そして俺はカレーを望んだ
――《Exceed the divergence》
夢のような気がしたんだよね。今までの事が全部夢で、気が付けばカレーの匂いが鼻を刺激していて、つられるように目を覚ませば母さんがいつも通りカレーを作っていてくれて。
そんな日常が今も続いているはずなのに、何故か、俺は。
「光史ー? もう学校でしょう、早く支度しないと遅刻するんじゃないのー?」
「あ、うん、そんな時間だったっけ」
俺は母さんの呼びかけに生返事をしながら、ぼーっと考える。
そうだ、何故かもクソも、今も現在進行形でいつも通りじゃないか。今日もカレーが美味い。
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歩き慣れた通学路を行く。自慢じゃないが、俺の家から学校までは徒歩三分で着く。聞きようによっちゃあ自慢かもしれないけど、俺の野望希望にとってこの短い距離は非常に有り難くないものだったりする。考えてもみよう、クラスで気になるあの子やこの子と一緒に帰ろうと思っても、一瞬でバイバイなんだぞ。今日はいい天気ですね、なんて言う間にもう終了だ。親睦を深める数少ないチャンスがこの道によって粉砕されちゃってるのだ。とても切ない。
寒い。もちろん心も寒いけど確かに冬であるからして、雪も積もっちゃってるわけだし、そろそろマフラーなんかが恋しくなる季節だけれども、あの子やこの子と一つのマフラーで暖め合うなんてシチュエーションも端から却下されているんだよね。そんな子いないけどね。
「切ねえ」
俺は他愛のないことを考えながら、白い息を吐き続ける。俺の口から漏れ出たものが晴れた先には、見ればもう校舎の影。早い、早すぎる。
と、色んな感情を持て余していた所で、背後から足音が近付いてきたことに気付く。雪積もってるしね、足音は聞き取りやすい。
そりゃあ通学路だし、俺以外の学徒共も同じ道を通るだろう。当然のことだ。しかし、その足音は俺のすぐ後ろまで来ると、まるで俺の歩調に合わせるように速度を落とした。
誰だ。ちょっと怖いからやめろ。そう言おうと思い振り返ろうとした所で、俺の視界が真っ暗になった。
「ひええええ」
「ちょっと、情けない声出さないでちょうだいよ」
俺の真正面から、気の強そうなおなごの声が聞こえて来た。だけど顔が見えない。多分手で覆われているんだろうけど、いやしかし、おなご、女子、おい、近いぞ。
「図が高いぞおなご! 離れい!」
「きゃっ」
俺は割と本気で目を覆っていた手を払いのける。回復した視界に飛び込んできたのは、白いパンツだった。
「まるで雪景色じゃない、カッ!?」
固い物が俺の側頭部にHITした。非常にクリティカルな一撃は俺を雪の上に転ばせるに十分な威力を持っていたわけで、ごろんごろんと俺は転がってしまう。
痛い。非常に痛い。どれくらい痛いかと言えば、革靴で側頭部にハイキックを食らったくらい痛い。さすがにこれは怒ってもいい。
俺は立ち上がると、相手が誰かも確認せずに口を開く。
「なにしてくれとんじゃわれマジごめんなさい」
口を開けてそこから言葉が漏れ出た瞬間、相手の顔を確認してしまった。もちろん謝罪に変わりました。
「わかればいいのよ、わかれば」
俺が何を分かったのかは分からないけど、とりあえず朝っぱらから俺にパンツを見せてくれたのは銀髪女さんだということが判明しました。……え? なんで? なんで銀髪女が“ここ”に居んの?
「なんで銀髪女が居んの?」
「御挨拶ね。それと、アタシの名前は銀髪女じゃないって何度言えば」
「失礼しました。銀髪女“さん”」
「そうじゃないでしょ! ああ! 疲れる!」
「俺が疲れるんですけど!」
よく分からんが、銀髪女が制服を着て学生鞄を持った姿で目の前に立っていた。おかしいな、まるで今から登校するような出で立ちじゃないか。
あの転校してきた初日以降、学校に来る目的と言えばドンパチ以外に無かった銀髪女が朝から律儀に登校などと、明日は雪が降るね!
