Neetel Inside ニートノベル
表紙

この世の果てまで
第四部

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  1 カミカワ/トランプ


 1

 あ~あ、帰ってきたんだな、とか、なんだか懐かしい感じがする、なんて思いながら、
俺はハンドルを握ってる。ここは日本だ。
 どうしてかな、木々が茂ってて全然道がわからないはずなのに、俺は迷うこともなく
すいすい進んでる。鼻歌なんて歌って、窓を開けて風を楽しんでる。遠くで鳥の鳴く声
がしたり、タイヤが枯れ木を踏む音なんかが聞こえる。見覚えがあるようなないような
建物が、森林に飲み込まれて廃墟になってたりしてる。
 
 ここはたしかに、日本だ。それも福神近辺。俺の見た感じだと、日本という島国で形
を残してるのは、ここらだけってことになる。ほかは荒野。シベリア鉄道から直接車で
乗り込めるようなとこじゃないからな、福神は。海のなくなり、残ったのはここだけっ
てとこか……

 さて、問題はバリアを解除しなくちゃいけないんだが……解除装置はどこかいな?

 しばらく進むと森林を抜け、広い草原に出た。そんで、さらに進むと、道らしきもの
が見つかる。車1台通るのがやっとってとこ。道の両際から伸びる草がボディを撫でて
る。
 道をしばらく行くと、分かれ道。手前で俺は車を停め、外に出る。

 2

 二又の分かれ道に立つと、どうしてか、道のない真ん中を行きたくなる。自意識過剰
か、ただのへそ曲がりか……さて、と、どうしたもんかね。真ん中進んでやろうかね。

「真ん中進もうと思ってるでしょ、カミカワくん」

 瞬間的に、何も考えず、俺は声の方を向く。いつの間にか、そいつは、車のボンネッ
トに座ってた。

「相変わらずな顔してるな、シンジ。キモイよ」

 俺とシンジは互いに見詰め合って――なんか遠恋してたカップルみてーに――そんで
同時に吹き出した。

 3

「うわ~、やんなっちゃうな~。シンジとこんなとこで再会なんてな。別に会わなくて
いいのにさ」
「そう言わないでよ。僕だって、カミカワくんとなんて会いたくなかったよ」
「お前に言われたかねーな」
「300年ぶりだね」
「俺は寝てたクチだからな。ハコブネん中でお別れしてのがついさっき、って感じなん
だがな……300年なんだよな」
「うん。300年だ」
「馬鹿みてーだな」
「うん」
 シンジはボンネットから降りて、俺に近づいてくる。そんで数歩先で立ち止まる。シ
ンジの顔色は悪い。まるで死人みたい。土気色で、目は血走ってる。
「調子悪そうだな」
「まあね。なんたって300年間寝てないからね」
「ひでーな」
「仕方ないさ、自分で選んだんだもん」
「それで、色々聞きたいことはある。山ほどある。でも、とにかくだ、まずは、サヨリ
だ。あいつどうしてる?」
 シンジは力なく笑う。
「こっちに向かってる。もうすぐ到着するよ」
「そうか」
「そう。だから、まずはバリアの解除だね。カミカワくんもそれが目的なんだろう?」
「まあな。そうしないといけないってアリサワが言ってたしな」
「アリサワさん……か」
「まあ、怪しいとこだけどな」
「うん」
「さあ、行こうぜ。案内しろよ」
「そうだね。行きながら話そう」
 俺とシンジは車に乗り込む。
「どっち行けばいい?」
「左」
「オーケー」

 4

 進んでも相変わらずの草原。そんでなだらかな丘陵を登ってく。なんだか、少し、わ
かってきた気がする。どこへ向かってんのかが。
「なぁ、なんで俺だけバリアの中に入れるんだ?」
 俺は窓を閉める。シンジは虚ろな目でフロントガラスの先を見つめてる。
「このバリアはね、ヒトしか通れないんだ。それで、この世界ではカミカワくんだけが
ヒトだから……とは言っても半分なんだけどね。ハコブネとの」
「この世界にヒトはいないってのかよ。お前とか、サヨリとかどうなんだよ」
「僕もサヨリさんも違うんだ。それに他のみんなもね」
「おかしな世界だ。それじゃ俺はこの世界たった1人のヒトってことか」
「そうなるね」
「なんだか、ゾッとしないね。反吐が出る」
 シンジは何も言わない。言いたいけど言えない、って感じ。奴なりに何かを抱えてん
だろうってのはわかる。でも、俺はそんなシンジに何も言ってやらない。優しい言葉な
んて、くだらねえ。俺の軽さはそんなとこには向かわない。

 目的地が見えてくる。あ~やっぱり、ってなもんで、懐かしい村が見えてくる。
「やっぱりここか」
「ここだよね」
「懐かしいもんだ」
 俺が、俺たちがつかの間の平和を味わったところ。時が止まったみてーなところ。名
も知らぬ村。俺は、久方ぶりの――300年!――村を見て、少し感動してた。なんだ
か、あ~俺はすげー遠くにきたんだなぁ、って気がする。今なら真面目に授業受けるか
なぁとか、大事なあの子をもっと大切にしてやれたのになぁとか、将来を色々考えたり
したのになぁ、とか……歳を取ったのわけでもないのに、俺は大人になった気分になる。
昔を振り返って、現実的な物の見方ができるようになってて後悔したりって……俺らし
くない。過去は過去。ああいうこともあって、ああ面白かった。さて、これからどこへ
行こうかしらん、なんて、ぴょんぴょん飛び跳ねとけばいい。
「こっち、って言わなくてもわかってるか」
「まあね」
 物思いに耽ってる俺に、シンジの言葉は心地良い。ああ、そうだな。こいつも一緒に
福神から逃げたんだ。
 俺とシンジは車を降り、家を目指して歩く。

 5

 家の感じは少し変わってた。誰かが住んでたような、そんな感じ。居間や台所は以前
よりぼろくなってるし――当たり前なんだけど――畳は擦れてるし、柱には傷がついて
る。
 俺とシンジは、しばし感慨に耽る。
「お前、300年の間、ここに来たことあった?」
「いや、来てはいない。でも観てはいた」
「なんじゃそら」
「こっち」
 シンジは俺の質問を無視して奥へ進む。ついた先は風呂場。ただの風呂場。あの頃よ
りは使い込まれてる感じ。風呂桶は蓋がされていて、その上にトランプがすべて表の面
になって撒かれている。
「簡単さ、この中から正解を1枚選ぶだけ。それでバリアは解除される」
「なるほど。でもヒントもなしにこれはきついな」
「しかも、間違ったカードに触れたら、そこで終了。バリアは2度と解けない」
「最悪だな」
「うん。でも、そのために僕がいるんだから」
「正解を知ってるってこと?」
「多分、ね」
「そんならお前が解除すればよかったじゃねえか」
「僕にはできないんだ。これもヒトにしか触れない」
「これを作った奴は相当な暇人なんじゃねえか」
「いや、時間はなかったはずだよ」
「ああ、そうかい。それで、正解は?」
「ダイヤの8」 
「その心は?」
「待ち人来る」
「信じるぞ」
 俺はダイヤの8を取る。その瞬間、他のすべてのトランプが燃え尽き、鼓膜が破ける
かってくらい甲高い機械音が長く響いた。1分ほど鳴り響いた音は耳の奥に余韻を残し
て消え、あとは静寂。俺の手の中にはダイヤの8。

 待ち人来る、か。悪くない。うん、悪くないな。






 続く




     


  2 シンジ/母校


 1

 トランプを手に、カミカワくんは呆然としてる。たぶん、意味とか、これから何が起
こるとかはまったくわかってないし、考えてもいないだろうけど、何かを感じてるんだ
と思う。
 カミカワくんは、変わってない。全然。あの頃のまま。ずっと寝てたからだろう。で
も僕は変わった。300年間起きっぱなしだったから。観たくないものを――それでも
ずっと観ていたかったもの――を観続けてきたせいなのかもしれないし、300年のう
ちに、僕が少し成長したからなのかもしれない。でも、ずっと変わらないでいれるんな
ら、その方が良かったと、時々思うことがある。僕は、別に、下らない根暗の洋楽好き
のままでも良かったんだ……
「カミカワくん、これでバリアは解除された。さぁ、行こうか」
 カミカワくんはダイヤの8から目を離してこちらを見る。
「さあ、どうすりゃいい?アリサワのとこにでも戻るか」
「いや、これからに備えるために、一緒にきてよ」
「これから?」
「うん」
 そう言って、すぐに僕の体に激痛が走り、そのうえ吐き気がして、思い切り、血を吐
き出す。うん、もう、なんだか、いろいろ限界なんだと思う。自分でもわかってる。そ
んな俺を見てカミカワくんは笑う。慰めたり、励ましたり、心配したり、じゃなく。
「シンジ。そういうの、なかなかサマになってるぞ」
 そう言ってくずおれた僕の体を、カミカワくんは起こしてくれる。
「行くんだろう?」
「うん」
「最初のとこへか」
「うん」

 2

 家の外に出ると、カミカワくんは大声を上げる。
「うわ、風呂の後ろに変なもんが建ってるじゃねえか。なんだこれ」
 カミカワくんは家の真後ろに建ってる、正方形の建物を指さす。
「気づかなかったな」
「まぁ、気にしないで。カミカワくんの言うアリサワって人の目的はここだろうけど、
僕らの目的はここじゃない」
「でもなぁ、気になるだろ」
「まぁまぁ、時間がないから急ごう。バリアが解けて、色んな人たちが入り込み始めて
るから」
「お、おう」

 僕らはまたジープに乗る。来た道を戻り、分かれ道にたどり着く。
「今度は右だよ」
「オーケー」
 ジープは右の道へ進む。草原が続く。なんかさぁ、とカミカワくんは言う。
「悪夢っつーか、シュールっつーか、福神もへんてこなとこになったな」
「森林、草原ときて、分かれ道、だもんね」
「夢に見そう」
「僕は、もう、夢すらみないけどね」
「どういことだよ」
「知ってる?僕はロックをやりたかったんだ」
「バンド組んで?」
「そうそう、そんで、世界ツアーとかしちゃって、CD馬鹿売れで……そんなことを考
えてた」
「今は?」
「別のことを考えてる」
「何を?」
「言わない」
「けっ」
 カミカワくんはアクセルを強く踏む。一瞬タイヤが空すべりして、反動をつけて勢い
よく進む。

