クーライナーカ
『六』
日曜日が終わった次の日。
変わることなく訪れた月曜日のことだ。
休み明けの空気はいつもよりもしっとりとぬめっている。
肩にかかるその重さをいつもより感じながらひかりは教室で座っていた。
話し相手はいなく生徒は皆下か前を向いている。
ただ座っているだけではなく、
授業で先生の話を聞くために座っているのだが、
その違いはひかりには分からない。
それにひかりにはその違いなどどうでもよかった。
あまり抑揚の無い声の先生が退屈そうに授業を進めていく。
書かれている黒板の板書はすっきりしているが
ひかりにはシンプルすぎてノートに書き込みたくなくなる。
淡々としたその進行に面白さのかけらも見出せないで
ひかりは半開きの目を黒板から逸らした。
教室の窓から見る冬の景色はもう見慣れたものだが
黒板よりかは面白いものであるのは間違いない。
しかしそのひかりの予想はおおいに外れていた。
校庭の土がいつもよりも濃い茶色に見える。
そこに生えている木々もその枝から伸びる葉をしおらしく垂れ下げていた。
灰色の空には鳥が一羽も飛んでいない。
グラウンドも空の様子を映しているように暗い汚れた色になっていた。
外の様子はしんとしている。
嵐の前の静けさとでもいうことか。
もしかしたら一雨くるかもしれない。
ひかりはくやしさをかみしめるように口を動かして大きくため息をついた。
なんということだろう。外はひかりの好みではなかったのだ。
何処も見るところが無い、どこにも魅力が感じられない
面白くない風景だった。
しかし何よりもつまらない原因は全体的に動きが少ないことだ。
ひかりはすばやく外に見切りをつけた。
睡眠で時間を潰そうとも思ったが先生に目をつけられるのは避けたい。
それに前の時間に思う存分眠ってしまったために
もう眠気がやってくる頃ではなかった。
教室の冷たい空気はここを抜けることなく周りを流れていく。
やがて人間のぬくもりをのせ、生ぬるい温かさが溜まっていく。
その温度がひかりの頭を鈍くしていった。
聞こえてくる音は時計の針が刻まれる音と先生が粛々と喋る音の二つだけ。
その事実が気に入らなくて、
ひかりは開いた口を閉じないまま机を指で神経質に叩く。
空に灰色交じりの汚い雲が敷き詰められているのを
ひかりは瞳の端で忌々しげに睨み付け、
ちょうどいい時間つぶしの方法を考える。
授業を聞くということは始めから頭の中には無い。
そして何も思いつかないまま、当然のように時間が過ぎていく。
ひかりがこのように機嫌が悪いのは稀なことでそれなりの理由がある。
元々ひかりは気性が荒くなることはめったに無い。
温和と言うよりも鈍感と言ったほうが適切なのだが
それが功を奏している。
だからといってひかりの耳は全ての悪口を聞き流すほど笊ではない。
ひかりをあまりにもからかいすぎると機嫌が悪くなる。
現に今そうなっている。
けれど罵られたり後ろ口をささやかれたりしても、
ひかりが他人にぶつける怒りは極小である。
怒りなれていないということだろう。
怒りの発散を知らないと言い換えてもいい。
だから積み木を積み上げるようにその怒りはますます高まっていく。
しかしたまに崩れ落ち冷静になる。
けれどその怒りはまた積み上げられていくのだ。
行き場の無い怒りはひかりの中で溜まっていき、
ある程度になるとようやく外へと流れていく。
真っ白だったノートに今の心境をよくあらわした文字を
無意識のうちに書いていた。それをため息混じりにひかりは消していく。
足かせのようにつけられている自分のギブスをさっさと剥ぎ取りたい。
全ての原因はこれであるのだから。
ノートに消しゴムをかける手が止まる。
急にギブスのことを意識したらあの日のことを思い出してしまった。
その日はのぞみと図書館で分かれた後に家に帰って自室で
夢見気分で寝ころんでいたときだった。
