遊星屠殺ワンダー【完結】
地上の部
(1)
牧野エレノア恭子は、日本人の父と、アングロサクソン系の母を持つ、いわゆるハーフで、どこか、彫りの深いその顔立ちは、実のところ、本人も申し分ないと考える容姿でした。
恭子は専門学校を卒業した20歳で、とある、どこにでもあるような商社の受付嬢として社会に出る事になり、そのまま、一人暮らしをすることを決意しました。両親(特に感情を表に出しやすい母)は、事の他、恭子の事を心配しましたが、本人はそれについて、特になんら思うことも無く、むしろ、新しく始まる新生活に、楽しみすら覚えておりました。
事実、恭子の新生活は、初めての社会に出ての仕事と言う意味での気苦労を除けば、想像通りのものであり、むしろ、この生活こそ幸福ではないかと、特に根拠も無く考えるようになっていました。
異変は、それから2ヶ月と16日が過ぎた、とある蒸し暑い木曜日の夜に起きました。
もう、街が全て寝静まってしまった午前2時過ぎ。
何とはなしに、目を覚ました恭子は、部屋の中に何か(それが、余りにも動かないもので、生物なのかどうかすらも咄嗟には判断できなかったですが)がいる事を感じました。
「誰・・・?」
静寂。
不意に、その何かが、まるでハゲタカが死肉に喰らい付くようなスピードで恭子に飛びついてきました。その動きは、コレまで恭子が生きてきて、その眼に収めたどんな動物のどんな動きと照らし合わせても違和感を覚える程にひどく歪で、そして、どこまでも早い動きでした。
刹那、恭子はその生き物の姿を月明かりの下に眺める事が出来ました。
それは、目鼻立ちのはっきりした恭子の顔の対極にある、凹凸の全く無い顔。目の中には、瞳すらなく、どろりと零れ落ちたどこまでもどこまでも深い闇だけがそこにありました。もちろん、表情などは分かりません。感情だって、分かりはしないのです。
表情も無く、感情も分からないと言う事は、これから、何をされるのか、どうなるのかについて、全く予想も出来ないと言う事で、そういった状況に置かれたとき、人間は、悲鳴を上げたり、恐れおののく事すら出来ない。と言う事実を、この瞬間恭子は理解しました。
ただ、目を見開き、それで居て、呆然と止まるだけの時間。
それは、ほんの数秒ではあったのですが、恭子には、実に長い時間のように感じられました。
数秒後、その何かは、窓を開けるでもなく、ドアを開けるでもなく、ただ、音も無く、その場から姿を消しました。
恭子はそうなって、初めて、かつて無いほどの恐怖を覚えました。
一思いに、小汚く醜い通りすがりの小男に、監禁され、犯され続ける方がどれだけ幸せかと、心の底から思い込むほどの恐怖です。
震える奥歯はかみ合わず、いつまでもカチカチと音を立てて震えていました。
そして、右ふくらはぎの鈍い痛み。
その日は、それはそれは恐ろしくて、もう眠る事などできやしませんでした。
牧野エレノア恭子は、日本人の父と、アングロサクソン系の母を持つ、いわゆるハーフで、どこか、彫りの深いその顔立ちは、実のところ、本人も申し分ないと考える容姿でした。
恭子は専門学校を卒業した20歳で、とある、どこにでもあるような商社の受付嬢として社会に出る事になり、そのまま、一人暮らしをすることを決意しました。両親(特に感情を表に出しやすい母)は、事の他、恭子の事を心配しましたが、本人はそれについて、特になんら思うことも無く、むしろ、新しく始まる新生活に、楽しみすら覚えておりました。
事実、恭子の新生活は、初めての社会に出ての仕事と言う意味での気苦労を除けば、想像通りのものであり、むしろ、この生活こそ幸福ではないかと、特に根拠も無く考えるようになっていました。
異変は、それから2ヶ月と16日が過ぎた、とある蒸し暑い木曜日の夜に起きました。
もう、街が全て寝静まってしまった午前2時過ぎ。
何とはなしに、目を覚ました恭子は、部屋の中に何か(それが、余りにも動かないもので、生物なのかどうかすらも咄嗟には判断できなかったですが)がいる事を感じました。
「誰・・・?」
静寂。
不意に、その何かが、まるでハゲタカが死肉に喰らい付くようなスピードで恭子に飛びついてきました。その動きは、コレまで恭子が生きてきて、その眼に収めたどんな動物のどんな動きと照らし合わせても違和感を覚える程にひどく歪で、そして、どこまでも早い動きでした。
