き出す。
「そろそろ替え時なのかも知れないな」
 結局、金はあったがこの五年間で車は買わなかったし、引越しもしなかった。刻々と変わっていく世界で俺は何も変わっちゃいなかった。
 テールランプが俺自身の過去を引きずるようにして赤い尾を伸ばし、アスファルトに溶けていく。
 あの冬の日、樹から初めて貰ったメールの内容を、俺はもう思い出せない。

     

 低いうなり声のような音を響かせていた誘蛾灯が突如、閃光と伴って宙を舞っていた蛾の身を焼いた。
 身を焼かれ、力なくひらひらと地面に吸い込まれてきたそれを、俺はゴミと一緒にちりとりへ入れた。
 ふと、あたりを見渡せば今日も夜、あたりにひとけはなく、コンビニ前の新しく舗装された道路の脇に等間隔に並んだ街頭が、この田舎で煌々と文明を主張していた。
 空を見上げれば満天の星。この田舎で気に入っている数少ない物だ。
「さて、戻るか」
 ぼんやりと星を見上げているのももう一人に申し訳ないかなと、店内へと戻ることにする。
 ちりとりのゴミを捨て、自動ドアをくぐれば、店内では床を磨くウォッシャーの音と有線ラジオの音だけがが響く、いつも風景が出迎えてくれた。
 今夜のペアは大学生の男である。彼とは結構な頻度で夜を共にしているのだが、特にこれといって仲がよいわけではなかった。だからといって、嫌いだとか、仲が悪いという事はないのだが、仕事中に話しかけるのもためらわれ、いつもこうして黙々と仕事をする。
 だって、一回りも年が離れている人間となにを話したらいいのかなんてわからない。
 それはどうやら向こうも同じらしく、業務以外では特に会話のないままいつも夜は更けてゆく。
 
 
 
「店長、床掃除終わりました」
「あぁ、ご苦労様です。じゃ、次は商品整理をお願いできますか?」
「わかりました」
 せっせと商品を整理し始める彼の背中を横目に、俺も自分の仕事を黙々とこなす。
 なんてことはない、いつもの風景だ。
 なんてことを考えながらも、カチコチと時を刻む時計の音を聞きながらふと考えてみる。
 いつものと言ったが、果たしてこれが三年前ならどうだっただろうか、と。
 あの頃はもちろん彼が居なかったし、有線放送も違う曲が流れていた。それ以外にも、商品のラインナップは違うし、外の道路は舗装されていなかった。
 だが、多分もっと根本的な事が違う。なにせ、あの頃はもう少し店内が華やかだったし、俺もこんなにぼんやりと作業をしていた覚えは無く、会話があったような気がする。
 と、言っても俺が話しかけていた記憶は無いが。
 あと、いい香りがしていたような気がする。
 あぁ、そうだ。そうだ。樹が居たのだ。
 今思い返すと、話題を提供していたのはいつも、樹だった。
 女性の特有の甘い香りとは少し違った柑橘系のさわやかな香り。なぜ柑橘系なのか、それが気になって、どうしてそんな香りがするのかと聞いた時、樹はやけにうれしそうに銘柄を教えてくれたのだが、はて、あれはなんという香水だったか、今でもたまに香ってくるような気がしてならない。
 
 
 
「店長、おつかれさまでした」
「お疲れ様です」
 結局その夜は誰の来店もなく、また、彼とは業務以外で一言も話すことなく終わった。
 それを寂しいと思うかと聞かれれば別に寂しくは無かった。
 挨拶を済ませた彼は俺にもう一度礼をすると、いそいそと自転車にまたがり、颯爽と帰路に着くのだった。なんでも、彼はこれから大学に向かうのらしい。大学のゼミがあるので深夜しか空いている時間がないのだそうだ。
 時期で言えば今は夏休みだろうに、ご苦労なことだ。
「店長さんおはよ」
「あ、おはようございます」
「じゃ、今日もがんばりましょうね」
「はい。よろしくお願いします」
 そんな忙しい彼とは違い、俺はといえば彼と入れ替わりに入ってきたパートのおばちゃんともう少し働いた後、久しぶりの連休だ。
 休日にやることもないので特にうれしくもないが、最近アルバイトの何人かがテストだ何だのと入れない日が続き、代打として出ずっぱりで溜まってしまった休みを消化しなくてはいけない。
「家事だな」
「火事?」
「あ、いえ。こっちの話です」
 家のことを何もやれて居ないのを思い出したので、この休みで全部片付けてしまいたいな。などと思いながら、俺は交代を待つのだった。
 まったく、休みの日を有意義に過ごす趣味すらないとは悲しいものだ。
 
