チャイムの音とともに、この日最後の授業が終わった。
しかしそれにもかかわらず、クラスメイトの大半はそれを喜ぼうとはしない。正確に言えば、喜ぶだけの余裕がない。この教室があまりにも暑すぎ、そういった感情を表に出すだけの体力がもう残っていないのだ。
そういう僕も、授業の終わりと同時に机に突っ伏したうちの一人である。
今年の夏は、去年のそれよりも暑いような気がする。毎年毎年、「今年の夏は暑いなぁ」なんていう言葉をあちこちで聞くわけだが、今年のこれは本当に暑い。
暑さの中でじっとしていると、ぐにゃぐにゃと思考が溶けていく。溶岩のようにドロドロになり、そのままどこかに流れ落ちていく。
「――――おい正人、いつまで寝てんだ」
いつの間にか眠っていたのか、肩をゆすられて目を覚ました。
最初に目に入ってきたのは、僕の数少ない友人、楠勇次郎の姿だ。
「……あれ? ホームルームは?」
「お前が寝ている間に終わったよ馬鹿。見ろよ。もう半分以上は教室からいなくなってる」
「あ、ほんとだ」
僕は立ち上がった。
荷物を鞄に詰めていると、勇次郎は、
「今日、天体観測するんだよな?」
「うん。夕方の屋上は涼しいよ」
「そうか。剣道部のほうが終わったら俺も行くよ」
そして鞄を持って、僕らは教室を後にした。
彼とはそのまま別れ、僕は天文部の部室へと向かう。
もうずいぶん見慣れたその扉を開くと、中からむわっとした熱気が外に漏れだしてくる。なんという暑さだ。うんざりしてしまう。
その部室の中には三人の生徒がいた。一人は一年前に入部した九栗明日香、あとの二人は今年入ってきた新入部員の葉山と西口である。
葉山はどこかぽわぽわとした、なんとなく明日香に似ている女の子だ。彼女は今、明日香の横に座って、星座占いの本を一緒に眺めている。血のつながりは無いはずなのだが、なんとなく姉妹のようなものを想像してしまう。
そして西口は、眼鏡をかけた痩せ型の男子生徒である。見た目からして明らかなインドア派で、知的な感じがする。そんな彼は二人とは反対側に座り、ロケットか何かの本を読んでいる。
僕が部屋に入ってきたことに気づいて、明日香は顔をあげた。
「あ、正人先輩。屋上のカギはもう借りておきましたよ」
「そっか、ありがとう」
「部長」
「ん?」
そちらを見ると、西川が本から顔を上げてこちらを見ていた。
「この本の続きはこの部屋には無いんですか?」
「続き?」
彼から本を受け取って見ると、確かに表紙にはタイトルの後にⅠとある。何冊あるのかは分からないが、Ⅰとあるということは少なくともⅡはあるだろう。
「僕はこういうのに詳しくないから分からないけど、そのへんとかを探したら見つかったりしないの?」
部室にある大きな本棚と、そこに入りきらなかった本が積み重なっている場所を指さして言うが、
「一応全部探して見ました。だけど見つからなくて」
「そうか……」
「どこか、他の部屋にも資料を置いてあるとか、そういうことはありませんか? 物置とか資料室とか、そういうのが」
「さぁ……。あっても僕には分からないな」
言うと、彼は残念そうな顔をした。
それにしてもこの表紙、僕は何度か見たことがあるような気がする。結構いい加減な記憶だが、それがもし正しかったなら、続きがどこにあるのかもなんとなく想像できる。
しかしそうだという確証はなかったため、彼には言わないでおいた。期待させて無かったら申し訳ない。
それから彼はまたその本に戻った。その反対側では、二人の女子部員が一冊の本を見て何かを話している。
僕はいつもの席に座って、勉強道具を取り出した。
もう気づけば僕は三年生だ。受験もすぐそこまで迫っている。部長である僕が部室で関係ないことをするのがマズいのは分かっている。が、もうすぐ模試があることを考えると、どうしてもそちらを優先せざるを得ないのだ。幸い、皆はそれぞれ自分のやりたいことに熱中している。少しくらいやってもいいだろう。
