Neetel Inside 文芸新都
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明日のお話
死んで見せ様か

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 倍率1.45倍。募集人数が100人で、応募人数は155人。不合格、受験に落ちる奴は約55人。僕はその55人の中に選ばれた。
 僕の第一志望の高校は、都立高校のなかでも偏差値の高い私立高校を受ける奴が滑り止めに使ったり、都立一本の奴がちょっと高めに狙うちょうどバランスがとれたような高校だった。滑り止めの奴は当然私立に受かれば試験会場にも来ないわけで、実質倍率はもっと低かったのかもしれない。けど、倍率が高かったからって言う唯一の言い訳が通じなくなるから、考えるのは嫌だ。1.55倍が高いかどうかなんて、知らない。
第二志望は私立高校の併願推薦で簡単に合格した。やっぱりそんなところでも、人生で初めての合格通知は嬉しかった。
 第一志望の高校は掲示板での合格発表だった。そりゃそれなりに勉強はした。冬休みは毎日塾で冬期講習を6時間。冬休みが終わって塾は週3日で、それぞれ2時間半勉強して、帰ってきてからも1時間勉強。平日も、放課後1・2時間は必ず机に向かったし、休日は出来るだけ英単語・熟語の暗記と社会の暗記、数学の問題を積み重ねやった。それでも、私は、生意気にたてられたあのちっぽけな板に、受験番号[3222]の数字を載せることは出来なかった。
 死のうと思った。
 都立高校を落ちたら死のうと、前から少し考えていた。第一志望と第二志望の偏差値の差は10以上。僕には一般推薦を受けるほどの内申がないから、併願推薦はレベルの低いところしかとれなかったためだ。親にも「悪いけどうちは私立に通わせるほどお金ないから」なんて言われていた。だから第二志望なんて、形だけ。第一志望を落ちたら、死のうと思っていた。
 けれど、死ねなかった。近くのマンションから飛び降りても、ネットで知ったODをしても、玉川上水と多摩川の違いも分からずに前日の雨で増水した多摩川に飛び込んでも、手首を切っても。気付くと、病院のベッドで寝ていて、隣で母が泣いている。そんな母をなだめている父がいる。反対側に姉がいて、哀れむように、僕に向かって微笑む。そしてまた、眠る。
その後、3・4日入院してから、僕は家に連れ帰される。そして、また、自殺未遂。そんなことの繰り返し。別に神様を恨んだりはしなかった。ただ、死にきれない自分を情けなく思い、少し恨んだ。

 最後に自殺未遂をして、すでに半年。
 僕は今、週4日バイトしながら、親の金で塾に通って生活している。まだ、カミソリと適当な飲み薬は手放せないけれど、なんとか生きている。
 生きるの定義は、意外と死に近い位置にあるのかもしれない。
生きることは死ぬことに限りなく近い。だが絶対に違う。臨死体験をいくらだけしても、その違いは漸近線の様にだけど、絶対に境界線が引けるくらいには、離れているんだと思う。
とても概念的に、生きる人間と死ぬ人間は(必ずしも人間は死ぬけれども)区別されていて、私は一瞬先の未来へ生きる人間なのだと最近気づいた。生きる人間は、「死ねない人間」とも言い換えられることには、大学受験に失敗した時に、気づいた。








 この物語の主人公が死ぬことはない。
 彼女の心臓へ小銃を突きつけて引き金を引いてみよう。その小銃から銃弾が出ることはきっとないだろう。故障か、腕がぶれてどこかへ飛んでいってしまうだろうか。はたまた誰かが命を賭けて阻止するのだろうか。仮に玉が当たったとしても、彼女は必ず一命を取り留めるだろう。
彼女はこの物語の中で生きていて、彼女は自分が生きている世界しか認識出来ない。よって、彼女は「死ぬことはない」。
この解釈で考えると、誰もが皆、自分が生きている世界しか認識できないために死ぬことが出来ないのだ。たとえ「誰か」が殺されても、その世界で死んでいるだけであって、その「誰か」が生きている世界が存在する確率は絶対に0ではないのだ。


故に、人は死ぬことが出来ない。


・・・らしい。

       

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