 
 
 そして、つつがなく業務を終えた俺は、挨拶をし、二人のおばちゃんに見送られながらバイクに跨った。
「お疲れ様でした」
「おつかれさま。しっかり休みなよ」
「お気遣いなく」
 いつものようにキーをひねるが、今日も病人の咳のような変な音を立て、バイクは排気ガスを吐き出した。
 やはり、もう買い替え時なのだろうかと自分の預金残高を思い出そうとしてみる。
「いくらだ……」 
 あまり正確には覚えていないがそこそこ貯まっているのではないだろうか。なにせ特に広くもないアパートに一人暮らし、車もなければ大きな趣味もないのだ。
 それに、女も居ない。
「枯れてるよなぁ……」
 考えてみれば惨めだと悲しくなってしまったが、帰ったら残高でも確認してみよう。少しは楽しい気分になるかもしれない。
 足を地面から浮かし、スロットルを捻る。
 速度は控えにも風を切る。とは言えず、風をなでる程度で家に向かいながら、やらなければいけないことを思い出していく。
 まず、洗濯。洗濯機はあるが、確か洗濯物入れと成り下がってたはずだ。
 冷蔵庫も、冷機を出すだけの空の箱となっているし、シンクはゴミ箱同然の有様だ。床は出し忘れたゴミであふれ、おおよそ人の住める環境ではない。
「チッ……面倒くさいな」
 家に帰る前からやる気が削がれてきた。ハウスキーパーとかそう言ったものが今ものすごくほしい。金ならあるし、ものすごくほしい。できれば、年下に叱咤されながら一緒に掃除したい。
 などとくだらないことを考えていると、あっという間に駐車場についた。
 入って数年。概観は手入れされており、汚いというほどではないがそれでも過ぎた年月というものを感じさせる。あたりの雑草も定期的に抜きにきてはいるみたいだが、そもそも周りが田んぼなのでどうしようもなく草まみれだ。
 意味も無いため息とともに、バイクを定位置に止めたところで、ふと気配を感じて視線を脇にやる。アパートの日陰から一匹のクロネコがこちらをジーっと見つめていた。
 なんとなく、俺もその場を動けずに水晶のように澄んだそ瞳を見つめ返していた。
 クロネコは縁起が悪いとよく言われているが、俺はそんなクロネコが好きだった。なにせシロネコには出せないあの艶や不幸を呼ぶという悪さも心惹かれてしまう。
 おそらく、そんなに長くは見つめあっていなかったと思うが、クロネコは突然興味をなくしたようにそっぽを向き、スルスルとアパートの死角へと消えていった。
「勝った」
 自然界には目をそらしたほうが負けというルールがある。らしい。俺は動物園でメンチを切られたら相手が目をそらすまで睨むタイプの人間だ。
 小さくガッツポーズを決め、少し誇らしげな気分のまま部屋へと向かった。
 が、浮かれた気分のままドアノブを引くと、先ほどまでの勝利の余韻など軽く吹き飛ぶような光景が目に入る。
 ゴミ、ゴミ、ゴミ、服、ゴミ。
 いくら一人暮らしといえどこれは少しひどい。何せ足の踏み場がないのだ。せっかくの連休なのだ、いっそ扉を閉めて今日はホテルにでも泊まりたい気分だ。
「これを掃除かぁ……」
 頭をガシガシとかきながらどうしたものかと思案する。
 樹が居たころはこんな状態になったことなど一度もなかったのだが、果たして俺は元からそんなに自堕落な人間だっただろうか。いや、それなりに自炊はしていたし片付けもしていた気がする。と、なるとあいつは男をダメにするタイプの人間だったんだろう。
「樹め、恨むぞ……」
 樹に罪をなすりつけようとも、現状こうなっているものは仕方ない。樹がいないのだから、自分自身でどうにかするしかないのだ。
「ま、やるしかないよなぁ……」
 そのためにはこのゴミを超えていかなくてはいけない。
 通常ならゴミをしっかり掃除しながら部屋に入るのが得策だろう。しかし、しかしだ、俺には見えているのだ。このゴミ山の中でもベッドに続く道筋が。そう、これが所謂散らかっているように見えて適度な配置にある。というやつだ。
 一見、足の踏み場がないように見える廊下だが、俺独自のルートに沿えばゴミを踏むことなくベッドにたどり着くことはできる。そう設計されている。
 ぴょんぴょんとゴミの隙間を縫うようにして跳び、そのままベッドに倒れこむ。
 軋むベッドに身を任せ、大きく息を吐く。息と一緒に気力の栓も抜けてしまったのか、急に疲れがのしかかってくる。
「……疲れた」
 面倒くさいなとは思いつつも、仕事のパートナーである服を着たままでは心が休まらないと、とりあえず服を脱ぎ、ジャージに着替える。
「はぁ」
 締め付けられたウエストを開放し、今日一番長いため息をひとつ吐き、天井を見上げる。幸い天井にゴミはない。上手い具合に視界にもゴミは入らない。とすればもしかしてこの部屋にゴミなどないのではないか。掃除なんてしなくてもいいのではないか。
「そうだ。これは悪い夢なんだ。目が覚めたら、きっと……」 
 何かの奇跡で、そうであったらいいなと綺麗な部屋を想像しながら、眠りについた。
 
