翌日、俺は文字通りカレー臭の中で目が覚めた。
粘つく口内に不快感を覚えて水を求めシンクへと向かうついでに冷たくなった鍋を覗くと、二、三日は食べ切れそうにないな量のカレーが色を変え非常にまずそうになっていた。さらには、ぽつぽつと白い油を浮かべたまま固まっており、食欲を減退させる。
夏だというのに調子に乗って作りすぎてしまっただろうか。
「ま、何とかなるだろ」
炊飯器に放置していたせいか中身は少し硬くなってしまっていたが、いつも食べている冷えたコンビに弁当とかわらないだろうと底をさらうようしにて盛り付けた後、まずそうな残りのカレーをかけたら眠気眼のままラップもかけずにレンジ放り込む。
暖色の薄オレンジの光のなかでゆっくり回るターンテーブルを眺めながら、レンジでカレーをそのまま温めるとなぜあんなにざらざらしたものが残るかとふと疑問を抱く。
疑問に首をひねったついでに玄関のゴミが目に入る。
そうだ、今日は玄関をふさいでいるあれを片付けなくてはいけない。
ついでに、昨日回したまま洗濯物を干していなかったので生乾きのしわくちゃになっているだろう中身をまた洗いなおさなくてはいけない。他にすることといえば、昨日はカレーを作ったので料理は残り物で良いとして、今日はたまった疲れを湯船に使って洗い流したいな。
ま、そのためには風呂掃除もしなくてはいけないのだが。
まだ朝だというのに今日の予定は家事だけで終わりそうだ。日がな一日家事で終了、そう考えるとなんとも悲しい休日だ。とはいえコレといった趣味もなければ遊ぶ女もいないのなら妥当なのかもしれない。
はて、本当にこのままでいいのだろうか。
社会的に見てあまりよくないのは誰が見ても一目瞭然だが、しなくてはいけない事だし、何かをしようと思ってもどうせ家事が終わったら疲労困憊で何もすることができないような気もするでこの休日はこのままでいいだろう。
レンジのピーっという電子音が朝食の完成を告げる。熱くなった皿でやけどをしないようにシャツの裾で包み込むようにして皿を持ち、湯気を立てるカレーを取り出し、少しだけ綺麗になった部屋でもぐもぐと食べる。
「やっぱりざらざらするよなぁ……」
テレビの音だけが響く部屋でぶつぶつと一人文句を言いながらもぺろりとカレーを平らげた俺は、舌に残る不愉快なざらつきを歯ブラシそぎ落とし、それじゃあ行くかと財布を手に玄関にむかう。
幸い、ゴミ収集車が到着するにはまだ時間がある。
――ピンポーン
立ち上がるためにひざに手をかけたが、唐突に早朝の静かな廊下にチャイムの音が鳴り響いた。朝っぱらからごそごそしたのが迷惑だったのだろうか、と恐る恐る覗き穴から外の様子を伺ったが誰も居らず、ほっと胸をなでおろしながら音の元を探ろうと左右を見回したところ、長い黒髪が揺れながらレンズの端に見切れた。
どうやら音の主は隣の扉の前に居るらしい。
――ピンポーンピンポーン
「おじさーん!」
今度は扉をドンドンとたたく音まで聞こえてくる。
朝っぱらから迷惑だとは思わないのかと改めて様子を見る。
よくよく観察してみるもやがり顔はみえず、どんな気持ちでそのドアを叩くのかは推し量れない。
そのかわり、尾てい骨までほどの長さの艶がかった髪が光を反射しながら扉を叩く音にあわせて揺れるさまに、俺は不覚にも見入ってしまうのだった。
それほど身長はなく、あっても俺の胸ほどだろう。顔が見えない以上、俺には胸までほどの大きな黒いメトロノームがふらふらと壊れたリズムを刻んでいるようにしか見えず、笑いがこみ上げてきそうになる。
ただ、髪以外にも少し大きめで派手なワインレッドのキャリーバッグがなにか嫌な想像を掻き立てさせられる。