そうして二三時間ほど部室で過ごしてから、僕らは屋上へと向かった。
重たい扉を開けると生ぬるい風が頬を撫でた。夏の熱気は、日が沈むことで幾分和らいでいるようだ。
僕らはそれから望遠鏡を準備し、天体観測を始めた。
活動を始めてしばらくすると、楠勇次郎がやってきた。彼は今でも剣道部と掛け持ちしている。といっても、近々剣道部のほうは引退するらしいのだが。
皆で好き勝手に星を眺める。
星空は綺麗だ。
――だけど、何か違う。どこかぼんやりして見える。
あの時を境に、星がどこか遠くに行ってしまったような感覚がある。到底届かないような場所でキラキラと光っている。以前は、もっと近くに感じることが出来たはずなのに。
だけどそれも仕方がないと思う。僕の心はもう疲れてしまっている。まだそれでも、綺麗だと思うことができること自体に、感謝しなければ。
空を見ていると、ふと隣に誰かがいるような気がした。それは懐かしい気配だった。
視線を落とすが、そこにはもちろん誰もいなかった。僕は頭を振った。もう今更、こんなことで動揺したりはしない。
それから一時間半ほど天体観測を続けて、僕らは解散した。
透がこの世界からいなくなってから、約一年が経過した。
かつて天文部の部長だった彼女の死により、その部長という役割は僕に移った。
それからさらに時間が過ぎ、僕が三年生になると、新入部員が二人増えた。楠勇次郎を合わせると、今、天文部の部員は五人いる。最初は僕と透だけだったのに、いつのまにかちゃんとした部活になってきている。
時間と共に天文部は成長してきた。
しかし僕は、あれからまったく変わっていない。
透の死を知った時、彼女のことを慕っていた明日香はすごく悲しんだ。部室にも顔を出さなくなった。だけどそれも一ヶ月くらいすると、彼女はまた復活した。きっと、うまく納得することができたんだろうと思う。
透の母もそうだ。彼女もまた最初は随分と落ち込んでいた。
そして僕が佐々木家で食事をするというようなこともなくなっていた。しかし時間が経つと共に、彼女は回復していった。やがて彼女は、「またうちに食べに来るようにしなさい」と僕に言った。
佐々木透という人間の死は、段々と過去のものになっていく。彼女に関わりのあった人々は、その事実にゆっくりと慣れていく。
きっと、もう僕しかいない。
こんなところにいつまでも立ち止まっているのは、僕だけだ。
透の母の言葉に甘え、僕は佐々木家で食事を摂ることを再開した。だけどその食卓は、かつてのそれとは全然違った。三人だったのが二人になってしまったのだ。今まで通りなはずがない。
だけどそれでも彼女は僕を食事に誘ってくれるのだ。遠慮しようとしても、無理矢理に家までやってくる。その強引さに、やっぱり親子だったんだな、なんてことを思う。
そしてこの日も、僕は佐々木家で夕食を摂った。
この日の夕食はカレーライスだった。
「おいしい?」
笑顔で尋ねる彼女に、僕は頷きを返した。
やがて食べ終わると僕は、ふと先日後輩の西川が言っていたことを思い出し、少し透の部屋を覗いてもいいかと彼女に尋ねた。
「部屋を? 何か用事があるのかしら?」
「いや……。少し本を探してるんですよ。部室にあった本なんですが、もしかしたら透が持ち出してたかもしれないから、ちょっと部屋を見てみたいんです」
「ああそういうことね。別に構わないわ」
彼女の了承を貰い、僕は透の部屋に向かった。
部屋に入って電気をつける。もう一年近く使われていないはずなのに、埃などは見当たらない。きっと透の母が定期的に掃除をしているのだろう。
「あ、やっぱりここにあった……」
僕は勉強机の上に置いてある本を手にとった。それは西川が読んでいた本の続きだった。
なんとはなしにパラパラとめくると、本の隙間から何かが落ちた。拾い上げると、それは小さなメモだった。
