Neetel Inside ニートノベル
表紙

蟲籠 -deity world-
黒い黒い性の策

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「それじゃ柚樹ちゃん、あとはよろしく」
「は、はい。お二人とも気をつけてくださいね」
 瀬川と静馬は柚樹に軽く会釈すると、店の扉に手をかけた。
「……瀬川さん」
「なんだい? 静馬君」
 静馬は首元を掻きながら不安げに訊ねる。
「本当に、"蟲"がすぐそこまで来てるんですよね?」
 瀬川は答える。
「そうだよ。しかもカラスの絵ときたものだから、ちょっと面倒なパターンだ」
「面倒……ですか?」
「例えば、静馬君はカラスと言えば何を思い浮かべる?」
「カラス、ですか。ずる賢いとか、不幸だとか、否定的なイメージがありますけど」
「うん、カラスの一般的なイメージは狡猾な印象で、物語における悪魔など、<悪や不吉>の象徴として描かれることが多い。だけどそれは、人々の勝手な妄想・狂言に過ぎないとも言える。現にカラスと言う生き物は、この日本でも古来より吉兆・勝利・美徳を示す鳥として扱われてきたんだよ。静馬君は、七つの子という歌を知っているかい?」
「はい。カラスには山に七つの子がいると……」
「その歌からも、カラスは家族愛を重んじている鳥であることが分かる」
「ああ……確かにそうですね」
「カラスに対して否定的な印象が生まれたのはごく最近で、しかもそれはヨーロッパに限定されている。古代インドの『マハーバーラタ』でもカラスは<死の使い>と例えられているけれど、西洋・東洋いずれでも、カラスのシンボリズム――――古くからの象徴は、肯定的なものとされているんだ。
 カラスがよく登場することで有名なケルト神話で言えば、カラスは予言者と描かれることが多い。また最も有名な例として、ネヴァン・バドゥブ・マッハの三位一体の女神とされるモリガンは、ワタリガラスの化身となって戦場に姿を現す。この場合のカラスの意味としては、<殺戮と死>としての解釈がふさわしいだろう。その他にも、古代から物資の集散地として栄えていたローマ帝国のガリア属州ルグドゥヌムのことを、偽プルタルコスはカラスの飛翔した場所に築かれた都市といい、<カラスの丘>と例えたんだ。
 ガリアといえば、ガリアの物語でもカラスは重要な役割を演じている。プライドゥイト・ロナブイ、則ちロナブイの夢と言う物語で、王オウェインのカラスたちはアーサーの兵によって一度虐殺されるんだけど、その後今度は逆に兵を殺戮するという逸話がある。ガリア人の間では、カラスは聖なる生き物として崇められていたんだよ」
「ははあ……」
「日本に帰って見れば、伝説の生き物で<ヤタガラス>というものがいるね」
「あ、それは聞いたことがあります。何でも神武東征で熊野国から大和国へ向かう際の案内役になった三本足のカラスですよね」
「そうそう」
 肯定して話を続ける瀬川。
「ただ三本足って言うのは明記はされていなくてね。熊野国で勢力を振るった『宇井』『鈴木』『榎本』の三党を表しているともいわれている。僕は個人的に、『天』『地』『人』の三つを示していると思っているけどね」
「この場合はどうなんでしょうね。インセクターと蟲と……それ以外のもう一つの存在、ですか」
「ほう……その解釈は新しいね」
 静馬の呟きに瀬川が興味深げに反応する。
「なるほど。その考え方はあながち間違ってはいないかもしれない。僕は現在迫りつつある蟲の正体を、完全なる"蟲"だとは考えていない」
「……と、言うと?」
「蟲を"つか"う者ではあるけど、蟲にはあらず。言うなれば、蟲を『使う』のではなくて『遣う』存在。そのような生命体を、僕ら<インセクター>は《傀儡者》と呼ぶ」
 瀬川はわずかに表情を厳しくする。
「彼らは非常に厄介な存在でね……。人が蟲に喰われたときに《変異体》にならなかった者は総じてそう呼ばれるんだ。<インセクター>ではないけれどそれに相応する力を有していて、能力の名称はいつも決まって、"支配者《グラスパー》"。蟲を操る能力だ」
「<インセクター>とは対極の立場にあるんですか?」
「そうだね。<インセクター>が虫を駆除する立場にあれば、彼らはそれを増殖させる立場にある。全国には少なからず《傀儡者》が存在していて、その数は百に及ぶとされている。彼らを一人残らず消し去っていくことも、僕らの目的の一つであるといえるだろう」
「《傀儡者》ですか……」
 静馬は俯いて、眉をひそめる。
「――――話を戻そう。聖書ではカラスは炯眼のシンボルで、ノアの箱舟においては大地が水上に現れたかどうかを確かめに行くのがカラスだった。四十日たって、ノアは自分が造った方舟の窓を開き、カラスを放した。カラスは飛び立ったんだけれど、地上の水が乾くのを待って出たり入ったりしたらしい」
「なんだかよく分からない生き物ですね、カラスって」
「それも狡猾と称される所以かもしれないね。カラスは本当の姿なんて実は見せていなくて、僕らが議論するカラスと言うものはまやかしに過ぎないのかもしれない。それくらいカラスは賢い生き物だ」
 瀬川はそこで言葉を切ると、思い出したように言う。 
「……っと、こうしている場合じゃないね。早くその《傀儡者》を探さないと」
 あっ、と静馬も思い出す。カラスについて話し込んでいたせいで大分時間を消費してしまった。
 ふと見やれば、苦笑しながら呆然と立ち尽くす柚樹。
「瀬川さん。話し込むのもいいですけど、時間は大丈夫ですか?」
 そうして微笑を浮かべながら、もっともらしい意見を述べる。
「こ、これは失敬。さて、それじゃあ今度こそ向かうとしようか、静馬君」
「あ、はい」
 改めて瀬川が『雑貨屋 アトランジェ』の入り口扉を開ける。
 同時に、少しばかり強めの陽光が射しこんで、静馬は一瞬目がくらむような思いがした。
 初夏の柔らかい空気が、店の中をゆっくりとかき混ぜる。その心地よい感触に、静馬は一種の優しさのようなものを感じた。
 そしてもう一つ。