 3

 どこかしこがきしむ、体の中が外側に突き出してきそう、目の前がチラついてる、頭
の中はがんがんしてて、どうにもまいっちゃいそうで情けないほどなのに、僕は諦めて
ない。
 前の婆さんから役目を引き継いで、なんとかここまでやってきた。神の目になり休ま
ずすべてを観てきた。地獄だった。目の前でサヨリさんが死のうとしてるのを観ながら
自分にむかついたり、やっぱり死ねずに、あはは、と泣き笑いして歩き出す彼女の背中
を観ながら泣いちゃったり……世界がどんどん悪い方向に流れていって、意味もなく人
が死んでいって……
 チャンスはあるんだ、と言い聞かせて僕は事を始めた。『神話篇』を書いたことがそ
の初め。直接干渉はできないから、ヒントだけでも、きっかけでも、と思って。人は偶
然には集まってくれない。だから、僕は必然的に必要な人たちが集まるようにした。物
語とは偶然の集積ではなく、必然の強引な掻き集め。当然、体は蝕まれ始める。でも、
僕は役目を引き継ぐわけにはいかない。ここで舞台から降りるわけにはいかない。カー
テンコールまで、僕はこの舞台に立ち続けなければならない。
 骨の折れる工作も、すべてはキョウジくんとサヨリさんのため。つくづく思う、僕は
脇役だ。

 そして、ここまで来た。ここまで来れた。首尾は上々。カミカワくんは運転しながら
鼻歌。目指すははじまりの地。

 4

 カミカワくんと僕の母校。福神高校。時にも侵されず、その姿をいまも保ってる。カ
ミカワは口笛を鳴らす。
「あの時のまんまだ」
 車を降りて、正門についてる『県立福神高校』という文字を撫で回す。
「懐かしいわな。ああ、そうだな、ここから始まったんだなぁ」
「うん」
 僕らは靴箱を通って中に入る。土足厳禁の張り紙が笑える、とカミカワくんは言う。
「誰も守ってなかったよな」
「うんうん」
 廊下には血の痕が残っている。ここでたくさんの人が殺された。
「こんなのまで残ってんだな」
「律儀だよね」
 死体がないのが幸いってところ。僕らは、僕らの教室へ向かう。見覚えのある廊下。
見覚えのある窓。はじまりの地ははじまりの時と変わらない姿。ほっとするような、見
たくないような……

 5

 僕とカミカワくんは教室のドアの前に立つ。
「う~ん、もしかして中に担任の禿げ爺がいたりしない?」
「しないよ」
「そんで、遅刻は許さ~んとかって怒鳴ったりしない?」
「しない」
「クラスのみんなから、またかよって目で見られて、そのままへらへらしながら椅子に
座って、あ、教科書忘れた、なんて……」
「カミカワくん教科書持って帰ったことなんてないでしょ?」
「馬鹿のケンジがこそこそエロ本読んでたり、イトウが騒いでたり、ハタノやサノが優
等生面してたり、女子どもが影口たたいてたり、とかしない?」
「しないね」
「これが全部夢だったら、とか、あるかもよ」
「夢オチなんて流行らないよ」
「……冗談だよ」
「……知ってる」
 カミカワくんは、つまんねえ奴、と悪態をついて、ドアを開ける。

「よう、カミカワ」

 僕はカミカワくんの背中越しにキョウジくんの明るい声を聞く。カミカワくんは一瞬
立ち止まって、そして教室に入っていく。まるで遅刻してきた間抜けみたいに。

「てめーの胡散臭い顔なんて見たくねえよ、キョウジ」

 僕は、カミカワくんに続いて中に入る。キョウジくんは机を三つ並べて、お釈迦様よ
ろしく寝そべってる。やれやれ、と僕はため息をついて、後ろ手でドアを閉める。






 続く




     


  3 サヨリ/思い出


 1

 シベリア鉄道の終点で降りると――前はここが始点だった――運よくまだ動かせるジ
ープがあったから、そのまま出発。びゅーんと飛ばして、はい、日本。
 う~ん、少し、緊張。ここまで来てキョウジくんがいなかったら、なんて、弱気。ま
ぁここまで来たしせっかくだから寄ってみよう、という勢いに任せて日本へ入る。見覚
えのない森林――そういえば海がなかったな――を進む。しばらく進んで、気づく。

 あぁ、ここ、福神だ。ああ、わかった。わかったよ、キョウジくん。

「なぁ、サヨリ、ここが日本なのか?自然がたくさんあるじゃん。すげー」
 助手席のヨウジはのん気に風景を楽しんでる。
「日本、というか、福神、という地方よ」
「へ~え」
 興味がなさそうにヨウジが返事をする。
「わたしの故郷よ」
「あ、そうなの」
 ヨウジは窓の外から視線をわたしへ向ける。純粋に驚いてる顔。
「お前に故郷なんてあったんだな」
「うん」
 そしてジープは森を抜ける。

 2

 笑い、喜び、悲しみ、怒り、願い、欲望……全てが頭の中をぐるぐるまわってる。懐
かしさ!あぁ、懐かしき故郷!ここで育ち、ここを離れ、もう300年以上経ってる。
小さい頃、わたしにとって、福神が世界のすべてだった。この世界の外へ出ることがわ
たしの夢だった。それでも外に出てしまうと、すぐにまた新しい世界が現れて、わたし
はさらにその外へ出て行きたいと願う。
 青春!恋もせず、部活もしていなかった、わたしの青春!高校生とは青春そのもの。
わたしはまだ高校生なのに、青春はずっと前に終わってしまった気がする。わたしはた
くさんの人を殺した。生き延びるため、逃げ延びるため……それでもわたしはまだ生き
ていけることに、遠くへいける可能性があることに、すがってる。恥知らずな生き方。
『恥の多い生涯を送ってきました』と言った男の気持ちが、今なら少しわかる気がする。

 森林の次は草原。福神にこんなところあったかしら、と頭を捻りながらも、進むべき
道がなんとなくわかってる。不思議なもので、故郷での方向感覚は一生鈍らないもの。

 はじまりの場所!わたしたちのはじまり……わかってるよ、もうわかってるんだ。

 ハンドルをじぐざぐに切るとヨウジが助手席で跳ねる。
「あぶねーだろ!」
 怒ってるってよりは笑ってる。へこんでたヨウジもだいぶ持ち直したみたい。シベリ
ア鉄道で気持ちの整理をつけたのかもしれない。覚悟したのかしら?でも何を?

 3

 シベリア鉄道の中で、ヨウジから聞いた話は、わたしを驚かせ、喜ばせた、でも同時
に不安にもした。アリサワさんの不可解な行動、議事塔で会ったという男、40年しか
生きられない人々、『神話篇』……
 わたしが歩き続けているあいだに、色んなことがあったみたいだ。わたしの与り知ら
ぬところで、世界は確かに動いていた。もう誰も、何もないと思っていたのに……

 わかってる、わかってる。もう、全部、わかってる。キョウジくん、あなたがそこに
いることを、わたしは痛いほど感じてる。

 わたしとあなたを遮っていた壁が消えたんだなって思う。

 さて、最初にあなたはなんて言うだろう。わたしはなんと言うだろう……

 車は進む。はしゃいでいたヨウジが黙ってる。
「どしたの?」
「いや、なんだか怖くなってきた」
「いまさら」
「だよな」
「覚悟……決めたんでしょ?」
「……うん」

 そして、懐かしの校舎が――あの頃と変わらない!――見えてくる。

 4

「ここがお前の学校?なんか、古臭いな」
「まぁね。でも、味があるでしょ?」
 わたしたちは車を校門の前に停める。もう1台ジープが停まってる。同じタイプのだ。
誰かが先にここに来てるんだろう。アリサワさんたちだろうか?それともヨウジの友達
連中だろうか?
 校門をくぐると、なんだか、昔に戻った気がする。ぶかぶかの制服も、高校の制服に
見えてきて、提げているハチキュウは革カバンの重み。眠い目をこすりながら、数学の
小テストのことを考えて憂鬱になったり、お昼ご飯までの時間の長さに絶望したり、髪
型がうまく決まってないのを気にしたり……
 でも、実際はそんなこと、ない。髪はぼさぼさだし、提げてるのはたくさん人を殺し
た銃だし、格好は着古した制服だし……

 靴箱を過ぎると、懐かしい廊下のワックスの匂い。薄暗い。土足厳禁の張り紙。

 あぁ、わたしは帰ってきたんだなぁ。なんだか、ここを出発したのが昨日のことみた
いだ。

 廊下に残る血痕。ヨウジは怯えてる。
「なんだよ、殺人鬼でもいるのかよ?」
「違うわよ。戦争が始まったときの名残よ」
「なんだよ、それ」
 ヨウジをほっといて、進む。目指すは教室……その前に……わたしはトイレに駆け込
む。
「おい、サヨリ、小便か?」
 ヨウジは中に入れずに、待ちぼうけ。わたしはトイレの鏡の前に立ち、蛇口をひねる。
……水が出た!まずは顔を洗う。そして……