本を読みながらメモをとっていたのだろうか。僕には理解できない図やら専門用語やらが断片的に書かれている。それは彼女の勤勉さと真面目さを表していて、微笑ましくなるのと同時に――強い苦しみを抱いた。
こうして、ふとした拍子に僕は彼女のことを思い出してしまう。
佐々木透の気配を感じてしまう。だけど実際にあるのは全部過去のもので、今はどこにも残されていない。
その欠落は、あまりにも大きい。
彼女が生きている時は自覚することがなかったが、きっと、彼女の存在は僕の中の大部分を占めていたのだろう。だから彼女の死に、僕の内面にあった色々なものがごっそり奪われてしまった。
そして今、僕の中のほとんどは空っぽだ。
その空白を埋める方法を、僕は未だに見つけられないでいる。
そういえば先程、あれから僕はまったく変わっていないと述べたが、実際には少しだけ、変わったこともある。
僕はあれから、バイクの免許を取ったのだ。ふとバイクに乗ってみたくなり、二年生と三年生の間の春休みを全部つぎ込んで免許を取得した。
そしてバイクも買った。こういうことにまったく詳しくなかった僕は、適当に目についた安いやつを購入した。
何故急にバイクに乗りたくなったのか?
その理由について、はっきりと答えることはできないけれど、多分、僕は透の面影を探したかったんだと思う。
日常の中、彼女のことをふと思い出して苦しい気持ちになる。しかし、それは苦しいだけではなく、嬉しくもあるのだ。
その懐かしさに、どこかほっとする自分がいる。だから僕は、無意識的にしろ意識的にしろ、透の面影を追い求めてしまっている。
この日。夕食の一時間ほど後。僕はバイクに乗って街外れにあるあの小さな丘に向かうことにした。
バイクに乗り始めて、なんとなく生前の彼女の気持ちが分かってきた。
あの時は、どうして彼女があんなにスピードを出すのか分からなかったが、今では少し分かる。
バイクに乗っていると、もっと速くしたい、という衝動がどこからともなく湧いてくるような気がする。車の通りが少ないところ等では特に。
スピードメーターを見て、これはまずいなと速度を落とす。口の中で小さく「安全運転」と唱える。そうしないとどんどん速くなっていってしまうのだから、どうやら僕は、彼女のことを注意できるような健全な人間ではなかったらしい。
やがてその丘の上に辿り着いた。
「ふぅ……」
ヘルメットを取ると、涼しい風が頬を撫でた。
目の前には綺麗な夜景と星空が広がっている。まだうまく感動することができないまま、僕はじっとそれらを眺める。
三十分程眺めた後、僕はバイクに乗って家に帰った。
「それで、今年はどうしましょう?」
「うーん。どうしよっか……」
夏休みが近づいてきているある日の放課後。僕らは四人で話し合っていた。
その話し合いの内容は、文化祭での出し物についてである。今日のホームルームでは、どのクラスでも文化祭の出し物についての話し合いがあった。それらについてあれこれと雑談をしているうちに、そういえば私達はどうするの? という話になったのだ。
夏休みの後半になってからようやく考え始めていた去年とは随分違う。
「やっぱりプラネタリウムですよね。天文部と言えば」
そう葉山が言うと、
「僕もプラネタリウムに賛成です。去年、僕はここの出し物を見たんですよ! その時の記憶がずっと残っていて、だから部活を選ぶ時、天文部にしようって思ったんです」
西川がそれに賛同する。
新入生二人はどうしてもプラネタリウムを作りたいらしい。
「でも、それは去年作っちゃったし……。去年と同じってのもなぁ」
「うん……」
対して僕と明日香は困り果ててしまっていた。
天文部のやれる文化祭での出し物と言えば、そんなに種類があるわけではない。かなり選択の幅は狭いのだ。去年プラネタリウムをやることになった時も、これしかない、という感じで決まったような記憶がある。
