クロ電話ノ鳴ル処
少年ノ黒電話
―――もしもし。もしもし。
聞こえますか。
僕の声が聞こえますか。
聞こえたら、返事をしてください。もしもし、もしもし。
聞こえますか。お母さん、お父さん。
・・・。
・・・・・・。
夢の中で電話をかけている。
繰り返し、繰り返し、電話をかけ続けている。
今ではほとんど見ることのない黒電話。そのダイヤルを回し続けている。
「もしもし……」
当時六歳だった。じーちゃんの家にあった黒電話のダイヤルを勝手に回し、イタ電を繰り返しては怒られていた。それでもめげずに繰り返していたからだろう。苦々しいじーちゃんの表情と一緒に、ある日その黒電話を譲り受けた。
「まったくお前という奴は。ほれ、大事に使え」
両手で受け取って、その重みを感じたこと、今でも鮮明に記憶に残っている。六歳の俺は重たい黒電話を抱えて、部屋の中をぐるぐる駆けまわって喜んだ。
「もしもし、もしもーしっ!」
黒電話が自分の物になってから、毎日電話をかけて遊んでいた。当然回線は繋がっておらず、単なる「ごっこ遊び」だったわけだが、それでも飽きることなくダイヤルを回していた。実際に電話が繋がることよりも、数字のダイヤルを回した時の、不思議と耳に残る、あの音が好きだったんだ。
カララ……キュルルルルル……。
四六時中ダイヤルを回しては「もしもし」と言っていた。回線が繋がっていないことぐらい分かっていた。なのに飽きもせず熱中し、どこへ行くにも黒電話を持ち歩き、道行く人達に「もしもし」と話かけていた。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
黒電話。僕の宝物。
にこにこ笑って声に出せば、いつだって、誰かが笑いかえしてくれるから。
「もしもし、もしもし……。お母さん、お父さん……」
電話の相手が、すぐ目の前にいるように呼びかけた。
「……お願い、返事をして」
黒電話のダイヤルを回して。受話器を耳に押し当てて、二人を呼び続けた。いつも笑って相手をしてくれた両親は、もう何処にもいない。
「……ねぇ、お家に帰ってきてよ……」
分かっていた。この電話が二度と、二人の元へは届かないことを。それでもずっと、黒電話のダイヤルを回し続けていたのは、認めたくなかったからだ。
「……もしもし……もしもし……」
願いは叶う。想いは届く。祈り続けてさえいれば、きっと、必ず。
母さんが読んでくれた絵本の少年のように。父さんと遊んだゲームの勇者のように。追い求めてさえいれば、願いの一つぐらい、たやすく叶うはずだ―――そう信じたかった。
手の届かないところへ行ってしまった、遠い二人の元へ。
黒電話の受話器を持って、ダイヤルを回して、呼び続けた。
「お父さん……お母さん……」
「―――あらあら、どうしたの、もうお腹が空いた?」
「―――あと少しで峠を越えるから、それまで我慢しろ」
偽りの声が届き、二人の姿が頭に浮かびあがる。それに確かな実感を伴うまでの間も、狂ったようにダイヤルを回し続けていた。
カララ……キュルルルルル。
「そうね。お家に帰ったら、しんクンの好きなカレーを作ろうね」
カララ……キュルルルルル!
「わかったわかった。帰ったら、昨日の続きをしような」
カララ……キュルルルルルッ!
「もう。ゲームはご飯の後よ。あなたもしんクンも、お母さんがご飯作る時ぐらい、ちゃんと手伝ってちょうだいね」
「わかってるって。なぁ、信也?」
カララ……キュルルルルルッッ!
「しんクン、今日はお片づけだけじゃなくて、お野菜の皮をむいたり、切ったりにも挑戦してみる?」
「おいおい、それはちょっと危なくないか」
「あなたに包丁持たせるより、よっぽど安全よ」
「ひでぇ。まぁ、でも大丈夫か。もう十年だしな」
「そうよ。私達が死んだこの日から」
「はやいもんだ。このままだと揃って、信也に追い抜かれちまうな」
「いいことだわ」
「だな」
カララ……キュルルルルルッッッッ!!!