刹那、恭子はその生き物の姿を月明かりの下に眺める事が出来ました。
それは、目鼻立ちのはっきりした恭子の顔の対極にある、凹凸の全く無い顔。目の中には、瞳すらなく、どろりと零れ落ちたどこまでもどこまでも深い闇だけがそこにありました。もちろん、表情などは分かりません。感情だって、分かりはしないのです。
表情も無く、感情も分からないと言う事は、これから、何をされるのか、どうなるのかについて、全く予想も出来ないと言う事で、そういった状況に置かれたとき、人間は、悲鳴を上げたり、恐れおののく事すら出来ない。と言う事実を、この瞬間恭子は理解しました。
ただ、目を見開き、それで居て、呆然と止まるだけの時間。
それは、ほんの数秒ではあったのですが、恭子には、実に長い時間のように感じられました。
数秒後、その何かは、窓を開けるでもなく、ドアを開けるでもなく、ただ、音も無く、その場から姿を消しました。
恭子はそうなって、初めて、かつて無いほどの恐怖を覚えました。
一思いに、小汚く醜い通りすがりの小男に、監禁され、犯され続ける方がどれだけ幸せかと、心の底から思い込むほどの恐怖です。
震える奥歯はかみ合わず、いつまでもカチカチと音を立てて震えていました。
そして、右ふくらはぎの鈍い痛み。
その日は、それはそれは恐ろしくて、もう眠る事などできやしませんでした。
(2)
翌日以降も、恭子は、何だか、恐ろしくて、眠れない毎日を余儀なく過ごしました。余りにも疲れて眠ってしまっても、あの何かが部屋の中にいると言う夢を(もしかしたら、その後も何度か実際に、その何かが居たのかもしれませんが)見ては目を覚ます毎日です。
そんな生活が、もう随分と続いたある日、恭子はふと思いを巡らせました。
つまり、なぜ、自分の部屋にあの何かが居たのか・・・と言う事。
そうなって、初めて右ふくらはぎの鈍い痛みの事を思い出した恭子は、急に、何だか良く分からない不安に取り付かれ、医者にそのふくらはぎを見せてみる事にしました。
「この傷は、一体どうなされたものですか?」
「それが一向に、良く分からないのです。ただ、幾分か前の夜に、ひどく痛むような気がしましたが、翌朝には、その痛みもまるでひいてしまったので、今日まで忘れてしまっていたと言うわけなのですよ。」
その話を聞いた医者は、首をかしげながら、恭子にそっと話しかけました。
「まず、事実だけをお話しましょう。その上で、じっくりとお話いたします。牧野さん。あなたの右足のふくらはぎは、傷ではありません。大きな手術跡なのです。」
「手術ですか。私は、生まれてこのかた、体にメスなど入れた事は無いのですよ。虫垂炎だって患ったことは無いのですから。ピアス穴は開けておりますけれどね。」
「そうでしょう。そうでしょう。ですが、これは紛れも無い手術跡なのです。」
そう言うと、医者は顔を少しだけ恭子に近づけて、小声で話しました。
「インプラント・・・と言うものをご存知ですか?マァ、ご存じなくても当たり前のような、実に、なんと言いましょうか。オカルトな話になるのですけれどもね。」
「残念ながら、存じないですね。」
「手術跡があるでしょう。そうしたら、まず、何のための手術か考えますよね。その手術と言うものがですね、言ってしまえば、何かを埋め込むような手術なのです。それも、例えばですが、今の医術では、どうやっても出来ないような場所に、出来ないような大きさのものを。恭子さんの場合には、右足の後ろ部分の骨、医学的には腓骨と言うのですがね、この骨と前の骨、脛骨とに絡み合うように、何らかの金属が巻きつかれているわけです。それも、骨に傷をつけることなく・・・そんな事、そもそも、手術ではなく、こう・・・骨だけが目の前にあっても出来やしません。」
少しだけ興奮気味に、医者が、足の骨の模型を持ち出して説明をしている最中、少しずつ恭子の意識は遠のいていきました。
「そもそも1960年代に、バーニー、ベティ・ヒル夫妻が誘拐、インプラントされたゼーダ・レティクル事件を世界初の事件として、それから、全世界で数百件の報告事例があるものなのです。ただ、私も見るのは初めてですがね。」