天文部の出し物で大勢に喜ばれそうなものといえば、プラネタリウムが真っ先に思い浮かぶ。しかし去年と同じでは面白くなく、芸もない。
「だから、やるとしたら、去年には無い工夫をしたいんだ」
僕がそう言うと、三人は難しい顔で黙り込んでしまった。
やがて少しの時間の後、明日香は、
「日本から見える星空じゃなくて、南半球から見えるものにしたらどうですか?」
「うん、まあ、それも面白いかもしれないけど……。やっぱり身近なほうがいいかな。来てくれた人がいつか星を見た時、『そういえばあんなのあったな』ってなるのが理想だと僕は思う」
「まぁ、そうですよね……」
そしてまた黙りこむ。
彼女がここで南半球というアイデアを出したのは、恐らく透が去年ここで言った言葉が原因だろう。
透が以前の高校で、コンピュータで制御できるプラネタリウムを作ったこと。それを使えば、座標と時間を入力することで、世界中のありとあらゆる場所の星空を眺めることができるということ。
……まあ実際には、南半球の部分を完成させることはできなかった、と言っていたけれど。
それにしても、コンピュータ制御か……。
僕は今、やっぱり身近なほうがいい、と言ったが、実際に透の言うようなプラネタリウムを完成させることができたら、それはとても素晴らしいことだと思う。
上映時間によって場所を変えてみたりだとか……いや、上映中に場所を変えて、世界旅行みたいな形にするほうが面白いかもしれない。それならこの街からの星空を見ることもできるわけだから、身近さという点でも問題ないだろう。
ただ問題があるとすれば、今の僕らにそれを作る技術が無いということだ。
だけどそれに関しては、今から気合を入れて勉強をし、準備をしていけば、文化祭くらいにまではなんとか間に合うような気もする。プログラミングなどを一から学ばないといけなかったり、かなり難航しそうではあるが、不可能ではないと思うのだ。
しかしなぜか、そうすることに気が進まない。大変だとか疲れるだとか、そういう事以前に、何かうまく納得できない部分がある。
……はっきりとは分からないが、多分そう思う理由は、かつての透がそれを望んでいたという部分にあると思う。
彼女が望んでいたことを僕らが代わりにやるということに、僕は引っかかっているのだ。
僕はそこで考えるのを止めた。それ以上考えることが恐ろしくなった。
「――まあとにかく、何も案が浮かばないのなら仕方ない。今日これについて考えるのはここまでにしよう。皆それぞれ各自で、何かいいアイデアが無いか考えておいてくれ。……どうしても案が出なかったら、最悪去年と同じ内容でもいいんだから」
部長である僕のこの言葉により、この日の話し合いはそこで終了した。
透の母と夕食を摂った後、僕は今日もあの丘に星を見に行くことにした。
バイクに乗って目的地へと向かう。
そして丘の上に辿り着いたのだが、空を見上げても星がほとんど見えなかった。家を出る時には見えていたのだが、急に曇ってきたらしい。
十分程そのまま空を見上げていたのだが、星はどんどん見えなくなっていく。
今日はもうダメみたいだ。
小さくため息をついてから、僕は帰るためにバイクに跨った。
胸の奥で何かの感情が燻っていた。星を見ることができなかったのが原因だろうか? なんだか感情的に乱れ始めているような気がする。
そうして自分の内面について観察しながら運転していると、ふと唐突に、脳の奥にピリピリとしびれるような感覚が走った。
何だ?
意識が明滅し始める。ちょうど古くなった電球がチカチカ光るように。
このままではマズい!
――そう思ったのだが、うまくブレーキをかけることができない。
それどころか、スピードがグングン上がっていく。
頭のなかでこれは危険だと理解していながらも、手足をうまくコントロールすることができない。
何だ? 何が起こっているんだ?
