はっ。はっ。はっ。はっ。
規則正しい息の音。頬をなでるやわい潮風。
ふりかえれば、波打ち際を追ってくる幼女の姿。
「待ってよ、おにいちゃん!」
クソ。最悪だ。
※※※
海でも見に行こうってのがそもそも間違いだった。
その日はちょうど学校も休みで、彼女はバイトだからと朝っぱらから部屋を出て行って、俺はそれを見送ってから二度寝して、午後、ヒマをもてあましていた。
誰かに会うってテンションじゃないが、かといってじっとしてるのもなんだかつまらない。でも何かをする気にはなれなくて、テレビをつけるのさえも億劫。そんな感じ。要するに空っぽの日だった。生活の隙間からストンと抜け落ちたみたいな。あるだろ? そういうの。
だからなんとなく、海でもみるかーって、家を出たのだ。
海、近いし。
歩いて、十分だし。
特に目的があるわけじゃなかった。
あのまま家にいてテレビ見てりゃよかったって心底思うけど、今さら後悔してももう遅い。
※※※
砂浜には先客がいた。
妹がいた。
互いの姿に気づいたのは同時だった。
俺は逃げた。
そしていま、あえなく捕まった。
「もー! なんで逃げるの!」
俺は砂浜に引き倒され、あおむけになっている。
視界に広がる青空。その真ん中に、妹の上半身がある。
ぷんすかしている。
彼女は俺の体に馬乗りになっていた。俺よりふたまわりも小柄なのに、信じられないくらい重かった。
どうあがいても、振り落とすのは無理。
そう俺の本能が直感していた。
「最愛の妹の顔を見て逃げるなんて、どういうつもりよ!」
頬を膨らませ、彼女は俺の胸倉をつかんだ。手に包丁を持ったまま。首筋に近づく刃物の冷たさに血の気が引く。
「待っ、待っ、ちょまっ」
「なんなのよもう! そんなにあたしが怖いわけ?」
ああ、ダメだ。
もう逃げられねえ。
油断してた。泣きそうになるのをかろうじてこらえる。
自分の身に降りかかるはずがないと思ってた。
だけど今この瞬間の光景はまぎれもなく現実で、俺は好む好まざるにかかわらず、選択を迫られている。
地獄のような生か。
それとも、安らかな死か。
……まあ、無理だよな。
ここで全部あきらめて潔く死ぬなんて強い精神があったら、こんな堕落した生活を送っているわけがねえんだよな。
俺は観念する。
そして、口を開く。
「しょーがねーだろ。お前すぐ俺に暴力ふるうし、怖ぇーんだよ」
「暴力ふるわれるようなことする方が悪いんでしょ!」
「う、うるせえな。俺がなにしたっていうんだよ」
「冷蔵庫のプリン! 勝手に食べた!」
「そんくらい別にいーだろ! またいくらでも買ってやるって」
「ほんと?」
「ああ、マジマジ」
「じゃ、三倍返しね?」
「……わかったよ。しゃーねえなあ」
俺が認めると、妹の表情がぱあっと明るくなった。
体にかかっていた重さが消える。俺はよろよろと立ち上がる。
「ほら、早くいこ! おにいちゃん!」
「……ああ」
差し出された妹の手を握り、俺は逃げてきた道を戻る。
仕方ないんだ。
こうするしかなかったんだ。
そう自分に言い聞かせながら、砂浜の足跡を踏みなおしていく。
ああ、それにしても――
家出る前にテレビさえつけてりゃ、こんなことにはならなかったのに。
どこかから、サイレンが聞こえる。
スピーカ―越しのメッセージも聞こえる。
『現在、XX市の海岸線沿いに妹警報が発令されています。単独で行動する妹を見かけた場合は、決して自分を兄だと認めず、直ちに避難してください――』
遅えよ。
と、俺は心の奥でつぶやく。
「ねー、あれなんて言ってるの、おにいちゃん? 妹警報ってなに?」
「さあ? 俺もよくわからん。防災演習かなんかじゃね」
※※※
妹は災害だ。
なにかしらのウィルスのせいだっていう奴もいれば、宇宙人の侵略だっていう奴もいる。今さらどっちでもいいけど。
妹には様々な種類があるが、基本的には単独で出没する。
前触れなく、突如としてあらわれる。
男が彼女と目を合わせたら、はい、一巻の終わり。
「おにいちゃん」と認識され、永遠に追い回されるハメになるわけだ。さっき砂浜で彼女を見てしまった、俺のように。
そしてもし、兄であることを否定したり、拒否したりすれば――
「きゃっ!」
妹が悲鳴をあげ、ぎゅっと俺の手を握ってくる。骨が砕けそうな握力にビビりながらも、俺は平静を装う。
「ねえ、なにあれ、おにいちゃん!」
「見るな!」
そう言って俺は、彼女の目をふさいだ。
なんとなく、それが兄っぽい行動だと思ったからだ。
彼女が指さした場所には、先ほどの「先客」が転がっていた。
ミンチ状にされた、おそらく成人男性と思われる死体。
妹のごっこ遊びを拒否した結果の、なれの果て。
せりあがる嘔吐感をこらえつつ、俺は妹に言う。
「大丈夫だ。お前はなにも気にしなくていいから。おにいちゃんがずっとそばにいるから」
延命のために心にもない言葉を吐きながら、思う。
彼は何年、妹に付き合ったんだろう?
なぜ死んだんだろう?
うっかり受け答えをミスったか?
それとも、嫌気がさして、わざと間違えたのか?
くそっ。余計なことをしやがって。
お前さえ死ななけりゃ、こんなことには……!
「えへへ、ありがと」
甘い声がした。
彼女は目をふさいだ手を引きはがし、俺の目を見る。
心底、いとおしそうに。
「ほら、いくよ」
「……どこへ?」
思わず聞き返してしまった。彼女の目がすっと細くなる。
ただそれだけのことなのに、背すじが凍る。
「もう! おうちに帰るに決まってるでしょ! しっかりしてよ、おにいちゃん」
「……あ、ああ! そうだよな。すまんすまん」
彼女に手を引かれ、俺は歩き出す。死なずに済んだことにホッとしながら。
それにしても、おうちってどこだろう。
少なくとも。
それが俺の家じゃないことだけはわかってる。