石動堅悟は舌打ちをする。
堅悟は――時々、忘れそうになる。
初心、目的、志や計画、思い描いた理想も何もかもを。
ここは新宿の歌舞伎町劇場通り。
降り出した雨は通りを染め上げていた血溜まりを洗い流し、つい数分前まで敵や味方だった無数の
「なあ、――四谷」
石動堅悟は
生き残った戦力は数えるほどしかなくこの数週間の潜伏期間でおよそ七割の人員が天神救世教の信徒たちに討ち取られるか寝返るかをして、リリアックという烏合の衆から姿を消している。
「俺は、なんのために戦ってるんだろうな」
「さあ、知ったこっちゃないけどさ、あんたはあんた自身のために戦ってるんだ――って僕は思ってたよ」
「そう――だよな」
時々、忘れそうになる。
英雄が英雄と呼ばれる理由。正義を正義たらしめるもの。悪に染まる快楽と背徳。孤独や不安と、友情と絆。
自分が今、持っているもの。子供の頃から、ただ自分が手にする姿を思い描くだけだったもの。くだらない見栄。自覚のない虚栄心。ちょっとした正義感と、ありきたりな悪意と苛立ち。
死臭と腐臭。
堅悟が立ち向かうものは台頭から僅か一月にしてこの国の政治や経済を飲み込むまでに至った天神救世教――一〇〇人を超えると思しきその信徒たち。
それに対して堅悟の背後に控える味方の数は十にも満たず。
本来ならば、堅悟の隣に立っていなければならないはずの
「それで? 結局、石動先輩はなにが言いたいんだろう」
くるくると回る傘が雨を弾く。
濡れた前髪が額に張り付く。
空の色が怪しかった。
黒く赤く鈍く明るい。
「なあ、四谷。“俺たち”は――なんのために戦わなくちゃいけないんだ?」
それは、四谷に対する初めての誰何でもあった。
出会った時から。再開してから。そして天神救世教の信徒として今一度相見えてから。
堅悟は、失念していたことを理解する。
顔も名前も言葉も心も。
知らないのだ。
四谷真琴が何者なのか。
その腹に歪んだ感情が、濁って汚れた赤い邪悪か、それともくすんで擦れた青い凶悪なのかさえ。
わからない。
「そんなもの、どうだっていいじゃないか」
「……ああ、そうだな。多分、興味もなかったんだ――。俺は、お前にも」
この世界にも。
「今だって、お前がどうして俺たちを裏切ったのか、その理由を聞いて、背景を知って、悲しんで悔やんで、辛い気持ちを乗り越えて、改めてお前を敵と認識して――なんてありきたりな“くだり”を演じることに、本当は興味なんかない」
そうとわかった瞬間も。それから少し経った今も変わらず。単純に――有象無象の敵として。
「四谷、……俺はお前を殺せるぞ」
「そっか。それで?」
この会話を始めた理由は?
四谷が問う。それに堅悟は疲れたように肩の力を抜いて、
「ひとつだけ、お前を殺す前に訊いておきたいことがあったんだ」
それが唯一、心残りになるかもしれないから。
今のうちに訊いておく。
「お前さ、結局、――男なのか? それとも女なのか?」
それはお前を殺せばわかるのか。
それについてはちょっとだけ興味がある。
「俺はさ、――はは。お前が女だったらいいなと思ってたんだ」
四谷の表情から笑みが消える。そしてそこには、もはや何も浮かばない。
まるで虚無のような顔をして。
「死ねよ、――石動堅悟」
雨は止まない。
それでも濡れた
堅悟は進むだけだった。立ちはだかるものは全て壊して崩してはね除けて。
ただ一点に、ただ一心不乱に、たとえ孤立しようと単騎になろうと。
死に場所を求めるかのように人工島へ。
着工から早一ヶ月。
昔からそこにあったように東京湾に浮かぶ人工島と、膨大な資金が投入され、すでに八割方の完成を見せている天神救世教の本部たる巨大な要塞は――暗く淀んだ空色と鈍色の雨が降りしきる中では、神を崇め英雄を擁する者たちのそれとは思えぬほどに
黒いローブに身を包み、荒波のなかを泳いで渡ってきた間遠和宮は、人工島への潜入に成功すると、高い金を払って工作員に予め用意させておいた段ボールを組み立て、頭からすっぽりとかぶって身体を丸めた。
「こちら間遠、人工島に潜入した。これより作戦を開始する」
一挙手一投足、見た物聞いた物すべてを報告しろ――と事前に言われていた通り、間遠は胸元のマイクに向かって報告を行うが、ワイヤレスのイヤフォンからは「了解」の声は聞こえてこない。
故障――ではないのはわかる。通信相手がいる部屋で流れているブルータルデスメタルバンドが奏でる血みどろの重低音が絶え間なく響いているのが聞こえてくるからだ。
元々、間遠は資材を運び込むトラックに紛れて人工島に潜入するつもりだった。それが出来なくなったのは、間遠の担当天使であり本作戦に於ける協力者でもあるはずのミカが「間遠くんには試練を与えなければならない」という半笑いを浮かべながら述べた理由で作戦決行の三日前に人工島に続く橋を天界産のプラスチック爆弾によって崩落させ(橋自体は一日で修復されたが)、無駄に警戒を強化させてしまったからだ。