怖くてスピードメーターを見ることができない。体感的にはもうとんでもない速度になっている。
しかしそうして加速が続くと、突然、僕の内面を占めていた感情が恐怖から心地よさに変わった。馴染みのある気配がすぐそこまで来ていた。
感覚的に分かる。これは、初めて透のバイクに乗った時と同じ速度だ。
なんとも言えない安心感に包まれて疾走していると、やがて強烈な衝撃が僕を襲った。対面からやって来ていた車に衝突したのだ。
全身がバラバラになったかと思った。いや実際、バラバラになっているかもしれない。もう自分ではよく分からない。
そして、僕はようやく理解した。
透が死んでからずっと、僕は彼女の面影を探していた。日常の中にふと紛れ込んでいるその気配を、僕は追い求めた。そういった面影は確かに、ぼんやりとした幻影としてそこにあった。
だけど僕は、もっと決定的なものが欲しかったのだ。
佐々木透という人間そのものを感じたかった。
しかしそれはどこにもない。どこを探しても見つからない。もうこの世界にはいないのだから、それは当然かもしれない。
だからもし、彼女という人間に触れることができるとしたら、ここしかないのだ。
生と死の狭間。彼女が死ぬ直前に見たであろう光景。それはすなわち、ここだ。疾走するバイクから飛び出し、宙を舞っている今のこの状態そのものだ。
死者の魂に会いたいとか、そういうことじゃない。
生きているとか死んでいるとかは関係ない。ただ、佐々木透という人間の死についての本質を見つけることができるとすれば、ここしかないというだけの話だ。少なくとも僕にはここ以外に考えられなかった。
ここでなら、彼女に会える。
そんな――そんな馬鹿げたことを、僕はずっと、心の奥で考え続けていたのだ。きっと、無意識のうちに。今になってようやくそれに気づいた。
まるっきり狂った人間の考えだと、僕自身ですら思う。
そして実際、僕は狂っているのだろう。
こうして体が宙を舞い、すぐ目の前にまで死が迫っているこの状況において、僕はこういう選択をしてしまったことをまったく後悔していないのだから。
僕の視界はいつの間にか真っ黒に塗りつぶされている。そして耳はもうキーンという耳鳴りしか拾えない。僕の感覚器官はもう完全に狂っている。
そう遠くないうちに、僕はこのまま地面に叩きつけられて死ぬのだろう。
何もかもが遠くなっていく世界で、僕は彼女の存在を探した。その気配を何としてでも見つけようと思った。
やがて、僕の意識は完全に途切れた。
それは、まだ小学生だった僕らの別れの記憶だ。
透がいなくなることが悲しかった。僕らはいつも二人で一緒に遊んでいた。言ってしまえばそれは、二人だけの世界を作っていたということだ。
彼女がいなくなれば、その世界の半分が消滅することになる。それはきっとすごく悲しいだろうと、僕は想像していた。
その別れの日、僕は泣いてしまいそうだった。「さようなら」という言葉を言う前に、嗚咽が漏れてしまいそうだった。だけどそれを必死に我慢した。泣くのはかっこ悪いことだと思っていたからだ。
しかしそんなやせ我慢も、最後まで保たないだろうと思っていた。
だが結果から言えば、僕はこの日、最後まで涙を流すことはなかった。
なぜなら、僕が泣き出すよりも先に、彼女のほうがとんでもない勢いで号泣し始めたからだ。
それまで何年も一緒にいたのに、そんな激しい泣き方を僕は一度も見たことがなかった。透はこんなふうに泣くことができるのか、と僕は場違いにも感心してしまっていた。
その泣き方は、当時小学生だった僕から見ても、あまりにも子供っぽい思い切った泣き方だった。
そして、そんなふうに号泣している彼女を見ていると、なんだかおかしくなってきた。
気づけば僕は笑ってしまっていた。彼女が泣けば泣くほど、笑いがこみ上げてきてしまう。つい先程まで自分の方が泣きそうだったことなんてすっかり忘れて、僕は思い切り笑った。
泣いている人を見て笑うなんて、我ながらなんてひどい。
――だけど、それでよかったんじゃないかと、僕は思う。
予想とは全然違う別れになってしまったけれど、でもそれでよかったのだ。
だってそうだろう?
