落下
天井
諏訪先輩主導で進められている会議は全てがすんなり決まると言う事はなかったようだった。
僕達のクラスの代表者は小林に決まった。僕からの諏訪先輩からの言伝に皆困惑していた。確かに僕も代表一人ずつとは言え上級生や下級生と上手く話していける自信はなかった。彼が選ばれたのはそういう全員の引け腰な姿勢によって押し付けられたようなものだが、最初は当惑したものの小林は比較的素直に受け入れるようにしたようだった。とは言えそうなるのは必然のようにも思えた。小林ならきっと引き受けてくれるはず、と僕らは誰もが思っていたし、本人もそうなる事は薄々感じていたのだろう。
「いや、うまくいかない」
そう言ったのは会議が終わってからの諏訪先輩の言葉だ。
バーベキューの翌々日に会議は行われたものの、まだ代表者が決まっていないと言う理由で出席しないクラスがあったり――遥達が陣取っている音楽室の面々もそうだったようだ。諏訪先輩に聞くと他にも美術室とかも使われているらしい――会議の内容も賛否両論で一回の会議では決められないと、結局二回目を開くと言う事になり、早々にお開きとなったようだった。それでも日替わりで校舎の清掃をすると言う事は皆同意権だったようで、翌日からは2-Aが二階の校舎の掃除をする事となった。この事についてはやはり皆なんとかしなくてはと思っていたようだ。
「そういう風に皆が同じように思っていればいいんだけどね。ちょっと急すぎたかもしれないな。代表者とは言っても自分一人では結局決断しきれないんだろう。あとでクラス内で騒がれても問題だし。本当はそう言う事にならないための代表なんだけど、そこまでは期待できないしね」
「押し付けられただけって人もいますから、いきなりうちのクラスはこう思いますとは言いにくいんでしょうね、本人的に」
「そうだね。まぁ、前途多難だな」
廊下に座っていた僕達の頭上にある蛍光灯がパチっと音を立てて僕達は揃って首を傾げた。
薄汚れた白い天井が写る。
蛍光灯がもう一度音を立てて光を放たなくなった。
その日僕は紅と蒼と言う双子の姉妹の「服を見たい!」と言う要求を呑んで、街へと出てから帰りの電車に揺られていた。
一人分しかなかったもの。それを二人で分け合ってしまったんじゃないだろうか、と思えるこの二人は一見するとまだ中学生のようにも見えるし、その容姿通り言動もまた子供めいている。
「大体お前ら服なんかどうすんだよ?」
「女の子はいつでもどんな時でもお洒落でいたいんです」
「蒼も蒼も。それにお洒落に気を遣わない女の子なんていないもん」
目を離すと所構わず駆け出していってしまいそうな、二人のお守り役。傍から見ればそんな風に思われるかもしれない。少し離れた席に座っている男性を僕は見やった。彼は僕達の騒がしさなど気にする素振りもなく、窓の外をずっと見つめている。時折携帯電話を取り出しては誰かとメールをしているようだったが、それが終わるとまた上半身をくるりと向けた。普段乗らないからせっかくと思ったのか、それとも日常的に利用していたが普段は見る機会がなかったのか、どちらかは僕には分からないが、彼はただ見ると言う行為を熱心に続けていた。
「ねぇねぇ、紅見て見て。蒼ね、蒼ね、前からほしかった白のフリルのスカート取ってきたの」
「あー、紅もそれ欲しかった! 紅のも見て、あのね――」
帰るまで待ちきれなかったのか、彼女達が袋からそれぞれが選んだものを見せ合って、きゃあきゃあとはしゃいでいた。人目が多かったら恥ずかしがるところだが幸いそんな事はない。姉妹は店から当然買ったのではなく、くすねてきたものを自分の体に合わせてみては、鏡合わせのようなもう一人と見比べている。
「ねぇねぇ、康弘、似合ってる?」
「はいはい、可愛い可愛い」
「康弘。全然気持ちこもってないよ、気持ち」
二人が僕を囲むように座りなおすと、目の前にお気に入りらしいスカートと、ノースリーブを体ごと僕に突き出してくる。
「あぁ、分かった分かった。似合ってるんじゃないか」
両腕でそれぞれの頭を掴み引き離し「帰ってから好きなだけ見ろ」と唇をとがらせている二人を無視して袋へとしまわせる。
「康弘は愛想悪いよね」
「ねー」
と二人が口を揃えた。
「大体康弘は服選ぶときもぼんやりしてなに考えてたの!?」
「別になにも考えてねーよ。お前らがいつ満足するかなーとか」
「康弘も自分の服とか取っちゃえばよかったのに!」
「俺は男だから、お洒落を頑張ろうとは今は思わない時期なの。大体お前らの自分で持てない分持たされてるのにこれ以上荷物増やしたくないしな」
「ふーん」
「ふーんふーん」
「なんだよ?」
なんだか勝ち誇ったかのようなニヤニヤとした笑みを浮かべる二人を僕は見比べた。左右を見ても全く同じものがあると言うのは想像以上に落ち着かない。
一応姉であるらしい紅が僕の肩をポンポンと叩いた。
「やっぱり、麻奈ちゃんと一緒がいいんだね、康弘」
「は!?」
そう叫んだ僕に今度は反対側から蒼に肩を叩かれる。
「私達より麻奈ちゃんと一緒に買い物に行きたかったんだよね! 康弘!」
「やかましいわ!」
「隠してるつもりでも私達にはお見通しだもんねー」
「ねー」
「あああ、うるせえ! いちいちハモるな!」
肩に置かれた手を振り回すようにして引き離すと、僕は二人の頭を先程よりも強く押さえつける。
「ちょ、康弘。痛い! 痛い!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「お前らそんな事言うために俺を連れ出したのかっての」
「いや、でも、麻奈ちゃんもきっと康弘の事悪くないと思ってると紅は思う――あいたたた!」
「康弘がいつまでもぐずぐずしてるから紅は心配して、だから蒼も康弘に協力――あーもうやめて!」
電車の振動に合わせるように二人の頭を抑え付けたまま体ごとぐりぐりとかき回す。充分そうした後、手を離すと二人は座席にへなへなと這い蹲った。横たわる二人が僕を見ていないのを確認すると参ったなぁ、と頭をかいた。どうもこの姉妹は子供じみているくせに妙なところで鋭い。双子はお互いの感覚を共有しているなんて言われるが、それは他人へも通じるものがあるのだろうか。
「ま、確かにお前らの言いたい事も分かるよ」
「……そうそう。他の皆は知らない訳だし、ここは一つ私達に任せて――」
「それはない」
僕はきっぱりと断る。この二人に任せるなんて面倒ごとをわざわざ増やすような無駄な事は。
電車に静寂がようやく戻り、僕達は駅へと辿り着くと荷物を持ち、ホームへと出る。
景色を見ている彼はまだホームとは反対側の座席で外を見ている。僕は彼が、僕達が街に向かうときにも乗っていたと言う事を知っている。あと何度それを繰り返すのだろうか。
彼が見ているのは景色ではない。彼が見ているのは記憶だ。今まで見た事もなかったなにかに、今までの記憶を蘇らせてくれるものを探している。今までもこれからも、本当ならまるで触れ合う事などなかった糸と糸を、結び付けようとしているようにも思えた。
僕達のクラスの代表者は小林に決まった。僕からの諏訪先輩からの言伝に皆困惑していた。確かに僕も代表一人ずつとは言え上級生や下級生と上手く話していける自信はなかった。彼が選ばれたのはそういう全員の引け腰な姿勢によって押し付けられたようなものだが、最初は当惑したものの小林は比較的素直に受け入れるようにしたようだった。とは言えそうなるのは必然のようにも思えた。小林ならきっと引き受けてくれるはず、と僕らは誰もが思っていたし、本人もそうなる事は薄々感じていたのだろう。
「いや、うまくいかない」
そう言ったのは会議が終わってからの諏訪先輩の言葉だ。
バーベキューの翌々日に会議は行われたものの、まだ代表者が決まっていないと言う理由で出席しないクラスがあったり――遥達が陣取っている音楽室の面々もそうだったようだ。諏訪先輩に聞くと他にも美術室とかも使われているらしい――会議の内容も賛否両論で一回の会議では決められないと、結局二回目を開くと言う事になり、早々にお開きとなったようだった。それでも日替わりで校舎の清掃をすると言う事は皆同意権だったようで、翌日からは2-Aが二階の校舎の掃除をする事となった。この事についてはやはり皆なんとかしなくてはと思っていたようだ。
「そういう風に皆が同じように思っていればいいんだけどね。ちょっと急すぎたかもしれないな。代表者とは言っても自分一人では結局決断しきれないんだろう。あとでクラス内で騒がれても問題だし。本当はそう言う事にならないための代表なんだけど、そこまでは期待できないしね」
「押し付けられただけって人もいますから、いきなりうちのクラスはこう思いますとは言いにくいんでしょうね、本人的に」
「そうだね。まぁ、前途多難だな」
廊下に座っていた僕達の頭上にある蛍光灯がパチっと音を立てて僕達は揃って首を傾げた。
薄汚れた白い天井が写る。
蛍光灯がもう一度音を立てて光を放たなくなった。
その日僕は紅と蒼と言う双子の姉妹の「服を見たい!」と言う要求を呑んで、街へと出てから帰りの電車に揺られていた。
一人分しかなかったもの。それを二人で分け合ってしまったんじゃないだろうか、と思えるこの二人は一見するとまだ中学生のようにも見えるし、その容姿通り言動もまた子供めいている。
「大体お前ら服なんかどうすんだよ?」
「女の子はいつでもどんな時でもお洒落でいたいんです」
「蒼も蒼も。それにお洒落に気を遣わない女の子なんていないもん」
目を離すと所構わず駆け出していってしまいそうな、二人のお守り役。傍から見ればそんな風に思われるかもしれない。少し離れた席に座っている男性を僕は見やった。彼は僕達の騒がしさなど気にする素振りもなく、窓の外をずっと見つめている。時折携帯電話を取り出しては誰かとメールをしているようだったが、それが終わるとまた上半身をくるりと向けた。普段乗らないからせっかくと思ったのか、それとも日常的に利用していたが普段は見る機会がなかったのか、どちらかは僕には分からないが、彼はただ見ると言う行為を熱心に続けていた。
「ねぇねぇ、紅見て見て。蒼ね、蒼ね、前からほしかった白のフリルのスカート取ってきたの」
「あー、紅もそれ欲しかった! 紅のも見て、あのね――」
