世界は白くたゆたっていた。頭上が淡く輝いている。水面に揺れる太陽の光がゆるい円を描いていた。俺は、白濁した意識の海をゆっくり上っていった。
温かい光の波に包まれ、心は安らかだった。まだ抜け出したくない。できればずっと留まっていたかった。
そんな俺の額に触れるものがいる。生暖かく、柔らかな刺激だ。振り払うと止むが、しばらくすると、またこすれ始めるのだ。
この感覚、身に覚えがある。記憶を辿ると、そこに俺の犬がいた。
そうか、おまえ帰ってきたんだな。
なんだよ……。なめるなよ。メシだろ、焦るなよ。
わかったよ、大丈夫だよ。すぐ起き………ン?
そこまで思って飛び起きた。
俺の頭蓋の中で、骨がぶつかる音が高らかに鳴り響く。同時に、幼女が枕元でひっくり返った。転がった拍子に、濃いピンクのスカートから白いパンツがのぞく。――尻尾がない!
「qあwせdrftgyふじこlp!」
痛みと驚きで、俺の悲鳴は言葉にならなかった。
俺は思う。子供のパンツは、なぜヘソ上仕様なのか、と。
いやいやいや。突っ込むところはそこじゃない。こいつ、尻尾がなかったぞ。ついているのは、猫耳だけか。なんだか少し拍子抜けだ。しかし、耳だけなら誤魔化しようがあるかもしれない。
くだらない考えでグルグルになった俺のことを、幼女が涙目で見上げていた。ぶつけた頭が痛かったのか、俺のイキオイに驚いたのか、おでこを押さえ、顔をしかめている。ヤバい兆候だ。
「泣くな。泣くなよ」
俺は、急いで倒れた幼女を抱き起こした。
安アパートの壁は薄い。盛大に泣かれたら、隣に筒抜け確定。つまり通報フラグ一直線だ。それだけは避けたい。
滅多に使わない頭をフル回転させながら、泣きそうな顔のまま硬直している幼女の額をさすってみた。
「よしよし、ゴメンな。痛くない、痛くない。悪かったな、ビックリしたよな」
額にタンコブは出来てない。触っても痛がらない。これなら、たいしたことは無さそうだ。
必死にあやしていると、うっすら涙を浮かべた幼女の目から非難の色が消えていった。俺の言葉に呼応するように、小さい手でぶつけたところをペタペタ押さえている。うわー、ホントに手ぇちっせぇ。
ホッと胸をなで下したのも束の間、元凶がなんだったか思い出した。そもそも、額をなめてたんだ、こいつが。実際は叩いてたのかもしれない。とにかく、幼女側からアクションがあったのは確実だ。
「もしかして……腹減ってんだろ、おまえ」
幼女はきょとんとした顔で、俺を見つめている。
「ごはんだよ、ご・は・ん。食べるもの。だから、なめたんだろ?」
顔をのぞき込んだ途端、「きゅるるるる」と幼女の腹の虫が鳴った。
タイミングが良すぎて、笑ってしまう。
「わかった、わかった。すぐ作るから、待ってろよ」
テレビを点けて立ち上がり、俺は食事の用意を始めた。支度する間ずっと話し続けていたのは、泣き出されるかもしれない恐怖を誤魔化したかったからだ。デカい独り言になってたって、かまうもんか。
「おまえぐらいの大きさなら、離乳食じゃなくても大丈夫だよな。今日の昼飯はトーストだ」
幼女は小首をかしげたまま、真っ黒なガラス玉みたいな目ン玉で、俺の言葉を聞いている。テレビには見向きもしない。
見た目は猫っぽいのに、仕草は犬だな、こいつ。
風呂とトイレ付きで相場より若干広めとはいえ、1Kの俺の部屋に余計な物を置くスペースはない。したがって、俺の部屋にトースターなんて高尚なものはなかった。焼き物をするときは、コンロについているグリルってーの? アレを使っている。
キッチンは、小さい流し台にテーブルコンロとフライパン、電子レンジと独身用の冷蔵庫。それから、掃除機に小さめの食器棚でいっぱいいっぱいだ。ゴミは種類ごとにゴミ袋へ直接イン。効率重視ってやつだな。
どうせ俺以外誰も来ない部屋だ。今までは体裁なんてどうだってよかった。収集日直前はゴミ袋で満杯になるこの部屋も、俺にとっては天国だった。
なのに、どうしてだろう。今の俺は、普段からもっと片付けておけばよかっただなんて、馬鹿なことを考えている。
台所と部屋をさえぎる申し訳程度の引き戸は、開けっ放しになっている。台所から部屋の様子は丸見えだ。
幼女は俺が支度する間、ずっと俺の様子を見つめていた。
普段使っている大きめのマグカップに幼女用の牛乳を注ぎながら、俺はグリルの火加減を気にしていた。
「トーストなんて久しぶりだよ。せっかくだから、二人で食べような。マーガリンしかないけど、おまえ大丈夫だよな?」