 得体の知れない、何かの気配。

「…………!!」
 
 即座にそれを感じ取ったらしい瀬川は、剣呑な眼差しを外へと向けていた。
 徐々に目が慣れてきた静馬が、その睨む先をゆっくりと辿ると。



「こんにちは。今日は少々御用があって参りました」
 白髪の奥に見える切れ長な瞳が妙に際立つ、一人の少年。その格好こそは、どこから見ても普通の少年。
 だが、腕に巻かれている包帯が彼を常人ではないと物語っていた。
「どうってことはないんですが……ちょっと人探しにご協力いただきたいんです」
 左手に持つ鞄を揺らしながら、少年は謙遜するように言う。
「<インセクター>の雪村時枝さん、って知りません?」

     

「……雪村さんを、探してるだって?」
「ええ。そうです」
 瀬川は射るような視線を少年に向けたまま、訊ねる。
「もう一度、確かめるよ。君は"雪村時枝さん"を、探しているんだね?」
「だから、先ほどからそう申しています」
 表情一つ変えずに少年は答える。
 静馬はというと会話の内容よりも彼の持つ鞄が気になって、疑問と警戒の混じった表情を浮かべる。
「……あ、これの中身、気になります?」
 そんな視線に気付いたらしい少年が鞄を持つ手を肩ほどの高さまで上げる。
 鞄はどうやら学校規定の物のようで、開け口を留めるボタンの近くには「城之崎中」と縫われてある。
 一見ごく普通の学生鞄で、パッと見、奇妙な部分は見当たらない。
「そんな分かりきったこと、聞くまでもない」
 それでも、瀬川は威圧感を崩さない。
「とりあえず、君が"人外"であることは既に分かっているからね」
「ははは、それはいったいどういうことですか?」
 半ば驚いたように見える少年は、せせら笑いのような相貌をとる。
「君の言葉の中には現実にはありえないものが含まれている、ただそれだけだ」
「……ほほう? ありえない、と言うと?」
 少年はますます口の端を吊り上げてゆく。
 それは、歪んだ笑い、とでも例えれば適切なのかもしれない。
「どう考えても可笑しいだろう?」
 今度は、瀬川は人を逆手に取るような態度に出る。
 瀬川はわざとらしく腕組みすると、口元に手をやって考えているように演じる。
「君はこの『雑貨屋 アトランジェ』にやって来たお客様だ。当然僕らは丁重にもてなさないといけない。だから僕らはここで『いらっしゃいませ! 何かお探しでしょうか?』と聞くべきなんだろう。
 ところがどうだ。そのお客の言うことはどうも、非現実の世界のことではないか」
 そこで言葉を切ると、瀬川は一気に表情を険しくする。
 して、一言。