帰るまで待ちきれなかったのか、彼女達が袋からそれぞれが選んだものを見せ合って、きゃあきゃあとはしゃいでいた。人目が多かったら恥ずかしがるところだが幸いそんな事はない。姉妹は店から当然買ったのではなく、くすねてきたものを自分の体に合わせてみては、鏡合わせのようなもう一人と見比べている。
「ねぇねぇ、康弘、似合ってる?」
「はいはい、可愛い可愛い」
「康弘。全然気持ちこもってないよ、気持ち」
二人が僕を囲むように座りなおすと、目の前にお気に入りらしいスカートと、ノースリーブを体ごと僕に突き出してくる。
「あぁ、分かった分かった。似合ってるんじゃないか」
両腕でそれぞれの頭を掴み引き離し「帰ってから好きなだけ見ろ」と唇をとがらせている二人を無視して袋へとしまわせる。
「康弘は愛想悪いよね」
「ねー」
と二人が口を揃えた。
「大体康弘は服選ぶときもぼんやりしてなに考えてたの!?」
「別になにも考えてねーよ。お前らがいつ満足するかなーとか」
「康弘も自分の服とか取っちゃえばよかったのに!」
「俺は男だから、お洒落を頑張ろうとは今は思わない時期なの。大体お前らの自分で持てない分持たされてるのにこれ以上荷物増やしたくないしな」
「ふーん」
「ふーんふーん」
「なんだよ?」
なんだか勝ち誇ったかのようなニヤニヤとした笑みを浮かべる二人を僕は見比べた。左右を見ても全く同じものがあると言うのは想像以上に落ち着かない。
一応姉であるらしい紅が僕の肩をポンポンと叩いた。
「やっぱり、麻奈ちゃんと一緒がいいんだね、康弘」
「は!?」
そう叫んだ僕に今度は反対側から蒼に肩を叩かれる。
「私達より麻奈ちゃんと一緒に買い物に行きたかったんだよね! 康弘!」
「やかましいわ!」
「隠してるつもりでも私達にはお見通しだもんねー」
「ねー」
「あああ、うるせえ! いちいちハモるな!」
肩に置かれた手を振り回すようにして引き離すと、僕は二人の頭を先程よりも強く押さえつける。
「ちょ、康弘。痛い! 痛い!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「お前らそんな事言うために俺を連れ出したのかっての」
「いや、でも、麻奈ちゃんもきっと康弘の事悪くないと思ってると紅は思う――あいたたた!」
「康弘がいつまでもぐずぐずしてるから紅は心配して、だから蒼も康弘に協力――あーもうやめて!」
電車の振動に合わせるように二人の頭を抑え付けたまま体ごとぐりぐりとかき回す。充分そうした後、手を離すと二人は座席にへなへなと這い蹲った。横たわる二人が僕を見ていないのを確認すると参ったなぁ、と頭をかいた。どうもこの姉妹は子供じみているくせに妙なところで鋭い。双子はお互いの感覚を共有しているなんて言われるが、それは他人へも通じるものがあるのだろうか。
「ま、確かにお前らの言いたい事も分かるよ」
「……そうそう。他の皆は知らない訳だし、ここは一つ私達に任せて――」
「それはない」
僕はきっぱりと断る。この二人に任せるなんて面倒ごとをわざわざ増やすような無駄な事は。
電車に静寂がようやく戻り、僕達は駅へと辿り着くと荷物を持ち、ホームへと出る。
景色を見ている彼はまだホームとは反対側の座席で外を見ている。僕は彼が、僕達が街に向かうときにも乗っていたと言う事を知っている。あと何度それを繰り返すのだろうか。
彼が見ているのは景色ではない。彼が見ているのは記憶だ。今まで見た事もなかったなにかに、今までの記憶を蘇らせてくれるものを探している。今までもこれからも、本当ならまるで触れ合う事などなかった糸と糸を、結び付けようとしているようにも思えた。
今日は学校には戻らないと言う二人に家まで付き合わされる羽目になり、玄関で二人に袋を手渡した。
「せっかくだからお茶でも飲んでいったらいいのに!」
と言われたがまた麻奈との話をぶり返されても困るので、丁重にお断りすると――二人はやや不満そうだったが――お礼にと僕は清涼飲料水のペットボトルをもらい後にする。
歩いて二十分ほどだが朝一から付き合わされたので二時過ぎには戻れそうだった。
僕は騒がしさから解放された喜びを感じるように思い切り伸びをすると、煙草を口に咥えた。思い切り吐き出した煙が上空へと昇っていき、いずれ消え去っていくのを見ながら、例えば僕はそういう空を見てなにかを見つける事が出来るだろうか、とあの電車に座っていた男の事を思い返す。
だがそこから飛来するのは、マルボロの苦味と、ただただ青と白をこれ以上なくきれいにぶちまけただけの風景だけだった。まだ僕にはなにもないものに意味を見出す事は出来ないらしい。
麻奈の事を思う。この確かに存在する重みは、深く考える必要もなく僕の中に切なさだとか、苦しさだとか、そういうものを意図も簡単に浮き上がらせる。まるでどれだけ閉め切っても防ぎきれない隙間風のように。こうやって踏みしめるアスファルトが硬くて、日差しによって熱を放ち、ある家の前で水でも撒いたのだろうと思われる鼻をつまみたくなるような臭いがする事が当然の事だと言うように。
(分かってはいるんだけどな)
胸の中でそうぼやいた。自分が逃げているだけだと言う事はもう随分前から自覚している。彼女に愛されたいと思い、それが叶わなかった時、僕の世界は反転するだろう。それはこれ以上ない恐怖であり、絶望へと向かう道だ。そこに足を踏み入れるのが怖くて僕は、今の平坦に見えるものの実はグネグネと入り組んでいる道をそ知らぬ顔を浮かべて進んでいる。内心はそれを飛び越えたい、このままでいいなんて露も思っていない自分がいるのに。心のどこかでは今のまま、彼女と笑い合える今を甘受していられればいいじゃないかとも思っている。
(諏訪先輩が余計な事言うからなぁ)
そんな風に考えていたからか思ったよりも早く校舎が見えた。時間を見るとやはり二十分ほど経っている。まだ半分ほどだと思っていたのだが。僕はひとまず落ち着こうともらった清涼飲料水を一気に呷った。
廊下を歩くと埃や小さなゴミは綺麗に片付けられていた。今日は2-Aが僕達が使っている二階校舎の掃除をするようになっていたのだが午前中のうちに済ませていたのだろう。廊下に雑巾が干されていた。
「あー康弘! どこ行ってたの?」
そう声をかけられて振り向くと、いつもとは違い頭のてっぺんあたりで髪を結んでいる真尋が立っていた。彼女は2-Aなので恐らく掃除の邪魔だからとそうしてそのままでいるのだろう。
「ちょっと電車で街の方まで行ってた。お前ら今日から掃除だったんだろ? どうだった?」
「もー、端から端まで掃除したんだから! 腰が痛くなっちゃうわよ。それぞれの教室は自分達でってなってるからまだよかったけど」
「でもきれいになったなぁ。前は吸殻とか落ちてたもんな」
「あれ康弘も捨ててたでしょ? マルボロ、落ちてたよ」
「……別に俺だけじゃないだろ、マルボロは。まぁ、捨てたけどな」
「本当吸わないのに掃除させられるこっちの身にもなってほしいわ」
彼女の非難に「悪い」とだけ返す。
「あ、そうだ。今日麻奈と一緒に来たんだけど、智文は来てるの?」
「あぁ、いるはずだぞ。なんか用か?」
「いや、用って訳じゃないけど。ちょっと話しようかなって」
そう言いながら、真尋が右頬の辺りを指で掻いた。僕はそれを見て「おや?」と思う。
彼女が右頬を掻く癖があるのは知っている。その時大抵言いにくい事を抱えているのだと言う事も。
「なんかあんのか?」
「え? なんもないわよ。教室顔出してみようよ」
疑問を挟む余地もなく、彼女はスタスタと歩き出した。僕は腑に落ちないものの連れ添って2-Cへと向かう。
「麻奈ー智史ー」
「あぁ、千尋。久しぶり」
開け放たれた窓から真尋が声をかけ振り向いた智文が、彼女に向かって手を振った。
麻奈も少し遅れてやってくる。皆学校に来たり帰ったりとその上真尋はクラスが違い、そちらとの付き合いもあるので僕ら四人もいつも一緒と言う訳ではなかった。
「智史、ちょっと痩せた?」
「そうかな? そんな風に見える?」
「うーん、気のせいかな? ほら久しぶりだから」
「いや、そんなに会ってない事はないと思うけど」
「私がそう思っただけだから」
麻奈が横から口を挟む。
「もっと会いたいんだよね」
「なんだよ、それ」
と智史が呆れたように言うが、俺は麻奈の言葉に「え?」と若干驚いて気付かれない程度に智史と真尋を見比べていた。智史はなんにも気がついていないようだが、僕の思い出す限り「そういう台詞」を麻奈が口にすることなど今まで聞いたこともなかった。
「あのさぁ、麻奈。ちょっといい?」
「え?」
二人から少し距離をとり、それでも聞かれないように耳打ちする。
「あのさぁ、もしかしてなんだけど今カマかけた?」
「え? え? な、なにが?」
必死に誤魔化そうとしているが、それがむしろ怪しくて僕は半眼で
「いや、もっと会いたいんだよね。とかさ、バカ正直だよな」
と告げると彼女は尚も言い募ろうとしたが、その言葉を飲み込んで違う言葉を吐息と共に吐き出した。
「……分かり易すぎたかな」
「……うーん、正直違和感凄かった。まぁ、智史も違う意味で気付いてないみたいだけど」
「……やっぱりそうかぁ。私こういうの向いてないのかも」
「いや、それは向いてなくていいよ」
逆に上手になられても困る。
「つか、って事はあれか? まさか真尋って、智史の事」
「……うん。私も最近聞いたんだけど好きなんだって」
本当は口止めされていたのだろうが、性格上誤魔化しきれないと諦めたのだろう。
僕はその衝撃的な内容に少し離れた二人を見返した。
「なにこそこそ話してるんだ?」
やはりなにも感づいていないらしい智史が僕らに怪訝そうな顔を向ける。
「いや、なんでもねーよ」
僕は笑って傍へと戻ると、何事もない素振りに徹する事にした。
「けど智史、お前やっぱ痩せたんじゃないか?」
「ええ、そうかな? 自分じゃ分からなかったけど」
「ふーん、まぁ、真尋は結構色々見てるからなぁ」
「そうかな?」
怪訝そうに自分の腕を掴んでみたりしている智文の一瞬の隙間を狙ったかのように、真尋が僕の足を踏みつけてきた。チラリと見るとそこには無表情だが、はっきりと「余計な事をするな」と言う言葉が顔に書かれているのが分かる。僕は無言で二度、はっきりと首を縦に振るとようやく解放された。それを見ていた麻奈もあっさりとばらしてしまった罪悪感からか肩を小さくしていた。