 5

「なぁ、何やってんだよ」
 わたしは跳ねてる髪に水をつけてならす。ぼさぼさの髪に指を通す。
「ねえ、櫛持ってない?」
「ねえよ」
 すっぴんであることはどうにもならない。ファンデも何もない。血色の悪い頬と鼻上
のそばかすを指でつねったり引っ張ったりする。
「ここで高校生やってたんだろ?」
「そうよ」
「どんな感じだったの?」
「普通よ。勉強して友達を遊んで……誰だってやるでしょ?」
「まあね」
 あーっ、もう!眉毛が薄いのが嫌だ!せめて眉くらい描きたい!かといって鉛筆で描
いたりはできないし……
「俺達の学校ってさ、つまんなかったんだ。何にもなかったし。だからヤクやったりし
て、誤魔化したりして」
「ふ~ん」
「でもさ、キリコさんがいてさ。ちょっと楽しくなってきたんだ。やっぱり好きだと思
うし、何かしてあげたい。長く生きて欲しいし、思う存分好きなことをして欲しいって
思う」
「うん」
「だからさ、俺、頑張るよ。死んでも頑張る」
「それはキリコさんって人に言いなさいよ」
「わかってるよ、ちょっと言ってみただけだろ」
 薄い唇がなんだか頼りない。リップくらいあればなぁ。わたしは小指で唇をなぞる。
強くなぞると少しだけ血色が良くなる。
「まだかよ」
「女の準備は長いのよ」
 わたしは手を水で濡らして、髪の毛を撫で付ける。そして大きく口を開けて、顔の筋
肉をほぐして、笑ってみる。

 さて、行くか。








 続く




     


  4 イエス/目的


 1

「バリアは?」
 キリコの奴が助手席の窓から顔を出して前方を見る。
「誰かが解除したんだ」
 俺はアクセルを踏み込む。時間がない。手遅れにならないうちに……
「アリサワたちはたぶん、先に中に入ってる!」
 俺は遮二無二森林に突っ込む。
「飛ばしすぎじゃないっすか?」
 後部座席でユウが叫ぶ。ノアとユキと3人が後部座席ではねてる。
 飛ばす?飛ばすさ!焦ってんだよ!後ろのあれが見えねえのか!?

 …………

 過去に日本と呼ばれた地が見えた頃、俺達のジープに大きな影がかかった。雲か?と
空を見ると、そこにはハコブネ。空飛ぶ町がゆっくりと日本へ向かって進んでた。その
うえ、感じたことのある悪意をびんびんに感じる。キリコ以外はそれを感じたみたいで、
みんな青い顔になった。
「なんすか、これ。吐きそう」
 ユウはハコブネを見上げながら顔をしかめる。ユキは口元に手をあてて吐くのをこら
えてる。
「みんなどうしたの?」
「キリコさん、これ感じないんですか?悪意っつーのかわからないっすけど、すごいん
だ」
「感じないけど」
 きょとんとした顔のキリコ。俺はアクセルを踏み込む。急発進。急がなくてはならな
い。先にはあいつ、後ろにはシミズ……

 2

 森林を突っ切って草原へ出た。とにかくアクセルはベタ踏みのまんま。ハコブネは、
そんな俺達をあざ笑うかのように、距離をつめてくる。日本の境界線まであと僅かのと
ころまできてる。高度が落ちてきてる。ここに着陸する気だろう。
「CGの連中もここを狙ってんだ……」
 ユウが怒鳴る。
「旅人を狙ってるのかしら?」
 キリコは真剣な顔で、近づいてい来るハコブネを睨んでる。
「たぶんな」

 目の前に分かれ道。さて、どっちだ。スピードは落とせない。どっちへ……判断は迅
速でなければならない。判断力の鈍いやつは、すぐに死ぬ……
「右よ」
 ノアが独り言のように言う。俺はとっさにハンドルを右に切る。

 右、か。さて、どうなることやら……

 3

 俺を除くほかのみんなは廃墟群に興味津々。
「片っ端から調査したいわね」
 キリコは、うんうん、と肯きながら窓の外を眺めてる。
「そんな暇はない」
 俺は冷たく言い放つ。キリコは口をとがらせる。
「わかってるわよ!」
 ここはきっと、福神だ。あいつらの故郷だ。そして、あいつらのはじまりの地。それ
は、きっと……
 目の前に古ぼけた高校が見えてくる。校門には2台のジープ。ここに、あいつらはい
る……

 車を降りて、俺達は校門をくぐる。
「これなんて読むの?前の時代の文字?イエス、あんた読める?」
 キリコは校門にかかってる校名の看板を撫で回してる。
「福神高校」
「あ、そういうんだ」
 キリコは、ふむふむ、と肯いて、持っていたノートに校名を模写する。
「行くぞ」
 俺は4人を置いて、靴箱へ入っていく。
「あ、待ちなさいよ」

 4

 校舎の中は惨劇の後のように、そこいらに血痕が残ってた。ここから奴らは逃げ出し
たんだ。
「彼らはこの先の教室にいるわ」
 いつの間にか俺の隣りを歩いてたノアが言う。ノアは俺を見るとにっこりと微笑む。
得体の知れない女だ、と俺は思う。
 いつ頃からか、アリサワの世話をするようになった女。アリサワが言うには、従順な
信者ってことらしい。神秘的な感じがする女だ、と俺が奴に言うと、乙女とは元来そう
いう生き物だ、と言った。
 村の者たちに聞いても、一緒に出てきた覚えはないと言うし、本人に聞いても、微笑
むだけで何も言わない。CGのスパイなんじゃねえか、と思ったこともあったが、そん
な様子は見せずに、ただ、アリサワの世話をしていた。アリサワ自身はノアに何の注意
もしていなかった。ただのメイド、くらいしにか思っていない様子。
 だが、ここにきて、俺はこの女を怪しむようになってる。前の世界にはこんな奴はい
なかったし、仮に転生組――俺と一緒で――だとしても、当てはまるような奴はいない。

「会うのは楽しみ?」
 ノアは前を見ながら言う。
「サヨリにか?」
「そう」
「どうかな」
 俺は頭を掻く。実際、会ってどうするんだろうって気はする。俺の目的はアリサワの
邪魔をすること。それだけ。サヨリに会うことじゃない。でも……それはサヨリのため
にやることだから……でも会ったらなんて言う。何を言えばいい。だって、俺は、こん
な姿だし……物語を、サヨリの物語を……

 5

 名前を取り戻そう、と俺は教室の扉に手をかけて、思う。この体にイエスという名を
与えた女のためにも……何より、俺自身のために!
 俺はサヨリの結末を知るために、もう1度この世界へ帰ってきたんだ。
 〈大きな音の神〉の邪魔をして、そんで、シミズの悪意を止める!
 てめーのケツはてめーで拭く。
 今度こそ……
 イエスと俺の望みを果たす。くだらない薄汚れた繰り返しを止める……
 
「シミズ……俺もようやく野心ってやつを持ったよ」

 そう呟いて俺はドアを開ける。









 続く




     


  5 アリサワ/求めるもの


 1

「うまくやってくれたみたいだな」
 境界を越えて、日本へ、福神へ足を踏み入れる。
「彼を待たないんですか?」
「いや、帰ってはこないよ」
 私が進むと、ハツは距離をあけて付いてくる。きっと恐れているのだろう、得体の知れ
なさに怯えているのだろう……

 だが、しかし、すべては順調。幾つかのイレギュラーはあったとしても、概ね、予測ど
おりの展開。旅人は揃う。4賢者の因子はバラバラ。原初の悪意の力をうまく利用すれば、
旅人の機能をそのまま奪うことも可能。そして、神への道は用意されている。
 旅人は死なない。死ねない。だが、ヒトの器を持つ限り、生体機能の低下によって、睡
眠状態になり――それは旅人のセーフティ機能――引継ぎか器の回復を待つことになる。
引継ぎの際にのみ、旅人の機能の本体である、純粋な〈言葉〉が露出する。切り出したば
かりのような〈言葉〉……従わせるのが難しいのであれば、それを、手に入れればいい。
あとは適当なものに強引に埋め込めばいい。コウイチロウとノア、2人が適任だろう。

 神よ、もうすぐだ。お前の首は私がとる。神というシステムの刷新はなされる。

 2

「アリサワさん、これから何をするんですか?」
「世界を救うんだよ」
「救うって、具体的にどういうものなんですか?」
「世界をやり直す。この世界は歪だ。不完全だ。それをやり直す。今度の洪水こそが、私
が起こす洪水こそが、世界の正しい浄化と再生」
「この世界なくなっちゃうんですか?」
「良き人々は生き残れる」
 後ろから聞こえていた足音が止まる。私が振り返ると、ハツは俯いていた。
「みんな、いなくなっちゃうんですか?」
「君はいなくならない。選ばれたものだからね」
「みんなに、会いたい、です」
「会えるさ。次の世界でね」
 なんとも面倒なものだ、年頃の女とは。カミカワを目覚めさせるためとはいえ、なんと
厄介なものを引き込んだものだ。だが、まだ利用価値はある。いわば、保険。すべてが終
われば用済み。折を見て、殺せばいい。
「さ、行こう。役者も揃ったことだし」
 わたしは空を見上げる。ゆっくりと大空を進む、それ。原初の悪意が作り出した、ハコ
ブネ。醜悪な姿。ヒトが自ら背負った業の形。滅びゆく世界の象徴。
「これから、どうなるんですか?」
「戦争、だよ」
 私はにっこりと笑う。荒野に砂煙を巻き上げるジープの集団が、視界に入る。新生教団
のお出まし。生け贄の登場。彼らすべての命を持って、私が世界を救う。

 3

 私たちは村へ到着する。信徒たちに指示をくだし、村をベースキャンプとする手はずを
整える。私とハツは1軒の民家の縁側に腰を落ち着ける。
「ここはね、昔、旅人たちが一時期暮らした家なんだ。ほら、どことなく、落ち着くだろ
う?君はここにいるがいい。事が済むまでね」
 何か言いたそうなハツ。私は立ち上がり、彼女の手をとる。
「いいものを見せよう。なぜ、私がこの村に来たのか、というね」

 家の裏手に建つ、正方形の建物。ここの存在を知りながらも、これまで来ることができ
なかった場所。
「さ、行こう」
 入口のドアを開けると、地下への階段。階段を降りると、埃臭い、研究所。
「ここはね、ハツ。ある1つの想いによって作られた場所なんだ。サヨリという少女のへ
のね。ここを作ったものは彼女の幸せを願った。知ってはいけないことを知り、醜く足掻
こうと望んだものたち……」
 部屋の奥には扉。そのすぐ傍に机が2つ並んでいる。右側の机の上には1冊の本。私は
それを手に取る。中身を確認し、それが求めていた書物であることを知る。『神話篇』の
完全版。「イエスからの手紙」と「フクロウ書」が載っている。
「さて、ハツ。見せたいものはこの扉の先だ」
 私は書物を小脇に抱え、ハツを扉の前に呼び寄せる。ハツの両肩に手を置くと彼女が震
えているのがわかる。私は微笑んで、扉を開ける。
「サヨリの幸せを願ったものからの、彼女への贈り物だよ」
 ハツの震えが止まるのが、わかる。