「雪村さんは、もう《この世から消えてしまった存在》なんだが?」

「…………え!? 今……何て!?」
 一番最初に反応を見せたのは、静馬。
 少年は口元を不適にほころばせたまま、くつくつと笑う。
「……説明は後でするよ、静馬君」
 静馬を一瞥してそう告げると、瀬川は再び少年へと向き直る。
「そういうわけだ。君の素性も明かしてくれないかな」
 瀬川が右手の手袋に手をかける。
「あっはっはっはっは、そう躍起にならないで下さい。別に本日は危害を加えに来たわけではありません。それに、ここは通行人も多いです。被害が多数に及ぶといけませんからね」
 少年は表情を和らげて胸の前に腕をやり、紳士的に会釈する。
「僕の名前は…………そうですねえ。"ソーマ"とでも名乗っておきましょう。それで構いませんか?」
「……いいだろう。目的は何だ」
 瀬川が腕組みをしながら、語調を変えずに訊ねる。
 少年、ソーマは目も合わせずに、トンボを指にとめるような仕草をした。
 それから、若干目を見開くと、
「逆に言えば、それこそ聞く意味があるんですかねぇ?」
「………………!!」
 口辺を歪ませて、笑う。
 対して、歯噛みする瀬川と未だに状況が掴めない静馬。
「そういうことです。本日は交戦を持つつもりはありませんので、このあたりで失礼します」
 その直後。少年の手の上に、一匹の白い蛾が降りてきた。人の手の平にギリギリ収まり切るような蛾は生気なく触角を動かすと、瀬川たちの方を、「じぃ」と見る。
 それに瀬川は、してやられたと言う風に表情を歪める。
「《デルモグリス》……!!」
「彼が教えてくれましたよ。あなたたちが"雪村時枝"と呼ぶものの居場所をね。では、失礼」
 そう告げると、少年の身体は徐々に白い糸のようなもので覆われていった。
 蛾が手に止まっている光景のせいかもしれないが、それは一つの巨大な繭のようにも見えた。
「ああ、それともう一つ……」
 少年は首をもたげると、視線だけを瀬川たちの方へ向けた。
 その見据える先は――――静馬。
「へ…………!?」
 突然睨みつけられた静馬は、当然困惑する。
 予測していたかのように、少年は嘲りの笑いを浮かべる。
「君には期待してますよ…………海部津静馬」
 それだけ言い残し、不気味な笑い声を小さく響かせながら。

 少年の姿は、糸に包まれて風と共に消えた。

「…………………………」
 訪れる沈黙。今まで世界から切り離されていた様に、周囲の雑音が聴覚に甦る。
 溢れる雑踏。飛び交う喧騒。屹立する信号機は横断不可の警告を鳴らして、やがて青が赤へと変わる。変わらない町並み。晴れ間の見える空。当たり前の日常が立ち返ってくる。
 その中で、わけも分からずに茫然自失となる静馬。
「な、何なんだよあいつ……」
 突然現れては、状況が理解できないうちに去って行った、ソーマと名乗る少年。
(…………あれ? ソーマ?)
 ソーマ、という名前が、どうも静馬の脳裏に引っかかった。
(何か、どこかで聞いたことがある気が………………気のせいかな)
 記憶の履歴を辿ってみても、つい何ヶ月前のことぐらいしか思い出せなかった。過去の記憶は全て、頭の中から消し去ってしまったから。
 それでも、「ソーマ」という言葉はどうも昔から……
(……って、そんな事考えてる場合じゃなかった)
 邪念を振り飛ばし、静馬は顔を引き締めて瀬川に訊ねる。
「瀬川さん」
「……どうしたんだい、静馬君」
 少し俯き加減で、眼前に立っていた瀬川が振り返る。
 その表情にはどこか、悲しいものが含まれていた。
 察したが、静馬は瀬川の目を見て言葉を続ける。
「雪村さんのこと、詳しくお願いします」
「………………」
 瀬川は眉根を寄せて押し黙る。
 静馬が隣に目をやると、柚樹が不安そうな目で静馬を見つめていた。
「いつか話さなければならないとは思っていたけれど、まさかこんなにも早くその時期がやってくるとはね…………」
 軽い溜め息を吐いて、瀬川は苦笑気味に笑う。
「雪村さんは、この世から消えてしまった存在と言ったね?」
「はい。それがどういうことかよく分からないんですが……」
「実に単純なことさ」
 一呼吸置いた後、瀬川は器用に表情を厳しめに切り替えて、言う。