「自分じゃ分からないなあ」
呑気そうな一人だけ分かっていない智文はそう呟くと、
「それより四人集まったしさ。どこか行かないか? ほら、前言った喫茶店とかカラオケとかさ」
「あーいいね!! 凄くいいよ、うん」
「うるさい」
大げさに同意する僕の頭を真尋が平手ではたいた。麻奈が「ちょっと千尋落ち着いて」なんてフォローする。
これならむしろ智史のように気付かなかった方が幸せだったのかもしれない。
そうも思うが、これはいいきっかけかもしれないと思う。
「まぁ、どこでもいいけど行くなら早く行こうぜ」
「そうだよ。行こ?」
「そうだな」
智史がどう思っているかは分からないが、もし上手くいけば里美の事にも区切りをつける事が出来るかもしれない。真尋は僕がなにかする事を迷惑と思うかもしれないが、僕も出来る限りの協力をしてやろう。お互いのためにも悪い話ではないはずだ。
僕は自分の事のように浮かれた気分になって意気揚々と廊下を歩き出した。
「じゃあ――」
ザザ。
そう切り出した僕の言葉を遮ったのは、真尋でも、智史でも、ましてや麻奈でもなかった。
ザザっと言うノイズのようなその音がなんなのか、僕達は一瞬理解出来ず、お互いの顔を見やる。
ザザ。
もう一度。そこで僕は気が付き天井を見上げた。その先にあるのは白い天井と同色の埋め込み型の丸いスピーカーだ。そのノイズはそこから出てきていた。
周囲がしんと静まり返る。恐らく校舎内にいる全生徒がその唐突な音に意識を向けたのだろう。
キーンコーンカーンコーン
それはとても静粛であり静謐であり、厳かに。
終業式以来、鳴る事のなかったチャイムが、沈黙を打ち砕くように重く鳴り響いた。
「……なんだ?」
なぜか心臓の鼓動が早くなる。これから起きる事への警鐘を告げるかのように。
二度、繰り返されたチャイムが終わってもまるで氷付けにされたかのように静まり返った中で、再びそれを打ち破ったのは、機械越しの肉声だった。
『こんにちは。3-Bの上杉直人です』
その声は、光の届く事など決してない深海のように、暗闇に包まれていた。
「せっかくだからお茶でも飲んでいったらいいのに!」
と言われたがまた麻奈との話をぶり返されても困るので、丁重にお断りすると――二人はやや不満そうだったが――お礼にと僕は清涼飲料水のペットボトルをもらい後にする。
歩いて二十分ほどだが朝一から付き合わされたので二時過ぎには戻れそうだった。
僕は騒がしさから解放された喜びを感じるように思い切り伸びをすると、煙草を口に咥えた。思い切り吐き出した煙が上空へと昇っていき、いずれ消え去っていくのを見ながら、例えば僕はそういう空を見てなにかを見つける事が出来るだろうか、とあの電車に座っていた男の事を思い返す。
だがそこから飛来するのは、マルボロの苦味と、ただただ青と白をこれ以上なくきれいにぶちまけただけの風景だけだった。まだ僕にはなにもないものに意味を見出す事は出来ないらしい。
麻奈の事を思う。この確かに存在する重みは、深く考える必要もなく僕の中に切なさだとか、苦しさだとか、そういうものを意図も簡単に浮き上がらせる。まるでどれだけ閉め切っても防ぎきれない隙間風のように。こうやって踏みしめるアスファルトが硬くて、日差しによって熱を放ち、ある家の前で水でも撒いたのだろうと思われる鼻をつまみたくなるような臭いがする事が当然の事だと言うように。
(分かってはいるんだけどな)
胸の中でそうぼやいた。自分が逃げているだけだと言う事はもう随分前から自覚している。彼女に愛されたいと思い、それが叶わなかった時、僕の世界は反転するだろう。それはこれ以上ない恐怖であり、絶望へと向かう道だ。そこに足を踏み入れるのが怖くて僕は、今の平坦に見えるものの実はグネグネと入り組んでいる道をそ知らぬ顔を浮かべて進んでいる。内心はそれを飛び越えたい、このままでいいなんて露も思っていない自分がいるのに。心のどこかでは今のまま、彼女と笑い合える今を甘受していられればいいじゃないかとも思っている。
(諏訪先輩が余計な事言うからなぁ)
そんな風に考えていたからか思ったよりも早く校舎が見えた。時間を見るとやはり二十分ほど経っている。まだ半分ほどだと思っていたのだが。僕はひとまず落ち着こうともらった清涼飲料水を一気に呷った。
廊下を歩くと埃や小さなゴミは綺麗に片付けられていた。今日は2-Aが僕達が使っている二階校舎の掃除をするようになっていたのだが午前中のうちに済ませていたのだろう。廊下に雑巾が干されていた。
「あー康弘! どこ行ってたの?」
そう声をかけられて振り向くと、いつもとは違い頭のてっぺんあたりで髪を結んでいる真尋が立っていた。彼女は2-Aなので恐らく掃除の邪魔だからとそうしてそのままでいるのだろう。
「ちょっと電車で街の方まで行ってた。お前ら今日から掃除だったんだろ? どうだった?」
「もー、端から端まで掃除したんだから! 腰が痛くなっちゃうわよ。それぞれの教室は自分達でってなってるからまだよかったけど」
「でもきれいになったなぁ。前は吸殻とか落ちてたもんな」
「あれ康弘も捨ててたでしょ? マルボロ、落ちてたよ」
「……別に俺だけじゃないだろ、マルボロは。まぁ、捨てたけどな」
「本当吸わないのに掃除させられるこっちの身にもなってほしいわ」
彼女の非難に「悪い」とだけ返す。
「あ、そうだ。今日麻奈と一緒に来たんだけど、智文は来てるの?」
「あぁ、いるはずだぞ。なんか用か?」
「いや、用って訳じゃないけど。ちょっと話しようかなって」
そう言いながら、真尋が右頬の辺りを指で掻いた。僕はそれを見て「おや?」と思う。
彼女が右頬を掻く癖があるのは知っている。その時大抵言いにくい事を抱えているのだと言う事も。
「なんかあんのか?」
「え? なんもないわよ。教室顔出してみようよ」
疑問を挟む余地もなく、彼女はスタスタと歩き出した。僕は腑に落ちないものの連れ添って2-Cへと向かう。
「麻奈ー智史ー」
「あぁ、千尋。久しぶり」
開け放たれた窓から真尋が声をかけ振り向いた智文が、彼女に向かって手を振った。
麻奈も少し遅れてやってくる。皆学校に来たり帰ったりとその上真尋はクラスが違い、そちらとの付き合いもあるので僕ら四人もいつも一緒と言う訳ではなかった。
「智史、ちょっと痩せた?」
「そうかな? そんな風に見える?」
「うーん、気のせいかな? ほら久しぶりだから」
「いや、そんなに会ってない事はないと思うけど」
「私がそう思っただけだから」
麻奈が横から口を挟む。
「もっと会いたいんだよね」
「なんだよ、それ」
と智史が呆れたように言うが、俺は麻奈の言葉に「え?」と若干驚いて気付かれない程度に智史と真尋を見比べていた。智史はなんにも気がついていないようだが、僕の思い出す限り「そういう台詞」を麻奈が口にすることなど今まで聞いたこともなかった。
「あのさぁ、麻奈。ちょっといい?」
「え?」
二人から少し距離をとり、それでも聞かれないように耳打ちする。
「あのさぁ、もしかしてなんだけど今カマかけた?」
「え? え? な、なにが?」
必死に誤魔化そうとしているが、それがむしろ怪しくて僕は半眼で
「いや、もっと会いたいんだよね。とかさ、バカ正直だよな」
と告げると彼女は尚も言い募ろうとしたが、その言葉を飲み込んで違う言葉を吐息と共に吐き出した。
「……分かり易すぎたかな」
「……うーん、正直違和感凄かった。まぁ、智史も違う意味で気付いてないみたいだけど」
「……やっぱりそうかぁ。私こういうの向いてないのかも」
「いや、それは向いてなくていいよ」
逆に上手になられても困る。
「つか、って事はあれか? まさか真尋って、智史の事」
「……うん。私も最近聞いたんだけど好きなんだって」
本当は口止めされていたのだろうが、性格上誤魔化しきれないと諦めたのだろう。
僕はその衝撃的な内容に少し離れた二人を見返した。
「なにこそこそ話してるんだ?」
やはりなにも感づいていないらしい智史が僕らに怪訝そうな顔を向ける。
「いや、なんでもねーよ」
僕は笑って傍へと戻ると、何事もない素振りに徹する事にした。
「けど智史、お前やっぱ痩せたんじゃないか?」
「ええ、そうかな? 自分じゃ分からなかったけど」
「ふーん、まぁ、真尋は結構色々見てるからなぁ」
「そうかな?」
怪訝そうに自分の腕を掴んでみたりしている智文の一瞬の隙間を狙ったかのように、真尋が僕の足を踏みつけてきた。チラリと見るとそこには無表情だが、はっきりと「余計な事をするな」と言う言葉が顔に書かれているのが分かる。僕は無言で二度、はっきりと首を縦に振るとようやく解放された。それを見ていた麻奈もあっさりとばらしてしまった罪悪感からか肩を小さくしていた。
「自分じゃ分からないなあ」
呑気そうな一人だけ分かっていない智文はそう呟くと、
「それより四人集まったしさ。どこか行かないか? ほら、前言った喫茶店とかカラオケとかさ」
「あーいいね!! 凄くいいよ、うん」
「うるさい」
大げさに同意する僕の頭を真尋が平手ではたいた。麻奈が「ちょっと千尋落ち着いて」なんてフォローする。
これならむしろ智史のように気付かなかった方が幸せだったのかもしれない。
そうも思うが、これはいいきっかけかもしれないと思う。
「まぁ、どこでもいいけど行くなら早く行こうぜ」
「そうだよ。行こ?」
「そうだな」
智史がどう思っているかは分からないが、もし上手くいけば里美の事にも区切りをつける事が出来るかもしれない。真尋は僕がなにかする事を迷惑と思うかもしれないが、僕も出来る限りの協力をしてやろう。お互いのためにも悪い話ではないはずだ。
僕は自分の事のように浮かれた気分になって意気揚々と廊下を歩き出した。
「じゃあ――」
ザザ。
そう切り出した僕の言葉を遮ったのは、真尋でも、智史でも、ましてや麻奈でもなかった。
ザザっと言うノイズのようなその音がなんなのか、僕達は一瞬理解出来ず、お互いの顔を見やる。
ザザ。
もう一度。そこで僕は気が付き天井を見上げた。その先にあるのは白い天井と同色の埋め込み型の丸いスピーカーだ。そのノイズはそこから出てきていた。