下から母親に呼ばれて面倒だと思いつつも
下に向かおうと起き上がった。
そして階段を下りようとしたときに
後ろから誰かひかりを呼んでいる声が聞こえてきた。
そんなはずはないと思う前に体が勝手に動いて後ろを振り返る。
後ろには見慣れた二階の廊下である。
やっぱり聞こえ間違いだろう。まだ寝ぼけていることを自覚したその瞬間だった。
ふいに少しめまいが襲いかかって、
視界に電波の受信が悪いときにテレビに映る砂嵐のようなものが割り込んできた。
それに反応するかのように足が意に反した場所へとすべっていく。
下に引っ張られていく感覚がどんどん強くなっていった。
視界の悪さは良くなることはなくむしろどんどんひどくなっていく。
落ちていく中でなんとか手すりと掴もうとしてもそれはただの無駄な努力になった。
階段から落ちるということと、全身を車に追突されるような衝撃が
伝わったのは同時だった。
気がついたときは階段の下で倒れていた。
自分は普通だと思っていたけどやっぱり注意力が散漫していたのだろうか。
何にせよ人生で二回目のギブスをつけることになった。
何か災難があるときは何時もこんな感じだ。
授業の様子を見ると先生がまだしゃべっている。
ひかりは変わることのない自分の間抜けさを今の怒りに織り交ぜながら、
今は見えることのない青い空を頭の中に浮かべていた。終了の鐘が鳴り響くまで。
ひかりのもやもやした怒りは昼になってもなかなか消えることはなく、
それどころかより一層ひかりにまとわりついてくる。
前例がないほどの粘着質な怒りだ。
そしていつもと違う態度のひかりをのぞみとこだまの二人は各の対応をしている。
のぞみは怪訝そうに唇をまげてちらちらと時折ひかりを見ていた。
弁当にもほとんど手をつけていない。
こだまは昨日と何一つ変わらない動作で弁当を口に運んでいた。
変わっているのは中身のおかずぐらいである。
しかしいくらこだまとはいえこの辺りに漂う空気には無表情でいられないようだ。
数分おきに何かを探るように目を細めている。
ひかりがこの陰湿な空気の作り主であることは言うまでもない。
「今日のひかりはすこし機嫌が悪そうね。」
この気まずい空気に自分の忍耐の限界が来たのか
のぞみがこだまにひかりにそっと耳打ちする。
ひかりには聞かれない程度の音量のつもりだったのだろうが
ひかりはしっかりと聞こえていた。
悪そうというのぞみの言葉がひかりを無駄にいらだたせる。
ひかりがこんな思いをしているのも元々はこの二人が原因であるのに
それを二人は気づいていないようだった。
いやこだまは気づいているはず。
それなのに気づかない振りをして自分の弁当のおかずを口に運んでいる。
しかし何も言わないのはおそらくこだま自身に責任がないと思っているのだろう。
のぞみの方はひかりに聞こえてしまったことを
ひかりの表情から読み取ったのだろうか。
動揺したのか自分の脇においてあったペットボトルを床へと落としてしまった。
こだまからは何も反応がない。
しかし一瞬だけひかりの方を向いたときに見せた目の様子から察するに、
ひかりの考えていることはお見通しと言っているようだった。
ひかりはこだまのその反応を見ていると
自分のいらだちに何の役割もないように思えてくる。
でもこの怒りは自分にとっては無視できない大切なものであった。
のぞみはさっき自身が口にしたことから本当に何も気づいてなさそうだ。
ひかりは箸から手を離し、そしてゆっくりと腕を組む。
こだまがそういうつもりならこっちから主張するほうが効果的だと踏んでのことだ。
「だってこだまとのぞみが私と一緒に昨日お買い物に行ってくれなかったもの。
途中まで二人とも行く気まんまんだったのに急に二人口を揃えて
『ひかりと一緒では行かない』って言い出したじゃない。ひどいじゃない。」
ひかりはすこしきつい口調になってしまったことだけを後悔した。