泣いているよりも笑っている方が幸せなのは、言うまでもないことなのだから。
白く、薄暗い世界に僕はいた。
初めはぼやけていた目が、次第にピントを合わせ始める。
目の前にあるのは白い天井。ちらりと横を見るとカーテンがあり、その隙間から僅かに陽の光が差し込んでいる。その光はまだ弱々しい。静けさから考えると、恐らくは明け方だ。
ここがどこなのか分からず、一瞬だけ狼狽したが、すぐに予想がついた。事故に遭った後に目を覚ますとしたら、それはもう病院しか考えられない。
「……僕は、バイクに乗って、事故にあった」
なんとなく声を出してみる。その声はひどくかすれていた。
「だけど、僕は死ななかったんだな」
妙な感慨があった。
決して死にたかったわけじゃない。死んだら透と同じ世界に行けるとか、そんなことは考えていなかった。だけど、あれはもう間違いなく死ぬだろうと思っていた。
奇跡的な何かが起きたのか、あるいは思っていたよりもスピードが出ていなかったのか。とにかく僕は生きている。集中治療室かどこかに入れられているわけでもない。
恐る恐る体を動かした。
「……あれ?」
事故にあったのだから、生きているにしても全身がかなり損傷しているだろうと思っていた。しかし動かしてみるとほとんど痛くないのだ。
ちょっと動かすだけでも激痛が……という状態を勝手にイメージしてしまっていたのだが、全然違う。
不思議に思って上体を起こす。
もしかしたら痛みの感覚が麻痺しているだけかもしれない。そう思って自分の体を目で確認した。
見てみると、どうやら怪我をしているのは左腕と左足だけのようだった。ギプスか何かで固定されているのが分かる。動かそうとすると、確かに痛みが走る。
なるほど。つまり僕は左足と左腕を骨折したというわけか。
――これは、なんだ?
透がバイクの事故に遭った時、そのせいで全身のあちこちが破壊された。両手両足はもちろん、それ以外の無数の箇所で骨折していた。そして内蔵にも致命的なダメージがあった。病院に運ばれるまで生きていたこと自体がすごいと言えるような、そんなひどい有様だったはずだ。
それに比べて僕のこれはなんだ?
足と腕を一本ずつ、ただ骨折しただけ。全然命に関わっていない。無理をすればこのまま家に帰ることだってできそうだ。
あまりにも軽傷すぎて、その比較がなんだか滑稽だった。
なんだか奥のほうから笑いがこみ上げてくる。こらえようとするのだが、くつくつと小さく笑ってしまう。その振動が左腕に響いて少し痛い。しかし、一度笑い始めてしまったらもう駄目だ。
思わず大声を出しそうになるのをなんとか抑える。部屋の外に声が漏れて、不審に思われては堪らない。
そうして笑っているうちに、次第に涙が溢れてくる。
もう自分の感情がどうなっているのか分からない。
ただ、自分が生きているということの嬉しさや、彼女が死んでしまったということに対する悲しさ。そういった思いが次から次へと溢れてくる。
こんなに笑うのも、こんなに泣くのも、随分と久しぶりだった。僕は透が死んだ時も、うまく泣くことができなかったことを思い出した。
それからしばらく、僕はずっとそうしていた。
幸いにも、誰かがやってくる前に僕のそれは落ち着いた。
ふと気づけば、カーテンの隙間から差し込む陽光が、さきほどよりも眩しくなっていた。太陽は完全に昇りきったようだ。
カーテンを少しだけめくる。見えた空は、これ以上無いくらいに青かった。
どうやら今日は、快晴らしい。