 
 

     

「――もう夕方か」
 茜色に染まった部屋の中、大きく伸びをしてあたりを見回したが、やっぱり部屋は片付いていなかった。
 ま、あたりまえである。
 しかし、なぜこんな時間に目が覚めたのだろうかと不思議に思っていると、隣からガタガタと大きな物音が聞こえてくる。ここは特に壁が薄いと感じたことはないのだが、聞こえてくると言う事はよっぽどのことがあったのだろう。と玄関から廊下を覗くと、制服を着た引越し業者がせっせと物を運び出していた。
 確か隣は来てからそんなにたっていないはずなのだが、転勤か何かなのだろう。それか、夜に何度か出入りしていた女性と家庭でも築いたか。
 
―――実にどうでもいい。
 
 すこしも悔しくは無い。悔しくは無いが、引越しの音が一人ぼっちの部屋にはやけに響くので、こんな時間に起きたのも早く掃除をしろという神の啓示に違いない。と、考え直すことにした。
「片付け、ねぇ……」
 とはいえ、この時間から何かをするのも少し面倒だ。かといって何かを食べようにも夕飯には少し早いが昼食には遅い。ならいっそもう一眠りするのもいいかもしれないが、気にしていなかった騒音も気にし始めると妙に気になって眠れそうに無い。それに、こんなことでは何時まで経っても片付けられず、結局連休中は寝て過ごしました。なんてことになりかねない。
「俺はあと10秒だけ自由にしていい。10秒経ったら片づけをするッ!」
 目をつぶり、心の中でテンカウントを始める。
「じゅう!」
 カウントともに瞼をかっと開き、すばやく辺りのゴミを片付けるために手ごろなコンビニのビニール袋に散らかったゴミを詰め込んでいく。
 そうしてベッド周りとテーブル周りのゴミをいくつかの小袋にまとめ、今度はそれをさらにまとめるためのゴミ袋を取ろうと玄関へと向かい、ゴミ袋が入っているシンク下にある棚の戸を開くため、周りにあるゴミをまたコンビニの袋に分け、それを片っ端から玄関にとりあえず置いて、やっと戸棚に手をかける。
 おかしい。少しの距離だというのになぜこんな手間がかかる。
「あ、ゴミ袋がない」
 痛恨のミス。
 苦労してたどり着いたというのに、無常にも戸棚の中には食器用洗剤の替えが一本と電球が一つ。これじゃ武器も作れない。
 せっかく芽を出し始めていたやる気の花が一気にしおれていく。あ、ゴミをまとめたし今日はここでいいんじゃない。なんて悪魔がささやく。
 い。いや、ま、まだだ。
 折れそうになる心にダクトテープを巻きつけ、ちょうどもうすぐ夕飯の時間だし、ついでに買ってくればいいんだ。と洗濯機に目をやる。少しあふれていた。やっぱり休みたい。
 と、いうか回るのだろうか、この量は。
「ええい。ままよ!」
 無理やり洗濯物を押し込み、軽量スプーンで計ることもせずたっぷりの洗剤を放り込み、そのまま押し付けるようにしてふたを閉めて開始ボタンを押す。
「よし、次は買い物だ!」
 こんなにいろいろやっているのだ。こうなればついでにいつものコンビニ弁当やカップ麺はやめて何かを作ってみよう。
 ならば米をたかない手から出たほうがいいだろう。
 さて、米を炊くために炊飯器を見る。
 かぴかぴになった釜。かびてない事だけが唯一の救いだった。
「もはやこの程度ではくじけるか!」 
 よし洗おうとシンクを見る。
 今度は洗っていない皿とゴミが積まれていた。
「糞っ!」