「もう降ってるけど!」
「え?」
「なんでもない。こっちの話でした。どうぞ、俺に構わずどこぞへ行って下さい」
「……あのね、何を言いたいのかいまいち分からないけど、折角登校途中で会ったのなら一緒に行くって考えは無いわけ?」
「え?」
「え? じゃないわよ! なんでそんな変なものを見る目で見られなきゃいけないのよ!」
……どういうことだ。俺の中の銀髪女と言えば、人を見つけるなり「ぶち殺す」とか言っちゃうわけで、まさかこんな俺の願望二十三の内の一つである女の子と一緒に登校を実現させるようなことを言いだすような奴じゃあないはずなんだけど。おかしい。
でも、あれ、どうだったか。なんとなく、昨日も一緒に登校してたような、そんな感じもする。うん、そんな気もしてきた。
「ちょっと、ぼーっとしてたら置いてくわよ」
「お、おう」
俺は現状に戸惑いながらも、早足で銀髪女に駆け寄る。……まあいいか。たぶんいつも通りなんだろう、今日一日過ごしていりゃあ慣れるさ。
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「それでは授業を始める前にですね、皆さんに聞きたいことがあるのですが、ええ。もちろん分かっているかと思いますが、はい、私のヒゲですね。どうです?」
「どうです? じゃねえだろ! オッサン! なに教師面してナチュラルに聖なる教壇に立っちゃってくれてんの!」
朝のホームルーム。担任が入ってくるかと思いきや、現れたのはジェントルなオッサンだった。いつか見た黒いタキシード、シルクハットに身を包み、ご丁寧にもステッキまで持っている、あの姿で。
さすがの俺も席を立って指摘せざるを得なかった。
「相羽光史君、静かにしなさい。でないと、私は貴方を“投獄”してしまうことになる……」
「と、投獄?」
まさか、また俺を異次元に飛ばす――。
「生徒指導室で私とマンツーマンのジェントル会談と洒落込む次第ですな」
「ずこー」
などと。
「漫才やってるんじゃあないんだよ! アンタ何、担任? いつの間にか担任なの? そういうことになっちゃってるの?」
「今一言っている意味がよく分かりませんがね、私は相羽光史君が入学してきた当初から担任をやらせていただいておりますよ。ええ、それはもう熟練です」
「え……」
うそ……知らなかった……。
いやしかし、ああ、一先ずここは落ち着こう。いつの間にかこの俺がクラスの中心人物として注目されまくっている。目立つことは嫌いじゃないけど沢山の人と繋がりを持つのは面倒くさいという昨今の若者に準拠している俺にとって、この状況は非常に好ましくない。
「すんませんでした。どうぞホームルームを続けてください」
「中々偉そうな物言いですな」
俺は心の内でうるせえと一言漏らしながら、椅子に座り直す。
そうじゃないんだよ。何でかは分からないけど、今日は朝から違和感が半端じゃないことになっている。なんで銀髪女と登校しちゃったりオッサンが担任になっていたり、そもそも朝からカレーを食べていることに違和感を覚えたり。
おかしい。何かがおかしい。おかしいんだけど、何がおかしいのか分からないこのもやもや感。そういうのすごく嫌いです。
▼
午前中の授業が何事も無く終わり、俺は息を大きく吐く。認めたくはないけど、非常に普通だった。授業だった。ああ、今日やった範囲より前の内容も覚えていた。時系列的に何の不備も無い。どうしよう、俺がおかしくなってしまったのか。
俺が違和感と戦いを続けつつ頭を抱えている中、ふと目の前に人の気配を感じて頭を上げた。
「どうしたんですか、そんなまるで前世がアトランティスの戦士だという事に気付いてしまったような顔をして」
「ゲェー! お、お前は――!」
「そう、何を隠そう僕達私達の脇役、クラスメイトCとは僕の事ですよ!」
「なんだ、クラスメイトCか……」
「なんだとは御挨拶ですね、折角心配して声をかけて差し上げたのに」
「もういいよ、放っておいてよ。前世がアトランティスの戦士でもレムリア大陸の英雄でもいいから放っておいてくれ」
「おや、相羽さん、もしかしてイケる口ですか? レムリア大陸を知っているなんて、中々オツですな」
いかん、餌を与えてしまった。実は俺も宇宙人はともかくとしてそういう世界の不思議的なアレは嫌いじゃない。だがしかし、それをコイツに知られたら明日から非常に面倒な受け応えを要求されそうなので黙秘したい。
というか違うでしょ! そういう話じゃないでしょ!
