世界が終わるとき
サル
僕が入学して一週間がたった。
ある程度新しい環境にも慣れた。
あの関根礼香なる女の子は幸いなことに別のクラスだった、仮に同じクラスだったとしたら僕は今日まで正気でいられなかったかもしれない。ただでさえあの霞ヶ丘百合子のせいでげんなりしているというのに。
霞ヶ丘百合子はそう、僕の苦手なタイプだった。誰とでもすぐ仲良くなるタイプで、いつでも親し気に話しかけてくる。そのくせしてしっかりと人の迷惑を考えることもできる。だから自分が必ず相手をしてもらえるときに限ってやってくる。
厄介だ。
僕の数少ない趣味の一つとして読書があげられる。
好んで読むのは純文学などのいわゆる由緒正しい小説らしい小説だ。でも、割となんでも読む。唯一好まないのはエッセイだ。あれは絶望的なまでに面白くない。他人の人生など自分と何の関係があるのか。
霞ヶ丘百合子がよく来るの昼休みに入る前、一緒に昼食を食べようと必ず誘って来る。
いつもきっぱりと断っているのだが、いい加減誘われるのも面倒になって来た。
なので今日は昼休みに入った瞬間、すぐに弁当を手に取るとさっさと教室から出ていく。行く当てなど何も考えていないがなんとかなるだろう。空き教室の一つぐらいはあるだろうし、屋上は公開されていると言っていた。
そこで食べてもいいが、何となく人が多そうで嫌だ。
廊下に出たはいいがどうするべきか。
一瞬悩み、動きを止める。
廊下にはわずかばかりながら既に人の群れができていて、別のクラスの友人と食事をとろうとする生徒たちが流れを生み出そうとしている。その中只一人静止している僕はまるで川に突き刺さった一本の枝のよう。ゴミや流れた猫の死体などが引っかかるそれだ。
そんな枝の名前を呼ぶ声が一つ。
「おーい、立木君」
「…………」
関根礼香だ。
霞ヶ丘百合子は僕のことを撲君と呼ぶ。やめろと言っても聞かない、何とも腹立たしい。
名字で僕のことを呼ぶのは先生と彼女だけだ。
ため息を吐きたいのを我慢して後ろを振り向くと、彼女がそこにいた。もう一週間も経つのだが、何度見ても慣れない。目の前に「世界の終わり」がある感覚に陥るがそれは幻覚に過ぎない。偽物の感覚だ、騙されてはいけない。
そして動揺していることも悟られてはいけない。
「何か用?」
「用がないと話しかけない」
「じゃあ何?」
「一緒に食べない? 私もお腹が減った」
「僕は一人で食べたい」
「私は誰かと食べたい、行こう。屋上ならいいでしょ」
「…………」
わがままだ。
それに拒否権は僕にはないようだった。
彼女は僕を先導するように先を行く。その背中を見ながらここならばれないだろうとため息を小さくついた。どうやら僕が望んでいた静かな学校生活とは無縁なようだ。今のところは、だが。
「あな口惜しや」
よく透き通る美しい声。
これが聞こえるのはサルが現れた証拠だ。眉を少しだけひそめるが、幸いそれは誰にもばれなかった。サルにも人間にも。
「私の仕事はお前を殺すことなのに」
「…………」
「触れることさえ叶わぬとは」
「…………」
「あな口惜しや、おまけにこ奴は私を無視して昼食をとろうとしている」
「…………」
「ああああ」
端的に言って五月蠅い。
このサルは自称「殺し屋」だ。
誰に依頼されたのか知らないが僕を殺そうとしているら。しかし、こいつはただの幻覚。僕に触れるはずもなく、いつも現れては恨み言をつらつらと述べて消えていく。河童は目覚まし代わりになるが、こいつは本当に何の役にも立たない。たまに教訓のようなものを述べていくが、役に立った試しはない。
そして、気が付いたら消えている。
今もだ。
一瞬の間にくすんだ色をしたレインコートを着たサルはいなくなってた。
昔、聞いたことがある。「そのレインコートの意味は?」と
答えはこうだった。「いつか雨が降った時、ないと困るだろ?」。それが唯一にしてまともな会話だったような気がする。「雨が降ったことは今まで一度もないがな」そうとも言いていた気がする、よく覚えてないが。