 4

 それは巨大な舟。ハツにはそれが舟であることすらわからないかもしれないが、私には
わかる。それは空の遥か上、宇宙を翔るための舟。
「これ……」
 ハツは舟を指さす。
「教団施設にあったものと似てる」
「そうだよ。目的は一緒さ。空の先に出るためのもの。だが、これがあってはいけないん
だ。旅人に与えてはいけないものだ。神の前に立つのは、私だけでいい」
 私は舟に近づく。流線型に形作られた舟。2基のエンジンを搭載している。白色のボデ
ィは時間の流れの中で埃で汚れている。乗降口は開いたまま。

 無用なものだ。あってはならない。神への道は、私だけのものだ。

「旅人はすでに再会している。だが、道はここで途切れる」
 わたしは乗降口に用意していた時限爆弾をセットし、乗降口を閉じる。
「さ、ハツ、出よう。ここは危険だ」
「壊すんですか?」
「そうだよ」
「幸せを願って作られたんでしょう?」
「そうだろうね」
「それなのに……」
「いいかい、ハツ」
 私はハツの正面に立ち、両肩を掴む。鼻先まで顔を近づける。
「幸せなんて、ただの、言葉だ」
 ハツを睨みつける。ハツは目を逸らす。
 
 ヒトの出来損ないめが!

 私はハツの肩から手を離し、微笑む。ハツは私の目を見ない。
 「さ、出よう」
 
 5

 建物を出てすぐに、地下から爆発音。小さきヒトにより作られた願いの結晶は爆砕した。
すべては順調。これで旅人はこの世界に留まり続けることになる。世界は拡がらない!
 家に戻ると、信徒が駆け寄ってくる。
「準備は整いました。奴らも草原に居を構えたようです」
「そうか、わかった」
 信徒は敬礼をすると、持ち場へ戻っていく。
「戦争ですか」
「そうだ」
 そうですか、と小さな声で、ハツは言う。
 私とハツは縁側に腰を下ろす。ハツは靴を脱いで、足をぶらぶらさせている。信徒たち
の声、準備の音、喧騒。一瞬、音が消える。

「久しぶりだね」

 その声に思わず笑みが出る。わたしは後ろを向く。1人の少年が畳の上に立っている。
「シンジか。覗き屋め。どれくらいぶりかな」
「たぶん200年は経ってるよ」
 ハツは2人のやり取りを黙って見つめている。
「ここまでは私とお前の計画通りだな」
「そうだね。それに、あんたは約束どおり、本も手に入れたみたいだ」
「すべてを知らなければならない。フクロウのことも、私が作り出したはずのイエスのこ
とも」
「怖いんだね」
「怖くなどないさ」
「全部わかってないと、怖いんだ」
「……何が言いたい?」
「さて、ね。それと、舟の爆破は聞いてなかったけど」
「約束は果たしたはずだ、それ以降は互いに自由だろう。まぁ、そうは言ってもお前にそ
れほどの時間があるとは思えないけどね。間接干渉で体はぼろぼろなんだろう?そろそろ
無がお前を捕まえにくるんじゃないのか?」
「ふん……ねえ、ハツさん。あなたの友達や先生は学校にいるよ。みんな君を待ってる」
 シンジの言葉に、ハツは動揺を隠せない。下唇を噛み、俯く。
「シンジ、お前も約束違反だな」
「舟を爆破したお返しだよ」
 シンジはそう言って、背を向ける。
「うわべだけアリサワさんの姿を手に入れても、やっぱり中身は別もんだね。〈大きな音
の神〉さん。とにかく、これからが本番。キョウジくんたちは必ずやってくれる。あんた
や、シミズさんを乗り越えていく」
「くだらない。これからは私も直接行動に出る。旅人の願いは叶わない。それに、お前に
何ができる」
「やるんだよ。できなくてもいいから、やるんだ。それと、その本、ちゃんと読んだほう
がいいよ」
 そう言って、シンジは家の奥に消えていった。ハツはずっと俯いている。わたしは本を
開く。ページを飛ばし、「フクロウ書」を読み始める。

 ……

 「フクロウ書」と「イエスからの手紙」だけを読み、他の欠落部分は読まずに、わたし
は怒りのあまり、本を引き裂く。

 許せない。絶対に許せない。裏切り、裏切りだ……

 ハツが驚いてこちらを見ている。 

 見るな。そんな目で私を見るな!

 私はハツの頬を手の甲で殴る。

 だが、いいさ。この程度のイレギュラーなど毛ほどの障害にもならない。何があろうと
私は正しいのだ!






 続く




     


  6 キョウジ/天気の良い日


 1

「よう、カミカワ」
「てめーの胡散臭い顔なんて見たくねえよ、キョウジ」
 これが俺とカミカワの300年ぶりの会話。我ながら格好のつかない感じ。

 色んな奴が教室にやってきた。懐かしい顔や新しい顔。こいつら全員が俺に会いに来た
というんだから、驚くというより、笑える。こんな奴でごめんなさいね、がっかりしたで
しょ~、なんて新顔に言ってやりたい。
 シンジは用事があるって言って出て行った。おかげでなんだか教室はきまずい雰囲気。
サヨリと一緒にやってきたヨウジってやつと、後からきたキリコ、ユウ、ユキってのが仲
良く話し合ってる――最初に青春劇をやってたけど――みたいだけど、カミカワは欠伸し
ながら壁際でごろ寝してるし、サヨリは俺から離れたところで、体育座りしてる、そして
あの人――

「よう、キョウジ」
 最初の言葉でわかった。ばしっときた。姿は違ってても全然変わってないってのがわか
った。アリサワさんだ。
「アリサワさん、なんでそんな姿なんすか?」
 俺が突っ込むとアリサワさんは爆笑。腹抱えて笑ってた。サヨリの奴も気づいてたみた
いで、アリサワさんイエスって人とそっくりですよ――なんだ、そのイエスってやつ、俺
は知らないぞ!――なんて言ってた。アリサワって名前に新顔たちはやたら反応してて、
アリサワさんを質問攻めにしてた。どうやらアリサワさんがもう1人いるらしい。んなわ
けあるかって思うけど、当のアリサワさん本人がいるっていうんだから、間違いないんだ
ろう。

 ……う~ん……俺は頭をぼりぼりと掻く――別に痒くもないんだが――カミカワとアリ
サワさんは気にしてるみたいで、ちらちら俺とサヨリを交互に見てる……まったくやりづ
らい。こういうのは、慣れてない。

 サヨリが教室に入ってきた時、俺は何も言えなかった。ただ、おう、としか言えなかっ
た。それはサヨリも一緒みたいで、うん、としか言わなかった。たぶん、照れてた。それ
に、なんだか気まずかった。
 300年!年月ってやつ!サヨリは俺が見ていないものを見てきた。俺が望んだとおり、
俺のいない日々を見てきた。ずっと、死ねない体で!俺はお前と一緒に歩きたい、歩いて
いきたい!それは変わってない。あの時死ぬほど後悔したから!それなのに、用意してた
言葉も、なんだか馬鹿みたいで、言えないでいる。

 2

 そんなこんなで、くさくさしてるとシンジがひょっこり帰ってきた。どこ行ってたんだ
って質問しても、笑って答えない。
「それより、屋上へ行こう。みんな、屋上に上がろう。見せたいものがある」
 でかい声を出したシンジに、教室にいる連中は注目する。キリコって女が、あんたには
聞きたいことがたくさんあるのよ、ってでかい声出したけど、シンジは譲らなかった。と
にかく屋上に俺達を連れて行きたいみたいだ。
「まぁまぁ、姉さん。とにかくこいつの言うこと聞いてみましょう。なんだかんだで、こ
いつが、事情に1番詳しいみたいだしさ」
 俺がなだめると、キリコはなんかぶつぶつ言いながら黙った。そんで、俺達は屋上へ上
がることになった。

 屋上の手摺を掴み、シンジは指さす。つっても、シンジが言う前から、みんなはそいつ
を見ていた。でかい岩の塊。上部にはドームがある。シンジはそいつのことをハコブネと
呼んだ。みんな草原に目がいって、ほかへ注意が向いてない。俺だけはシンジがここに連
れてきた理由を悟る。なんてこった……
「町出身の人たちはわかると思うけど、CGたちがここまでやってきた。そしてここから
は見えないけど、あっちには村がある」
 そう言ってハコブネと学校を結んだ三角の頂点を指さす。
「そこには、新生教団が陣を張ってる。教祖もそこにいて、戦いの準備をしている。これ
から福神は戦場になる」
 新顔たちが騒ぐ。俺やカミカワ、サヨリ、アリサワさんなんかは、なるほど、って感じ
で聞いてる。サヨリがハチキュウの銃身をさすってる。
「戦争だなんて、そんな……」
 ユキって女がキリコって女の上着の裾を掴む。びびってんだ。キリコは硬い表情で黙っ
たまま。ユウ、ヨウジって2人の新顔も黙ってる。まぁ、普通そうだろう。誰だって戦争
って言われたらびびる。俺だって、実は、ちょっとびびってる。
「うん、戦争なんだ。だから、こんな時こそ……」
 シンジは手摺から離れ俺の方を見る。
「どうしようか、キョウジくん」
 そうきたか、って俺は思う。

 3

「何で俺に聞くんだよ」
 と俺は言ってみる。
「適任だと思って」
 シンジはそう言って笑う。
「あたしもそう思うわ。この場合ね」
 そう言ってキリコって女が手を挙げる。
「俺も賛成だな」
 アリサワさんが言う。
「仕方ないんじゃねえの。そういうの、やっぱお前だろ」
 カミカワが興味なさそうに言う。
 新顔たちはキリコに従うみてーだ。そしてサヨリ。サヨリはただ、肯いてる。
 
 別に照れくさいわけじゃない。頭だって冴えてるし、俺は運がいいからどうにでもなる
とは思う。でも、こういう状況で、はりきってしまうほど、俺は素直な人間じゃない。自
分がどういう役割かってことを、俺は知ってる。本で読んだし、シンジの話で――婉曲的
な言い回しだったけど――なんとなく察しはついてる。だからこそ、なんとなく、やりづ
らい……

「あなた、世界を救えるの?」
 ユキって女がおそるおそる言う。俺は大きくため息をつく。

 ……なんか汚い笑いが出そうになってる。女の言った大層なお題目。俺自身知らなかっ
た運命とかそういうの、なんだか全部まとめて笑い飛ばしてやりたくなった。そんなの知
らねえよって唾かけてやりたい。そうなんだ、実際、そういう感じなんだ。だから、俺は
こう言うんだ。

「そんなの知らない。とにかく、逃げるぞ」
 それを聞いて、カミカワ、アリサワさん、シンジが大笑い。サヨリも口に手を当てて笑
ってる。新顔たちはきょとんとした顔。俺を救世主かなんかだと思ってんだろうか?