「この話そういう話じゃないから!」
「でた! 相羽君のメタ発言! すごいです!」
「そういう意味じゃあないんだよ!」
この話とは即ち俺が考えていた違和感云々の話であって、ああ、面倒くさい。もういい、無視しよう。机に突っ伏そう。しばらくしたらコイツも人間だし――大概人間離れした言動だけど――腹が減ればどっか行くだろう。
俺はこれで話は終わりだと体現するように机に突っ伏す。それと同時に、静寂が訪れた。いいねこれ。俺は決して一人ぼっちな人間ではないと断言できるけど、確かにこの体勢は自分の世界に浸れるという意味で非常に効果的なものであることは認めよう。そういう話じゃないから。
そもそも、なんでここまで違和感を覚えるのか。それは日常がいつもと違うからじゃないのか。でも、俺はこれが日常だと思っている。いくら違和感があろうとも、俺本人が現状を認めちゃってるんだからどうしようもない、これが日常なんだ。じゃあなんで違和感アリアリなのって話だよね。
「ねえ」
昨日までに食べたカレーは全部思い出せるし、今日が何年何月何日かも把握してる。記憶が原因じゃない。じゃあ、一体何が違和感を発生させているのか。全く分からないんだよね、これが。
「おい」
いや、勘違いで済むんならそれに越したことは無いんだけど、如何せん気持ちが悪い。こんなにもやもやしたまま食べられるカレーが気の毒だ。そのカレーが持つ本来の味を、俺のちょっとしたもやもやで変なフィルターをかけてしまうのかもしれないのだから。それは作っている人に対してはもちろん、カレーに対しての侮辱に他ならない。俺はカレーが大好きだ。だからこそ、それを食べるに当たってはしっかりとした心構えをもって受け入れるのが定理。今凄く良いこと言った俺。
「ちょっと!」
肩を誰かに揺さぶられる。……なんて奴だ。見てわからないのか。俺は今この瞬間、自分の世界に入り浸っているんだぞ。それを邪魔するとは、なんて空気の読めない奴なんだ。絶対に許せないよね。ふざけんなと言ってやりたい。言おう。
「ふざけんな! 今カレーのこと考えてんだから静かにマジごめんなさい」
「わかればいいのよ、わかれば」
ちくしょう……っ! なんで目の前に銀髪女が居るんだよ! 謝っちまったじゃねえか! くそっ!
いやだがしかし、ここは謝っておいた方が賢明だったかもしれない。いつ何時、銀髪女がスカートの中から黒光りするものを取り出してこんな真昼間からドンパチやり始めるかもしれんのだ。機嫌を取っておいて損は無いだろう。
「それで何の御用で御座いましょう、銀髪女さん。へへへ」
「何がしたいのか分からないけど、そのゴマすりを止めないと蹴るわよ」
「え? 蹴るぐらいで許してくれんの?」
「殴るわよ」
「えっ? それだけ?」
「何が言いたいのよ……!」
「すんません」
拳を握りしめながら三白眼を向ける銀髪女。……うむ、おかしいなこれは。銀髪女がこんなに生易しいわけがない。俺の知ってる銀髪女はここで銃を取り出して俺に突き付けながら「うるさい死ね」とか言いながら本当に殺しちゃうような女だ。断じてこんなラブコメに出てくるような身分相応のパンチキックで済ませてくれる奴じゃないのだ。
「変なこと聞くけど、今日の朝飯は何食べたの?」
「本当に変な事ね。トースト一枚だけよ」
「カレーじゃないのかよ……」
カレーじゃないのは頂けないが、まあ普通のものだ。てっきりこっきり朝から変なものを食べたのかと思ったんだけど、トースト一枚で人がこんなにも変わったら病院が足りなくなる。
「朝からカレーなんて食べてられないわよ。アンタじゃあるまいし」
「おいそれは聞き捨てならんがまあうん、まあ良しとしよう。それにしたって小食なんですね」
「ダイエット中だから……って、何言わせんのよ!」
「うわあ」
「何なのその変な顔は!」
いかん、似合わなさすぎて変な顔をしてしまった。あの銀髪女がダイエットなどと笑わせてくれる。
今確信した。この銀髪女は偽物だ。本物の銀髪女なら、俺の目の前でこんな赤面させて可愛らしい姿を見せるわけがない。……今のは言葉の“あや”だ。別に可愛くもなんともないし。
「別に可愛いとか思ってねえし」
「へっ? か、かわっ?」
赤面していた銀髪女がさらに赤くなる。……ち、ちがっ、違う! こんなの銀髪女じゃない! こんな女の子女の子した銀髪女なんて銀髪女じゃないやい!
