約束の地へ
第32話
皐月賞の本馬場入場が始まった。雨はようやく止んでくれたが、遅きに失した感がある。春の中山開催フィナーレを飾る皐月賞は、極悪馬場で行われることが確定的となった。
そんな過酷なレースに挑む十八頭と十八人は、『グランプリロード』と呼ばれる検量室前の馬道を、それぞれの厩舎スタッフに引かれて歩いていく。
グランプリロードは、ファンがこれから激闘に赴く人馬を至近から見るために造られたものだが、皐月賞のような大レースになってくると、人垣が出来、蟻一匹入り込む隙間もないようだった。
朝川は現在『駿馬』のトラックマンとして、競馬会からも関係者として扱われ、スタンドには『駿馬』スタッフ用の部屋まである。そこはもちろん喧騒とは無縁で、快適に眼下の光景を観察することができる。
しかし朝川は、パドック解説終了からレース発走までのわずかな暇を利用して、スタンド一階まで降りていた。エスカレーターを降りると、スタンド内は思ったよりは空いている(それでも人混みが苦手であればストレスを感じる程度には混んでいるが)印象だったが、コース前に出るとその理由が分かった。
雨が止んで、待ってましたとばかりに皆外へ出ていたのだった。これ以上進んだら、レースまでに上に戻れないかも、と直感した朝川は、壁際に寄り掛かって、特にゴール前に密集しているファンの姿を遠めに見やった。
俺もああだった。大学生の頃、毎週のように通った中山。指定席など取る金はなく、有馬記念などの入場者が爆発的に多い日には、朝から本番までずっと、ゴール前に地蔵のように佇んでいたものだった。
立場は変わったが、ただの一ファンだったあの頃の感覚を失いたくない。仕事と割り切るのではなく、競馬が好きだという気持ちをずっと抱き続け、ファンの目線で新聞を作り続け、メディアで語り続けたいと、こうして臨場する度に再確認する。
『新聞はファンのためにあるんだよなぁ』
庄田はよくそう言っていた。居酒屋でも、スナックでも、泥酔していても。そんな場所で話した記憶ばかりがまず浮かんできてしまう。
周りを見渡せば、ファンはそれぞれ思い思いに選択した新聞を握り締めて立っている。その中にはもちろん『駿馬』もある。
指針になるような新聞を。それを作るのが仕事だ。
朝川にとって、競馬の原点とも言える中山競馬場で、彼は時に初心に帰る。
皐月賞が始まる。
中山競馬場では年に三回しか流れることのない関東平地GⅠファンファーレ(二〇一七年からは有馬記念後の年度最終開催で二歳GⅠのホープフルステークスが開催されるため四回となる予定)が、市川・船橋消防局音楽隊によって高らかに演奏された。ファンは演奏に合わせて「オイ! オイ!」と叫んでいる。
競馬場はライブハウスじゃないぞ、と朝川は内心不快に思いつつも、そうした若いファンもこれからの競馬のために必要であることもまた分かっていた。
「マイジャーニー、大丈夫かな?」
ファンファーレ終わりで、戸田がそう呟いた。確かに、大観衆の歓声に気持ちが昂ぶっている様子が見て取れる。だがそれは仕方ない。
弥生賞組は観客に近い正面からのスタートを経験済みだが、決定的に違うのは客の数と生ファンファーレである。GⅠデー、しかもGⅠ中のGⅠともいえるクラシックレースとなれば、客入りの多さは普段の開催の比ではない。降雨の影響もあり、今日はそれでも少ない方なのだが、ゴール前は密集していて、それぞれが声を出したり手を叩いたりしている。一つ一つは小さくとも、それが数万人分集まれば巨大な音塊となる。
その異様さは、元来臆病であるサラブレッドという種族には相当堪えるのではないか。怒りではなく、怯えているのかもしれない。
--いや。
「あの馬は、怒ってるくらいで良いんですよ」
怯えるなんてタマじゃないな、アレは。
「出遅れが心配ですね……」
吾妻が底の厚い眼鏡をクイッと上げる。
「どうせ最後方からですよ」
「正確には、大出遅れが気になるんです……」
確かにそのリスクはある。少し出負けしたレベルではなく、絶望的なまでに出負けした、となったら、その時点で馬券が紙くずになったことを自覚せざるを得なくなるかもしれない。朝川は、見事なまでにマイジャーニー絡みしか買っていない。
「それを気にしてたら馬券が買えなくなるな」
竹田がそう言って小さく笑う。
「さあ……裁きが下される瞬間だ。関東本紙として、このレースは絶対に当てたい」