二人は笑っていた。幸せそうに笑っていた。
その日は車で片道一時間の、日帰り旅行の途中だった。空には夕陽が浮かんでいて、沈みゆこうとしていた。笑う二人の横顔を淡く照らしだしていた。
穏やかな時間。大切な日常。緩やかなカーブ。
ブレーキを軽く踏んで、ハンドルを傾ける。安全運転で曲がりきる。次の瞬間、正面のフロントガラスに、巨大な大型トラックが一杯に映っていた。
「じゃあな、信也」
「元気でね」
なにかを考える前に、爆耳が耳をつんざいた。窮屈で緩めていたシートベルトが衝撃で外れた。後部座席から投げ飛ばされて、両手に黒電話を抱えたまま、どこかに叩きつけられる。
びちゃ。ぐちゃり。
優しい夕陽の色に混じって、真っ赤な液体が全身にべったり染みついた。身体がひどく痛かった。だけどそれ以上に、たくさんの血が溢れだしていた。
「…………」
その間、気絶していたのか、そうでなかったのか、正確には覚えていない。ただ、夢の中にいるようだと思った。
「―――生きてる! 子供 "は" 生きてるぞ!」
ギリギリと外側から缶詰の蓋を開けるようにして、ひしゃげた車の扉がこじ開けられた。大柄で屈強な数人の男が、手に持った照明を持ったまま、必死の形相でこっちを見ていた。中央の一人が手を伸ばし、残る二人が口元を押さえて後ずさった。
抱きかかえられる直前まで、夜風が静かに自分の全身を吹き抜けていくのを知った。暖かかった身体が冷えていくのを感じた。
「…………」
ふと、横を見る。
二人分の柔らかい肉と、暖かい血。優しく千切れた掌。
ふと、自分の胸元を見る。
どうにか原形を保ったらしい自分の身体。両手は相変わらず黒電話を抱きしめていた。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
奇跡的に生き延びた。生き延びてしまった。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
「……おとうさん……おかあさん……」
泣きながらダイヤルを回す。ぐるる、ぐるぐる。ぐるぐるぐる。
指の皮が切れて、血が滲んでも止まらない。ただ、二人の声だけが聞きたかった。
「……もしもし……」
回し続けた。
事故の後、じーちゃん家に引き取られて、十年が経った今でも覚えている九桁の電話番号。三人で暮らしたマンションの一室の電話番号は、六歳当時の俺が、一生懸命覚えたものだった。二度と忘れられない。
『XXX-XX-XXXX』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
事故の日以来、車や電車に乗れなくなった。僅かな振動を感じるだけで、すべての臓器が悲鳴をあげ、頭の中が真っ白になる。嘔吐を繰り返しながら、この世界を呪った。二度と繋がらない電話線の先にある世界に縋りついた。
カララ……キュルルルルル!
ダイヤルの回る音、胸を貫いた。それでも一度感覚が麻痺してしまえば、痛みも、苦しみも、事故の記憶さえも、安らぎと変わり果てる。
世界が怖かった。恐ろしかった。
簡単に人を殺せる物に溢れている、この世界から逃げだしたかった。
「……もしもし、……もしもし……」
否定する。すべてを否定する。
黒電話の色しか映らなくまで。
黒電話の音しか聞こえなくなるまで。
匂いも感触も消し去って、自分に都合のいい世界だけを想像する。
世界から殺されてしまう前に。
『――――――――もし、もし……』
不意に「ガチャン」という音が聞こえた。受話器の先からうっすら響くその声に、思わず首を傾げたことを覚えている。
繋がらないはずの黒電話が「どこかに」繋がったのだ。しかし願い続けた奇跡らしきものが起きた時、心はとっくに空っぽだった。
考えることを放棄した脳みそが、繋がった電話の次なる声を、黙って待った。
『……私の、こえが、きこえ、る……?』
「うん」
『……本当に、きこえ、る……?』
「うん」
受話器の先。女の声だった。しかし母ではない。
花の蕾が開くように、『う、ふ、ふ、ふ』と、静かに笑う電話の相手。不意に思いだしたのはその時だ。
「……ぼくは……」
お母さんに言われたこと。お父さんに言われたこと。電話が繋がったら、まずは自分の名前を名乗らないといけない。
「ぼくのなまえは、いのぐち、しんや、です……」
『……しん、や……』
それから、相手が誰なのか尋ねないといけない。
「あなたは、どちらさまですか?」
『……』
「もしもし?」
『……私、は……』
声は優しく、柔らかく、静かに応えた。
『……貴方の手の中に……』