「うるせえうるせえ! 大人しくラブコメ星に帰りやがれ! お前なんて銀髪女じゃないやい!」
「だ、だから銀髪女って言うなって……はあ。どうでもいいけど、お昼ご飯食べなくていいの? 休憩時間終わっちゃうわよ」
「食べるし。俺にはカレーと相対する静寂な時と場が必要なんだ」
「……じゃあ、屋上に行かない? あそこなら人もあまり来ないし、ゆっくり食べられるんじゃないかしら」
「お、おう」
いやまあ確かにそれは名案だが、しかし、それは。
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「……」
「少し肌寒いけど、いい天気じゃない。学食のパンも中々美味しいし、合格点ね」
「……」
女の子と屋上で昼食……だと……。俺の願望二十三の一つであるこのシチュエーションがまさか叶えられてしまうとは。しかも隣に居るのは銀髪女。何の冗談なんだこれは。
「あら、食べないの?」
「食べるわい」
「そ。でも、ホントにカレーが好きなのね。病的よ、それ」
「やんごとなき事情があるんだ。俺はカレーしか食えないの」
「病気じゃないのよ」
「病気じゃねえし。カレーが悪いみたいに言うな」
「言ってないけど……」
そう、俺はカレーしか美味しいと思えない。他の食べ物はまるで腐臭を放つ生ごみのように感じてしまう。食えないことは無い。だけど、精神衛生上、カレー味が望ましい。
それもこれも、原因は、そう、原因は、原因は。原因は……あれ? な、なんで俺カレーしか食えないの? それって常識的に考えておかしくない? いや、確かにカレーは大好きだけど、それにしたって、おかしいだろ。……いや、あれ、違う。確かに俺にはカレーしか食べられなくなった原因があったはずなんだ。そうじゃないとおかしい。説明がつかない。だけど、それがわからない。
「どうしたの? 顔色悪いけど」
「いや、いつも通りのカレー色なら大丈夫だと思う」
「逆に黄色が不憫になるわねその言い方は」
ま、まあ、今日も母さんが作ったカレーはうまい。違和感ともやもや感と隣に居る銀髪女とこのシチュエーションのせいで非常に味がわけわからなくなっているけど、美味しい。ああ、本当に母さんの作るカレーは美味しいんだ。うん。それでいいよね。
「一つ質問があるんだけど、いいかしら」
「へ?」
話はもう終わったんじゃないのかよ。というかゆっくり食わせろよ。とは言えない。
俺は愛想笑いを顔に浮かべながら、気持ち急いで口の中にあるカレーを飲み込む。貴重なカレーが一口分無駄になったのは気のせいじゃないと思うけど、相手が相手なので我慢しよう。
「質問ってなに? なんなの?」
「もしもの話よ。善良な企業があって、それが仮に楠木だとしましょう。その楠木にテロリストが襲撃してきたら、どう思う?」
「楠木にテロ? え、なに、なんなのその質問。突拍子が無さすぎてカレー落としそうになったんだけど」
訳が分からない。テロリストが襲撃してきたらどうする? いや、どうもしねえだろ。そもそも楠木にテロが来ても俺には全く以って関係無い。質問の意図を図りかねるね。ねるねるねるね。
「ほら、楠木にはアンタの母親が働いてるでしょ? そういう意味での、どう思うって質問だったんだけど」
「あれ、母さんって楠木で働いてたんだ。初耳だわ。それよりもなんで銀髪女が俺の個人情報握ってくれちゃってんの。おっかねえなおい」
「細かいことはいいでしょ。ちゃんと質問に答えて」
「ええー」
「答えなさい」
「はい」
違うんだ! 俺の理性はこんな変な質問に答える義務はないと主張している! けど、本能が……! 俺の本能が銀髪女を怒らせてはいけないと……! ちくしょう……! 恐い……!