意識を取り戻した恭子が、病院を後にする間際、医者は恭子に話しかけ、
「そもそも、インプラントに果たして、どのような意味があると言う訳でもありません。『人体実験』・・・だなどという人も居ますが。その結果、疲れやすくなった人も居るそうです。ただ、ほぼ実害も無いので。なにより、その金属を取り除く事は、現在の医学ではほぼ不可能に近い・・・残念ではあるのですがね。」
そう言って、医者は700円の領収書を手渡し、「何の処方もしてはおりませんので。」と笑いました。
インプラント。
初めて聞くその言葉に、恐怖と共に興味が沸き始めた恭子は、その病院からの帰りインプラントについて書いている本をいくつか探して書店を巡りました。そして、アイリーン・レークスという名の怪しい日本人が書いた、「未来人アリオンのユートピア」と言う本を買って帰りました。たま出版と言う会社から出版された本です。
少しずつ。
(元々、興味などない事柄ではあったけれども)少しずつ、インプラントについての知識も増えていきました。
ただ、それでも、このインプラントが自分の身に巻き起こる。とは到底考えにくく、そうやって、いつしかこの事は、本の中の出来事であり、自分自身に起こった事ではないように思うようになっていったのでした。
そんな夜。
そして、今。
恭子は空を飛んでおります。
ただ、そう言えば、強い語弊が生まれるやも知れません。
もう一言付け加えるのであれば、上下左右が理解できないまま空を飛んでおります。と表現するべきでしょう。
確かに、恭子は空を飛んでいるのです。
ただし、自分の意思とは無関係に。
翌日以降も、恭子は、何だか、恐ろしくて、眠れない毎日を余儀なく過ごしました。余りにも疲れて眠ってしまっても、あの何かが部屋の中にいると言う夢を(もしかしたら、その後も何度か実際に、その何かが居たのかもしれませんが)見ては目を覚ます毎日です。
そんな生活が、もう随分と続いたある日、恭子はふと思いを巡らせました。
つまり、なぜ、自分の部屋にあの何かが居たのか・・・と言う事。
そうなって、初めて右ふくらはぎの鈍い痛みの事を思い出した恭子は、急に、何だか良く分からない不安に取り付かれ、医者にそのふくらはぎを見せてみる事にしました。
「この傷は、一体どうなされたものですか?」
「それが一向に、良く分からないのです。ただ、幾分か前の夜に、ひどく痛むような気がしましたが、翌朝には、その痛みもまるでひいてしまったので、今日まで忘れてしまっていたと言うわけなのですよ。」
その話を聞いた医者は、首をかしげながら、恭子にそっと話しかけました。
「まず、事実だけをお話しましょう。その上で、じっくりとお話いたします。牧野さん。あなたの右足のふくらはぎは、傷ではありません。大きな手術跡なのです。」
「手術ですか。私は、生まれてこのかた、体にメスなど入れた事は無いのですよ。虫垂炎だって患ったことは無いのですから。ピアス穴は開けておりますけれどね。」
「そうでしょう。そうでしょう。ですが、これは紛れも無い手術跡なのです。」
そう言うと、医者は顔を少しだけ恭子に近づけて、小声で話しました。
「インプラント・・・と言うものをご存知ですか?マァ、ご存じなくても当たり前のような、実に、なんと言いましょうか。オカルトな話になるのですけれどもね。」
「残念ながら、存じないですね。」
「手術跡があるでしょう。そうしたら、まず、何のための手術か考えますよね。その手術と言うものがですね、言ってしまえば、何かを埋め込むような手術なのです。それも、例えばですが、今の医術では、どうやっても出来ないような場所に、出来ないような大きさのものを。恭子さんの場合には、右足の後ろ部分の骨、医学的には腓骨と言うのですがね、この骨と前の骨、脛骨とに絡み合うように、何らかの金属が巻きつかれているわけです。それも、骨に傷をつけることなく・・・そんな事、そもそも、手術ではなく、こう・・・骨だけが目の前にあっても出来やしません。」
少しだけ興奮気味に、医者が、足の骨の模型を持ち出して説明をしている最中、少しずつ恭子の意識は遠のいていきました。