「……雪村さんは、"蟲"なんだ」

     

「な…………雪村さんが!?」
「そうなんだ」
 瀬川は平静を取り戻して呟く。
 静馬は自分の耳を疑った。今まで行動を共にし戦ってきた雪村が、<インセクター>の天敵である"蟲"だったとは、俄には信じがたかった。
「私も……今だに信じられません」
 柚樹が震えた声でぼそりと漏らす。
「雪村さんは非常に精神が安定している"蟲"で、自らの運命を悟っているんだ。僕もそれは大分前から言い聞かせられている」
 瀬川は表情に悲哀を滲ませながら言葉を紡ぐ。
「もし……"蟲"のいない世界を築き上げた暁には、雪村さんは自分から潔く死ぬと。もし……"蟲"が跋扈する世界へと変貌した暁には…………。僕の手で殺して欲しい、と」
「……………………!!」
 静馬は身体を風が吹き抜けるような思いがした。
 優しさの塊といっていいほど、慈愛のようなものに包まれていた雪村が、実は蟲だった。
 危害は加えない、むしろ<インセクター>に加担していたとしても、人間ではない、"人外の生き物"。

「嘘だっ……!?」

 否定の言葉が喉元までこみ上げたが、瀬川の表情を見てすんでのところで留められた。
 その目元には、僅かながらも涙が溜まっていたから。
「………………」
 静馬は無理矢理口を閉じると、下唇を噛み締める。
「認めたくないけど、これは現実なんだ」
 瀬川は袖口で目元を拭うと、力なくその場に立ち尽くす。
「《アザ・トース》とは、万物を操る力。その気になれば時間だって操ることも出来る。雪村さんはそうやって"蟲"になってしまう以前の姿を保っているに過ぎない。もちろんその力も、有限じゃない。もってあと一年か二年…………いや、もしかしたらもっと短いかもしれない」
「……………………」
 静馬の隣に立っている柚樹の頬に、一筋の滴が流れる。
「それでも雪村さんは僕らのために尽力してくれている。だから僕らは、それに答えなければいけない。そして先刻の少年が狙っているのは…………まさしく、雪村さんのの力の期限だ。どういうことか、分かるかな? 静馬君」
 静馬は答えずに頷く。
「もちろんです。雪村さんと奴の接触を止めるために、雪村さんの元へ向かうんですね」
「そうだ」
 肯定して、握り締める右手の力を強くする瀬川。
「その為には、"彼"の協力がいる」
「彼…………?」
「静馬君も、よく知ってる人だよ。こういうことだろうと、既に事の経緯は伝えてある」
 瀬川は髪を掻きあげて何度か深呼吸すると、歩き始める。
「行こう、静馬君、柚樹ちゃん。雪村さんの、いる場所へ」
 そして、一言。
「――――<インセクター>の本拠地、《パラマグラタ》へ」