しかし答えろと言われてもですね。俺は考えるフリを見せながら、頭の中で出た結論を思う。いや、即答出来るよ。もし母さんが居る所にテロリストが来たっていうのなら、俺はそれを許さない。もし母さんに危害を加えようものなら、もしその現場に俺が居たとしたら。一体自分が何をしでかすかわからんね。母さんは唯一の肉親だし。カレー作ってくれるし。
「どう思うも何も、許せねえよ。それが普通だろ?」
「そうね。じゃあ、そのテロリスト達をどうしたい?」
「……は? いや、どうするって言われてもね」
「例えば、全員殺したいとか、思わない?」
殺す、殺すのかあ。いやいや、殺すのはいかんでしょ。血が出る。
さすが銀髪女さん、偽物かと思ってたけど、中々にバイオレンスなことを言っちゃってくれるね。
「思わん思わん。殺すのはダメ、絶対。全員帰って頂くのが一番でしょうが」
「……そ。まあ、それでもいいかもしれないわね」
「俺は全然よくないぞ。さっきからカレーが食べられんのだが」
「あら、それは失礼。それじゃ、アタシは先に戻るわ。屋上もいいけど、風邪引かないようにしなさいよ」
「え……」
銀髪女はそう言うと、あっさり屋上から姿を消した。残された俺は非常に後味の悪い感情を持て余しているわけで。
銀髪女が人を心配する言葉を吐きやがるとは。これは本当に悪い物でも食ったのかもわからんね。
そして何よりも納得出来ないのは、わざわざ変な質問をするためだけにこの俺と昼食を食べていたという事実。少しでも淡い期待を抱いてしまった俺が馬鹿でした。……いや、期待とかじゃねえし。銀髪女に期待することなんてなんもないし。うん。カレー食べよ。
▼
全ての授業が終わり、それに準じたチャイムが鳴る。遅れて、周りから椅子を引きずる音が鳴り始めた。
非常に残念なことに、結局違和感の正体は掴めなかった。おかげで授業の内容が頭に入らず、考えすぎて腹だけが余計に減る始末。
さすがにそろそろ考えることを止めそうになっていた所で、ふと、動きを止める。俺は今帰り支度をしていたわけなんだけど、はて、俺は帰宅部だっただろうか。……またもや違和感。だけど、これはなんとなく原因がわかるような気がする。そうだ、俺は部活動をしていた筈だ。活動という程の事をしてたわけじゃないし、そもそも無理やり入部させられた形だったけど、確かに俺は……ああ、天文部に居たはずだ。
そうだそうだ。なんで忘れてたんだ。というか、今日の昼に屋上へ行ったんならプレハブ小屋に行って挨拶の一つや二つしておきゃあよかった。
そうと決まれば。俺は帰り支度を済ませると、一階ではなく屋上へと足を向けた。
▼
「あ、あれ」
屋上への扉を開けると、刺すような冷気がビシバシと俺の頬を叩いた。だが、めげずにそのまま前に進み、いつも通りの場所へ視線を向ければ、はい、無いです。プレハブのプの字も見当たりませんでした。……おかしいでしょ。
「おかしいでしょ!」
今日は朝から非常におかしなことばかりあったけど、さすがの俺もプレハブが一日で跡形もなく消え去られてはね。違和感どころの話じゃあない。部長が知ったら物凄い剣幕で、まず俺に八つ当たりしてくるに違いない。次に山田辺りか、って、あれ、おかしいぞ。
ああ、そうだ、そもそも山田は何処へ行ったんだ。遅刻はするけど絶対に休みはしない、例えノロウィルスにやられていようとも感染者を増やすだけだというのにゲロを吐きながら登校してくる、そんな山田が居なかった。……部長にも会ってないし、ああ、あのいけ好かないイケメン野郎もいなかった。
この学校には決定的に足りないものがいくつかある。……だからなのか、こんなに違和感を覚えたのは。
「あら、何してるのよ、こんな所で」
後ろから声をかけられた。慌てて振り向けば、持ち前の銀髪で夕日を反射させまくっている銀髪女が立っていた。……そうだ、コイツだっておかしい。こんな学生の範疇で収まっている銀髪女なんて、ありえないじゃないか。
違和感は疑惑となって、疑惑は疑問となる。そのままが、俺の口から漏れ出た。
「お前、誰?」
「え……」
