短編集『矛盾の町』
イダタのナイフ
「……」
イダタは大きな包みをゴミ箱に捨てた。
包みの中にはナイフが入っていた。イダタは人を刺そうとしていた。そのために購入したナイフだった。
人を刺すのを実行に移さなかったのには、理由があった。大それた理由ではない。その日、イダタよりも先に人を刺そうとした人間がいたからだ。
その者の名は――ミョウダといった。ミョウダはイダタと変わらない歳の男で、ミョウダは人を刺すのを実行に移した人間だった。ミョウダが命を狙った人間は政治家――あろうことか総理大臣であった。
駅前で応援演説をしていた総理大臣を、ミョウダは刺そうとしていた。
しかしその試みは失敗に終わった。ナイフを取り出した瞬間、警備の者に取り押さえられたのだ。
ミョウダが駅前で総理大臣を刺そうとしていた様子は、たちまちワイドショーで取り上げられた。
現職の総理大臣が、一般市民から明確な殺意を向けられた――ショッキングな事件だった。
こんな事件を起こした犯人には、何かやむにやまれぬ不幸な事情があったに違いない。。
そうでなければこの国に生まれ首相を刺そうとしないのではないか――メディアがそのように詮索してくれることを、ミョウダは期待していたらしい。
しかしミョウダの試みはまたしても失敗してしまった
「刃物を持った男が首相の応援演説に現れた。男はすぐさま周りの者に取り押さえられた」
ワイドショーが報道したのは、ここまでだった。
殺人や傷害ではなく未遂に終わったからなのかもしれない。
どのテレビ局もどのニュース番組も、どのワイドショーも、ミョウダの動機まで深堀りしようとはしなかった。数日が経つと、ミョウダが起こした事件はほとんど報道されなくなった。
つまりミョウダは、世の中を変えることはおろか、世間の関心を集めることすらできなかったのだ。
事件を起こす数時間前、ミョウダはSNSのアカウントでこう語っていた。
「俺なら世界を変えられる。他の人間には無理でも、俺なら腐ったこの世界を変えられる」
しかし何も変わらなかった。
ミョウダの試みは、全て失敗に終わったのであった。
イダタはそんなミョウダの顛末を、テレビで見届けていた。
イダタは暴力で世の中を変えようと思っていた。なのでミョウダが事件を起こすよりずっと前に、ナイフを購入していたのだ。
人殺しを実行に移す日取りを決めようと、イダタは日々をのんべんだらりと無為に過ごしていた。そんな中、ある日ミョウダが事件を起こしたのだ。
しかしその結末は散々なものだった。世間の関心を集めることすらままならず、ミョウダは逮捕され、ただただ司法で裁かれるだけになってしまった。
その様子をテレビを通して見ていたイダタは、「人を刺そうとしてたところで世の中は変わらない」と悟った。
イダタは無力感に苛まれた。どうせ自分が何をやったところで世の中は何も変わらない。自分はあくまで有象無象の群衆の一人で、何の影響力もない一般市民なのだ。
そう思うと、何もかもが陳腐に思えてきた。
暴力で世の中を変えようと思って買ったナイフだって、何の意味もない。
自分は何も変えられないのだ。
そう思うと、次の瞬間、買ったナイフがただのガラクタに思えてきた。
ナイフを部屋にあった黒い包みに包んで、外で捨てることにした。
部屋着を着替え、イダタは家を出た。
歩いて数分のところの公園ゴミ箱があった。イダタはゴミ箱にナイフの入った黒い包みを投げ捨てた。
変革の道は閉ざされた。
自分ではきっと何も変えられないという無力感。家までの帰り道は、俯いて歩くほかなかった。だって希望がないのだから。希望がない人間は、前を向いて歩みを進められないのだ。だってこれから先にあるのは変革のチャンスすらない地獄のような人生でしかないのだから。
家に着いた。
手も洗わず、イダタはベッドで横になった。
イダタは天井を見つめた。
「もう、希望なんてねぇよな」
天井は何も言葉を発しない。何もしゃべらない。
「俺みたいな非力な人間は、人生を変えられるチャンスなんてないんだぜ」
天井は何も言わなかった。
「ははっ……。つまんねーよな。こんなにつまんない人生、もう終わらせてもいいか? 死んだ方がましだ」
イダタは天井に聞こえるように大きな声で言った。
「じゃあ死ねば?」
天井から声が帰ってきた。
「まあ人生いいことなかったしな。これからもいいことなんてないだろうし。下がり続けるばかりで一生上がり続けることのない人生。ここで終わらせておいてもいいよな? 死んでもいいよな?」
しばらくすると、天井から声が帰ってきた。
「勝手にすれば?」
随分と無機質で、それでいて挑発的な声色だった。
イタダはすぐさま激昂した。
「お前は一体何なんだ。何様のつもりだ」
天井は何も答えなかった。
「もういい! 俺は死ぬ!」
「はいはい。ご自由にどうぞー」
天井からの声がそう言うやいうなや、天井からロープが落ちてきた。
「首を吊って死ぬか、飛び降りて死ぬかはご自由に」
天井の声の主はイダタにそう告げた。
そしてイダタは、死ぬことに決めた。
もうどうでもよかったのだ、何もかも。
自分一人の力では世の中何一つ変えられないのだ。自分は無力なのだ。非力なのだ。
これから先、うだつのあがらない人生を歩み続けるくらいならば――その一生涯の苦しみを背負って生きていくくらいなら――死んでしまおう、と。
イダタは自室の窓を開けた。ベランダを見た。ベランダから地上への距離は、飛び降りて死ぬには十分なものだった。
「よし」
イダタは覚悟を決めた。イダタはベランダから飛び降りた。
ぐちゃっ。
イダタの周りに、トマトが潰れたような音が散らばった。
彼は死んだ。
でも、死のうが死にまいが、きっと何も変わらない。
イタダのいた部屋の天井の方から、声が聞こえてくる。
「他人にそそのかされて自殺しちゃうだねんてね。まあいっか。人が一人死んだところで私には関係ないもの
<終わり>