     †

「ただいま戻りましたー……って、誰もいないか」

 とある郊外の商店街、隅の方にこぢんまりと建てられた店、『五條酒店』。と言っても店としての機能はほとんど果たしておらず、店の前に詰まれた酒瓶ケースは、膨大な仕事量を示すというよりも、この店の存在を世間一般から覆い隠していると言った方が正しい。
 そんな酒店に元気のいい挨拶を上げながら帰って来たのは、買出しに出かけていた一人の少年。首には、錆びついた古いペンダントがつけられていた。
 少年はふんふんと鼻歌を歌いながら、店の奥へと足を進める。
「誰もいないわけないでしょ」
 突然横から聞こえた声に、少年は少し飛び上がる。
「うわあ! あ、なんだ駿河さんか。びっくりした」
「なんだとは何よ」
 少年に剣呑な眼差しを向ける、駿河エリカという少女。
 それを目の当たりにしても、少年は朗らかに笑って答える。
「駿河さんは陰険だよなあ。もうちょっと明るく振舞えばそれなりに可愛く見えると思うだけどなあ」
「は? アンタ何言ってんの? 殺すわよ?」
 つっけんどんに言い放ちながらも、目を背けつつ僅かに顔を赤らめるエリカ。
(何よアイツ…………本当に<インセクター>としての自覚あるの? 考えられないわ)
「ははは。仲が良いようで何よりだよ」
「! ご、五條さん……」
 段ボール箱を抱えて店の奥から現れたのは、この酒店の主である五條正博。
「……とんでもありません。こんな、ひよっ子<インセクター>なんかと」
「そう言わないでくれよ駿河さん…………うーん『駿河さん』って呼ぶのさ、なんだか『駿河産』みたいで変だよなあ。エリカさんって呼んでいい?」
「もうどうでもいいわ。勝手にして」
 呆れて店の奥へと姿を消すエリカ。
 その光景を眺めて、愛想のいい笑顔を浮かべるのは五條。
「エリカ君と大分打ち解けてくれたようで、僕も一安心だよ」
「いえ、まだまだ受け入れてもらえそうにないですから」
 少年は少し困ったような顔をして、またすぐに口元を緩める。
「ひよっ子であろうと彼女は君の事をもう<インセクター>として認めつつある。これまで彼女のような極めて戦闘能力の高い<インセクター>はなかなか現れなかったからね。その点でも彼女は動揺しているみたいだよ」
「へ? その点"でも"、って?」
「はは、こっちの話さ」
 五條はにっこりと微笑むと、その手に持っていた段ボール箱を床に降ろす。
「それは……一体何ですか?」
「なあに、少なくとも僕らには関係ないさ。ちょっと離れた所で面倒な事件が起こっているみたいでね。彼らの助けになるかと、用意したんだ」
「へえ。やっぱり<インセクター>って大変なんですね」
 眉をひそめながら、少年は皮肉げに口走る。
「ま、君も既にその歯車の一部となってしまったからね。……もう一度聞くけど、後悔はしていないかい?」
「するわけないじゃないですか」
 五條の問いに、少年は逡巡なく答える。
「きっと和也や高原や倉野、いや、"あの町の人全員"が望んでいることですから。僕はあの町の生き証人として、後生<インセクター>の名を背負って生きてゆきますよ」
「そうか……」
 燦然とする少年の表情を見て、五條は安堵したように胸を撫で下ろす。
 五條としては、不安でたまらなかった。《蟲害》に遭ったばかりの少年が、ここまで急激に回復するとは思っていなかったからだ。自分ならば、恐怖に怯えて何もかもから逃げ出す思いで死のうとしただろう、と五條は心中で述懐する。
(どことなく祐一に似ているな…………彼は)
 段ボール箱を興味深そうに眺める少年――――中山宗太にかつての瀬川の片鱗を感じた五條は、その姿を網膜に焼き付けて、小さく笑う。
「そうだ! さっき言ってた面倒な事件って何ですか?」
「ああ、ちょうど今からそこへ向かうところさ。君とエリカ君も来てもらうから、準備しておいで。もしかしたら、泊りがけでの調査になるかもしれないからね」
「本当ですか!? 分かりました! 早急に準備してきます!」
 そう言い残すと、宗太は店の奥へと走り去って、騒がしく音を立て始めた。
「エリカさん! 俺の歯ブラシ知らない!? ああゴメンあった!」
「ちょっと、それ私の歯ブラシじゃない! 返しなさいよ!!」
「まあ固いこといわないで下さいよ」
「本気で殺すわよ」
 店の奥から響いてくる、久しく聞かなかった平和な言い争いの声。
 それを聞いて、五條は線の細い顔に柔らかい笑顔を浮かべる。そしてそれっきり……

 彼の笑顔からは、喜びの感情はなくなった。

「祐一……。本気で《パラマグラタ》に向かおうと言うんだな」
 寂しげにそう呟くと、床に置いた段ボール箱を再び持ち上げる。
「ならば僕も、全力を尽くさねばなるまい」
 その瞬間、首から下げたロケットが紫色に輝く。
「もうすぐだ……もうすぐで居所がつかめるんだ……。僕の<インセクター>人生で最も憎むべき"蟲"、《マザーヴァース》の居所が……」

     