競馬に絶対などないことを誰より理解している本紙担当の竹田さんが言う"絶対"は重みが違う、朝川は身震いする思いだった。
竹田もまた、庄田の下でトラックマンの何たるかを学び取ってきた人間だった。大レースで本紙が予想を外すということは、より多くの読者を裏切るということである。
競馬に絶対はない。しかし、"絶対"を、少しでも近くに手繰り寄せる努力を惜しんではならないのだと、『駿馬』のトラックマンは先輩の姿勢からそう受け取っているのだった。
そして、場内実況はテレビで共演している大葉アナが担当している。大葉アナもこれが初のクラシック実況だという。
朝川は、番組収録の合間に、クラシックを担当することのプレッシャーを直接聞かされていた。絶対に間違えられない、見落としのできないレースです--大葉アナが神妙な面持ちでそう語っていて、それが朝川には印象的だった。
クラシックの重みを感じているのは、騎手や調教師だけではない。ほんの二分足らずの時間に、どれほどの数の人間が運命を左右されることか。
そこには俺も多分含まれている。
ファンファーレが終わってからしばらくして、マイクが場内実況に切り替わる。皐月賞が始まる。
『中山競馬場十一レースは第七十七回皐月賞・GⅠ。芝の二千メートル戦に出走馬十八頭。
直前まで降り続いた雨は止みました。しかし、栄光への道のりは極めて過酷なものとなりそうです。北寄りの風が強く各馬の真正面から吹き続けています。
シャインマスカットユトリクンモスキートサウンドアイラブチークンオンザデスク、アイゼンスパークザラストホースドリームプレンティユーガットリズムストロングワカモト、ノーエネミーミュージックギフトロフトナミダノフルサトブライダルハンター、アンジェニックワールドエンブリオマイジャーニーの十八頭。二〇一四年産まれのサラブレッド達のクラシックロードがここから幕を開けます。
最後に、マイジャーニー、収まりました。
…スタートしました! 内で押して押して、アイラブチークンがまず飛び出して、負けじと外から十五番のブライダルハンターも行きます! そこから二馬身、三馬身離れてシャインマスカットと紺田忠道! ブライダルハンター一気に離して、アイラブチークンとシャインマスカットはほぼ並ぶ形となりそうです。そのあと差がなくユーガットリズムミュージックギフト、一馬身離れてロフトとオンザデスク、ここまでが先行集団。二馬身遅れて、ここにザラストホース、安斎咲太はやはり中団から行きそうです。少し遅れてモスキートサウンドとドリームプレンティが続きます。ザラストホースを見る位置でワールドエンブリオとアレッシオ・ナッツオーニが構えます。そこから半馬身差、内にストロングワカモトとユトリクン。そこからはポツポツとノーエネミー、ナミダノフルサト、アンジェニック。アンジェニックから二馬身離れた最後方にアイゼンスパークとマイジャーニーが並んで、各馬一二コーナーを通過して行きます』
速そうだ--多くの観客は、先の激戦を想起した。ブライダルハンターが速いだけでなく、意外なほどアイラブチークンとシャインマスカットが付いて行っているからだ。荒れた馬場でのハイペース展開は、消耗戦になることがほとんどである。
隊列にさほど驚きはない。さすがにクラシック本番で策を弄する陣営はいなかった。これは、人馬の実力と適性が試される舞台になる、そう朝川は思った。
『さあ、やはりブライダルハンターが行きました。四馬身のリード。二番手にアイラブチークン、一馬身差にシャインマスカット。そのあとが五馬身、六馬身と開いて紅一点ミュージックギフトとユーガットリズム、そこに接近するオンザデスク。一馬身後方のロフトに早くも忍び寄ってくるのはドリームプレンティ。二馬身差にモスキートサウンド、ザラストホースとワールドエンブリオは全く並んでいます! 一馬身離れてストロングワカモト、ここで千メートル通過タイムは、五十八秒八、五十八秒八!? 速いペースで進んでいます! ここでアンジェニックが外から捲り上げてくる! 一気にミュージックギフトまで並びかけます! 後方はユトリクンを抜き去ってノーエネミーとナミダノフルサトが前に接近して行きます。外、アイゼンスパーク、内に最後方、マイジャーニー変わりません。この二頭が内外離れてスパートを開始!』
おい、榮倉、そこでいいのか?
