蟲籠 -deity world-
幕間 「蟲姫様の旋律」
†
「なん……だよ……」
叫び声も上げずに、和也は呻く。
目の前に立っている赤に塗れた人影は、再び元の方向へ振り返る。
ピクリとも動かず、まるで安らかに眠っているような、倉野。
予想はしていたものの、あまりにも残酷な光景に思わず床にへたり込んでしまった、宗太。
四人の人間が、殆ど言葉もなく、一つの部屋で交錯する。
「なんで……だよ……」
聞く耳を持たないのか、二人の眼前で凝然としている少女は、倉野の近くにゆっくり屈みこむと、自ら薄く開いた口に掌を入れて――
"黒い蜂のようなものを取り出し、倉野の口の中へ、無理矢理押し込んだ。"
「…………!!!」
意識が戻ったのか、最初からどうしようもなく寝そべっていた倉野は、そのおぞましい感触にすぐさま咳き込み、必死に口内にある異形を排除しようとする。
だが、いくら嗚咽を出し胃の中がひっくり返るほど空気を吐き出しても、それはねばねばとした感触を口の中に残したまま、解けるようになくなってしまった。
「うぇ……ごほっ!!」
幼い子がえぐえぐと泣きじゃくるように、倉野は必死で自分の身体を苦しめた。
それを網膜に焼き付けると、和也は、
「冗談じゃねえ……!! 何なんだってんだ!!!!」
脚はがたがたと震え、そうやって付け焼刃の虚勢を張るだけでも精一杯だった。
その血に染まった狂人は再び立ち上がると、和也たちのほうを、"かつて眼球があったと思しい真っ黒な窪み"で凝視する。
和也は恐怖で、いや、それ以上の畏怖に近い何かのせいで、悲鳴をあげることすらままならなかった。あげられたとしても、それは震えた声帯をわずかに掠めて、ただ少しばかりの吐息が漏れるだけ。
十余年生きてきた中で、恐らく最初にして最悪の有り様に、和也と宗太は、ただその前に立ちはだかるの顔を、意思のない眼球で見据えることしか出来なかった。
やがて、徐々に平静さを取り戻していった和也は、あることに気付く。
目の当たりにした少女にどこか、見覚えがある気がしたのだ。それもなにか懐かしい、昔から幾星霜、目にし続けてきたような。
血脂に塗れているが、それでもさらりとした髪。
少々小柄だが、実は運動神経抜群といったような、白い脚。
そして、何よりも――
醜悪極まりなかったが、見慣れたあの笑顔。
容が崩れに崩れ、原型とは似ても似つかないほどでも、見覚えのある、その笑い方。
「まさか……」
和也は、愕然として呟く。
「お前……高原……、唯……なのか……?」
†
「死」という絶対存在は常に僕らの傍にいて、僕らの首元にその鋭利な大鎌をあてがっている。概念上で言えば生来定められている年齢に達するまでは、彼らは僕らの生き方から死に方まで邪魔をすることはなく、じっと息を潜めている。
しかしそれはあくまで推測であって、実際のところ、そのような事実が存在することすらも完全証明できるものは一人としていない。一つとしてない。
ただ、僕らの「生命の期限及び死の創始」を余すところなく定義しているものだけは、確かに存在する。
人は何か勘違いをしているかもしれない。
死と呼ばれるものには、分かるだけでも二つの「死」が在り得る。
それは、肉体的な死と、精神的な死。
口頭で言えば、別に何も大したことはないように思える。
肉体的な死は、一般的な、寿命を全うして安らかに永眠することのできる死。肉体そのものが腐敗してゆき、自然に帰属する、きわめて合理的な死。
精神的な死は、突発的な事故・病気・災害による、当事者の望むものではない死。肉体はそのまま残り、精神だけが現世を去る、非合理的な死。
それで、死と言う人間世界の絶対存在は成立する。
――というわけではない。
死にはまだ、無尽蔵に種族が存在する。
その中でも、僕ら人間が最も恐れているのは――
人間的な、死。
人間として生きとし生ける意味をなくした、最も冷酷で残虐な死。
その人間的に死んでしまったもはや人間でない生き物は、身の寄りどころを失い、狂乱したのち、この世から存在を消す。
そうして死んでしまった人間だったものにも、当然虫は発生する。ちょうど、動物の腐肉や骸に数多の蝿が群がるように、虫は、それを喰らう。
そうして人間だったものを喰らった虫は、世間的に認識される「虫」とは極めて異端な、虫にして虫に属さない、決して人の書物には記載されない生物として成り立つ。
僕らはそれを、"蟲"と呼ぶ。
蟲は誰にでも存在しえるものであり、誰もが常にその絶対的な起爆剤を胸に抱え、生きている。僕らはみな、「蟲籠」だ。
あるとき、そう、例えば人間が"人間的に死んでしまったとき"。
蟲はその死骸を喰らい、倍加的に増殖を始める。
そして、個々が身を増大させて、幾何級数的に膨張して――
蟲は死骸から溢れ、現実に姿を現す。
そうして形を為した蟲は、往々にして人を喰らうことが少なくない。
この段階を踏んで蟲に喰われ、虫に寄生されたモノを、人は<人蟲>と呼ぶ。
人蟲は蟲に寄生された人と言うより、人の形をした蟲に近いものになる。
さらにそれは特有の刺激臭某により、段階的に蟲を発生させ、決して止めることの出来ない半永久的な無限輪廻を創造する。
故に、鼠算式に拡がるそれを誰も止めることは出来ないと信じられていた。
あるとき、奇跡的に蟲からの脱出を試みることを成功した人が、行動を起こした。
蟲に対抗できるだけの力を結集した、小さなサークルのような集団。僕ら含む一部の人間は、それを<ライオット>と呼んでいる。
全国に数えるほどしかそれは存在しないが、彼らは確実に何かしらの蟲に対抗できる手段を持っている。
彼らは"蟲"に遭遇した人々を助けるために、ある者は遊ぶように、ある者は自らの命までもを削り、ある者は大切な何かを守るように、蟲と真っ向から対立する。
止めることの出来ない無限連鎖の中に、僕らは立ち尽くしている。
終わりが分かりきった時間の合間で、足掻き続ける。
そうして物語は、続いていく。