「そもそも1960年代に、バーニー、ベティ・ヒル夫妻が誘拐、インプラントされたゼーダ・レティクル事件を世界初の事件として、それから、全世界で数百件の報告事例があるものなのです。ただ、私も見るのは初めてですがね。」
意識を取り戻した恭子が、病院を後にする間際、医者は恭子に話しかけ、
「そもそも、インプラントに果たして、どのような意味があると言う訳でもありません。『人体実験』・・・だなどという人も居ますが。その結果、疲れやすくなった人も居るそうです。ただ、ほぼ実害も無いので。なにより、その金属を取り除く事は、現在の医学ではほぼ不可能に近い・・・残念ではあるのですがね。」
そう言って、医者は700円の領収書を手渡し、「何の処方もしてはおりませんので。」と笑いました。
インプラント。
初めて聞くその言葉に、恐怖と共に興味が沸き始めた恭子は、その病院からの帰りインプラントについて書いている本をいくつか探して書店を巡りました。そして、アイリーン・レークスという名の怪しい日本人が書いた、「未来人アリオンのユートピア」と言う本を買って帰りました。たま出版と言う会社から出版された本です。
少しずつ。
(元々、興味などない事柄ではあったけれども)少しずつ、インプラントについての知識も増えていきました。
ただ、それでも、このインプラントが自分の身に巻き起こる。とは到底考えにくく、そうやって、いつしかこの事は、本の中の出来事であり、自分自身に起こった事ではないように思うようになっていったのでした。
そんな夜。
そして、今。
恭子は空を飛んでおります。
ただ、そう言えば、強い語弊が生まれるやも知れません。
もう一言付け加えるのであれば、上下左右が理解できないまま空を飛んでおります。と表現するべきでしょう。
確かに、恭子は空を飛んでいるのです。
ただし、自分の意思とは無関係に。
(3)
眠りに付いたはずの恭子が、ねっとりとまとわり付くような熱い風にふと目を覚ました時、いつもより星は近くにありました。
と言うよりも、星が近くに居たのではなく、星に近づいていたのです。
パニック状態になった恭子でしたので、上下左右を理解する事さえ、随分と時間がかかってしまいました。そして、やっと上下左右を理解し、自分が今、随分と空の高いところに浮かんでいる事を理解した頃には、星の中にある、ひと際大きなひとつの光に近づいていました。
それから暫くの時間、何が起こったのか恭子には理解できません。
それは、まるで母親の産道を通ってくる赤ちゃんのような心持としか例えられないでしょう、ひどく懐かしくもありつつ、さりとて具体的に表現する事などできやしない不思議な感覚と風景でした。
自分の体を構成している原子が全て分解され、そうやってもう一度同じ人間のように再構成されているようだとも感じましたが、結局は、何だったのか分からないまま数秒(と言っても、実際どのくらいの時間が流れていたのかは分かる余地も無い話なのですが)が経ちました。
浮ついた感覚の中、ひどく頭だけははっきりとしていました。
恍惚にも似た感触が全身を襲い、そしてそれはなぜか心地よいものにも感じられたのです。
少し前に読んだ下世話な雑誌の事を思い出していました。
雑誌の表紙にある「セックス特集」の文字に恭子はなぜか興味を持ち、普段なら一瞥にすら値しないその雑誌を手に帰路についたのです。
「レイプされた女は快感を感じることが出来ない。脳内の快楽物質ドーパミンの分泌について、男性と比べ女性の方が状況の左右される。つまり、愛のあるセックスでなければ女性は本当の快感を感じる事は出来ない。」
そんな下らない内容でした。
なぜか今、その話を思い出し、それは嘘なのかもしれないと頭のどこかで考えていました。
恭子は今、覚えているどんな情景とも違う強烈な不安感と、恐怖に襲われています。
それなのに体は、とめどない快感に襲われ続け、オーガズムのような衝撃が何度も何度も恭子を襲い続けています。
抗う事の出来ないその強烈な快感によって恍惚に歪められた表情のまま恭子は、思春期に自分で妄想していた理想の性体験について思い出していました。
脳内に尋常ならざるドーパミンが分泌され続ける事で、自慰中毒となり、やがて脳自体が破壊され、死んでいく。そんな恐ろしい病が突如あらゆるところで同時多発的パンデミックのように広がっていく世界です。