周囲がしんと静まり返る。恐らく校舎内にいる全生徒がその唐突な音に意識を向けたのだろう。
キーンコーンカーンコーン
それはとても静粛であり静謐であり、厳かに。
終業式以来、鳴る事のなかったチャイムが、沈黙を打ち砕くように重く鳴り響いた。
「……なんだ?」
なぜか心臓の鼓動が早くなる。これから起きる事への警鐘を告げるかのように。
二度、繰り返されたチャイムが終わってもまるで氷付けにされたかのように静まり返った中で、再びそれを打ち破ったのは、機械越しの肉声だった。
『こんにちは。3-Bの上杉直人です』
その声は、光の届く事など決してない深海のように、暗闇に包まれていた。
『あともう一人。3-Bの植田智子。僕と彼女は付き合っていました。僕と彼女の事を知らない人達も今放送を聞いていると思います。僕と彼女はクラスでも大人しくてあまり目立つ生徒ではなかったから。僕達は昼休みや放課後によく図書館で過ごしていました。お互いの好きな本を薦めあったり、時には二人で一冊の本を読んだりもしました。僕達は雨が好きでしたが、雨の日の図書館はあまり好きではなかったです。雨宿りを兼ねて図書館に来る人達がいると彼女は少し騒がしくなってしまうのを好ましく思っていませんでした。だからそんな日は二人でお互いの家に行ったりもしていました。僕は彼女のお母さんに挨拶するのをいつまでも慣れることが出来なくて、智子はそんな僕を笑っては「いつかはお父さんにも挨拶してね」と言っていました。遺伝、と言えばそうかもしれないけど、僕の両親も、智子の母親も、多分父親も、それぞれ僕達に似ていたからか、恥ずかしくはあったけど思ったよりスムーズに打ち解けられました。智子なんて僕の両親と僕がいなくても談笑するようになったりもしていました。だから僕は雨の日も好きだった。晴れた日は、誰もいない図書館で静かに過ごしました。気がつくと会話もなく一時間経ってしまっていたなんて事も珍しくなかった。彼女は小さな時から本を読むのが好きで、僕が一ページを読んでいる間に二ページ読むことが出来た。だから気がつくと本を読み終えた彼女が僕をじっと見ているんだけど、僕はそれに気がつくのに少し時間がかかりました。「いつから見てた?」と聞くと「五分くらい」と答える彼女は笑っていました。そういう時間がなにより僕達は好きだったんです。心地の良い無言。図書館での会話で僕達が覚えているのはいつも読んだ小説への疑問や感想でした。推理小説では二人で犯人は誰かと話し合ったし、恋愛小説ではちょっと主人公が恵まれすぎていると難癖をつけたり、ノンフィクションではその本が終わってからの登場人物たちはどうなったんだろうとお互いの想像をぶつけあったりもしました。晴れの日の図書館は僕達にとって晴れた公園であり、晴れた繁華街であり、また逆に曇った殺人現場であり、雨の日の悲しい路地裏でした。そんな風にして過ごした図書館が僕達の一番のデートだったのかもしれません。……ごめんなさい、ちょっと、上手く喋れない。あー、あー……去年の、今頃。そう、去年の夏休みから僕達はバイトをする事にしました。僕達は同じ大学に行こうと約束していました。文系の大学。僕も彼女も成績は悪くはなかったから、先生もこの調子で頑張れば大丈夫と言ってくれてました。県外だったんだけど、寮に住むよりアパートを借りて二人で住もうって話になった。だから二人でバイトを始めて少しずつお金を貯めていってた。けど夏休みが終わって、冬休みや春休みが来る度クラスの皆がバイト代で旅行に行った、なんて話を聞いて、その時僕は正直羨ましい、って嫉妬を覚えてました。ある日の帰り道、僕は智子に言った。貯金ばかりしていてもつまらない。今度二人で旅行にでも行かないか? 智子はその意見には賛成してくれなかった。旅行なんか高校卒業してからでもいいじゃない、と言った。確かにその通りだけど、僕は一度言い出した以上我を通したくなってしまい、結局智子とケンカしてしまった。なんでだろう? 当時の僕は本当にそう思ったんだ。なんで、智子ともっと仲良くなりたいと思って言っているのに仲違いをするような事になってしまうんだろう? 今でもちゃんとした正解は分からない。多分、お互いに良くしようとしているのは確かでやり方に違いがあるだけなんだ。それがきっとたまに空回りしちゃうんだろうと思います。結局僕が謝って仲直りは出来た。今度からはケンカする前にもっとちゃんと話し合うようにしよう、って二人で決めました。色んなこと。そう、色んな事を僕達はちゃんと話し合う事にした。僕達は勉強をして、バイトをして、時間が会えば図書館で過ごした。きっと高校を卒業してもそれは変わらず続くのだろう、そんな風にも思っていました。どこにでもいる二人です。幸せだった……なのになんでこんな事になる? どうして世界は終わる? 僕と智子は頑張ってきたんだ。夏休みが終わったら受検を迎えて、二人で合格して、それをお祝いなんてしたりして、二人で住む場所を探して、また一緒に本を読む。そうなるはずだったんだ。僕も智子も色んなものを我慢してやってきていた。それは未来のためで、絶対にこんな終わりを迎えるはずのためのものじゃなかった。だけどどうしようもない。そう、僕達は諦めてしまった。なにもかもを。図書館に行くこともなくなった。小説を読んでもちっとも楽しくもなかった。結局そこにあるのはフィクションと脚色とマスプロダクトのためのおべっかで、死と言う現実の前にはなんの価値も見出せない自慰行為の果てだった。僕達は、絶望したんだ。生きる事に意味がない事。そしてそれ以上に、それでも生きられる人がいる事に。そう、皆。皆生きている。教室で、運動場で、体育館で。皆笑っている。なにもないのに。なぜそうしていられるのか僕達には分からない。分からないんだ、多分きっと僕達には分からない事なんだ……なんでだろう? だけど、もうそれに答えを見つけようとする事も僕達は出来そうにもない。強くないから、弱者だから、そう言ってしまえばいいんだろうか。だけど一つだけ言っておくよ。僕達も、未来があった時は、単なる弱者ではなかったんだ。生きるのに必要なものは、明るい未来だ。僕達には一年後のそれを見る事は出来ても、明日にそれを見つける力はなかった。僕達は、話し合った。ちゃんと、話し合った。どうしたらいいのか。そして、決めた……だから、さようなら』
僕は廊下を蹴った。
鼓動は更に速さを増し、体温が上昇し、血液が逆流する。
心臓に黒く重い石を埋め込まれたような嘔吐感。
それら全てを置き去りにし、僕は階段を駆け下りた。
呆然として立ち尽くしている生徒達とぶつかりそうになったところをすんでで交わし、僕は放送室のある旧校舎へと向かう。
呼吸が荒い。
それでも、走る。
走らずにはいられない。
――僕達は付き合っていました。
なぜ、過去形なんだ?
――もう一人います。ウエダトモコです。
なぜ、ウエダトモコは一言も喋らない?
――僕達は、話し合った
なにを?
――だから、さようなら
なにから?
思考が定まらない。そのまま旧校舎へと駆け込む。
廊下を曲がり放送室へ辿り着いた。
「おい! おい!」
ドアの前に人だかりが出来ている。僕よりも先にやってきていた生徒がドアを叩いていた。
「なにやってんだ!?」
「開かないんだよ!」
僕の叫びに同じく怒声混じりだが悲鳴のようなその声に「どけ!!」と僕は叫ぶと勢いをつけてドアへと突進した。鍵がかかっている。旧校舎の鍵は中から蝶番をかけるだけの簡素なものだが、そのせいでこちら側からは開けることが出来なかった。だがそれだけではなく向こう側へと開くはずのドアはなにかで抑え付けているのかびくともしない。
「全員で押せ!」
僕達は全員でドアへと体をぶつけた。ミシリとドアが軋む。何度も繰り返す。肩の辺りが痛みを通り越して感覚を失う。それでもなんどもドアへと飛び掛る。
蝶番の螺子が衝撃に耐え切れず緩んできたのか、微かに隙間が開いた。
僕達は更にぶつかる。
ドアが更に開く。
更にぶつかる。
カン、となにかが床に落ちる音がした。蝶番だ。
僕はドアを押し込む。
ドアの前に積み上げられていたらしい机がバランスを失い派手な音を立てて飛び交った。ドアが開け放たれ僕達は放送室へと転がり込む。
そして僕は、くずれてまえのめりになった体制のまま、ドアからは離れ、転がったにしては遠すぎる場所にある倒れた二つの椅子を視界に捕らえた。
「うわああああああああああ!!」
誰かの悲鳴。
僕の横で誰かが膝をついた。
僕もそこで立ちすくむ。
薄暗い放送室の真ん中。そこに天井につるされた紐にぶらさがる二つの長い影があった。
案山子のように力なくうなだれるその体は地面に足がついておらずブラブラと揺れている。
ウエスギナオトとウエダトモコ。
「ああああああああああああああ!!」
僕は半狂乱になったように叫びながら二人の下に走りよった。ウエスギナオトの太ももを掴み、むりやり持ち上げる。
「なにやってんだ! なに言ってんだ! お前ら!」
なんの反応も返ってこない。その体が硬いのか柔らかいのか暖かいのか冷たいのかも、分からない。
「なんでだよ!? なんでこんな終わりなんだよ!? これが一番いい未来なのかよ!?」
僕の叫びは、この凍ってしまった世界のどこにも届かない。
「康弘君!」
麻奈の声。僕は咄嗟に叫んでいた。
「来るな! 入ってくるな!」
泣き声が聞こえた。それが自分のものだと気付くのにどれほど要しただろう。
全身から力が抜けていき、僕はウエスギナオトの体から離れると仰向けに床に倒れこんだ。
一つだけついている小さなライトが二人を照らし、天井へと伸びた影がまるでキスをしているかのように重なっていた。
僕は目を閉じる。
真っ白な天井と、真っ黒な影。
鼓動は更に速さを増し、体温が上昇し、血液が逆流する。
心臓に黒く重い石を埋め込まれたような嘔吐感。
それら全てを置き去りにし、僕は階段を駆け下りた。
呆然として立ち尽くしている生徒達とぶつかりそうになったところをすんでで交わし、僕は放送室のある旧校舎へと向かう。
呼吸が荒い。
それでも、走る。
走らずにはいられない。
――僕達は付き合っていました。
なぜ、過去形なんだ?