 4

「そういうこった。とにかくシンジ、状況を」
「うん」
 シンジは嬉しそうに話し始めた。
 現在CG軍は草原を中心に陣を展開中、一方新生教徒たちは村を要塞化してるとのこと。
戦端がひらかれるまで多少の時間はあるらしい。
「両方の目的は?」
 キリコが言う。シンジがそれに答える。
「CGの連中の狙いはキョウジくんとサヨリさん。新生教団もほぼ同じ。互いに最終的な
目的は違ってはいるけど、両方とも2人を欲しがってる」
「もういい、シンジ。喋るな」
 俺はシンジを制止する。
「とにかく、連中はここを狙ってる。早い者勝ち、ってわけさ」
「なるほど、さっさと逃げるに越したことはないわね」
 キリコは勝手に納得してる。違うっつーの。
「最終的な目的は逃げることだ。だけど、今動いたら駄目。逃げ切れない。みんな死ぬ。
連中は俺達たちが福神高校から動かないことを見込んでの陣取りなんだ」
 みんな黙ってる。俺の言葉の意味がわかってないらしい。そりゃそうだ。
「動かないんじゃなくて、動けないんだ。連中はこれまでここに入ってくることができな
かった。だからこそ、この付近はよくよく調査してるってわけだよ。たぶん、みんな西か
ら陸づたいでここまで来たんだろう。見ろよ、あの馬鹿でかい岩の塊ばっかり見てんじゃ
ねえよ。ほら」
 俺は学校の裏に広がる海を指さす。学校から100メートル先まで草原、そして崖。そ
の向こうは海。崖の縁の伸び方から、福神は円形にバリアを張られてたってことがわかる。
みんなの絶望した顔。逃げ道は前にしかない。しかも奴らがドンパチやってる草原を通ら
なきゃならない。これを絶望と言わず、なんと言う。
「だからさ、じっくり腰をすえよう。逃げるために、逃げ切るために。策はあるから心配
すんな……つってもこれから考えるんだけどね」
 あはは、と笑っても誰も笑わない。まぁ、無理もない。
「しばらくは、こっちにあいつら来ないよ。牽制しあってるからね。この時間を有効に使
うんだ。情報を集めて、整理して、最も効果的な方法を選ぼう。大丈夫、死にはしない。
俺は運がいいんだ。良かったなお前ら、運が良い俺と一緒で」
 今日も良い天気だ。俺は雲一つない空を見上げ、そして、いの1番に屋上から降りてく。

 5

 教室に戻ると、ぞろぞろとみんな帰ってくる。新顔たちは死にそうな顔。カミカワは相
変わらずのマイペース。アリサワさんは何やら考え事をしてるみたい。サヨリは、という
と、ハチキュウの手入れ。シンジは教室の隅に座ってぼんやりと天井を見上げてる。

 教室の雰囲気が悪い。これからの策を考えようにも新顔の手を借りないとどうにもなら
ないってのに、話しかけにくい。そうも言ってられないんだが、まぁ、なんというか、少
しほっとくのがいいかもしれない。
「便所いってくら」
 俺は教室を出て便所へ行く。便器に小便を注ぎ込む。手を洗いながら、鏡で自分の顔を
見る。間抜けな顔だなって思う。そして、どうしてケンジはいないんだろうなって思う。
心細いってのが正直なところ。あいつがいればなぁ、なんて阿呆みたいなこと考えてはみ
ても、どうにもならない。
 はぁ、とため息をついて、便所を出る。

「あ」
「あ」

 サヨリが向こうから歩いてくる。互いに目があって、黙ってしまう。何か言わないとっ
て考えれば考えるほど、舌は重くなる。
 あ~、とか、ん~、とか頭掻いたり、窓の外見たりして……そして俺は腹を決める。口
を開く。

「あの、俺さ……」
「もう1度会ったら言ってやろうって考えてて、だからたくさん言いたいことがあるのに、
全然、言葉が浮かんでこなくて、それに、ほら、こんなぼさぼさの髪だし、化粧もしてな
いし、300年も歩き続けてきたから、なんていうか、キョウジくんより歳をとってるの
かなぁ、って……」
 
 なんだか、無性に、自分の頭をぶん殴ってやりたくなる。俺はつくづくヘタレだ。
 
 俺はサヨリに近づいて、手を握る。そして言う。

「ごめん、寝過ごして、遅刻した。一緒に逃げよう。死んでも逃げよう」

 サヨリは困ったような顔をする。そして、化粧っ気のない顔に満面の笑みを浮かべ、泣
いた。

 よし、いまだ、抱きしめてやろう……

 そう思ってた矢先に間抜けな声。
「不純異性交遊はっけ~ん」
 見るとカミカワがこっちを指さして笑ってる。その遥か後方から猛烈にダッシュしてく
るシンジ。
 そして、予想してたとおり、シンジはカミカワの背中に思い切りドロップキック。吹っ
飛ぶカミカワ。赤い顔して怒ってるシンジ。俺とサヨリは互いの手を握りながら、カミカ
ワの間抜けな面とシンジの怒った顔を見て、笑い合う。










 続く




     


  7 キリコ/我々はどう生きるか


 1

 あたしたちは戦争に巻き込まれるらしい。聞かされた時は正直びびったけど、今は少し
ずつ落ち着いてきてる。状況も見えてきてる。それは子供達も同じで、最初は取り乱して
たけど、みんな落ち着いて今後のことを考え始めてる。
 あたしたちがまず始めないといけないこと、それはヨウジがこれまで何をしていたのか
ということ。

「アリサワさんに助けられたんだ。いや、イエスさんのことじゃないよ。あのリーダーの
方だ。そしてCGのボス暗殺を命じられた。アリサワさんと同じ制服を着て……あーめん
どうだな。これからあいつのことは教祖と呼ぶよ。とにかくCGのボスは教祖と同じ制服
を着てた。そしてサヨリとも同じ制服。そいつはアリサワさんをひどく憎んでるみたいだ
った。アリサワさんの邪魔をするってさ。そしてハコブネを降りて、サヨリに出会った」
 ヨウジはそれだけ言って、土下座。
「本当にみんな、ごめん。ヤクやってたなんて馬鹿みたいだったよ、俺。もうやってない。
これからもやらない。本当にごめんなさい。ごめんなさい」
 ヨウジの声が床に消えていく。ユウもユキも怒る気なんてこれっぽっちもないみたいで
互いに目配せして、ヨウジの背中を同時に手の平でばちんと叩く。
「痛っ」
「これで勘弁してやるわ」
 ユウがそう言って笑う。ユキも、うんうん、と肯いてる。
 良い子達だな、と思う。若さゆえ……う~んやめとこう、急に老けた気がする。ごほご
ほと咳をする。ヨウジがこっちを見上げてる。その目は、鋭い。

 2

 キョウジとサヨリ、それにシンジとカミカワが教室にいない。廊下が何やら騒がしい。
ノアは窓の外をずっと見ている。アリサワ――いまさらイエスとは呼べない――は教室の
隅でタバコをふかしてる。ユウとユキがヨウジにこれまでのことを話してるのをほっとい
て、あたしはアリサワの隣りに立ってタバコをくわえる。火をつけようとするアリサワの
手を止める。
「タバコは吸わないの」
「そうか」
 アリサワは胸ポケットにライターをしまう。
「あんたも、大変な人生ね」
「どうかな」
「名前も姿も奪われて。それで、あなたはこれからどうするの?」
「キョウジたちに加勢するさ」
「本当の狙いは?」
 う~ん、とアリサワは額を掻く。
「この体の持ち主は、前の世界で、俺が最後に一緒にいた奴なんだ。その男は名前が無か
った。〈大きな音の神〉に作られたって言ってたな。そいつは最後主君を世界から追い出
して……」
 そこでアリサワは大きく煙を吐く。紫煙があたしとアリサワのあいだに漂う。
「俺に殺された」
「そう」
「なぁ、ベレッタ。返してくれないか?」
「これのこと?」
 あたしは銃を取り出してアリサワに渡す。アリサワはマガジンを確認する。
「お守りになったか?」
「まあね。気休めくらいには」
「イエスは――名前をつけたのはサヨリだ――〈大きな音の神〉を殺したがってた。だか
ら、俺はその代わりをやるつもり」
「相手はどこにいるの?」
「俺の体と名前を奪った奴!」
「教祖ね。彼は〈大きな音の神〉なのね」
「ただの、ヒト、だよ」
 あたしは興奮してる。神話の中の存在が身近にいたことに。そうだ、ここには旅人もい
る。前の時代の生き残りも、転生したものもいる。あたしは今『神話篇』の中にいるんだ。