なにせ、そうだ、キャリーバックといえば大荷物を入れる。大荷物といえば旅行か家出かはたまた夜逃げだろう。
「おじさーん。いないのー? 都<みやこ>だけどー」
なるほど都というらしいその女は、語尾を少し荒げながらいっそう強く扉を叩いていた。叩く。それはもう叩く。
「ちょっと! 出てきなさいよ!」
切羽詰ったような女の高い声に、妄想はとまらない。
あの男、もしかして引越しの理由はこの女か。
痴情のもつれなのか何なのか知らないが、こういうことは関わらないのが吉である。
誰だって訳のわからない逆恨みをされて刺されたくはないのだ。
ならばこのまま部屋の中でじっとしているのも一つの手だったが、なり続けるチャイムの音に恐怖を覚え、外出を決断した。
特に関心はないですよといった風を装い、ゆっくりと音を立てないようにして扉を開け、俺は抜き足差し足でその場を去る。
「あ、そういえばお隣さん……」
昨日、引越ししていったな。
バイクにたどり着き、一息ついたところで思い出した。
確かあの隣人、見た感じは俺と同じか少し上くらいだった気がするが、こんな田舎にすんでいた癖に急に引越しだなんてまずありえない。解雇だってもう少し余裕を持って引越しの準備をさせてくれるはずだ。
なによりあの女は普通ではなかった。痴情のもつれと言うのも十分考えられる。
なにせ、俺が見た隣人の部屋に入る女はもっと大きかったし、髪もあんなに長くなった。
ともすれば、あんなに親近感を覚えていたというのに今は少し遠い存在なのかもしれないと寂しさと恐怖を覚える。
まぁ実際のところ、こんな田舎でそんなアグレッシブな恋愛をしていれば、嫌でも誰かの耳に入ってきそうなものではあるが、どう上手く立ち回ったのか。
それに、一瞬だがちらりと見た女の横顔少し幼さはあったもののなかなか美人だった。誰かと歩いてデートしようものならきっと噂になっていたに違いない。となればなおさら、噂の坩堝であるわがパートのおばちゃん連中から嫌でも聞かされていたはずなのだが、本当にどう上手く立ち回ったのやら。ぜひともご教授願いたいものだ。
ちなみに、俺と樹の関係は二、三日でばれた。
女の服装はというと、上は薄い水色のワンピースに落ち着いたクリーム色のカーディガンといった、特に飾り気のないどこにでもあるようなコーディネートだったにもかかわらず、長く美しい黒髪と合わさって俺を強烈に惹きつけた。
むしろ、その素朴な服装こそが逆に素材の良さを引き立てているといった感じで、なにかの雑誌に乗っていてもなんら不思議ではない。そんなふうに思えた。
「今の子はいろいろ凄いんだなぁ」
関心ついでにつぶやきながら、バイクにまたがり目的のゴミ袋の購入先を検討する。
「少し早く起きすぎたよなぁ」
確認した時刻はスーパーが開くには少し早い時間。後三十分も待てば開店時間なのだが、視線を避けるようにして去ってきた手前、開店待ちのために部屋に戻るわけにも行かず、俺はしたかがないかと深いため息をひとつ吐いてエンジンをかけた。
「いらっしゃいませー……ってあれ? 店長、今日はシフトじゃないですよね?」
「あ、うん。少し買い物をね」
結局、来たのは自分の勤務先。出迎えてくれたのは大学生君だった。
休みにまでどうして来なければいけないのだと少しげんなりするが、背に腹は代えられないというやつだ。だって田舎に24時間営業の店などコンビに以外にはないのだから。
目的のゴミ袋を手にレジに向かおうとするが、まだ少し帰るには早いかもしれない。なにせこのままでは最短時間での帰宅となる。
と、なると他に何か無いか探すのがいいだろう。ウィンドウショッピングというやつだ。大学生君からしたら店長が自分の勤務態度のチェックするために抜き打ちで来たのだと思われて余計な警戒心を抱かせているのかもしれないが、最低限やっているようだし、なにより彼のことはわりと信頼しているので少しすまないことをしたかなと思う。
