泥辺五郎短編集
「夜光髪」
髪の光る夜鷹を抱きに行く。
すぐに分かる、蛍色(ほたるいろ)だ、と悪友に教えられ、荒れ野に出た。そこかしこに鬼や蛇の気配漂うが、確かに女の陰(ほと)から溢れる匂いが鼻を刺す。同好の士が幾人か散らばり女を目指しているが、穴に落ちる者、鬼に食われる者がいる。真っ直ぐ女を目指せばよいものを、と思うが、匂いを辿っていくと出くわすのは情交の残骸である千切れた着物や血の跡ばかりで、肝心の女に行き着かぬ。そこに散らばる抜け髪もただの黒髪ばかりで、噛んでも何の味もせぬ。
光るものを探して荒れ野を見渡しても目に入るのは月明かりばかり。月に映る影がぬるぬると動いている。空に輝く月の中では月の鬼が月の痴れ者を喰らっている。
まだ口が血で濡れている腹の膨れた鬼を斬り、髪の光らぬ女を斬り、野を走るただの人を斬った。ここを教えた悪友に背が似ていた。振り返って顔を確かめることはせずにおいた。
進むに連れ荒れ野に生える鉄色の草の丈が高くなり、遠くも近くもなくなった。見上げれば草に月が隠れた。光の届かぬ土の色が見えぬ。黒や茶ではなく血みどろの赤かもしれぬ。
やがて光に逢う。ぽっかりと草の切れ目に広がる沼地に女は居た。髪が瞬いていた。黒髪と蛍色に交互に変化する、腰まで届く髪でこちらを挑発している。沼の縁に立ち、抱きに来た、と単刀直入に用件を述べると女は笑った。「言葉が拙い」と口説き下手を責めた。生憎これまで抱くか殺すかしかしてこなかった身で、女と交わす言葉は用件以外に知らぬのだ。
「こっちへ来てはくれんか」沼の中央に居る女のところには手も足も刀も届かぬ。
「泳いできたらええ」
「沈まんか」
「底なしや」
けたけたと女が笑うと髪の瞬きが増し、そこらを飛ぶ梟の類が寄ってきた。女は梟の背を優しく撫でてやった後、頭に噛みつく。バリバリと梟の小さな頭蓋が噛み砕かれる音がした。
「お主は何故沈まん」
「もう死んどるから」
「死ねば抱けるか」刀を己の腹にあててみる。
「好かん奴は死んでも抱かん」
と、後ろの草を掻き分けて近付いて来る者があり、女の髪の瞬きが一層激しくなった。飛び出して来た者はこちらには目もくれず沼に足を踏み入れた。通り過ぎる際に、氷よりも冷たい指が己の頬を切っていった。それは重さがないように沼の上を歩き、女に近付いていく。背には真新しい刀傷があり、己が先ほど斬りつけた奴らしかった。奴の傷口がぱっくりと開き、背骨の隙間から内臓がどろどろととめどなくこぼれ落ち、沼の水を肥やした。
「待っとったよ」
「抱きに来た。はは、命捨てて、な」
聞き覚えのある声だがもう眩しすぎる女の髪の光に遮られて、沼を渡っていった男の顔は見えぬ。目を瞑っても光が瞼を射抜く。たまらず沼に首を突っ込むと、夜よりも暗い水のおかげで目は休まったが、鼻に口に耳に、顔に空いた穴中に、沼を肥やしていた内臓やら虫や魚、魑魅魍魎の類が入り込んできた。そやつらはすぐに飽きたのか己の顔から出ていった。あらかたの肉を食いちぎって。
鼻と口と耳を失った顔を沼から引き上げると、既に蛍色の光は消えていた。沼の中央にはもう動かぬ悪友が横たわっているばかりで、女の姿はない。
と、見る間に今度は、沼全体が輝き出した。ぶくぶくと光輝く気泡が沼の底から湧き出してきた。よく見るとそれらは皆あの女の髪に似た光を放つ蛍であった。幾万幾億もの蛍どもが轟々と音を立てて空に舞い上がり、夜空に太陽を引き戻させたような光を放った。眼窩の周りの肉が次第に爛れ落ちていく己の眼は、ものを視る力を潰されながらもそれらを見ているしかなかった。蛍どもの形を識別出来なくなってからも光はしつこく己と荒れ野を焼いた。
視力と人の姿を失ったので人里にはもう戻れぬ。己は鬼として荒れ野で過ごすようになった。蛍の産卵後の荒れ野は目の潰れたものばかりらしく、皆ふらふらと歩いており、手探りで子鬼や蛇を捕らえていれば喰うには困らずに済んだ。口がないので腹に空けた穴にそいつらを放り込んだ。
百年が経った。
今年は蛍の産卵年だ、と年老いた犬が最期に呟いた。痩せ犬の不味い臓腑を喰らいながら蛍という言葉の意味を探り、己はかつて人であったこと、髪の光る女を抱こうとしていたことを思い出した。まだ見えぬ目で、髪の光る女を荒れ野に捜した。しかし感じる気配は愚かな人どものものばかりで、 光に頼り光を求める奴らは容易に闇の餌食となり、己の腹を満たした。
やがて荒れ野中から「おお」「光が」「爆発じゃ」といった声があがり、また百年前のような蛍の産卵が訪れたことを知る。しかし己の目はもはやその光の欠片すら感じることは出来ぬ。ふらつく阿呆どもを苦もなく捉え、屠り、喰らいながら、またこのままずるずると百年生きてしまいそうな己を呪い、また一歩鬼として極まっていく。
(了)