 半ばやけくそ気味にゴミを片付け、皿を洗った。日々の怠惰がたたったのだ。おとなしく受け入れることにしよう。
 さらに、やる予定はなかったがシンクをぴかぴかに磨いた。
 何時振りかの鋭い銀の輝きに、達成感でベッドに飛び込みたくなったが、それを我慢して本来の目的だった釜をきれいに洗って米を炊いた。
 幸い、米はまだ残っていたのだ。
 もっとも、何時のものかわからないが。ま、虫はついていなかったので大丈夫だろう。
「よし。よし。買い物だ」
 ぶっちゃけもう動きたくはないのだが、冷蔵庫が空の状態で米を炊いてしまった手前、白米をおかずに白米を食べたくはない。
 玄関に積まれたゴミ小袋群を足で掻き分け、サンダルを引っ掛け、バイクへと向う。
「ん?」
 さわがしく引越しを進める業者以外になにか妙な視線を感じて後ろを振り向けば、昼間のクロネコがまたこちらを見つめていた。リベンジのつもりなんだろうかピクリとも動かずこちらを見ている。
 ならばと立ち止まって見つめ返すが、よく見ればこのクロネコ、なかなか毛並みがいい。顔立ちもなかなか愛嬌があるように思えるし、ひげも立派である。そういえば、樹もネコ派だったはずだ。なにせ、部屋ではずっと猫のぬいぐるみを抱いていた。押入れの奥には、まだその変なネコのぬいぐるみがあったはずだ。たしか、無駄にでかいあれは、ふらりと二人で寄ったゲーセンで俺が熱くなって適正価格をオーバーしてまで取った物だった筈だ。何かのキャラクターらしいが調べてもピンとこない地味なキャラクターだった。そのくせ、俺がクレーンに向かっているときは興味もなさそうに携帯を弄っていたのにプレゼントしてやると嬉しそうに笑っていた。好きなキャラでもなかったらしいが、それはそれは気に入ったらしく、嬉しそうによく抱いて部屋をゴロゴロしていた。そのせいか、アレには樹の香りが染込んでしまい、部屋においておくといつも柑橘系の香りがしていた。
「あぁ……そうか、あのぬいぐるみか」
 勤務中に気になったモヤモヤが解決してすっきりした。
 すっきりしたが少し寂しい気分になった。
「あっ」
 そんな雑念を読まれたのか、ニャーと声を上げた猫は、今度は俺の勝ちだなとでもいう風に少し誇らしげに尻尾を左右に振りながら、アパートの隙間に消えて行った。
「ま、いっか」
 次に出会ったときは負けなければいい話だ。
「あ、あの……すみません」
「え?」
 流石にこの年の男が猫と睨めっこは怪しまれたのだろうかと慌てて弁解しようと被りかけたヘルメットを脱ぎ、声のほうを見ると一人の男が立っていた。
「えと、隣のものなんですけど」
「あぁ、お隣さん」
「すみません。事前の連絡もなしにいきなり引越しだなんて。五月蝿かったですかね?」
 やけに低姿勢なその男は、四角い黒縁のめがねに青いジャージ、首にはタオルを巻いていた。額ににじむ汗を見るに、引越しの手伝いをしていたのだろう。
 よく見れば、普段着なのかジャージはくたびれ、靴はおしゃれより動きやすさ重視のスリッパ。いつも見るようなきちんとセットされておらず、気の抜けたぼさぼさの髪型に、日々の疲れから肩も下がり気味。
 すこし哀れみさえ抱きそうな出で立ちに、俺はどうしようもなくこの人は同類なんだ先ほどまでの警戒を解く。
「いえいえ、特に気にならなかったですよ」
「そうですか。それは安心しました」
 相当作業をがんばっているのか汗を頻繁にぬぐいながらも男は笑顔を崩さず、それを俺は営業マンがセールスをするときのそれのようだな、だなんて思ってしまった。