銀髪女の笑顔が凍りつく。いや、おかしい。笑顔とかおかしい。銀髪女はいつも仏頂面であるべきだ。決して俺の心をキュンとさせるような笑顔を浮かべたりはしないのだ。……いや、キュンとかしないし。ただちょっとギャップにやられただけだし。
「ちょっと、いきなり何なのよ。バカ言ってないで帰るわよ」
「う、うるせー! 俺の知ってる銀髪女はなあ、一緒に帰るとかそんなこと言わねえんだよ! 笑ったりもしないの! 殴るとか蹴るとか言うレベルじゃないんです! そもそも! 銀髪女は! 学校に! こない! の!」
「そ、そんなことな――」
「あーりーまーすー!」
ふう。スッキリした。だがしかし、どうしよう。もしこれで目の前に居る銀髪女が本物だったら、俺はとんでもないことをしてしまったことになる。いや、俺は正直なことを言ったまでだ。コイツが何をトチ狂ったかしらんが俺にすり寄ってくるのが悪い。すり寄るとかエロいな。そうじゃねえ。
なんだかわからんが、結論として、俺は変な場所に連れてこられた可能性がある。じゃなきゃおかしい、俺がおかしくなったという可能性は考えないぞ。周りがおかしいんだ。
「……そう。それじゃあ、どうするの?」
「え?」
銀髪女の顔から、笑みが消えた。代わりに、何とも形容しがたい表情を浮かべている。なんて言えばいいんだろうね、悲しそうで怒っているようで何も思ってないみたいな。要するにわからないんだよね。
「いや、その、どうしよう?」
「アンタはこの“世界”に疑問を持ち始めてしまったのよね? でも、どうしたらいいかわからない。……どうもしないというのは、ダメなのかしら?」
「どうも、しない? このままで居ろってことかよ」
「ええ。だって、何も出来ないでしょう? 事実アンタには“ここ”から抜け出す術はない」
なんだなんだ、世界やらここやら、まるで現実じゃないみたいな物言いじゃないか。……現実じゃないのかね。
「それに、そう、アンタは忘れているかもしれないけど、ここはアンタが望んで創り出したのよ」
「は?」
「誰もアンタを傷つけないし、誰も傷つけ合わない。アンタが望んだ平和だけが毎日続く世界。……ねえ、本当にこのままじゃダメなの?」
「え、いや、急にそんなこと言われても。そもそも記憶にございませんし。確かに俺が望んで作ったとして、それなりに過ごしてきたのかもしれないけどさ、さすがに違和感が増えすぎた。穴だらけなんだよ」
銀髪女は俺の言葉を聞くと、目を閉じる。
「じゃあ、“現実”に戻りたいと、そういうことなのよね?」
「そういうことになるのか。それよりも、そろそろアンタが誰なのか教えろよ。銀髪女じゃないんだろ」
「……そう思うのなら、思っていればいいわよ」
銀髪女が目を開ける。
「え?」
その瞬間、足元から地面が消えていた。もちろん落ちる。見れば周りの景色は黒一色になっていて、そもそも落ちているのかすらも把握出来なくなっている。只々、浮遊感だけが俺の胸を締め付け続けている。
なんでこんなアグレッシブな方法でしか戻れないんだよ、とか色々言いそうになるが、舌を噛みそうだったので止める。
そうこう考えている内に、気付けば目前に光が迫っていた。……なんてありがちなんだ。どうせ光を抜けたら現実でしたとかそんな落ちに違いない。
俺は光に包まれ、咄嗟に目を瞑る。もうそろそろいいだろうと、目を開けたその先には。
「ところがどっこい、ここはどこでしょうかね」
知らない部屋だった。外は夕暮れ、カラスが鳴いている。十二畳くらいの和室。部屋の中央には丸机。……なんだろう、なんとなく懐かしいようなそうでもないような。
ここがどこなのか考えていると、不意に背後から音が聞こえた。振り返ると、老人が障子を開ける音だったのが分かった。問題は、その老人だ。俺はこの人を見たことがあった。
「な、なんで」
足が震える。ありえるわけがないんだ。だってそうだろう、ああ、なんで今まで忘れてたんだ。俺がカレーしか食えなくなった原因は、この家にあるというのに。
……老人は、俺のおじいちゃんだった。
――《Exceed the divergence》