 そんな中で、あたしは何をすべきなんだろうか……先生……

 3

 キョウジたちが帰ってくる。そしてあたしや生徒達に情報提供を求めた。あたしたちは
持ってるすべての情報をキョウジ教えた。ハコブネの生活、CGと新生教、『神話篇』の
こと……
 キョウジ含め、サヨリ、カミカワ、アリサワが1番食いついたのは、CGのボスのこと。
ヨウジが話すと、みんな押し黙った。アリサワは眉根に皺を寄せて怖い顔。
「シミズさんか」
 そうキョウジが言う。
「だな。あの人だ。あいつも生きてやがった。俺とシンジがやっつけたと思ってたのに」
 カミカワが舌打ちする。
「キョウジとアリサワさんは知らないかもしれないけど、あいつ前の世界でさ、ハコブネ
と1つになって、俺らを殺そうとした。特にサヨリを狙ってたんだ」
「ああ、その前に、ボートの上で俺が撃ったんだけどな」
「ウソッ、やるねえ、アリサワさん」
 カミカワがひゅーと口笛を吹く。
「あいつは俺のことをひどく憎んでる。そしてサヨリたちのことも。ケジメは、そうだな
……俺がとらないといけないんだろうな」
 アリサワの言葉にカミカワが異をとなえる。
「違うね。俺とシンジがそれをやるんだ。今度はきっちりカタをつける。そうだろう?」
 シンジは肯く。

「まぁ、なんだ、みんないろいろなんだな。だけど、俺はみんなと逃げたい。その気持ち
は変わらない」

 キョウジが言う。サヨリがうんうんと肯く。聞いてたカミカワやアリサワもやれやれっ
て顔をしてる。
 旅人……とあたしは思う。要はこの2人なんだ。どこまで行っても、この2人なんだ。
それは変わらない。だから……あたしは知りたい。どうして世界はこうなってしまったの
か?……

 4

 キョウジを中心に作戦会議。サヨリとアリサワがそれに参加。カミカワは机を並べてそ
の上でごろ寝。シンジは黒板にもたれて、教室を見渡してる。あたしはシンジの前に立ち
視界を遮る。
「ねえ、教えて。すべてが知りたいの。どうしてあんたはあたしの前に現れて導いたの?
あんたは何者なの?『神話篇』ってなんなの?〈大きな音の神〉は何をしようとしてるの?
シミズって男は何なの?……」
 質問が次から次に溢れ出る。もどかしい。すべてをぶつけたい。そして一瞬で、一撃で、
すべてを悟りたい。知りたい。真実に触れたい!……
 シンジは困ったような顔で言う。
「これを読んでください。あなたがずっと求めてた『神話篇』の完全版です。欠落してる
ところはありません」
 そう言って古ぼけた本を渡す。中を開くとシャーペンで書いた文字がページを埋め尽く
している。
 あたしが本を受け取ると、シンジは顔を歪ませる。痛がってるみたいだ。
「あと、たぶん、3回くらい。それでおしまい」
「どういうこと?」
「僕に何ができるかってことですよ」
 そう言ってシンジは笑う。
「あなたはイレギュラーだ。今、この場に集まってるみなは、それぞれ呪いっていうかな
んていうか、偶然で集まったんじゃないんです。でも、あなたは違う。あなたは自分で選
んだんだ。ここに来ることを。だから、あなたにこれを託します。イレギュラーなあなた
にね。できればほかの人に見せないでほしいな。キョウジくんはもう読んでるんだけどね。
その上で、知らないフリをしてくれてる。ああ見えて、優しいんですよ。
 ねえ、キリコさん。むかしむかし、でこの物語は始まったんです。たぶん」
 シンジは黒板から離れ、ユウたちのところへ行く。あたしはそれを見送る。手にある古
ぼけた書物に目を落とす……

 これにすべてが、書かれてる。あたしの知りたいことすべてが……

 あたしはその場に座りこみ、ページをめくり始める。

 5

 3回読み返し、すべてが、繋がった。あたしの疑問もすべて飛んで行った。ここにはも
う嘘っぱちや誤解はない。あるのは真実だけだ。清々しいような、残念なような……だか
らこそあたしはどう生きていくか……

 シンジを見る。ユウたちに何かを話している。あと、2回、か……あたしは本を閉じる。
そして大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 あたしはあたしのしたいように生きていく。そうだ、イレギュラーにしかできないこと。
意地。学者の頑固さを見せてやろう!あたしにはそれしかできない……いや、学者じゃな
くて、教師の意地だ!

 タバコのフィルターを強く噛む。そして、背伸びをする。窓から入ってくる陽が赤紫に
なってる。燃えるような夕焼け。夜が来るんだ。夕陽が目に染みる。あたしは一滴だけ、
誰にも見つからないように、涙を落とす。 









 続く




     


  8 ユウ/4人


 1

 俺はちょいちょいサヨリを見てる。マルセイユであったのと変わらない。白い肌。薄い
唇。髪はあの時よりぼさぼさだけど、悪くない。あっちは俺に気づいていないみたい。と
いうか、覚えてもいないのかもしれない。だが、300年前のあの戦場で、俺とサヨリは
出会っている。その事実は変わらない。そして約束をした。勝手にこっちが押し付けただ
けなんだけど……

 戦争が始まるらしい。別に俺たちが戦争をやるわけじゃないんだけど、巻き込まれるの
は確実みたいだ。旅人の存在――サヨリと、そしてキョウジとかいう奴――がそれをさせ
てるみたいだ。不安……だと思う。でも、俺やユキ、ヨウジの不安の根っこは、ハツがい
ないことにある。ヨウジはハツのことばかり気にしてるし、ユキも4人いないと駄目だと
言ってきかない。俺たちを不安にさせるのはどういうことなんだろう?

 思えば、キリコさんを中心にして、俺たちは4人で外へ出た。神話学部は4人だった。
4人でちょうど良かったんだ。それなのに……ハツが抜けて、ヨウジがいなくなって……
だが、ヨウジは帰ってきた。ハツだって……

 2

 キョウジとサヨリ、それにイエス……じゃなくてアリサワさんが作戦会議を始めた。俺
たちの情報を元にプランを練るみたいだ。俺たち3人は固まって今後のことを話し合う。
「戦争だってさ」
 俺がそう言うと、ヨウジとユキは黙って肯いた。
「どうする?」
「どうするったってさ、ユウ。俺たちは、もう、巻き込まれてる。避けられないし、避け
ようもない。それに、俺にはやることがある」
 ヨウジそう言ってにやりと笑う。こいつ変わったな、と俺は思う。前はもっと色んなこ
とに冷めてたし、目的なんてものはなかった。ただ刹那的に人生をやり過ごしてただけ。
俺にしたって似たようなもんだったが、こいつはもっとひどかった。馬鹿やって、ヤクや
って……
「何をやるんだ?」
「それは、まだ、言えない」
 悪いこと考えた時みたいな顔してるヨウジ。悪だくみでもあるんだろう。
「私は、世界を救いたい、と思ってた」
 唐突にユキが喋り始める。
「でも、今はちょっと違う。あのキョウジって人が、逃げる、って言った時、ああそれも
ありなんだなって思っちゃった。これまで世界を救おうってことばかり考えてて……昔か
ら変な夢を見てたの。荒野を歩いてる夢。世界を救う旅をしてるんだって自分では思って
た。でも違った。サヨリさんを見て思った。私は夢の中で彼女を見ていたんだって。理由
はわからないけどね。ここでサヨリさんに出会ったのは偶然じゃないって思う。私は何か
をしなくてはならない。たぶん。でも、それにはハツが必要。私たちは4人で神話学部な
だから!」
 そこへシンジって奴がやってくる。さっきまでキリコさんと話してた。今度は俺たちに
話したいことがあるらしい。

 3

「始めまして、シンジです。カミカワくんやキョウジくん、それにサヨリさんと同じで、
ここの高校の同級生。君たちに伝えたいことがあるんだ。どうしても、言わなくちゃって
思って……君らの同級生のハツさんのこと」
 ユキがシンジの肩を揺さぶる。
「あの子のこと知ってるの?まだ新生教の村にいるの?」
 シンジは首を振る。
「今、彼女は君たちがアリサワさんだと思っていた男と一緒にいる。新生教団が陣を敷い
てるところに。彼女のことはカミカワくんがよく知ってるはず。ずっと一緒にいたみたい
だからね。
 ハツさんは君たちの友達でしょ?友達はいいもんだよ。僕がそれを1番よく知ってる。
だからさ、君たちも、友達を大切にしてね。神話学部の仲間なんだろう?」
「わかってるわよ!」
 ユキが声を荒げる。涙を流し、歯を食いしばってシンジを睨んでる。気持ちはわかる。
シンジに言われなくても、そんなこと俺は、俺たちはとうの昔に知ってた。
「うん。そうだよね、ごめん」
 シンジは悲しそうな顔をして教室を出て行った。
「わかってるわよ。わかってるのよ。そんなこと、あの子は私の大事な友達よ!」
 ユキはほとんど叫んでるみたいに言う。なんていうか、ユキも色々と限界なんだろう。
色んなことがあって、ハツがどっか行って、世界も救えなくて……
「カミカワって人に話を聞いてみよう」
 俺はそう言ってユキの肩に手を置く。ユキは、うん、とうなだれて言った。