――もう一人います。ウエダトモコです。
なぜ、ウエダトモコは一言も喋らない?
――僕達は、話し合った
なにを?
――だから、さようなら
なにから?
思考が定まらない。そのまま旧校舎へと駆け込む。
廊下を曲がり放送室へ辿り着いた。
「おい! おい!」
ドアの前に人だかりが出来ている。僕よりも先にやってきていた生徒がドアを叩いていた。
「なにやってんだ!?」
「開かないんだよ!」
僕の叫びに同じく怒声混じりだが悲鳴のようなその声に「どけ!!」と僕は叫ぶと勢いをつけてドアへと突進した。鍵がかかっている。旧校舎の鍵は中から蝶番をかけるだけの簡素なものだが、そのせいでこちら側からは開けることが出来なかった。だがそれだけではなく向こう側へと開くはずのドアはなにかで抑え付けているのかびくともしない。
「全員で押せ!」
僕達は全員でドアへと体をぶつけた。ミシリとドアが軋む。何度も繰り返す。肩の辺りが痛みを通り越して感覚を失う。それでもなんどもドアへと飛び掛る。
蝶番の螺子が衝撃に耐え切れず緩んできたのか、微かに隙間が開いた。
僕達は更にぶつかる。
ドアが更に開く。
更にぶつかる。
カン、となにかが床に落ちる音がした。蝶番だ。
僕はドアを押し込む。
ドアの前に積み上げられていたらしい机がバランスを失い派手な音を立てて飛び交った。ドアが開け放たれ僕達は放送室へと転がり込む。
そして僕は、くずれてまえのめりになった体制のまま、ドアからは離れ、転がったにしては遠すぎる場所にある倒れた二つの椅子を視界に捕らえた。
「うわああああああああああ!!」
誰かの悲鳴。
僕の横で誰かが膝をついた。
僕もそこで立ちすくむ。
薄暗い放送室の真ん中。そこに天井につるされた紐にぶらさがる二つの長い影があった。
案山子のように力なくうなだれるその体は地面に足がついておらずブラブラと揺れている。
ウエスギナオトとウエダトモコ。
「ああああああああああああああ!!」
僕は半狂乱になったように叫びながら二人の下に走りよった。ウエスギナオトの太ももを掴み、むりやり持ち上げる。
「なにやってんだ! なに言ってんだ! お前ら!」
なんの反応も返ってこない。その体が硬いのか柔らかいのか暖かいのか冷たいのかも、分からない。
「なんでだよ!? なんでこんな終わりなんだよ!? これが一番いい未来なのかよ!?」
僕の叫びは、この凍ってしまった世界のどこにも届かない。
「康弘君!」
麻奈の声。僕は咄嗟に叫んでいた。
「来るな! 入ってくるな!」
泣き声が聞こえた。それが自分のものだと気付くのにどれほど要しただろう。
全身から力が抜けていき、僕はウエスギナオトの体から離れると仰向けに床に倒れこんだ。
一つだけついている小さなライトが二人を照らし、天井へと伸びた影がまるでキスをしているかのように重なっていた。
僕は目を閉じる。
真っ白な天井と、真っ黒な影。
そうやって寝転がっていた僕の体を抱えたのは諏訪先輩だった。
「大丈夫か?」
そう言われるものの返事を返す事が出来ず、僕は俯いて床に座り込んでいた。
放送室の外から騒々しく誰かのざわめきが聞こえる。諏訪先輩が扉を閉じたのか、これ以上人が踏み込んでくる様子はなかった。今いるのは僕と一緒になだれ込んだ三人と諏訪先輩。そして、まだ天井でぶら下がった二人だけだった。
僕は先程よりは少々落ち着きを取り戻しながら、よろよろと起き上がり、二人へと近づく。
「……おろしてあげなきゃ」
僕の呟きに「そうだな」と諏訪先輩がウエスギナオトの傍に机を持ってくるとその上に昇った。いつも冷静な彼も動揺しているようで目測を誤ったのか、机に足をぶつけ顔をゆがめる。呆然としていた生徒達も手伝おうと彼へと歩み寄った。僕も同じようにウエダトモコの傍に机を置き、そこにあがる。
「体、掴んでてもらえるかな」
僕がそう言うと、一人が沈痛な面持ちをしたものの渋々と彼女の腰の辺りを背伸びして固定した。彼女の顔を正面に見ながら紐を外すよりはマシだと思ったのだろう。机だけでは天井へと手は届きそうもないので彼女の首に食い込んでいる紐を解くしかなかった。
「八月八日ってさ」
彼女の体を支えている生徒がそう呟いた。僕は返事をせず彼女と向き合う。そこには穏やかさなど欠片もない苦悶の表情を浮かべたウエダトモコがいる。ウエスギナオトは彼女が死へと至る光景をどういった面持ちで見続けられたのだろうか。
見開かれた目を見てしまい僕はそれから目を逸らすと彼女の背中をゆっくりとこちらへと向けた。
「……確か植田先輩の誕生日だ。八月八日」
「そうか」
それだけ言い返す。
「……固いな」
気持ちを誤魔化すように独り言を言いながら紐へと手を伸ばす。しっかり結ばれているそれを外すのはかなりの手間がかかり、食い込ませた指がいつしか麻痺してきていたが、なんとか外し終わると協力して彼女の体を床へと寝かし終えた。
「……お祝いするって言ってたのに」
十八歳になった彼女は、最後の思い出作りを終えたのだろうか。この苦しげな表情とは裏腹に、幸せを感じながら死ぬ事が出来たのだろうか。僕は彼女の目を閉じた。彼女と知り合いだったらしい生徒がポケットからハンカチを取り出す。彼女の顔にこびりついた鼻水や涎を丁寧に、清めるような手つきで拭き取りながら彼は再び涙を流していた。拭き終わり綺麗になったその素顔を見て、僕は実は彼女は寝ているだけで、本当は死んでなどいないのではないだろうか、と錯覚しそうになったが、先程彼女に触れたときに感じた皮膚の冷たさは誤魔化すことなど出来ず、事実などだと言い聞かせる。
諏訪先輩の方を見ると、そちらも幾らか整え終わったのか、こちらへと目を向けた。
放送室の外は未だにざわめいていた。皆、中の様子が気になっているのだろう。
だが中にいる僕達にとってその一つしかない出入り口から出て行くことは酷く億劫な作業だった。この現状を上手く説明する事など到底出来る訳がないし、そんな事をそもそもしたくもなかった。僕達がしたいのは一刻も早くこの場から逃げ去ることで、その逃げ場は外の騒がしさの中にはなかった。だが、そういう訳にもいかない。僕達が住んでいる今や家と言ってもいいこの場所で、人が二人死んだ。そこから逃げ出す事は出来なかった。
「僕が説明しよう」
諏訪先輩が僕達を見てそう言った。
「このままにしておく事は出来ないが、見世物にするわけにもいかない。とにかく外の連中を引き取らせて二人の知り合いに来てもらう事にする。あと親御さんにも連絡しなければ。今すぐ放送室から出たい人はその時一緒に出て行ってくれて構わない」
そう言って気丈に立ち上がった。彼に続き、数名立ち上がる。僕はその背中が放送室から出て行くのを見守った。残ったのは先程ウエダトモコに涙を流していた生徒と僕だけだった。
外が静まり返る。諏訪先輩が話を始めたのだろう。
呆然とそんな事を考えていると、生徒がウエスギナオトへと歩み寄りその体を抱えあげた。なにをするのだろう、と訝しんだが、言葉をかけるのもはばかられやりたいようにさせる事にした。
彼はウエスギナオトをウエダトモコのそばへと近づける。彼の体を背中から抱え上げ、一歩一歩丁寧に彼の体を扱うようにしながら。そして二人の手を取ると、指を一本ずつ絡み合わせた。
「……二人は本当に仲が良かったんだ」
「そっか」
「僕はそんな二人を見るのが好きだったけど、まさか二人でこんな事考えてたなんて思いもしなかった」
しょうがない。
そんな言葉が彼にとって気休めでもなんでも足しになるのだろうか。
「どうして気付けなかったんだろう。気付いてなにかしてあげられなかったんだろうか? いや、無理だよね。二人で決めたことに、僕なんかがなにを言っても無駄だったよ、きっと」
「……そんなの分かんねーよ」
「……そうだね……」
煙草を取り出し火をつける。
彼は笑っているようにも見えた。ウエスギナオトとウエダトモコも笑っている気がする。その笑いに秘められた意味はまるで違うものだが。
扉が開き諏訪先輩が顔を覗かせた。
「皆帰ったよ。今から二人の知り合いが来るがどうする?」
「……じゃあ、俺も出ます」
僕はそう言うと、諏訪先輩が開けっ放してくれるドアをくぐろうとした。
「柳君。あとで両親に来てもらう事になると思うんだけど、よかったら一緒に来てくれるか?」
「俺ですか?」
「正直一人で上手く説明できる自信がない。別になにかを言ってくれと言うわけじゃないんだが」
「いいですよ。諏訪先輩一人に押し付けるわけにはいかないですから」
「ありがとう」
「康弘君!」
放送室から出ると、僕の姿を見つけた麻奈がこちらへと駆け出してきた。諏訪先輩が彼女が近寄るより先に中が見えないように扉を閉め、廊下には僕と麻奈だけとなる。麻奈はその足を止める事無く、そのまま僕の体へとぶつかってきた。柔らかな衝突に僕は一瞬言葉を失う。彼女もそのままなにを言えばいいのか逡巡したが、ややあって手を僕の背中へと回してきた。
「……智史と真尋は?」
「諏訪先輩に言われて先に教室に帰ったよ。けど私心配だったから……」
彼らなりの気遣いなのだろうか。僕は苦笑した。
胸元に感じる彼女の呼吸と柔らかな体温を感じる。きっと彼女もこの廊下で言葉に出来ない不安を抱えていたのだろう。おずおずと、僕も左手を彼女の背中に回り、右手を頭へと置いてゆっくりと撫でた。
「さっきは叫んでごめんな」
「ううん」
「諏訪先輩から聞いたんだろ?」
「……うん」
「まぁ……そういう事だからさ……後で二人の親が来るんだと。ちょっと俺も行ってくるわ」
「大丈夫?」
「いやぁ、きついな」
本心だが、なんとか自分を奮い立たせようとわざと――彼女もきっと気がついていただろう――軽口を叩く。気を抜けばまた座り込んでしまいそうな脱力感があったが、彼女がいればなんとかなるような気がした。
「んー」
一層彼女を強く抱きしめた。