朝川は焦れる心中を隠そうともせず、拳を机に叩きつけていた。
このままじゃアイゼンスパークが邪魔で外に出せない。捲るにしても、進路はもはや荒れに荒れた内側しか--
--それが狙いか!?
カメラが三四コーナーの攻防を映している。他馬が大きく外を回していく中、ただ一頭、白っぽい毛色の馬が、インベタで先頭付近まで"ワープ"していく姿があった。
『ブライダルハンター、六馬身七馬身のリードで六百を切りました! 各馬最終四コーナーに差し掛かります! ここでシャインマスカットが動いていく! アイラブチークンを交わしブライダルハンターに迫ろうとする! 外からはアンジェニックがロフトと並んで上がっていく! ザラストホースとワールドエンブリオは未だ後方、大外を進みます! さあ、馬群が大きく外に膨らみ最後の直線へ!
ブライダルハンター先頭ですがリードがなくなった! まんをじしてシャインマスカットが並び捉える! さあ外からはアンジェニック! あっ、内からはマイジャーニーが上がってきています!! マイジャーニーがシャインマスカットに並びかける!!』
弥生賞で乗ってて良かった。
マイジャーニーはおかしな馬だ。並の馬なら嫌気がさすような条件を上手くこなしたり、逆に他馬が当たり前のように出来ることが出来なかったり。
こいつなら、どんな荒れ馬場でも苦にしねぇ。何故なら変態だから。
なら、取る作戦は一つだ。他の連中が大幅な距離ロス覚悟で大外回るなら--内は、何の邪魔もない!
「よっしゃいっけやああああああああおらああああああぁぁッ!!!!!!」
『榮倉気迫の右ムチ連打!! シャインマスカットと並び、そして抜け出します! 一馬身、二馬身! リードを広げていく!! 残り二百メートル! 二番手にシャインマスカットですが、そ、と、からザラストホースとアイゼンスパークがやってきた!! ワールドエンブリオは遅れた! しかし、これらは二着争い!
完全に独走、マイジャーニー! これはセーフティリード! 外からザラストホースが鋭く迫るが二番手まで!
突き抜けました! マイジャーニー、今先頭でゴールイン! 二着にザラストホース! シャインマスカットとアイゼンスパークが際どく三着争いです! 関東の若武者榮倉亮治、皐月賞初騎乗で決めました!! GⅠ初制覇がなんとクラシック!
縦長の展開で、第三コーナーまで最後方にいたマイジャーニーをぽっかりと空いた内に導き、直線を向く頃には先頭集団まで迫っていました。見事なコース取り! ザラストホースも爆発的な脚を使いましたが、時すでに遅し! 残り二百メートルの時点で抜け出し、荒れた内を通ってなお脚を残しているなら、どんな脚を使おうと届きようもありません。重戦車のごときパワーで、マイジャーニーがまず一冠目を手にしました! 皐月賞馬として、いざダービーへ!!』
「おめでとう」
榮倉は背後からの声に振り返る。安斎だということは分かっていた。この二人が馬上で会話をすることは滅多にないが、今日は特別だった。
「GⅠ初めてだっけ? 俺はもう何個も勝ってるけど」
嫌味が嫌味に聞こえない。榮倉は、同期のトップランナーが差し出した手にタッチする。ニュースでこのシーン抜かれるかもな、と不思議と他人事のように考えてしまう。自分がクラシックを制した。GⅠジョッキーに、皐月賞ジョッキーになった、そんな実感はなかった。
「落ちるなよ、お前」
「ああ」
「ダービーでは負けないから。ていうか、東京なら瞬発力勝負だからな。負けるわけがないんだけども」
「ああ」
「…落ちるなよ、ほんとに」
もう、何を言われているかも分からない。天にも昇る心地とは、このような感じなのかもしれない、と榮倉は思うのだった。
ゴール正面に戻ってくると、ファンから「榮倉! 榮倉!」とコールが起こった。テレビで観ていた光景の中に、自分がいる。感慨深さで胸が満ちた。
マイジャーニーは、天に向かって咆哮した。二度、三度と吠える。それを見たファンもまたエキサイトする。
いつの間にか、空は晴れ渡っていた。