ミカは間遠が考える代案を
「おい、駄目天使。……聞いているか。作戦を開始すると言っている」
沈黙と重低音。
「ミカ。俺はここからどうすればいい」
沈黙と重低音。
「……おい?」
反応がないまま三十分ばかり経過した頃、イヤフォンの向こうで扉がばたんと閉じた音が響き、がさがさとビニール袋が揺れる音が近付いてきた。
そして、がちゃがちゃ。慌ててイヤフォンとマイクを装着したのか、マイクを直接指で触れたような雑音に、間遠は思わず顔をしかめる。
『あ、もしもし? 間遠くん? 生きてます?』
「貴様、なにをしていた」
『ちょっとコンビニにおでんを買いに行ってたんだよ。天使といえども、空腹には逆らえないからね』
「…………」
『それで? なんだっけ』
「人工島に潜入した。作戦開始だ」
『あー、はいはい。了解了解。……あ、てことは、間遠さんひょっとして、今段ボールかぶってる?』
「……ああ」
『あはは!』
笑い転げているが、身を隠すならとりあえずこれだ――と言って段ボールを手配させたのもミカであったはずだ。
『間遠さん、状況わかってる? ふざけるのも大概にしようよ!』
「……………………………………すまん」
『すまんじゃないよぉ。失った信頼を取り戻すのは難しいんだよ? これ以上僕をがっかりさせないで欲しいよ、まったくぅ。まあ、それはいいとして――』
ミカの声色が変わる。
『いよいよ、この日が来ちゃったね。まあ、大した成果は得られないかもしれないけど、とりあえず、今回僕たちがやろうとしていることについて、間遠さんがどれだけ理解できているか、チェックさせてもらうよ』
「ああ」
『じゃあ、まずは今回の作戦が立案されるに至る経緯から説明してもらおっかな』
間遠には、目の前のことに集中しすぎると、そもそもの話を忘れてしまう悪癖がある。思い込みの激しい性格についてはミカも承知しているところであり、間遠和宮という男を管理する上では決して無視できない
『少しでもとんちんかんなことを言ったら罰ゲームだよ。風俗はしばらく禁止だから』
「それは――困る」
『うーん。間遠くんてこういう子だったかなあ』
それはさておきである。
「経緯……。経緯――か。そうだな。最初に違和感を覚えたのは、天神救世教の名前が広がってから間もなくの頃だったはずだ。準悪魔が現れたと聞いて駆け付けても、ついた頃には、救世教の奴らがすべてを終わらせた後だった――というようなことが、立て続けに十件続いたときだったか」
『正しくは三件だけどね。盛らないで、間遠さん』
「あまりにも対応が早すぎる。俺はなにか裏があるんじゃないかと疑った。リザが教祖になっている時点で胡散臭いとは思っていたが、調べてみたら興味深い事実が発覚したんだ。天神救世教は元々、埼玉の田舎で生まれた信者数も少ない小規模な新宗教団体だった。当時の教祖が謎の死を遂げ、乗っ取りまがいにリザが旗を振り始めたのが三ヶ月前。得体の知れない準悪魔どもが目撃されるようになったのが二ヶ月前。俺は――」
『真実を確かめたいって僕に泣き付いてきたんだよね。僕は素直な間遠さんが好きだよ』
実際、独りではどうしていいかもわからなかった。
堅悟に連絡を取ろうかとも考えたが、天神救世教が台頭してからはリザがカーサス神父に命を狙わせた面々の手配書が街中にばらまかれるようになり、リリアックは鳴りを潜めながらも徐々にその勢力を削り取られているという噂を耳にしていた。
デビルバスターズも抜け、他に信頼の置ける知り合いもいなかった間遠は、
恐らく天神救世教――リザの背後には天界上層部の思惑が潜んでいる。自らの所属に弓を引くことになるはずなのだが、ミカは存外簡単に仕事を引き受けてくれた。
「まあ、人間嫌いの人間もいるように、僕の場合も嫌いなんですよね、天使の奴らが。職場でもいじめられてたし」
天界連中なんて碌なもんじゃねえ、とのこと。
『オッケー、間遠さん。それじゃあ、本作戦の概要も言ってこーか』
「なるべく敵戦力との戦闘を避け、何かしらの情報を持ち帰る」
『うん。これくらい単純じゃないと間遠さんのミニマム脳みそじゃ処理できないからね。いいよ、すごくいい。じゃあ、作戦中に絶対にやっちゃいけない行動は?』
「リザを見つけ、直接その真意を問いただすこと」
『そうだね。あんまり少年漫画じみた軽率な行動は取らないようにね。青年漫画のノリでいこう。淡々と、粛々と、冷徹に冷血に。間遠さんの格好いいところ見せて~』
「それで」
『ん?』
「俺はどうすればいい」
『ああ、そうだね。まずは――』
ミカは、心底呆れたような口ぶりで、
「その、段ボールを脱ぎましょうか」
と言った。