          †

 《蟲害》に遭い、幸か不幸か一命を取り留めた者たち、則ち《インセクター》の秘密に全てが眠ると言う謂れがある、<インセクター>もとい<ライオット>の本拠地――――《パラマグラタ》。
 "蟲"に関する最先端の情報・技術が結集した場所。
 世界中の"蟲"を駆除するために、何十年も前に設立された組織。
 人知れず世界の平和を守っている、極秘の平和維持機構。
 その在り処は、かつてはヨーロッパ地域のイギリスと呼ばれていた国に存在すると称されていた。


 実際は、この日本国内に存在する。
 

 《蟲害》から逃れる事に成功した第一人者であり、《パラマグラタ》の創始者、及び現在でもその中心で指揮をとる人物は、ある時こう提案し、その日のうちに実行に移した。
「我々人類が憎むべき"蟲"はその勢力を徐々に強めつつある。現に私が育った英国では、国民の六割方が発症しているという、もはや取り返しのつかない混迷の危機にある。これは欧州に限ったことではなく、現在私の居住している中東でも、会う人間ほとんどに"蟲"の存在が見られる。かたや米国では『合衆国は"蟲"侵食の危機には瀕していない』との声明がされているが、私の率いる組織の極秘の調査で、既に中枢部が《蟲害》に蝕まれ、"蟲"が一国を支配している状況に陥っているということが判明した。
 ここまで私が調査してきた中で、確認できたことがいくつかある。
 まず一つ目に、この《蟲害》は単なる災害ではなく、感染病に近いものであるということだ。例え直接《蟲害》と関わっていなくとも、それに関わった人物――――<インセクター>と接触することで、誰もが"蟲"の脅威に晒される危険性がある。これは何年も前から分かっている事実であるので、今更追求はしない。
 二つ目に、《蟲害》に関わった人物の中には、<インセクター>に属さない人物もいるということだ。これはごく最近確認された事項で、私はそれを<傀儡師>と呼ぶことにする。詳細は今だ不明だが、どうやら彼らは我々とは逆に、"蟲"そのものを使う能力を有しているようだ。そしてさらにこの世界のどこかでは、彼ら<傀儡師>によって形成された組織も存在すると聞く。こうなると<インセクター>、<傀儡師>、そして"蟲"の三つ巴の静かなる世界戦争といっても過言ではないだろう。この事項は新たな情報が入り次第逐次報告して行く。
 最後に三つ目だが、私は最初に、《蟲害》は災害ではなく感染病に近いと述べた。
 しかし正確に言えばそれも誤りで、正しく供述すると、"蟲"というものは誰にでも発症しうる人間の生来持つ持病のようなものなのだ。
 一人一人を完全に隔離して、電子メディアでのみコミュニケーションをとるという物理的な意味での隔離社会を実現した国があった。私もこの案には少々興味があり、《蟲害》を未然に防ぐことの出来る唯一無二の手段ではないかと期待さえもした。
 だが、その期待は僅か一ヶ月にして打ち破られた。
 その国は瞬く間に《蟲害》に遭い、破滅していったのだ。
 この事実を元に、私は『《蟲害》は感染するのではなく発症するもの』と言挙げした。もはや、反対論を述べる者さえいなかった。
 解決できる手段を失い、絶望の淵に落ちていた私だが、ここである一つの事実を発見する。
 世界中でたった一つだけ、《蟲害》がほとんど発生していない国を発見したのだ。
 私は自今よりその国へと赴き、発生していない理由など調査した後、その国に私の組織の本拠地を設立しようと思う。
 幸いにもそこは私の母国であり、文化の違いに困ることはない。
 先述した<傀儡師>にこのことを知られると厄介であるので、どの国かは具体的には述べない。申し訳ないが、私の育った英国には偽の本拠地を設立し、母国の本拠地がばれないようにしてもらう。
 残酷だが、これよりほかにこの世界を救う術はないと、私は判断した。
 ここにおいて、私は母国で"蟲"と戦うためにはもう連なる犠牲は一切を見捨てると断言する」