病にかかった少女たちはなぜか一様に、自分が強姦される数限りないシチュエーションを考え自慰にふけるため、その病は「後天性脳内妄想癖症候群」、通称「レイ=プレイ症候群」と呼ばれました。
恭子も例外なく、その病にかかり、誰もいない部屋の中が、強姦される自分を妄想し、いつ終わるともない自慰行為に没頭し続ける。止めたくても、脳内の溢れ続けるドーパミンに逆らう事は出来ず、ひたすら自分の指を動かし続ける。
誰に命令された訳でもない。それなのに、自分の中から出てくる性衝動を自分で抑える事が出来ない。
今では人に話すことも憚れるような、昔、妄想していた性体験を思い出していたのです。
ふと、恭子は考えました。
果たして、その過去の妄想は、妄想だったのか。と。
もしかしたら、恭子自身がその「レイ=プレイ証拠群」に本当に侵されており、立ち直った今、あまりにも辛かったその時期を妄想だったと捏造することで、やっと当たり前の社会生活を送っていたのではないか。
世界には過去、本当に「レイ=プレイ症候群」と言う病が同時多発的に発生していたのではないのか。
哲学の有名な問題に「5分前仮説」と言うものがあります。
この世界が5分前に本当に存在していた事を証明する方法はこの世には存在しない。
例え記憶があったとしても、証明するものがあったとしても、それ自体が何者かによって捏造されたものではないと立証する方法は、実のところ存在していませんでした。
数年前、とある研究によって、実は、今現在の西暦が過去、297年間捏造されていた事が判明すると言う、人類史における大事件がありました。
中世ヨーロッパで、神聖ローマ皇帝でもあったオットー3世が、自らの戴冠期をミレニアムにするため、本来の戴冠期であった西暦638年から705年を西暦980年から1002年に変更していたことが分かったのです。
オットー3世はその事実に整合性を持たせるため、様々な過去の文献を多くの見識者に命じて書き直させ、結果的に、西暦は297年もの間捏造されたまま現代を迎えていました。
2020年は、本来の西暦では1723年だったのです。
過去とは、それほどにあやふやであり、少しの悪意によって書き換えられるものだと恭子は今、この瞬間実感しました。
もし、恭子の体が分子レベルにまで一度解体され、そして再構築されると言う過程を踏むのであれば、その過程において植えつけられた記憶や痕跡が本当にあった事か、捏造だったのかを調べる方法など存在してはいないのでした。
今恭子が生きているのは、西暦1723年であり、恭子は過去に「レイ=プレイ症候群」を患い、脳が委縮するほど自慰行為に没頭していた。
そして、恭子は目を覚ましました。
気を失っていたようでした。
その間、頭の中をよぎった様々な事象は果たして、恭子自身の見た夢だったのか、そうではなかったのか。それを知るものはどこにも存在していません。
恭子は恐る恐る周りを見渡しました。
そこはあるのは見た事も無い風景でした。
眠りに付いたはずの恭子が、ねっとりとまとわり付くような熱い風にふと目を覚ました時、いつもより星は近くにありました。
と言うよりも、星が近くに居たのではなく、星に近づいていたのです。
パニック状態になった恭子でしたので、上下左右を理解する事さえ、随分と時間がかかってしまいました。そして、やっと上下左右を理解し、自分が今、随分と空の高いところに浮かんでいる事を理解した頃には、星の中にある、ひと際大きなひとつの光に近づいていました。
それから暫くの時間、何が起こったのか恭子には理解できません。
それは、まるで母親の産道を通ってくる赤ちゃんのような心持としか例えられないでしょう、ひどく懐かしくもありつつ、さりとて具体的に表現する事などできやしない不思議な感覚と風景でした。
自分の体を構成している原子が全て分解され、そうやってもう一度同じ人間のように再構成されているようだとも感じましたが、結局は、何だったのか分からないまま数秒(と言っても、実際どのくらいの時間が流れていたのかは分かる余地も無い話なのですが)が経ちました。
浮ついた感覚の中、ひどく頭だけははっきりとしていました。