麻奈は僕達が今どうなっているのかをようやく思い出したかのように「やだ」と照れながら腕の中で悶えた。それでもしばらく僕は彼女を強引に抱き寄せる。ややあって抵抗がなくなった。
一人で倒れそうになったら、彼女に支えて貰おう。そう思い僕はようやく手を離すと僕の胸の中で見えなかった顔をこちらへと向けさせた。
そこには泣きはらして、まだ今にも泣き出しそうな潤んだ瞳がある。僕はなにも言わず、彼女に了解を得る事もしないまま、無言で彼女の額にキスをした。
「……え?」
「……あのさ、もうすぐしたら中の二人の知り合いが来るんだって。だから、移動しようぜ」
「……え? あ、えっと」
「ほら」
なにが起こったのか分からず混乱している麻奈をそのままに僕は彼女の手を引っ張って、廊下を歩き出した。
新校舎に生徒は移り、今では特別授業や職員室だけとなっている旧校舎を出て、教室へと戻る途中、僕は同じく旧校舎の中にある図書室を見かけ、今にも本を抱えたあの二人が静かに、それでも幸せそうに出てくる二人を想像する。
「あのさ」
「なに?」
「幸せの形って、人それぞれ、とか言うじゃん」
「うん」
「でもそいつがどんなにそれが幸せだって言ってもさ。俺達にはそう思えないものってあるよな。そういう時さ。言ってもいいんじゃないかなって思うんだ。それが無駄だとしてもさ。その幸せより、もっと別の幸せ、見つけられる事が出来るんじゃないか? 今の幸せが一番いいかどうかなんて分からない、もっと別のものを見つけようとしたっていいじゃないかって」
「……うん、そう思うよ」
「けど、皆やっぱ自分の思うものを盲目的に信じてしまうのかもしれないよな。あとで後悔する羽目になっても。それにそいつなりの本当の幸せを本当に見つけてたとしても、俺達には理解出来ない事もあるじゃん」
「本当の幸せは何個でもあるって事?」
彼女の問いかけに僕は頷く。
「そう。だからまぁ、あれだよな。他人の幸せは他人の幸せなんだよな。俺は、俺の幸せを見つけるよ」
旧校舎を出た。僕達の気分など知った事ではないというように太陽は燦々と日差しを照らしている。だが同じ時間にその太陽が、気分通りだと思っている人もどこかに入るのだろう。
僕には分からない。ウエスギナオトとウエダトモコの二人の事。
だが一瞬頭をよぎった考えを僕は麻奈を見て振り払う。
他の要因で死ぬよりも、自分の意思で死ぬ事。自分と、愛している誰かと二人だけで愛し合って死ぬ事。それを望んだ二人の気持ちなど僕には分からないし、過程も想像出来ない。
それでも一瞬覚えたその明らかな、二人の意思の共鳴のような疎通と、ただただ死を待つのではなく自らの手ではっきりとした結末を迎えたのだと言う事に、僕は一瞬確かに羨ましいと思っていた。
だけど、その結末はきっと僕が思う最高の結末ではない。
この手の柔らかさと暖かさを失う事で得られる幸せなど、僕にとっての幸せにはなれない。
「大丈夫か?」
そう言われるものの返事を返す事が出来ず、僕は俯いて床に座り込んでいた。
放送室の外から騒々しく誰かのざわめきが聞こえる。諏訪先輩が扉を閉じたのか、これ以上人が踏み込んでくる様子はなかった。今いるのは僕と一緒になだれ込んだ三人と諏訪先輩。そして、まだ天井でぶら下がった二人だけだった。
僕は先程よりは少々落ち着きを取り戻しながら、よろよろと起き上がり、二人へと近づく。
「……おろしてあげなきゃ」
僕の呟きに「そうだな」と諏訪先輩がウエスギナオトの傍に机を持ってくるとその上に昇った。いつも冷静な彼も動揺しているようで目測を誤ったのか、机に足をぶつけ顔をゆがめる。呆然としていた生徒達も手伝おうと彼へと歩み寄った。僕も同じようにウエダトモコの傍に机を置き、そこにあがる。
「体、掴んでてもらえるかな」
僕がそう言うと、一人が沈痛な面持ちをしたものの渋々と彼女の腰の辺りを背伸びして固定した。彼女の顔を正面に見ながら紐を外すよりはマシだと思ったのだろう。机だけでは天井へと手は届きそうもないので彼女の首に食い込んでいる紐を解くしかなかった。
「八月八日ってさ」
彼女の体を支えている生徒がそう呟いた。僕は返事をせず彼女と向き合う。そこには穏やかさなど欠片もない苦悶の表情を浮かべたウエダトモコがいる。ウエスギナオトは彼女が死へと至る光景をどういった面持ちで見続けられたのだろうか。
見開かれた目を見てしまい僕はそれから目を逸らすと彼女の背中をゆっくりとこちらへと向けた。
「……確か植田先輩の誕生日だ。八月八日」
「そうか」
それだけ言い返す。
「……固いな」
気持ちを誤魔化すように独り言を言いながら紐へと手を伸ばす。しっかり結ばれているそれを外すのはかなりの手間がかかり、食い込ませた指がいつしか麻痺してきていたが、なんとか外し終わると協力して彼女の体を床へと寝かし終えた。
「……お祝いするって言ってたのに」
十八歳になった彼女は、最後の思い出作りを終えたのだろうか。この苦しげな表情とは裏腹に、幸せを感じながら死ぬ事が出来たのだろうか。僕は彼女の目を閉じた。彼女と知り合いだったらしい生徒がポケットからハンカチを取り出す。彼女の顔にこびりついた鼻水や涎を丁寧に、清めるような手つきで拭き取りながら彼は再び涙を流していた。拭き終わり綺麗になったその素顔を見て、僕は実は彼女は寝ているだけで、本当は死んでなどいないのではないだろうか、と錯覚しそうになったが、先程彼女に触れたときに感じた皮膚の冷たさは誤魔化すことなど出来ず、事実などだと言い聞かせる。
諏訪先輩の方を見ると、そちらも幾らか整え終わったのか、こちらへと目を向けた。
放送室の外は未だにざわめいていた。皆、中の様子が気になっているのだろう。
だが中にいる僕達にとってその一つしかない出入り口から出て行くことは酷く億劫な作業だった。この現状を上手く説明する事など到底出来る訳がないし、そんな事をそもそもしたくもなかった。僕達がしたいのは一刻も早くこの場から逃げ去ることで、その逃げ場は外の騒がしさの中にはなかった。だが、そういう訳にもいかない。僕達が住んでいる今や家と言ってもいいこの場所で、人が二人死んだ。そこから逃げ出す事は出来なかった。
「僕が説明しよう」
諏訪先輩が僕達を見てそう言った。
「このままにしておく事は出来ないが、見世物にするわけにもいかない。とにかく外の連中を引き取らせて二人の知り合いに来てもらう事にする。あと親御さんにも連絡しなければ。今すぐ放送室から出たい人はその時一緒に出て行ってくれて構わない」
そう言って気丈に立ち上がった。彼に続き、数名立ち上がる。僕はその背中が放送室から出て行くのを見守った。残ったのは先程ウエダトモコに涙を流していた生徒と僕だけだった。
外が静まり返る。諏訪先輩が話を始めたのだろう。
呆然とそんな事を考えていると、生徒がウエスギナオトへと歩み寄りその体を抱えあげた。なにをするのだろう、と訝しんだが、言葉をかけるのもはばかられやりたいようにさせる事にした。
彼はウエスギナオトをウエダトモコのそばへと近づける。彼の体を背中から抱え上げ、一歩一歩丁寧に彼の体を扱うようにしながら。そして二人の手を取ると、指を一本ずつ絡み合わせた。
「……二人は本当に仲が良かったんだ」
「そっか」
「僕はそんな二人を見るのが好きだったけど、まさか二人でこんな事考えてたなんて思いもしなかった」
しょうがない。
そんな言葉が彼にとって気休めでもなんでも足しになるのだろうか。
「どうして気付けなかったんだろう。気付いてなにかしてあげられなかったんだろうか? いや、無理だよね。二人で決めたことに、僕なんかがなにを言っても無駄だったよ、きっと」
「……そんなの分かんねーよ」
「……そうだね……」
煙草を取り出し火をつける。
彼は笑っているようにも見えた。ウエスギナオトとウエダトモコも笑っている気がする。その笑いに秘められた意味はまるで違うものだが。
扉が開き諏訪先輩が顔を覗かせた。
「皆帰ったよ。今から二人の知り合いが来るがどうする?」
「……じゃあ、俺も出ます」
僕はそう言うと、諏訪先輩が開けっ放してくれるドアをくぐろうとした。
「柳君。あとで両親に来てもらう事になると思うんだけど、よかったら一緒に来てくれるか?」
「俺ですか?」
「正直一人で上手く説明できる自信がない。別になにかを言ってくれと言うわけじゃないんだが」
「いいですよ。諏訪先輩一人に押し付けるわけにはいかないですから」
「ありがとう」
「康弘君!」
放送室から出ると、僕の姿を見つけた麻奈がこちらへと駆け出してきた。諏訪先輩が彼女が近寄るより先に中が見えないように扉を閉め、廊下には僕と麻奈だけとなる。麻奈はその足を止める事無く、そのまま僕の体へとぶつかってきた。柔らかな衝突に僕は一瞬言葉を失う。彼女もそのままなにを言えばいいのか逡巡したが、ややあって手を僕の背中へと回してきた。
「……智史と真尋は?」
「諏訪先輩に言われて先に教室に帰ったよ。けど私心配だったから……」
彼らなりの気遣いなのだろうか。僕は苦笑した。
胸元に感じる彼女の呼吸と柔らかな体温を感じる。きっと彼女もこの廊下で言葉に出来ない不安を抱えていたのだろう。おずおずと、僕も左手を彼女の背中に回り、右手を頭へと置いてゆっくりと撫でた。
「さっきは叫んでごめんな」
「ううん」
「諏訪先輩から聞いたんだろ?」
「……うん」
「まぁ……そういう事だからさ……後で二人の親が来るんだと。ちょっと俺も行ってくるわ」
「大丈夫?」
「いやぁ、きついな」
本心だが、なんとか自分を奮い立たせようとわざと――彼女もきっと気がついていただろう――軽口を叩く。気を抜けばまた座り込んでしまいそうな脱力感があったが、彼女がいればなんとかなるような気がした。
「んー」
一層彼女を強く抱きしめた。
麻奈は僕達が今どうなっているのかをようやく思い出したかのように「やだ」と照れながら腕の中で悶えた。それでもしばらく僕は彼女を強引に抱き寄せる。ややあって抵抗がなくなった。
