Neetel Inside 文芸新都
表紙

シヴァリー
序『ゆらぎ』

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 そこで得た名はシヴァリーだった。それ以前の自分の歴史など思い出すことは出来なかった。
 愛しい人も、信頼すべき友も、尊敬すべき親も、憎むべき敵も、すべて平坦にして茫洋とし
た何かに飲み込まれてしまった。

 だから残ったのは戦う事だけだった。唯一消えなかった戦いの経験と記憶にのみにしか、
自分の自己同一性は寄る辺を見出せなかった。

 ――いや、寄る辺を見出せなくさせられていた、といった方が正しいのかもしれない。
 それはそうだろう。そんなもの達、この場所に不必要だ。
 ここは名高きヴァルハラ。戦いのための荒涼都市。殺し合い屠り合い生き返る、永久不変の
修羅地獄なのだから。
「――兄様」
 ……だというのに、この、かすれながらもしっかりと聞こえてくる声はなんなのだろう。
 飲み込まれたはずの何かから、失ったはずの何かから、しっかりとこの耳に届くこの声はな
んなのだろう。
 これを聞くたび、こうして集中が乱れ、何もしてないというのに息が上がり、いてもたって
もいられなくなる。
 それはここで勝利を収めるたびに、耳の奥から、ひょっとしたら胸の奥から、大きさを増し
て何度も何度も響いてくるのだった。

 自分は何を忘れているのか。自分は、なにを思い出そうとしているのか。シヴァリーは、悲
痛な叫びをもって己に問う。
 しかし、記憶は未だ渺茫たる霧の中であって全容はまるで掴めず、そこに迷い込んだその問
いは、反響すら残さず飲み込まれるのだった。

 
 瞑想と言う形で自己に埋没していながら、シヴァリーは朝が近づいているのを感じていた。
 自「室」とは名ばかりの穴倉、もしくは独房に、唯一つだけ取り付けられている、ひどく高い
位置にある窓から、柔らかい光が差し込み始めているのが肌に感じられる。

 彼にとって払暁の光は同時に、休息の終わりを意味する。右眼だけを開いて、薄ぼんやりと
輪郭を帯びていく洞穴を見た。
 格子型に切り取られた陽光が、光の筋となって穴倉の一部を強く照らし出していた。ゆらゆ
らと揺れる光の粒は、それを受けて煌く埃か。
 シヴァリーはそのまま片目だけを開けて、右往左往するその埃の流れを凝視していた。

すると、朝の荘厳な空気を割ってくるがごとく、シヴァリーが座禅を組んでいる寝台の正面
――分厚く固い扉の外から、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
 どうやら彼が眼を開けたのは、朝が近づいているからだけではないらしい。
 ざっざっ、という小気味よいリズムは、訓練をされたものが鳴らす軍靴によってしか得られ
ない。シヴァリーには、扉の外の者が誰なのか、それを聞いただけで判別できた。
 もっとも最初から、ここに訪れるものなど、その者以外皆無なのだが。

ざっ。と一際きっちりとした音が鳴り、扉の前で止まった。
続いて、無遠慮に扉を叩く音がする。
「シヴァリー。今日はお前が一番手だ。準備を整えろ」
 簡潔にそれだけを言うと、来たときと同じように規則正しい音を鳴らして、声の主は去った。

 足跡が聞こえなくなるのに前後して、シヴァリーは再び目を閉じた。
そして両手を傍らに置いていた得物に伸ばし、膝立ちの姿勢になる。
 相変わらずゆらゆらと揺れる埃は、見ようによっては美麗な舞を踊り続け、光も変わらずそ
れを照らし続けていた。
 隅のほうの、光が届かない部分に生息していたのだろう、少し小さめの守宮が、ちろちろと
舌を出しながらせわしなく動いている。
 やおら、ぬるぬるとした天井から、自重に耐え切れず雫が一つぽたりと床に落ちた。
 その刹那のことだ。
 それを合図に、空気が氷に置き換わったように、世界の全てが止まった。
 守宮も、続けて落ちようとしていた雫も、空気に翻弄されていた埃でさえ。
 全て、である。それはまるで、災厄を恐れて蹲る人間のようであった。何が起こるのか予感
していながら、全てを許容するしかないものの停止だった。
 埃や空気や水滴など、無機物のものたちですら、その風情を漂わせていた。
 そして、その完全なる停止の中、一瞬の暴虐が、空間を疾った。
 再び空気が動き出したとき、部屋に些細な、しかしひどく特異な変化が現れていた。
 シヴァリーから扇状に、扉ギリギリのところ――距離で言うと三間ほどか――まで、黒い面
――画用紙のような、鉄板のような。薄く、広い面だった――が広がっていたのだ。
 黒い面は、ただ宙に浮いていた。浮いているだけであったが、いや、むしろそうであるが故
に、それは異質なものだった。
 いつの間にか眼を開けていたシヴァリーは、先程と同じ、両手で己の武器を持った格好で、
それをしばし眺めていたが、
「悪くない」
 と一言呟いて、寝台を立った。
 黒い面は、その瞬間、空気に浸食されるがごとく消え去った。音もなく、何も残さず。文字
通り消え去ったのだった。
 当のシヴァリーは、最早そんなことにまるで興味がもてぬようで、そのまま扉に向かって歩
き始めている。
 シヴァリーが扉の前に立つと、自動的に錠が外れる音がした。今日も、陰鬱な戦いの幕が上
がった合図の音だった。
 自分が通れる分だけ、取っ手を握り、開ける。まっすぐに伸びる道の先に、やはり朝の光の
柱があった。その下にある四角は昇降機になっており、そのまま闘技場に直行する仕組みになっ
ている。

 彼はそちらに向かって歩き出そうとしたが、ろくに掃除もしていない足元に、微細な埃の渦
ができたところで、不意に再び立ち止まった。
 凝っと、今しがた自分が開け、そして閉じようとしていた扉に視線を向けていた。
 扉の、腰より少し高い部分に、真一文字に傷が付いている。
シヴァリーにはなぜかそれが気になるようで、注意深く傷を指でなぞりながら、暫時、そうし
て佇んでいた。

       

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