 4

 カミカワって人は変わってる。キョウジやサヨリ、アリサワさんよりもずっと。この
人が実は旅人でした、って言われても驚かない。なんていうか、自由。戦争だってどう
でもいいみたいだし、キョウジたちの作戦会議も知らん顔。お調子者な感じもするし、
マイペースで、軽い感じもする。クラスに1人はいる感じではあるけれど……
 俺たちがハツのことを尋ねると、机の上でごろんと寝返りをうって反対方向を向いた。
「ああ、あの女か。俺を起こしくれた奴だ。なんか硬そうな、真面目そうな奴だったな。
それに、小心者って感じ」
「シンジさんから聞いたんだけど、あの子、教祖と一緒にいるって」
 ユキもカミカワ相手じゃやりにくいらしくて、勢いがない。
「いるよ。俺とハツとあの偽アリサワはここへ一緒に来たんだ。途中で別れたけどね」
「そう」
 ユキが暗い顔になる。空気を読んだのかカミカワはまた寝返りをうってこっちを向い
た。
「なんか、世界を救うとか私は特別だとかなんとか言ってたな。でも、なんか、無理し
てた。たぶん」
 俺はハツことを考えてみる。たぶん、心細いはずだ。おろおろしてるとこを想像する。
しっかりもののつもりだけど、実は、小心者。そうだ、あいつはそんな子だった。
 カミカワは急に体を起こして、机の上で胡坐をかく。
「たぶん、偽アリサワに騙されてんだ。でも、まぁ、なんとかなるさ。案外そんなもん
だよ。見てみろよ、死んだと思ってたキョウジには会えるし、サヨリやシンジにだって
、俺は会えた。別に嬉しかないけどな。だからさ、なんとかなるんだって、案外すぐに
会えるかもよ」
 やけに自信たっぷりのカミカワ。でも、その言葉で、ユキはなんだか納得したみたい
だ。そうよね、と呟いてユキは笑った。
「そうだよ、そうだよ。笑っとけ。深く考えるな、肩の力抜けよ、軽く生きろ、そうす
りゃ俺みたいに悟りを開ける」
 カミカワは目を閉じて、胸のあたりで両手を合わせる。
「どうだ、お釈迦様みてーだろ」
 そう言って、カミカワは目を開けて大笑い。そしてまたごろ寝。
「ありがとう」
 ユキはそう言って、カミカワに頭を下げた。カミカワはもう目をつぶってた。寝ては
いないんだろうけれど……
 
 5

 夜が来て、みんなで夕食。ジープから残ってた食料を引き上げて、教室の真ん中で火
をたく。一酸化炭素中毒に気をつけろ、ってアリサワさんが言ったから、俺たちは窓と
いう窓、ドアというドアを全開にした。廊下のも全部。そうすると、海からの風が廊下
から入ってきて、教室の窓から抜けていくようになった。心地良い風。
 飯の最中も俺はサヨリを見てた。サヨリはキョウジの隣りに座ってスープを飲んでる。
時折キョウジになにかを耳打ちして2人でこそこそ笑い。
 あ~ぁ、って俺は思う。サヨリが幸せになってほしいって願ってたけど、なんだか目
の前で幸せそうなところを見せ付けられると、へこむ。へこむけど、やっぱり、嬉しい。
意外と古臭い人間なんだな俺って、と思う。忍ぶ恋なんて今時流行りゃしないけど、そ
れでも、これでいいんだって思う。
 これでいい。別にお前に知られなくてもいい。けど、俺は約束を守る。俺はお前の代
わりに戦う……

 それぞれ教室の好きなところで寝ることになった。俺はヨウジと2人、教壇で仲良く
おねんね。真っ暗な教室の中は静か。キリコさんが静かな鼾をかいてる以外は……
「ヨウジ、起きてるか?ヤクとかやってない?」
「やるわきゃねえだろ」 
 真夜中にこそこそ話すなんて、なんだか青春だなって俺は思う。
「俺もさ、やりたいことがあるんだ」
「教えろよ」
「秘密だ」
「なんだよ、って言えた義理じゃないか」
 ヨウジの抑えた笑い声が木製の教壇を震わせる。
「ヨウジ、お前のやりたいことなんだかわからないけど、手伝うよ。だから、お前も俺
のやりたいことを手伝え」
「変な約束だな」
「誓うか?」
「そういうことなら、のった」
「よし」
「その前に、ハツを助け出さなきゃな」
 ヨウジが寝返りをうったのがわかる。奴の気配が少し遠くへいった。
「ああ、わかってる」

 眠れそうにねえな……

 俺は頭の中でストロークスの『SOMEDAY』を歌いながら、無理矢理に眠ろうと
する。











 続く




     


  9 カミカワ/シンジ


 1

 夜の風は気持ち良い。廊下の窓の外から眺める景色は黒く塗りたてられてて何も見えや
しないけど、ずっと遠くにちらちらと星たちが瞬いてる。見覚えのある星座を探したけど
見つからない。
 みんな寝てる。俺は昼寝のし過ぎで目が冴えてる。当分眠れそうにない。
 この世界で目を覚ましてから、俺は時折、あの子のことを考える。結局抱けなかったあ
の子。股の先の希望を目指してた頃が懐かしい。今の俺には携帯もない。おかげでずいぶ
ん体が軽いんだが……
 首をこきこきって鳴らして、自分の手の平を見つめる。
 俺は生きてる。箱舟ん中で死んだはずの俺が。床に沈みこんでいって、箱舟になったは
ずの俺が。人と箱舟の半分ずつ。それが俺。別におかしなモノになったなんて思っちゃい
ない。俺は俺だ。相変わらず俺だ。どこまでいっても俺だ。300年経っても俺。
 これから何をするんんだ、とか、戦争に巻き込まれるとか、正直どうでもいい。義理さ
え通せればそれでいい。
 シミズ。あの男だけは俺が抹殺する。たぶん、みんなは知らない。箱舟になって、奴と
意識を共有した俺だけが知ってる。奴は悪意そのものだ。そしてその悪意のほとんど全部
がサヨリに向かってる。アリサワさんではなくて、サヨリ。理由はなんとなくわかる。
 別に俺はサヨリを気に入ってるわけじゃない。ただ、あいつはビルで俺の命を救ってく
れたし――あいつにはそんなつもりはないだろうけど――あんなに可哀想な奴もいないん
じゃないかなって思うからだ。
 風が止む。俺は窓の縁に肘をついて、欠伸をする。
「寝ないの?」
 見ると、シンジが立っていた。

 2

 僕は、お婆さんから呪いを引き継ぎ、これまでずっと観察してきた。神の目として。
 不完全な世界は、なにからなにまでちぐはぐだった。どうしようもなく残酷だった。
 洪水がひいて、すぐに、箱舟は地に姿を現した。今までどおりなら種を植え付けられた
ハコブネになった人が生まれるはずだったのに、こぼれ落ちたのは、あの男、シミズ。あ
いつの体はハコブネそのものではなく、悪意そのもので作られていた。原初の悪意。もっ
とも濃密な悪意。ヒトのなりそこないのような不完全な生物――クラゲみたいなの――が
同時に世界に生まれつつあったが、シミズはそれを根絶やしにした。あの人が何を考えて
いたのかはわからない。
 シミズは機能不全を起こした箱舟から強引に生物を引き抜いた。そして「どこからかや
ってきたヒトに似た人形」と合成して、この世界における、人類を創造した。それはまる
で悪魔の所業。生殖機能を持たず、寿命も40年しかない。シミズは箱舟から生命を切り
出し続け、人形と合成し続けた。そして、半分ほどになった箱舟の上にドーム型の閉ざさ
れた――世界でたった1つの――町をつくった。それが今のハコブネ。
 シミズは町をおもちゃのように扱った。歴史を面白くするために様々な事件を起こし、
裏から操った。記憶や歴史を操作し、歪な規律をつくり、そこで生きるヒトビトに夢を見
せた。
 そしてシミズは『神話篇』の存在を知る。それから彼は遊びを止めた。『神話篇』こそ
がこの世界で初めての異物。シミズはサヨリがまだ生きていることを知る。福神がまだ存
在していることを知る。
 狂気。狂喜――

 サヨリさんはずっと歩いてた。僕はずっと観ていた。話しかけたかった。サヨリさんの
旅はまるで、地獄。孤独な旅。なんの希望もない行軍。
 それでも彼女は歩き続けた。キョウジくんを求めて。何もない世界を。たった1人で。
 
 僕は、そんな彼女を観ていた。 

 3

「お前は寝ないのかよ」
 俺がそう言うと、シンジは、寝ない、と言って、俺の隣りの窓を開けた。
「カミカワくん、箱舟でのこと覚えてる?」
 シンジは俺と同じように窓枠に両肘をついて外に顔を出す。俺とシンジは窓の外で顔を
見合わせる。
「当たり前だろ」
「いや~、しんどかったよね」
「まぁな。正直、死ぬかと思った。ってか死んだんだけどさ。たしか」
「だよね。シミズさんが床や天井から顔を出してはバンバン銃を撃つし」
「まぁ、俺のおかげでなんとかなったんだけどな」
「そうだったね」
「だろう」
 俺たちは笑う。

 ……沈黙……

 シンジは何か言いたいみたいだ。でも言い出せない。なんとなくシンジの気持ちがわか
る。それに、俺はシンジに何かを言わせるつもりはない。この世界の秘密とか、俺の運命
とか、そういうものにはまったく興味がない。俺にあるのは今だけだ。それだけが重要。
「あのさ……」
「言うな。わかってる。おおよそ見当はついてる」
「でも」
「いいんだ。キョウジがお前の言葉を遮ったあたりから、怪しいと思ってた。それに、こ
の世界にきて、いろいろ分かってきた。お前を縛る何らかのルールもな。たぶん、お前は
何も言ってはいけないんだろう?そうしたらなんかひどいことになっちゃうんだろう?こ
れまで何度かそんなことをやってきて、体はぼろぼろなんだろう?わかるよ。馬鹿。俺に
何も言うな。自分のケツは自分で拭く。だから、お前の言葉はここぞって時までとっとけ」
「うん」
 シンジは嬉しそうに笑う。
「俺とお前がやることは、シミズを今度こそ殺すこと、だろ。運命とかそういうんじゃな
くてさ。俺たちがやりたいからやってる、そうだろ?」
「そうだね」
「それでいいんだよ」
 俺は背伸びをする。そろそろ眠くなってきた。

 4

 カミカワくんは変わってない。自分勝手でマイペースで……軽くて……僕にはそれが嬉
しい。頼もしいとさえ思う。
 300年間、僕には絶望と呪縛しかなかった。運命と役割しかなかった。お膳立てにあ
けくれる日々……すべてはキョウジくんとサヨリさんのため……
 カミカワくん、と僕は思う。僕たちは脇役なんだよね、結局。でもさ、主人公とか脇役
とかって、物語のシステム上存在してるだけの言葉なんだ。現実では誰が主人公なのかわ
からない。物語が現実を侵食している、こんな世界だからこそ、より僕らはそう思うわけ
で……でも、これは、ここは、僕の人生の物語でもあるんだ……

「シミズが世界を壊そうと思ってる、とかそんなのはどうでもいいんだ。要は俺とお前は
あいつに心底ムカツイてるってこと。それでじゅうぶんだろ?」

 カミカワくんはそう言った。たぶん、それが正しい。僕たちがどう思うか……
 あらかじめ用意されていた物語は溶けかかっている。枠は歪み、外への意志が働いてい
る。僕らは意志だ。
 カミカワくんと僕は箱舟の時のように良いコンビになれる、と僕が言うと、気持ち悪い
こと言うな。俺はもう寝るわ、と言ってカミカワくんは教室に戻っていった。 
 
 5

 最大の疑問。うつらうつらしながら、睡魔に意識を吸われながら、思う。ケンジとアミ
はどうしてこの世界にいないのか?