一人で倒れそうになったら、彼女に支えて貰おう。そう思い僕はようやく手を離すと僕の胸の中で見えなかった顔をこちらへと向けさせた。
そこには泣きはらして、まだ今にも泣き出しそうな潤んだ瞳がある。僕はなにも言わず、彼女に了解を得る事もしないまま、無言で彼女の額にキスをした。
「……え?」
「……あのさ、もうすぐしたら中の二人の知り合いが来るんだって。だから、移動しようぜ」
「……え? あ、えっと」
「ほら」
なにが起こったのか分からず混乱している麻奈をそのままに僕は彼女の手を引っ張って、廊下を歩き出した。
新校舎に生徒は移り、今では特別授業や職員室だけとなっている旧校舎を出て、教室へと戻る途中、僕は同じく旧校舎の中にある図書室を見かけ、今にも本を抱えたあの二人が静かに、それでも幸せそうに出てくる二人を想像する。
「あのさ」
「なに?」
「幸せの形って、人それぞれ、とか言うじゃん」
「うん」
「でもそいつがどんなにそれが幸せだって言ってもさ。俺達にはそう思えないものってあるよな。そういう時さ。言ってもいいんじゃないかなって思うんだ。それが無駄だとしてもさ。その幸せより、もっと別の幸せ、見つけられる事が出来るんじゃないか? 今の幸せが一番いいかどうかなんて分からない、もっと別のものを見つけようとしたっていいじゃないかって」
「……うん、そう思うよ」
「けど、皆やっぱ自分の思うものを盲目的に信じてしまうのかもしれないよな。あとで後悔する羽目になっても。それにそいつなりの本当の幸せを本当に見つけてたとしても、俺達には理解出来ない事もあるじゃん」
「本当の幸せは何個でもあるって事?」
彼女の問いかけに僕は頷く。
「そう。だからまぁ、あれだよな。他人の幸せは他人の幸せなんだよな。俺は、俺の幸せを見つけるよ」
旧校舎を出た。僕達の気分など知った事ではないというように太陽は燦々と日差しを照らしている。だが同じ時間にその太陽が、気分通りだと思っている人もどこかに入るのだろう。
僕には分からない。ウエスギナオトとウエダトモコの二人の事。
だが一瞬頭をよぎった考えを僕は麻奈を見て振り払う。
他の要因で死ぬよりも、自分の意思で死ぬ事。自分と、愛している誰かと二人だけで愛し合って死ぬ事。それを望んだ二人の気持ちなど僕には分からないし、過程も想像出来ない。
それでも一瞬覚えたその明らかな、二人の意思の共鳴のような疎通と、ただただ死を待つのではなく自らの手ではっきりとした結末を迎えたのだと言う事に、僕は一瞬確かに羨ましいと思っていた。
だけど、その結末はきっと僕が思う最高の結末ではない。
この手の柔らかさと暖かさを失う事で得られる幸せなど、僕にとっての幸せにはなれない。
上杉直人と植田智子の自殺はあっという間に皆のしるところとなった。当然といえば当然だが。
八月八日。その日の学校は、夏休みに入ってからもっとも重く暗い一日となった。
誰もが、その死の理由に目を背けようとしながら、そうすることも出来ずに、振り払おうとしても今の教室では空しい空回りと化していた。
「……君達は一体なにをしているんだ」
植田智子の父親は静かな口調でそれだけを口にした。
その台詞には怒りがあり、そしてそれ以上の悔恨と、悲痛があった。
死人の友人の中で僕と諏訪先輩は異質な存在となっていたが、それでも諏訪先輩以外、両親にうまく説明を出来る精神状態にある人なんておらず、僕はただただ彼の後ろに突っ立って、泣き止む事ない涙と、言葉に出来ない感情に押し潰されそうになっていた。
植田智子の父親は、娘の話の中でだけ存在していた上杉直人と、このような形で対面する事になるなど考えてもいなかっただろう。二人はしっかりと手を繋ぎ横たわっていた。
「……一緒に弔ってあげましょう」
上杉直人の父親の言葉に、彼は「分かりました」と頷いた。
諏訪先輩が頭を下げたが、両方の親にとってそんな事はもうどうでもいい事のようだった。
愚痴を言う事も、罵る事も、泣き喚く事も、僕達に見せる事はなかった。内心どれだけのものを胸に秘めているのだろう。それを全て押し込んで、ただ息子と娘の最期を静かに見送る事を決めたのかもしれない。
二人の体を上杉の父親の車に運ぶ事になり、僕達もそれを手伝った。それが終わると彼らは「すまなかったね」と一言だけ告げた。それは体を運んだ事に対する礼の言葉でしかなく、それ以上のそれ以下の意味もない。
学校から並んで出て行く二台の車を僕達は見えなくなるまで見送った。
運動場から校舎へと振り向く。幾つかの窓から出ていた顔が、悪戯を見つけられて焦る子供のように引っ込められる。僕は溜め息を吐く。
「悪かったな」
「いや、いいっすよ」
諏訪先輩の「親ってやっぱりいつでも親なんだよな」と言う言葉を聞き、僕は一人屋上へと向かった。そのまま教室へ向かうのが憚られた。少し一人になりたいと思ったからなのだが、そんな僕の考えを見透かしてでもいたのだろうか、先客がドアを開けて屋上へと入った僕を見て挨拶のつもりか軽く顎を動かした。
「あなたも大変だったわね」
「そう思うんなら放っておいてくれよ」
小笠原がそんな僕の返事などまるで気にかけず、腰掛けた僕の隣に座る。
しばらくの沈黙。
僕は今、彼女と話すような話題などなかったし、だからと言ってその沈黙を埋める行為を行おうとする気にもなれなかったし、彼女はと言えばただ僕の横で星が瞬きだした空を見ていた。
どれだけそうしていただろう。
彼女は話す糸口やきっかけを探していたというよりは、ただ時が満ちた、と言う感じで切り出した。
「辛かった?」
「なにが?」
「死んだ人を見る事」
僕は咥えていた煙草を放り投げた。乱雑に頭を掻き毟る。
「そう思うなら聞くなよ」
「ごめんなさい」
「謝るなら尚更だ」
「でも聞きたいの」
「なにをだよ?」
苛立ちを隠す事もなく僕は皮肉を込めて言う。
黒い服に身を包んで闇と同化したがっているような彼女を見る。その白い肌はあの二人以上に死人のようだったが、それでもその目はちゃんと生きている。そして僕が見た彼女の中のどれよりも、今それは光を放っていた。
病的に美しく、美しくまた同時に、醜い。
「死ぬ事に興味を持ったらダメ?」
「そんな事他人に言うのはダメだな」
「あなたはその死を見たんでしょ?」
「別に見たからってなんだよ。私も見たかったとか言うつもりか?」
「叶うなら、見たかったわ」
「お前黙れよ」
空気が冷たくなる。
僕は立ち上がった。
「お前に言うような事ねー」
「ごめんなさい。気分を悪くしたわね」
小笠原は座ったまま僕を見ず星空へと視線を向けたまま、そう答えた。
「一つだけいい?」
「なんだよ」
「あの二人の事で学校から何人か出て行ったみたい。柳君はどうするの?」
僕はその言葉が本当かどうかは分からなかったがありえない話ではないだろう。突如降りかかった悲しみに背を向ける人がいてもおかしくはない。
「帰らないよ」
「どうして? そこまでして学校にいる理由なんてあるの?」
彼女がようやく僕の目を見据えた。どんな時でも変わらないその表情はなにを思っているのだろうか。
「学校が悪いわけじゃない。それに家みたいなもんだろ、もう。なにかあったからって家を捨てる事なんて簡単に出来ねーよ」
その台詞に満足したのか再び沈黙が落ち、彼女は僕を引き止める様子もなく、僕も問いかける事もせず屋上から出る事にした。ドアを開ける。そのドアの向こうに繋がる会談の踊り場のような場所に、小林が立っていた。
「うお、びっくりした」
「ごめん、立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
そう素直に謝ってくる。いつからいたのだろうか。
「さっき来たんだけど話し声聞こえて。入りづらくて」
「だからってここで立ってるのもどうかと思うけどな。つか、やっぱ俺小笠原苦手だわ」
「ごめん」
「なんでお前が謝るんだよ。まぁ、なんかお前から言っておいてくれ。お前なら大丈夫だろ」
そう言って階段を降りようとする。小林が「参ったなぁ」と呟いていた。
「柳君もそうやって、僕に押し付けるんだもんなぁ」
「そういうつもりじゃねーけど」
一度立ち止まる。小林も損な役回りに回る事が多い事をやはり好ましく思っていないのだろうか。
「分かってるよ。ごめん、あんな事があったから口調が乱暴になるのはしょうがないよ」
屋上へと小林は向かったようだった。
僕は毎日掃除をしても、やはりゴミがちらほらある廊下を煙草を吸いながら歩く。まだ眠るのには早い時間だが今日は廊下にはあまり人影はなく、教室から声が漏れてくる程度だった。僕は天井を見上げる。開いていた窓から入り込んだのか蛾が光に吸い込まれるようにヒラヒラと舞っていた。
二階へと辿り着き、自分の教室を見ると人影が覗き込むような姿勢でそこにいるのを見かける。遠目からでも分かるあの派手な格好と金髪は遥だとすぐに分かった。無言で近づき、背後へ近寄るとまだ僕に気がついていない彼女の背中をドンと押した。
「ちょ!!」
「なにやってんだ、お前」
「それこっちの台詞だから!! ビビらさないでよ!」
「はいはい。で、なにやってんだ?」
本当に驚いたらしく、派手に転びそうになっていた彼女はとりなすように乱れた髪を整えながら悪態をついていたが、僕の質問にモジモジとする。
「なんだよ」
「あのさぁ」
「ん?」
「今日から、教室に行ったらダメかな?」
「あぁ? 音楽室どうしたんだよ」
「なんかムカついたから出てきた」
「ケンカか?」
「そうじゃないよ」
彼女は照れ隠しのつもりか悪ぶるように舌打ちをする。
「なんかさ、人が死んだのにそれを悪く言うのって最低じゃん。なんかそんなの聞いてたらイヤんなっちゃって」
「それで出てきたの?」
「そう。けど今更教室に顔出すのもなんかなーって」
「気にすんなよ。そんな決まりなんかないって」
僕は彼女に笑いかけた。
そんな風に思える彼女の事を誰が教室へとやってくる事を拒めるだろう?