「それでですね。少しお願いがあるのですが」
 と思ったら、やはり下心があったらしい。
「なにぶん急な引越しなもので、なにか荷物が届いたりしたら住所が変わったと伝えてほしいんですよ。もちろん、不在のときは仕方ないんですが、もし聞かれた場合はこちらにと」
 そういうと男は手書きされた住所と連絡先を手渡してきた。
「転居届けは出したんですがなにぶん急なもので……」
「はぁ……まあかまいませんよ」
「そうですか。ありがとうございます!」
 別段断る理由も無いだろうとそのメモ用紙を受け取り、引越しがんばってくださいねと声をかけてヘルメットを被ると、そのままスーパーへと向かった。
「じゃ私は行きますんで」
「あ、呼び止めてすみませんでした」
「いえいえ」
 結局、男は姿がサイドミラーから消えるまでぺこぺこと頭を下げていた。
 サイドミラーから男が消えてから少し後、スーパーに隣接していたATMで口座の残高を確認したが、予想通りの金額とはいかなかった。ま、こんなものだろうなと大して落胆もしなかったが、俺はこれからのビールは発泡酒にしようと決意を胸に、手にはかごを携えて店内に入った。
 とりあえずは忘れないうちと発泡酒をかごにいれ、おつまみも我慢する。
 買い物をする主婦に紛れてぶらぶら店内を徘徊しながら晩御飯は何にしようかと思案する。
 あぁ……片付けで少しほてった体に、生肉コーナーの冷機が心地がいい。鮮魚コーナーは駄目だ。あそこは生臭い。
 国産の黒毛和牛を見ながら、刺身が食べたいなと場違いなことを考える。
 しかし、今は夏だ。夏らしいものが食べたい。では、冷やし中華というのはどうだろうか。いや、白米を炊いているのだからそれはないだろう。なら、冷しゃぶ。いや、さっぱり目よりガッツ利としたものが食べたい気分だ。なら、意表をついてキムチ鍋というのもある。
「毎週金曜はカレーの日」
 キムチ鍋に心が傾きかけていたとき、唐突に聞こえてきたノイズ交じりの声にふと視線をやれば、黄色いのぼりにでかでかと茶色の文字でカレーの日と書いてある。なるほど、金曜はカレーの日というのか。
 なるほど、カレー。
 平積みになったカレールーと並べられた野菜を交互に見やり、当然の結果にたどり着く。
「そうか、夏野菜カレーだ」
 なるほど、カレー。いいじゃないか。白米にしっかりと合うし、何よりがっつり系だ。おまけに、夏野菜を使うことで夏らしさを演出。まさに、俺のニーズに合致している。
 少し蒸し暑い部屋の中、コトコト煮込んだカレー鍋が音を立てながらあたりにパンチの効いた香りを振りまく。皿には真っ白につやつや光る飯、そこにどろっとした茶色いルーが底は俺の場所だと自己主張をはじめ、ルーには隕石みたいに大きくかっとした野菜がゴロゴロと降り注ぐ。
 するとどうだ、さっきまでは深窓の令嬢といった感じのご飯が元気にビーチで遊ぶ小麦色のギャルへと変身だ。
 そうそう。最後に忘れないように真っ赤な福神漬けを添え、ごくりと生唾を飲み込み。
 いただきますと手を合わせれば、口がが待ちきれませんとばかりに一気にかきこむ。
 カレーのスパイシーさに舌がしびれ、熱さに口内が悲鳴を上げかけたところにキンキンに冷えたビールでキューっと行く。
 すると当然、ぷはーっとため息が出る。
 最高のひと時だろう。まさに仕事に掃除に洗濯と今日がんばった俺にふさわしい。
 