「お、そういえばペットの餌なんてのもあったな」
昨日。戦士の友情を育もうと差し出したにぼしを無視して俺をコケにしたクロネコのことを思い出し、ペットの餌コーナーに足を向かわせる。いやはや、コンビニというのは何でもあるな。
「お、案外高いな」
缶詰一個百円やら、高いのでは一個三百円なんてのもある。人間様のつまみ缶詰と値段が変わらないとはこれはいかなることか。
ペットにこれならまぁ許容はできるが、あのクロネコはべつにペットでもなければ懐いてくれている訳でもない。と、なるとこの値段で割に合わない。
「君、猫とか飼ってる?」
「え、いや。飼ってませんけど」
「そっか」
「どうしたんですか、急に」
「いやね、猫って何食べるんだろうなって」
「それ、答えになってないような気がするんですけど……」
「そっか」
何か言いたそうな大学生君を無視し、俺はそのまま無言でちくわを手に取った。これなら猫が食べなくても俺が食べればいい。あとは、いらぬ心労をかけた彼にせめてものお詫びにと適当に缶コーヒー二本と自分用のカフェオレを手にレジに向かう。
「そのコーヒー、仕事上がりにもう一人と飲んで」
「え、いいんですか?」
「ま、いきなり来ちゃったしお詫びだと思って」
「そんな、全然よかったのに」
「なら返してこようか?」
「いえ、いただけるならいただきます」
そういって大学生君はカフェオレとコーヒーを一本手に取った。
あっ、そっちなんだ。俺、普通のコーヒーは苦くて飲みたくないんだけどな。
「ありがとうございます」
「あ、うん」
しかし、今更返してくれとも言えずなんともいえない気持ちのまま家へと向かう。
「おじさーん」
まだいた。
流石にチャイムを鳴らすことはしていなかったが、相変わらず中の人に声をかけている。
そこに中の人などいないというのに。
そういえば、そのおじさーんとやらから何かあったら連絡先を教えるようにといわれているのだが、果たしてこれは教えていいパターンなのだろうか。
「あー君」
数秒所思案の後、声をかけた。
と言うのも、流石にこれだけ待っているのに無反応なら何かしらに感づいてもいいと思うのだが、その様子まったくみられずけなげにも声をかけ続ける姿には流石に良心が痛んだのだ。連絡先を教えるかどうかは別にしてだ。
「はい?」
女の声はものすごく不機嫌そうだった。と、言うかこっち睨んでるよね。
身長の関係上、下から見上げるようにして女の子は俺の事を見ているのだが、上目遣いというのはこう、保護欲を掻き立てられたりするものではなかったか。なぜ俺は背中に伝うものを感じるのだ。
「あ、いや」
クロネコとのバトルでは引くことをしなかった俺だったが、すぐに目線をはずしてしまった。
ついでに、その剣幕に二、三歩後ずさる。
「そ、そこの人、昨日引っ越したよ」
「はぁ?!」
語尾を上げるようなアクセント、若者だ。若者感がすごい。それに不機嫌なのがビンビン伝わってくる。
「ったく、引越しなら連絡入れとけよ……」
先ほどまでとは対照的にいきなり静かになった女は、突然扉をガツンとブーツで蹴ると、すごい勢いでスマートフォンを取り出してタイプし始める。
「じゃ、じゃあ」
結局、連絡先は教えずにそそくさと自室に戻った。と、いうかさっきの別れの言葉だって何とか搾り出したのだ。
部屋に戻り、扉を背にした瞬間、ため息が出た。
最初に来たのが安堵。その次に来たのがまったく、ありがとうとか感謝の言葉は無いのかね。という負け惜しみだった。
「近頃の若い者は……」