ひかりも二人がこのようなことを告げた本当の理由もちゃんと分かっている。
そしてその理由にひかりが怒る必要がないのも大いに理解している。
ちゃんと分かっているのにひかりはその言葉を二人に吐きすててしまった。
ひかりは二人の反応を見るのが嫌でそっぽを向く。
おそらくのぞみは決まりが悪そうに目を泳がせて髪の毛をいじくるだろう。
一方でこだまはひかりに正直な言葉を浴びせるだろう。
ひかりはそれが分かっていても文句を言わずにいられなかった。
どうしても昨日の買い物に行きたかった。
なぜならひかりが買い物を企画したのは自分のためということよりも
この二人のためでもあったからだった。
この場では告白できないことだけど企画していた
この三人の買い物で二人がもう少し親密になってくれればいいと思っていた。
箸を弁当の上に置き行儀よく手をひざに乗せて
こだまが鋭い視線をひかりに飛ばしてくる。
こだまが何を言うのかはひかりがよく把握していた。
「その足で歩き回れるの?すこしはけが人の意識を持ちなさい。」
ひかりは返す言葉を見つけられなかった。
分かってはいるけどそれを言われると返す言葉もない。
買い物の企画がだめになったのは他ならぬひかりが原因である。
二人がひかりを気遣ってひかりの申し出を断ってきたのはうすうす感づいている。
それでもひかりは三人で買い物に行きたかった。
抜けているひかりが思うのは間違いかもしれないが
もう少し自分を信頼してくれてもいいのではないのだろうか。
自分を大切にされていると思われていることが今回ほど悲しく思ったことはない。
やはり自分は守られている人間と言うことが分かってしまった。
それがひかりの怒りを引き立てている一番の理由だ。
でも一つだけ予想外だったのはこだまの言葉にそれほど棘がなかったことだった。
口では自分が正しいことを主張していそうだけど
やっぱり引け目を感じているのだろう。
それに気づいたとき、ひかりはすぐにふてくされることをやめた。
怒り続けているのはかなり疲れる。
それにいつまでも機嫌を直さないでいるのは
あまり好きなことではなかった。
さっきまでも陰鬱な表情を投げ捨て普通に笑うことにしよう。
「いいもん。結局お買い物には行ったし。」
これまでずっと聞くことに徹していたのぞみはひかりが今言ったことを疑ってしまった。もう少しで声に出してしまうところであった。
ひかりはぶつくさ文句を言いながらも最後にはこだまの言うことに従うものだと
のぞみは思っていた。
それほど買い物に行きたかったのだろうか。
「一人でではないわよね?」
持ち直した箸をまた机に置きこだまがひかりをにらんだ。
こだまの行動はたまに読みやすいときがある。
そのにらみはひかりにはものすごく怖く感じているときがあるが、
今はそれほどでもなかった。
「さすがにね。母さんに付き添ってもらったわ。」
こだまはすこしほっとしたように目を閉じるとまた弁当へと箸を伸ばしていった。
まるで母親みたいだ。
のぞみは拾ったペットボトルのお茶を飲みながらそのような感想を抱いた。
ひかりの今の状態で街を自由に歩き回れることはできそうにない。
それでもそれくらい買い物に行きたかった理由があったのだろう。
のぞみの疑念をよそにひかりは得意げな表情を作る。
「ほらみて。イヤリング買ったの。かわいいでしょう?」
ひかりは人差し指で耳の後ろ側の髪を持ち上げる。
それが蛍光灯の鈍い光を反射して小さい輝きを生み出していた。
「へぇ。」
イヤリングはひかりの耳に張り付くようにしている。
のぞみはどういう形をしているのか分からなかったけど、
よく見るとその形は若葉のようなものを模しているように見えた。
高そうなものには見えない。
けれどもそういうもので計るものではない価値を含んでいるようだった。
とても似合っている。のぞみは素直にそう感じた。