まだ判断しかねている彼女の背中を勝手に押し、教室へと押し込んでしまう。
「ちょっと!」と抵抗しているが、その僕らの押し問答で目を向けたクラスメイト達の視線を受けて「……ひ、久しぶりー」と軽く手を上げて平静を装った。
八月八日。その日の学校は、夏休みに入ってからもっとも重く暗い一日となった。
誰もが、その死の理由に目を背けようとしながら、そうすることも出来ずに、振り払おうとしても今の教室では空しい空回りと化していた。
「……君達は一体なにをしているんだ」
植田智子の父親は静かな口調でそれだけを口にした。
その台詞には怒りがあり、そしてそれ以上の悔恨と、悲痛があった。
死人の友人の中で僕と諏訪先輩は異質な存在となっていたが、それでも諏訪先輩以外、両親にうまく説明を出来る精神状態にある人なんておらず、僕はただただ彼の後ろに突っ立って、泣き止む事ない涙と、言葉に出来ない感情に押し潰されそうになっていた。
植田智子の父親は、娘の話の中でだけ存在していた上杉直人と、このような形で対面する事になるなど考えてもいなかっただろう。二人はしっかりと手を繋ぎ横たわっていた。
「……一緒に弔ってあげましょう」
上杉直人の父親の言葉に、彼は「分かりました」と頷いた。
諏訪先輩が頭を下げたが、両方の親にとってそんな事はもうどうでもいい事のようだった。
愚痴を言う事も、罵る事も、泣き喚く事も、僕達に見せる事はなかった。内心どれだけのものを胸に秘めているのだろう。それを全て押し込んで、ただ息子と娘の最期を静かに見送る事を決めたのかもしれない。
二人の体を上杉の父親の車に運ぶ事になり、僕達もそれを手伝った。それが終わると彼らは「すまなかったね」と一言だけ告げた。それは体を運んだ事に対する礼の言葉でしかなく、それ以上のそれ以下の意味もない。
学校から並んで出て行く二台の車を僕達は見えなくなるまで見送った。
運動場から校舎へと振り向く。幾つかの窓から出ていた顔が、悪戯を見つけられて焦る子供のように引っ込められる。僕は溜め息を吐く。
「悪かったな」
「いや、いいっすよ」
諏訪先輩の「親ってやっぱりいつでも親なんだよな」と言う言葉を聞き、僕は一人屋上へと向かった。そのまま教室へ向かうのが憚られた。少し一人になりたいと思ったからなのだが、そんな僕の考えを見透かしてでもいたのだろうか、先客がドアを開けて屋上へと入った僕を見て挨拶のつもりか軽く顎を動かした。
「あなたも大変だったわね」
「そう思うんなら放っておいてくれよ」
小笠原がそんな僕の返事などまるで気にかけず、腰掛けた僕の隣に座る。
しばらくの沈黙。
僕は今、彼女と話すような話題などなかったし、だからと言ってその沈黙を埋める行為を行おうとする気にもなれなかったし、彼女はと言えばただ僕の横で星が瞬きだした空を見ていた。
どれだけそうしていただろう。
彼女は話す糸口やきっかけを探していたというよりは、ただ時が満ちた、と言う感じで切り出した。
「辛かった?」
「なにが?」
「死んだ人を見る事」
僕は咥えていた煙草を放り投げた。乱雑に頭を掻き毟る。
「そう思うなら聞くなよ」
「ごめんなさい」
「謝るなら尚更だ」
「でも聞きたいの」
「なにをだよ?」
苛立ちを隠す事もなく僕は皮肉を込めて言う。
黒い服に身を包んで闇と同化したがっているような彼女を見る。その白い肌はあの二人以上に死人のようだったが、それでもその目はちゃんと生きている。そして僕が見た彼女の中のどれよりも、今それは光を放っていた。
病的に美しく、美しくまた同時に、醜い。
「死ぬ事に興味を持ったらダメ?」
「そんな事他人に言うのはダメだな」
「あなたはその死を見たんでしょ?」
「別に見たからってなんだよ。私も見たかったとか言うつもりか?」
「叶うなら、見たかったわ」
「お前黙れよ」
空気が冷たくなる。
僕は立ち上がった。
「お前に言うような事ねー」
「ごめんなさい。気分を悪くしたわね」
小笠原は座ったまま僕を見ず星空へと視線を向けたまま、そう答えた。
「一つだけいい?」
「なんだよ」
「あの二人の事で学校から何人か出て行ったみたい。柳君はどうするの?」
僕はその言葉が本当かどうかは分からなかったがありえない話ではないだろう。突如降りかかった悲しみに背を向ける人がいてもおかしくはない。
「帰らないよ」
「どうして? そこまでして学校にいる理由なんてあるの?」
彼女がようやく僕の目を見据えた。どんな時でも変わらないその表情はなにを思っているのだろうか。
「学校が悪いわけじゃない。それに家みたいなもんだろ、もう。なにかあったからって家を捨てる事なんて簡単に出来ねーよ」
その台詞に満足したのか再び沈黙が落ち、彼女は僕を引き止める様子もなく、僕も問いかける事もせず屋上から出る事にした。ドアを開ける。そのドアの向こうに繋がる会談の踊り場のような場所に、小林が立っていた。
「うお、びっくりした」
「ごめん、立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
そう素直に謝ってくる。いつからいたのだろうか。
「さっき来たんだけど話し声聞こえて。入りづらくて」
「だからってここで立ってるのもどうかと思うけどな。つか、やっぱ俺小笠原苦手だわ」
「ごめん」
「なんでお前が謝るんだよ。まぁ、なんかお前から言っておいてくれ。お前なら大丈夫だろ」
そう言って階段を降りようとする。小林が「参ったなぁ」と呟いていた。
「柳君もそうやって、僕に押し付けるんだもんなぁ」
「そういうつもりじゃねーけど」
一度立ち止まる。小林も損な役回りに回る事が多い事をやはり好ましく思っていないのだろうか。
「分かってるよ。ごめん、あんな事があったから口調が乱暴になるのはしょうがないよ」
屋上へと小林は向かったようだった。
僕は毎日掃除をしても、やはりゴミがちらほらある廊下を煙草を吸いながら歩く。まだ眠るのには早い時間だが今日は廊下にはあまり人影はなく、教室から声が漏れてくる程度だった。僕は天井を見上げる。開いていた窓から入り込んだのか蛾が光に吸い込まれるようにヒラヒラと舞っていた。
二階へと辿り着き、自分の教室を見ると人影が覗き込むような姿勢でそこにいるのを見かける。遠目からでも分かるあの派手な格好と金髪は遥だとすぐに分かった。無言で近づき、背後へ近寄るとまだ僕に気がついていない彼女の背中をドンと押した。
「ちょ!!」
「なにやってんだ、お前」
「それこっちの台詞だから!! ビビらさないでよ!」
「はいはい。で、なにやってんだ?」
本当に驚いたらしく、派手に転びそうになっていた彼女はとりなすように乱れた髪を整えながら悪態をついていたが、僕の質問にモジモジとする。
「なんだよ」
「あのさぁ」
「ん?」
「今日から、教室に行ったらダメかな?」
「あぁ? 音楽室どうしたんだよ」
「なんかムカついたから出てきた」
「ケンカか?」
「そうじゃないよ」
彼女は照れ隠しのつもりか悪ぶるように舌打ちをする。
「なんかさ、人が死んだのにそれを悪く言うのって最低じゃん。なんかそんなの聞いてたらイヤんなっちゃって」
「それで出てきたの?」
「そう。けど今更教室に顔出すのもなんかなーって」
「気にすんなよ。そんな決まりなんかないって」
僕は彼女に笑いかけた。
そんな風に思える彼女の事を誰が教室へとやってくる事を拒めるだろう?
まだ判断しかねている彼女の背中を勝手に押し、教室へと押し込んでしまう。
「ちょっと!」と抵抗しているが、その僕らの押し問答で目を向けたクラスメイト達の視線を受けて「……ひ、久しぶりー」と軽く手を上げて平静を装った。