今のは少し親父くさかったかなと思いながらコンビニで買ってきたゴミ袋を取り出し、早速玄関にあふれている小さなごみ袋たちを詰めていく。
一つ二つとつかんでは入れる、つかんで入れるを繰り返し、玄関が終わると次は小さな袋に入りきらなかったり、分別用に分けていたゴミをそれぞれ回収していく。
「このフローリングはいつぶりに日の光を浴びるんだろうな」
なんてつぶやきながらせっせと片付け、買ってきたゴミ袋を三つも消費した頃には、女に睨まれたときのことなどすっかり忘れてしまっていた。というかこの部屋にはこんなにもゴミがあったのかという驚きが勝っていたのかもしれない。
一通りゴミを集めることができたし、回収車が来る前にさっさとゴミを出してしまおう。
一応、女が扉の前に誰もいないことを確認してから扉を開け、ゴミ回収所まで歩く。
どうやら先ほどの女の子はどこかに行ったらしく、あたりには見当たらなかった。
ゴミ捨ての次は洗濯だ。
絡まって固まりになっている洗濯物を適当に手でほぐし、洗剤を適当に流し込んでスイッチオン。洗濯機が回っている間に風呂場の掃除をしよう。
はて、バスタブ用のスポンジなんてあっただろうか。
「ないよな……」
そういった用具を入れていたのはシンクの下の戸棚。昨日、洗剤と食器用スポンジの予備しかなかったそこには新しくゴミ袋が追加されていたが、バスタブ用のスポンジは当然なかった。
さっき買い物に出かけたというのに考えもしなかった。またコンビニまで行くなんて二度手間は面倒だし、何とかあるもので代用してしまおう。
「ま、当然コレだよな」
代用品に選ばれたのは食器を洗っていたスポンジだった。晩御飯を買いに行くついでに新しいスポンジは買ってこよう。
ここのところ、忙しいのと疲労がたまっていたのもあり、風呂といえばもっぱらシャワーのみだったため、特に汚れないだろうと思っていたのだが、シャワーで跳ねた水垢やらが跳ねた汚れやらが見え、掃除するに理由には十分だ。
風呂用洗剤を使うまでも無く、スポンジで軽く擦るだけで汚れは落ちていったので、バスタブは簡単に洗うことができた。
と、なると洗濯物が終わるまでの時間をもてあましてしまう。
そこで登場するのが細部の掃除である。せっかくなら徹底的にやってしまおう。
「歯ブラシ歯ブラシー」
洗面台で使い古した歯ブラシを探したが、生憎とすべて処分した後だった。
「……」
目の前には使いかけの歯ブラシが二本。青とピンクの二本だった。
俺はピンクの歯ブラシなんて使わないし、使う気もない。なら、この歯ブラシは誰のものなのか。
当然、この歯ブラシは樹の物だった。
自分でもよくもまあまだ持っているものだと思ったが、なんとなく捨てれずにコップに刺さったままだった。
「丁度、いいよな」
ピンクの歯ブラシに手を伸ばす。
柄は少し滑り気を帯びており、使われていないままの経過年数を物語っていた。
「樹……」
彼女は、もういない。ひょっこり帰ってくるものだと思っていたが、もう三年だ。俺もいい加減理解しなければいけないと言うことだろう。
「さよなら」
こぼれた言葉は、上手く言えていたのだろうか。
やけに視界がぼやける。
汚れがゴシゴシとそぎ落とされ、磨く先はどんどんと綺麗になっていく。
それなのになぜ、俺はこんなにも悲しいのだろうか。
「好き、だったんだなぁ……」
今更になって気がついた。
本当は、もっと前からわかって居たんだと思う。それを、こんな年の男がみっともないだとか。恥ずかしいだなんて理由で表に出せなかった。樹はそんなことなど見透かして、言葉にせずともわかってくれていると思っていたのだが、やはりそれは俺の身勝手。わがままだったのだ。
なんと愚かしいことか。なんと、浅ましいことか。
そうか。だから、君はもう帰らない。