――ゴクリ。
 
 いかん。想像しただけで唾でのどを鳴らしてしまった。
「よし、決めた。今日はカレーだ」
 となれば、かごに入っていた安っぽい発泡酒などはさっさと棚に戻し、いつもよりワンランク上のビールを手に取る。ご褒美なのだからケチっては意味がない。節約なら明日からすればいい。大体、節約などしても使い道は無いのだ。
 よしよしとそのまま野菜コーナーに向かう。人参にじゃが芋、たまねぎに茄子をかごに放り込むと、野菜が缶に当たりペコンと音を立てた。今はそれすら愛おしい。
 流れで夏野菜コーナーのかぼちゃに手を伸ばそうとしたが、俺はあまりかぼちゃが好きではないので見送ることにする。かぼちゃが好きなのは俺じゃない。
 続いては肉だ。肉は牛、豚、鳥、はたまた牛すじ、いやいやここはあえてのひき肉をチョイス。それも合びきではなく鶏肉と牛肉を別々に、だ。
 後はルーなのだが、ここは中辛だろう。甘すぎず、かといって辛すぎて味そのものを壊さない絶妙なラインだ。これが甘口なら辛くするしかないし、辛口なら甘くするしかない。その点中辛なら辛くも甘くも、自分の好みでいろいろと調節できる。
 最後に、いくつかおつまみを選びフィニッシュ。
「お会計、2,500円になります」
 うん。端数もなくていい感じだ。
 
 
 
 上機嫌のまま家に帰ると、またクロネコがこちらを見ていた。
 ちなみに、引越し業者はもう居なくなっていた。
「おっそうだそうだ」
 レジ袋の中からおつまみ用の煮干を一本取り出し、ほらほらと振ってみる。
 しかし、クロネコは特に興味を示さずそのままどこかに行ってしまった。
「ったく。なんだよ。愛想が悪いな」
 行き所を失った煮干をくわえ、部屋へと戻る。
 隣には当然電灯の光はなく、なんだか少し寂しくなったなとドアノブに手を伸ばす。
「お?」
 ドアノブには小さな袋が引っかかっていた。
 中身は、急な引っ越しでご迷惑をおかけしました。のメモ書きとともにコーヒーとお菓子が入っていた。
「こんな事しなくてもいいのに」
 それに、俺はコーヒーはカフェオレ以外あまり得意ではない。と、いうか飲めない。
 が、せっかくの好意だし、まあいいかと袋を手に取り、改めて扉を開ける。
「あっ」
 開いた扉からはこぼれるゴミ小袋。
「ゴミ袋買うの忘れた」
 しまったなと思いながらも、とりあえずあふれたゴミ袋をつま先で玄関に蹴りやる。
「明日、明日買いに行こう」
 今期何度目かの決意して、またゴミが玄関に貯められていくのであった。

       

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Neetsha