 2052.11.9 グレートブリテン王国(現第一次危険指定地域)雑記『蟲害における見解』 第二百八十三項より



 ……………………
 ………………………………………………


「この国に、僕たち<インセクター>の本拠地が?」
「そうなんだ」
 瀬川が独自に手配したタクシーの中で、瀬川はいつも通りの平静な口調で言う。
「今から十年ほど前のことだろうか。ちょうどこの国でも《蟲害》が発生し始めたときに、《パラマグラタ》の原点となる僅か三十人程度の組織がこの国へとやってきた。彼らはこの国の住民に"蟲"の脅威についての演説を行った。しかし、治安が守られていたこの国では、とうとうその供述は受け入れられなかった」
「それじゃあ……彼らは一体?」
「今更帰るということも出来ない彼らは、結局はこの国に滞在した。彼らのひそかな活動によって、この国の《蟲害》は減少しつつあったんだ。…………だけど数年前、ついにこの国にも<傀儡師>がやって来た」
「………………!!」
「ソーマ……と名乗った少年も間違いなく<傀儡師>の一人だろう。奴らは急激にこの国で勢力を伸ばして行き、現在では<インセクター>と同等の勢力となっている」
 瀬川は一旦言葉を切り、車内には降り始めた雨の窓を打つ音だけが流れる。
 車窓に張り付く雨粒が流れて、昼間にも拘らずいやに曇った外界に、歪んだ静馬の表情が映った。
 水滴で歪んでいたのか、表情そのものが歪んでいたのはかは、分からない。
「……今更かどうかも分からないけど、静馬君、柚樹ちゃん」
 沈黙を破るのは、後部座席に座る二人に顔を見せずに言葉を投げかける瀬川。
「何でしょうか、瀬川さん」
 俯いたまま何も答えない柚樹の分まで、代わりに受け答える静馬。
 その返事を確認した後、瀬川は静かに言葉を紡ぐ。
「もしかしたらもう、『雑貨屋 アトランジェ』には戻れないかもしれない」
「………………」
「これは僕たちの出来る最後の戦いに、ひょっとしたらなってしまうかもしれない」
「…………はい」
「このまま世界が存続しようが否であろうが、僕たちの運命はもう決められてしまっているかもしれない。それを踏まえた上で、君は…………」
 一瞬の沈黙をはさんで、瀬川は一つの問いを投げかける。





「君は、無抵抗に死にたいのか。それとも、這いずり回ってでも、生き延びるのか。二つに一つだ。
 …………さぁ、答えてもらおう」


 くしくもそれは、静馬が瀬川から宣告された最初の選択肢だった。
「……………………」
 静馬は表情を固くしたまま、黙り込む。
 初めて瀬川と対面したときにもされた、この質問。その当時はどちらを選ぶことなんて出来なかった。しかし"蟲"に打ち勝ったことによって、その選択肢が、最初から一つに絞り込まれていたと言うことを知った。
 そして現在。あらゆる事実を知らされた静馬の中には、もう一つの迷いもなかった。
「……当然です」
 穏やかに答えると、静馬は表情を変えながら告げる。



 その顔には、笑み。
「僕が如何なる運命に遭おうとも、構いません。僕が尽力して世界が変わると言うのならば、僕はもう命乞いなんてしません。世界の命のためなら…………僕は、自分の人生なんて、いらない」

「…………」
 瀬川は最後の一言に、かつての静馬の姿を見た気がした。
「………………そうかい」
 瀬川は他言せずに、それだけ呟く。
 そして、静馬には見えないほうを向いて、一筋の涙を流した後。


「…………いい返事だ」


 隣の運転手にも聞こえないように、静かに漏らした。



 …………………………………………………………
 ………………………………



 世界の行く末など、誰にも分からない。分かりたくても、分からない。
 それでも人間は己のエゴのために、「世界平和の存続」と言う大義名分を掲げた上で、人間が滅びないようにと数多の討伐・殺戮を繰り返してきた。
 その結果、"蟲"という未知の生物が地球上に現れた。
 これは人間の抱える原罪そのものであり、防ぎようのない運命であることに変わりない。

 それでも、人は戦うのだ。
 いずれは"蟲"に滅ぼされる存在であろうとも。
 例え自らの運命を知り、絶望の果てに追いやられたとしても。
 人は、戦う。
 生物学史上最も賢い生物として、人間は最期の時までエゴイズムを貫く。
 それが、我々人間に見合った生き方なのではないだろうか。
 今更"蟲"から逃れるということは、考えるべきことではない。
 勝ち目のない戦いに挑んで、人間を人間たらしめるものを如何なる時でも掲げる。

 それが私達に残された道であり、運命なのだ。


 ――――2052.11.9 グレートブリテン王国(現第一次危険指定地域)雑記『蟲害における見解』 第二百九十四項より

       

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