恍惚にも似た感触が全身を襲い、そしてそれはなぜか心地よいものにも感じられたのです。
少し前に読んだ下世話な雑誌の事を思い出していました。
雑誌の表紙にある「セックス特集」の文字に恭子はなぜか興味を持ち、普段なら一瞥にすら値しないその雑誌を手に帰路についたのです。
「レイプされた女は快感を感じることが出来ない。脳内の快楽物質ドーパミンの分泌について、男性と比べ女性の方が状況の左右される。つまり、愛のあるセックスでなければ女性は本当の快感を感じる事は出来ない。」
そんな下らない内容でした。
なぜか今、その話を思い出し、それは嘘なのかもしれないと頭のどこかで考えていました。
恭子は今、覚えているどんな情景とも違う強烈な不安感と、恐怖に襲われています。
それなのに体は、とめどない快感に襲われ続け、オーガズムのような衝撃が何度も何度も恭子を襲い続けています。
抗う事の出来ないその強烈な快感によって恍惚に歪められた表情のまま恭子は、思春期に自分で妄想していた理想の性体験について思い出していました。
脳内に尋常ならざるドーパミンが分泌され続ける事で、自慰中毒となり、やがて脳自体が破壊され、死んでいく。そんな恐ろしい病が突如あらゆるところで同時多発的パンデミックのように広がっていく世界です。
病にかかった少女たちはなぜか一様に、自分が強姦される数限りないシチュエーションを考え自慰にふけるため、その病は「後天性脳内妄想癖症候群」、通称「レイ=プレイ症候群」と呼ばれました。
恭子も例外なく、その病にかかり、誰もいない部屋の中が、強姦される自分を妄想し、いつ終わるともない自慰行為に没頭し続ける。止めたくても、脳内の溢れ続けるドーパミンに逆らう事は出来ず、ひたすら自分の指を動かし続ける。
誰に命令された訳でもない。それなのに、自分の中から出てくる性衝動を自分で抑える事が出来ない。
今では人に話すことも憚れるような、昔、妄想していた性体験を思い出していたのです。
ふと、恭子は考えました。
果たして、その過去の妄想は、妄想だったのか。と。
もしかしたら、恭子自身がその「レイ=プレイ証拠群」に本当に侵されており、立ち直った今、あまりにも辛かったその時期を妄想だったと捏造することで、やっと当たり前の社会生活を送っていたのではないか。
世界には過去、本当に「レイ=プレイ症候群」と言う病が同時多発的に発生していたのではないのか。
哲学の有名な問題に「5分前仮説」と言うものがあります。
この世界が5分前に本当に存在していた事を証明する方法はこの世には存在しない。
例え記憶があったとしても、証明するものがあったとしても、それ自体が何者かによって捏造されたものではないと立証する方法は、実のところ存在していませんでした。
数年前、とある研究によって、実は、今現在の西暦が過去、297年間捏造されていた事が判明すると言う、人類史における大事件がありました。
中世ヨーロッパで、神聖ローマ皇帝でもあったオットー3世が、自らの戴冠期をミレニアムにするため、本来の戴冠期であった西暦638年から705年を西暦980年から1002年に変更していたことが分かったのです。
オットー3世はその事実に整合性を持たせるため、様々な過去の文献を多くの見識者に命じて書き直させ、結果的に、西暦は297年もの間捏造されたまま現代を迎えていました。
2020年は、本来の西暦では1723年だったのです。
過去とは、それほどにあやふやであり、少しの悪意によって書き換えられるものだと恭子は今、この瞬間実感しました。
もし、恭子の体が分子レベルにまで一度解体され、そして再構築されると言う過程を踏むのであれば、その過程において植えつけられた記憶や痕跡が本当にあった事か、捏造だったのかを調べる方法など存在してはいないのでした。
今恭子が生きているのは、西暦1723年であり、恭子は過去に「レイ=プレイ症候群」を患い、脳が委縮するほど自慰行為に没頭していた。
そして、恭子は目を覚ましました。
気を失っていたようでした。
その間、頭の中をよぎった様々な事象は果たして、恭子自身の見た夢だったのか、そうではなかったのか。それを知るものはどこにも存在していません。
恭子は恐る恐る周りを見渡しました。
そこはあるのは見た事も無い風景でした。