一人暮しの部屋に二人分の食器はない。俺用の牛乳はラーメンどんぶりに入れて、二人の飲み物を冷蔵庫に載せた電子レンジにかけた。
「熱くし過ぎるとヤバいよな。やっぱり、猫舌なのかな」
横目でちらりと幼女を見ると、ヤツは相変わらずじっと俺を見つめていた。だが、明らかにさっきまでと目の輝きが違う。キラッキラの瞳が、早くよこせと語っていた。
先に出来たホットミルクを取り出して、食卓と兼用にしているパソコン机――ぶっちゃけ、ちゃぶ台みたいなモン――に置いた。
「マグカップ、持てる?」
幼女は不思議そうな様子で俺のカップを受け取った。物怖じしない子だな。
じっと観察している俺の前で、幼女は少しだけミルクをなめて温度を確認した。ぬるめに作ったホットミルクは、彼女のお気に召したようだ。一気に飲み干すと、満面の笑みを浮かべ、俺に向かってカップを突き出した。
「ごわあん」
おお、しゃべれる。
「分かった、ちょっと待って」
俺が自分の牛乳を分けてやると、そちらもあっという間に平らげてしまった。口の周りのデカい白ヒゲを拭ってやる。幼女は、名残惜しそうに口の周りをペロリとなめた。思わず、口元がゆるむ。
「おかわり作るから、待ってろよ」
カップとどんぶりを持って台所へ立つと、幼女は後を追ってきた。トーストを取り出し、牛乳を温める俺の後をついて回る。期待に充ち満ちたその目を見ていると、「餌付け乙」と言わざるを得ない。
引っ張り込んじまった俺が言うのもなんだが、誘拐犯に連れて行かれるのって、こういうタイプなんだろうな。
大きめの皿に二枚のトーストを載せて、机に置いた。床に座ってふんふんと皿の匂いをかぐ幼女に「まだダメだぞ」と形だけの静止をしておいて、俺は急いで二人分のホットミルクを運んだ。
「ンじゃ、いただきます!」
少しパンをちぎって幼女に渡す。問いかけるような彼女の視線を受けながら、自分のトーストをちぎって食べて見せた。すると、幼女はニヘッと笑ってパンをかじった。こいつ、結構頭がいいかも?
「なあ、おまえしゃべれる?」
幼女は、俺の問いかけを華麗にスルーした。食欲に負けただけかもしれないが、この歳の子供にしては、大人しい気がする。女の子って、もっとこう……機関銃みたいにしゃべらなかったっけ?
「これは?」
俺は、パンのカケラを幼女の前に差し出した。幼女は、じっと見つめてからパクリと食いついた。
「違うだろー!」
『ごはん』と言って欲しかったのだが、どうやら俺は失敗したようだ。はたして幼女と会話が成り立つのかどうか、長期戦で確かめていくしかないのかもしれない。
久しぶりの食卓は、ゆっくり味わう暇なんかなかった。せわしなく動いては食べ、食べてはこぼす幼女の世話で、いっぱいいっぱいだったからだ。
相当腹が減っていたのか、さっきの失敗が響いたのか、俺の食料が頻繁に狙われた。手に持ったパンにかじりつこうとするのはデフォルト。
「おまえのために、ちぎったんじゃねえよ。これは俺の! さっきのは例外!」
が、聞いちゃいねえ。取られたパンは譲ることにして、諦めてもう二枚焼いた。
焼き上がったトーストを持って食い物と格闘している幼女の側に座ると、彼女は先程渡した俺分のパンではなく、俺が持っている焼きたてに手を伸ばした。
「おまえの分は、そっちだろ!」
「ごわあああん」
またしゃべった! 限りなく鳴き声に近い気もするが、使いどころは間違ってない。
「やっぱ、しゃべれるじゃん! エライぞ!」
嬉しさのあまり、思わず手持ちを差し出す俺。嬉々としてかぶりつく幼女。なんかちがくね?
「ズルいだろ、そーいうの……」
いまさら文句言っても後の祭りだ。やっちまったのは、俺なんだもんな。
こんな勝負が延々続いたわけだ。
――もちろん、俺が負け続けたことは言うまでもない。
嵐のような昼食が終わると、もう日は暮れていた。
昨日買った食料の半分は、この小さい幼女の腹ン中だ。とてもじゃないが、家にあるものだけじゃ足りない。今日中に、明日分の食料を確保しておくべきだろう。
洗い物をしている俺の横で、幼女は俺の布団の中央に座って、ボーッとテレビを眺めていた。
皿を洗い終わる頃には、何度か目をこすって船をこぎ始めた。前後に揺れる角度が少しずつ大きくなっていく。壁に頭をぶつけそうになったすんでのところで抱きとめると、大ケガをしないうちにヤツを寝かせつけた。
布団のど真ん中で、枕を強奪して眠りこける幼女を見ていると、この家の主はいったい誰なんだと思わざるを得ない。
今日も布団の端で丸くならないとダメか……。
こうして――俺の平和とは程遠い日々が始まった。