 俺は机の上に寝転がって、キリコって女の鼾を聞きながら、目を閉じる。

 箱舟の後、あいつらはどうなったのか?死んだのか?それとも生き残ったのか?

 だんだんと意識にもやがかかってくる。睡眠へのカウントダウン。

 俺やシンジがいるのに、あいつらがどうしていないのか?サヨリとキョウジと1番仲の
良かった、あの2人が!

 眠りがやってくる。俺はケンジのオナニー臭い顔とアミの偽善者面を思い返しながら、
眠る。






 続く




     


  10 ノア/夜


 1

 結局のところ、いつの時代も、夜は寂しい。
 闇が世界を覆い、すべてを見えないようにする。
 気がつけば、私は1人だ。硬い床に毛布を敷いて寝転がっている。みんなの寝息が聞こ
える。

 時間はかかったが、どうにかここまで来ることができた。神のためでもなく、あの人の
ためでもなく、私のために……

 私は機会をうかがっている。あの人を殺す機会を。ユダの施した術が消えた瞬間。私は
あの人をこの世界から連れ去るだろう。そして永遠の闇の中で、あの人と暮らすのだ。

 2

 私は闇に紛れて廊下へ出る。呪われた男が1人、窓際に立っている。
 眠ることも、目をつぶることも、死ぬこともできない男。神の眼となった男。
「こんなところで何をしてるの?」
 私は尋ねる。
「夜を見ているんです」
 男は答える。
 シンジと呼ばれるその男の顔はやつれている。
「あなただけは、私に気がついている、そうでしょ?」
「ええ。イレギュラーではありますけど……こっちにあなたというカードがある以上、有
利にことが進むかもしれない。逆かもしれないけど……」
 私は男の隣に立ち、窓の外を眺める。星の瞬き。夜の闇がなければ見ることはできない。
陽の光と引き換えに得られる慰め。星さえもなければ、人は、夜の闇をもっと恐れただろ
う。
「シンジくん、あなたは神を恨んでる?」
「いや、別に。自分から選んだ道ですから。ノアさんは恨んでるんですか?」
「恨んでない、と言えば嘘になるかもしれないけど……そうね、あなたと同じでこれが私
の、私たちの選んだ道なのよね。だからこそ、ケジメはつけたい」
「愛してるんですか?」
「そうね。あの人は優しい人だから」
「僕にはよくわかんないや」
「サヨリさんのことが好きなんじゃないの?」
「いや、そういうんじゃないんですよね。キョウジくんとサヨリさんを見てるのが好きな
んです。ただそれだけ」
「そのためだけに、300年は長かったんじゃないの?」
「長かったですね。でも、後悔はしてないです」
 そう言ってシンジは笑う。
「ねえ、ノアさん。教えてください。僕の知らないことを。どうして前の世界ではなく、
この世界に出てきたんですか?」
「その昔、ユダという男がいたの」
 と私は話し始める。

 3

 ユダという男は初めから好きになれなかった。スラムの出だとかなんとか……彼の生い
立ちはよくわかってない。でも、彼は異常ともいえる賢さで次々と新しい発明、発見をし
ていった。
 油染みた顔、汚れた白衣、癖毛は伸び放題、髭も伸び放題。寡黙な男で、人と交わりを
持たず、ひたすらに研究。イヴァンはそんな彼を重宝し、また可愛がった。
 ユダはイエスを創った。私はその行いを恐れた。神が生み出したヒトのニセモノを創る
なんて畏れ多い、と思った。案の定神に怒りに触れた。イヴァンもそれを畏れた。しかし
ユダは言った。
「これは神のためです。神の声を取り戻すためには神に近づく必要がある。そうでしょう
イヴァン?それがあなたの役目なんでしょう?」
 イヴァンはユダにうまく丸め込まれ、誤った考え方をするようになった。その頃からイ
ヴァンは神になることを考えるようになった。
 ユダは私とイヴァンの体に術を施した。〈死〉を遠ざける術。そして私と彼は死ななく
なった。

「ユダ、か。物語のキーマンですね」
「ええ、そうね。彼もまた、憐れな人」
 そして私は話を続ける。 

 〈大きな声の神〉との戦いが始まる直前、私はユダに迫った。
「イヴァンにかけた術を解いて、彼を殺すように、と」

 シンジは黙って聞いている。

 4

 …………

「アリア、それはできない。今ここで彼を失うわけにはいかない。神を打倒するためには
彼が必要だ」
 私とユダ以外はいない研究室で怒鳴る。町の中央広場ではイヴァンが人々の戦意を煽る
ための演説を行っているだろう。計器類の音がやたら大きく響く。
「でも、ユダ……こんなのは間違ってる。私たちは神殺しなど望んでいない」
「間違ってるのは神の方だ。神は我々の進歩が気に入らないんだ。妬んでいるんだ!」
 ユダは苛立ちに任せて机の上の書類をなぎ払う。
「どうしてあなたはそんなに神を嫌うの?」
「神は不平等な世界を生み出した、理由はそれでじゅうぶんだ!」
「私には、わからない……」
 ユダは立ち上がり、私の腕をとる。私は腕を振りほどこうとするがユダの力は強い。
「どうして、あなたはイヴァンのものなんだ?なぜ、私の傍にあなたのような女性がいな
いんだ?ああ、わかってる。イヴァンとあなたは愛し合ってる。別にそれに何かするわけ
じゃない。でも、どんなに頑張っても、イエスはあなたのような容姿にならない。私はイ
ヴァンとあなたのような関係を持つモノが欲しいんだ。あなたの代わりが、私の傍に欲し
いんだ。ただそれだけなのに。神は沈黙する。私の望みは叶わない。神は万能ではない!
ならば、私たちが万能になるしかない!」

 ユダの、私を見る目にある種の感情がこもっていたのは知っていました。でもこればか
りはどうにもならない。私が愛したのはイヴァンなのです。
 ユダは狂っていました。たぶん、少しずつ狂っていったんだと思います。その頃の町の
人々はみんな、狂っていました。すべてを自分の思い通りにしたかったんです。我儘にな
っていたんです。不自由を楽しむ余裕を失っていました。ある意味でそれは貧しい考えで
す。私たちは物質的には豊かになっても、精神的には貧しいままでした。

「アリア、あなたはイヴァンの意志に逆らうのか?」
「あの人を愛しているからこそ……」
「あなたは神に騙されている!」
 ユダの手が私の喉にかかる。
「この術は喉仏に施してある。だから、喉仏をつぶせばあなたは死ぬんだよ。それでもい
いんのか?私は嫌だ。あなたがいなくなるのは。私はあなたとイヴァンが仲良く暮らすと
ころを一生見ていたいんだよ!死ぬのは嫌だろう!」
 私はユダの顔面に拳を叩きつける。ユダは鼻血を流す。
「喉仏ね、そうすればイヴァンも死ぬのね」
「させない。あなたもイヴァンも、永遠に生き続けなければならない。それこそあの旅人
のように。あなたは神に騙されているんだ。誤った創造主など、信用には足らない。もう
我々は1人で生きていける!」
「1人は寂しい……」
 そこへ演説を終えたイヴァンが入ってくる。私は隠し持っていたナイフで彼の喉仏をえ
ぐろうと飛びかかる。
 けれど、失敗。ユダの手から放たれた銃弾が私の喉仏を吹き飛ばす。私は彼の腕の中で
絶命する。

 5

「ユダは私の亡骸に細工をしたの。体は失っても、魂はまた戻ってこられるようにってね。
ユダ自身それが成功するかどうかはわかっていなかった。でも、結果はごらんの通り。私
は戻ってきた。今度こそイヴァンの過ちを正すために。この世界が不完全だからこそ私の
魂が入り込むことができた。前の世界には入れなかったの」
 私の話は終わる。
「ユダの懺悔の書。それが残っているんです、知ってます?」
 私は首を振る。
「彼はあなたを殺してしまった後、1度目の洪水が来る前に、自殺しました。歴史上で初
めての自殺です」
「そう」
「あなたはそれを読むべきです。キリコさんがそれを持ってるから読んでください」
「ユダは、憐れな人よ」
「人は誰でも憐れだし、間違います。でも、だからこそ、生きていけるんです」
 シンジはそう言って、廊下に腰を下ろす。
「喉仏、ですね。〈大きな音の神〉を殺す方法は」
「ええ、でも、彼の本当の体を探す必要がある。今は仮の体でしょう。仮の体の喉仏をつ
ぶしても意味はないわ」
「心当たりがあります。確証はないけど」
「ねえ、シンジ。あなたは無になるのよね」
「ええ、確実に。その時は近いです」
「あなたはそれで幸せなの?」
「そんなのクソ食らえだ、って僕や仲間たちは言うと思う」
「……ありがとう」
「礼を言われることなんてしてないですよ」
「ううん、いいの」
 それじゃ、とわたしは教室へ帰る。少し眠くなってきた。彼は眠れない。彼はずっとこ
の世界を見続けるのだろう。私は眠る。イヴァンのことを想って……







 続く




       

表紙

スモーキィ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha