クロ電話ノ鳴ル処
平穏ノ朝
『クロ電話ノ鳴ル処』 作:五十五
日常のはじまりは、目覚ましの爆音か、どこかのんびりしたスズメの声と相場が決まっている。
「……朝か」
半ば無意識に、枕元の目覚ましを布団の中まで引き寄せた。目を細めて見ると七時五分前。夢見が悪かったせいで、微妙に早く目が覚めたらしい。
寝返る。カーテンの隙間から朝の気配が覗いていた。焦点の定まらない目で、薄暗い部屋の中を見渡したあと、普段なら暖かい布団の中で二度寝したいと思う時だった。
「……生きてるよな?」
自分に確認。布団の中で、何気なく指を動してみる。すると動く。両手を伸ばしてみると持ちあがるし、上半身を起こせば冷えた気配が首筋から肩に伝わり、背中へと降りてくる。十年前、初めて病室で目を覚ました時は、激痛に苛まされて最悪だった。しかし今はそんなことはなく。
「起きるか」
今日も、俺は変わらず生きている。
そろそろ寒さが本格的になってくる十一月。
吸い込んだ部屋の空気は少し冷たい。立ちあがってぼんやりする視界の中を窓へ寄る。カーテンを引っ張り開ける。朝の光が目に眩しい。
「うわ、さむ」
窓を少し開けると、予想以上に冷たい風が吹き抜けた。口からこぼれた息も白くなる。十一月に入ってから、朝もどんどん冷えてきた。だというのにだ。
「相変わらず元気だな」
家の庭を見下ろすと、朝日に反射するハゲ頭を発見。
上半身が半袖の元気ジジィが、趣味の盆栽をいじっていた。手に持っていた剪定鋏が、しゃきん、しゃきん、しゃきん。
「おはよ、じーちゃん」
「……ん?」
相変わらず愛想ゼロの、ムスッとした表情が仰ぎ見てくる。
「おう、やっと起きたか信也」
「じーちゃん、寒くねーの?」
「この程度で寒いとか言っとられんわ」
不敵に、口元だけがニヤリと笑う。ウチのじーちゃんの人相は、かなり凶悪だ。初めて家に遊びにきた連中が、慌てて慣れない敬語を使うのは勿論のこと、遠慮のない奴になってくると「お前のじーちゃん、マジパネェ。何人ぐらい殺ってんの?」とか言ってくる。
「はやいもんだな。信也が起きてきたっつーことは、"もう" 七時か」
「"まだ" 七時だよ。年寄りの朝を基準にすんな」
「やかましいわ。ほれ、さっさと降りてこい。飯にすっぞ」
「おう」
返事をして窓を閉めなおす。上着を手に取り羽織り、そのまま部屋の襖に手をかけた。その時だ。
『―――――――――』
俺の手を包み込むようにして、襖をすり抜け現れたもの。
十本の細い指先。二つの掌。その先に繋がっている、華奢な腕。さらに胸の膨らみから胴体が浮かび、同時に女の顔が現れる。
『―――――――――』
黒のロングヘアー。目鼻立ちの整った綺麗な小顔。身に纏ったのは黒の着物で、背丈はうちのクラスの女子よりやや低い。
頭一つ低い位置から、襖から半端に突きでた細首を傾けて、うっすら笑う彼女。美人が笑えば絵になるというが、それ以上に、別の意味で心臓に悪い。
「クロ、やめろ」
語気を荒めて、彼女の名前を呼ぶ。笑みが消え、半目の眠たそうな表情に変わっていった。そのまま襖をすり抜けてくる。さらに俺もすり抜けて、閉めたばかりの窓際まで歩き、ゆらめくように振り返る。
『―――――――――』
今度はしっかり両手を前に添え、丁寧に頭を下げたお辞儀。
十年の付き合いがあるから、その仕草で、相手が「おはよう」と言っているのが分かった。
「ったく……おはよう、クロ」
『―――――――――』
溜息混じりに言うと、クロも無表情で頷いた。そしてすぐ、人差し指を部屋にある箪笥に向ける。上に置いてある黒電話を指差していた。
受話器を手に取り、ダイヤルを回す。
『XXX-XX-XXXX』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
―――――ガチャン。
「もしもし」
『……信也、おはようございます……』
「クロ。壁抜けは驚くからやめろって言ってるだろ」
『……申し訳ありません……』
「同じこと言うの、これで何度目だ?」
『……信也は、覚えていらっしゃるのですか……?』
「お前、反省する気なしか」
『……はい……』
うっすら微笑んで、あっさり言う。
軽く睨んでみるものの、それがどうしたと言わんばかりに、耳元から『う、ふ、ふ、ふ』と笑う声だけが返ってくる。
「なにがおかしいんだよ」
『……ごめんなさい……信也の拗ねたお顔が可愛くて……』
「お前なぁ」
『……ふふっ……』
受話器の先。声は静かに、穏やかに、楽しそうに笑った。
クロと初めて顔を合わせたのは、十年前。両親が事故で亡くなり、その数ヶ月後まで、延々と、黒電話のダイヤルを回し続けていた時だった。
『……貴方の願いを、聞き届けに、参りました……』
自らを黒電話の『付喪神(つくもがみ)』と名乗り、十年経った今も変わることのない、この姿で現れたモノ。
「クロ」
『……はい……』
「壁抜けは今後一切禁止だ、いいな?」
『……嫌です……』
「おい」
『……だって、他にも言い付けばっかり……特に夜間、貴方の部屋に参ったらいけないだなんて……ひどい……』
「お前は過保護なんだよ」
『……いいえ。大事が起きた際、貴方のお側にいられなくて、どうしろというのです……?』
「別に何もしなくていいってば」
『……冷たい……』
半目でじっと睨まれる。
しかもこれ見よがしに、溜息もついてみせられる。
『……昔はもっと優しくしてくださったのに……遠出をする時にはいつも、依代の私を抱えて、一緒に連れていってくださった……』
「昔はな。つーかお前重たいし、持ち運ぶの面倒なんだよ」
『……ひどい……』
「なんとでも言え。あと壁抜け禁止な」
『……嫌です……』
「少しは言う事聞けよ」
『……』
無言。顔を逸らされる。こうなったらクロは意地でも首を縦に振らない。今日も堂々巡りだ。
十年前は確かに、何処に行くにも依代の黒電話を抱えていた。両親が亡くなってからは、一層依存していたように思う。小学校にまで、じーちゃんお手製の巾着袋に入れて、クロと一緒にいたぐらいだ。けどそれも昔の話。今は正直、クロの存在が煩わしいと思う事が多い。
『……信也……』
「なんだよ」
『……もう、私の助けなんて、いらないのですか……?』
「うん、いらね」
言うと、手にした受話器の先から、すすり泣くような声が聞こえてきた。
『……信也は、いつか私を捨ててしまうのですね……?』
「捨てはしねーよ。ただ、お前の世話はもう必要ねぇんだよ」
『……そんなの嫌です……遠ざけようと、しないで……』
すぅっと伸びてくる両手。縋るように向けられた表情は、十年前、俺がクロに向けていたものと、同じだったかもしれない。気後れしてしまって、逃げられなかった。
『……いつも一緒にいて。側にいて。離れないで……貴方がそう言ったから……』
「わかってるよ。ただ、あれは、ガキの頃の話で」
『……信也は、信也です……』
クロの掌が両頬を覆う。感触のない掌が冷たいと感じた。間近に迫った綺麗な顔。背筋を逸らす。
「こら、よせ、クロ」
『……私は、ずっと……』
黒電話の受話器を持ったまま、箪笥に背を預ける形で追いつめられる。クロの身体は幽霊のようにすり抜けるから、そんな風に思うのも変な話だが。
『……信也……』
潤んだ瞳を見て、僅かに顔が熱くなる。
「やめろ、近づくな。頼むか―――」
「信也ぁ! さっきからなにを一人でブツブツ言うとんじゃっ!」
すぱーんと、部屋の襖が勢いよく開かれた。
「……じーちゃん?」
「メシじゃけん、はよ降りてこいと言うただろうが! ところでお前、なにやっとんじゃい?」
「なにって……」
「飯が冷める。はよ降りてこい。ええな?」
「ごめん、すぐ行く」
「うむ」
入ってきた時と変わらない勢いで襖を閉めて、階段を降りていく音が遠ざかった。
『……う、ふ、ふ、ふ……』
「笑うな、バカ」
目の前。口元に手を添えて、クロが小さく笑っている。こいつの姿は十年前から一度も、俺以外の誰かが目にしたことはなかった。何故かと聞けば『……当然です……私のことを大事にしてくださったのは、信也だけですもの……』と、理屈の通っていない答えが返ってくるだけだった。
『……信也が意地悪ばっかりするから……』
「俺のせいかよ」
『……はい、信也が悪いんです……ふふ……』
「お前なぁ」
今になって思う。本当にこいつは付喪神なのか。というかそもそも、付喪神なんて本当にいるのか。目の前に存在するこいつは、十年前、俺の妄想が生みだした単なる幻覚なんじゃないのか。だとしても、十年間、クロと一緒にこの家で過ごした記憶だけは揺るがない。
俺にはクロという存在が見え、受話器を耳に当てれば声が聞こえる。今は口喧しい奴だが、十年前、どん底の状態にあった俺に、手を差し伸べてくれた。現実から目を背けたがっていた俺にとって、 "この世ならざる" クロの存在に救われた。
『……早く降りないと、またお爺様に怒られてしまいますよ……』
「わかってる。じゃあ切るぞ」
『……ぁ』
受話器を戻す。リン、と短い鈴の音が響いた後は、
『――――――――――』
クロの声も聞こえなくなる。それでも眉を顰めて、怒っているらしいことだけは分かった。
「降りるぞ」
『――――――――――』
聞こえないのをいいことに、さっさとクロの横を通り抜ける。襖の扉を開けて、今度こそ部屋をでた。
事故から十年。平凡、平穏に暮らしてきた。
今日も変わらず一階に降りて、飯を食う前に線香をあげる。両手を合わせて両親と、病気で亡くなった婆ちゃんの冥福を祈った。
「よし。じゃ、食うとするかいの」
「いただきます」
こたつに入って、じーちゃんと向かい合わせになる。食事の時はテレビを点けないのが恒例だ。静かな空気の中、俺達は黙々と飯を食う。
卵かけごはんに、味噌汁に、冷ややっこ。いつもと変わらない味付けの朝食が美味い。隣にはクロが正座して、眠っているように目を閉じている。変わることのない、猪口家の朝食の風景だった。
「じーちゃん、薬缶取って」
「茶か。入れてやるけん湯呑みだせ」
「さんきゅ」
冷たい朝の空気が流れる中、舌が焼けそうになるぐらい熱い茶を、慎重に一口啜る。
「情けないのぉ。それぐらい一息に飲み干さんか」
「無理。じーちゃんと一緒にすんな」
「軟弱な孫じゃ」
やれやれと首を振りながら、卵かけご飯の上に、豪快に醤油を浸していくじーちゃん。
「かけすぎじゃねーの? 塩分の取りすぎって、身体に悪いって聞くぜ」
「たわけ。美味いもんを美味いように食って、なにが悪い」
「へいへい。長生きしてくれりゃ文句はねーよ」
「ふん。子供に心配されんでも、百二十までは生きてみせるわ。安心せい」
腕を曲げて、力こぶを作ってみせる。ニヤリと笑う極道顔。第二次世界大戦の経験者。現在七十五歳。百二十歳はともかく、最低でも百歳までは当然のように生きていそうで恐ろしい。
「ところで信也。この前、お前の高校からもらった便りだが」
「うん?」
「ほれ、高校の秋祭りがどうのという」
「秋祭り? あぁ、高校の文化祭な。来週の日曜だけど、じーちゃんも見に来るだろ?」
「暇だったらの」
「いつだって暇だろ」
「たわけ。この歳になっても、やらなあかんことは山積みじゃ。まだ成人もしてない子供が、偉そうな口を叩くな」
「なんだよ、露骨に子供扱いすんなよ」
「ふん。そういう事で腹立てとるうちは青二才だ。それで、お前の組は当日なんの店を開くんだ?」
「メイド喫茶だってさ」
「……はぁ?」
言ったら、予想通り怪訝そうな顔をされた。隣にいたクロも両目を半分開いて、無表情に俺を見ていた。なんとなく気まずい。
「だから、ほら、あれだよ……お帰りなさいませ、ご主人様、とかいうあれだよ」
「…………」
クロの表情は変わらないが、じーちゃんの表情は一層険しくなった。見慣れているても、ちょっと背筋が粟立つぐらいの、悪鬼の如き形相だ。初対面の子供がこの顔見たら、間違いなく漏らしてるな。
「信也、貴様正気か?」
「正気もなにも、クラスの多数決で決まったんだから仕方ねーだろ。うちのクラス、変わった奴が多いしな」
「……嘆かわしい」
言って立ち上がり、三人の位牌が並ぶ仏壇に向き合った。
「……清美、陶也、智子さん……。信也が道を誤ることのないよう、わしなりに努力して育てたつもりだったが……まさかあのような、たわけた格好をすることになろうとは。本当にすまん」
「まてジジィ。俺がメイドになるとでも思ってんのか」
「なんじゃ、違うのか?」
「違うわ」
一体全体、なんでそういう考えにいきつくんだ。自分がメイド服を着て接客する姿を想像して、一気に飯が不味くなった。
「服を着るのは女子に決まってんだろ。男子は雑用係だよ」
「ほう。ところで都会では、執事喫茶なるものも流行っておるらしいのぉ」
「しらねーし、やらねーから」
無視して、一気に飯をかきこんでいく。いつもはじーちゃんの方がはやく食い終わるのに、今日は同時だった。
「ごちそうさま」
最後に熱い茶を一気に飲み干して、席を立った。
皿を片づけた後、いつものように二階に戻って、制服に着替えていた。シャツを身につけ、上着を着て、ネクタイを締め、ズボンをはき替えていたその途中、
『―――――――』
「……クロ」
また、勝手に襖をすり抜けてきた。相変わらず表情の乏しい、人形のように整った顔。口元だけうっすら微笑を作ってこっちを見ている。黒電話を手に取れと指差していた。
「お前、いい加減にしろよな」
『―――――――』
急いでズボンをあげ、ベルトを通した。催促されるがままに受話器を手に取り、ダイヤルを回す。
『……今更、恥ずかしがることもないでしょう……?』
「そういう問題じゃねぇよ」
『……昔は毎晩、お風呂にも、一緒に、入っていましたし……』
「だから、なんでもかんでも昔を持ちだすな。で、なんだよ。なんか用があるんだろ」
『……文化祭、私も連れていってくださいますよね……?』
当然ですよね。と言うように、こっちを見てくる。自分の手にある、重たい受話器と本体を見て、少し考えた。
「お前は留守番だ」
『…………』
無言。顔を背けられることはなく、代わりに睨みつけられた。
クロが自由に動き回り、俺の側をついて回るには、常に黒電話がなくてはいけない。依代である黒電話からは、遠く離れることができないらしい。昔なら、重くとも連れ回していたに違いないが、今は単純に、面倒くさいという気持ちの方が強かった。
『……う、ふ、ふ、ふ……』
不意に耳元の受話器から、笑い声が聞こえてきた。クロが笑っている。満面の笑顔で。一歩、距離を詰めてきた。
『……ふふっ、信也ったら』
二歩、三歩。
『……また、そんな意地悪なこと、おっしゃるのね……』
全身が寒気立ち、つぅっと、冷たいものが落ちていく。
『……信也がそう言うのでしたら、仕方がありませんわね……?』
笑顔が怖い。
俺より頭一つ分背が低いのに、気圧される。花咲くような笑みとはいうものの、それが食中花に思えて仕方ない。
「怒ってるのか」
『……はい、とっても……ふふ、うふふ……』
「笑うな、怖いから」
『……でしたら、もう一度お応えくださいませ……次こそは、色よい返事を聞かせてくださいますわね……?』
「そんなに来たいか、文化祭」
『……はい、どうしても……』
すぐ目の前で、じっと見上げてくる。触れ合うことのない両手が伸びてきて、頬を覆われる。受話器をあてた耳元へ、途切れることなく届けられる、くぐもった笑い声。
『……ねぇ、いいでしょう。お願い、信也……』
「わかった。わかったから。鞄の中に突っ込むのでよけりゃ、連れてってやるから」
『……約束ですよ……?』
「あぁ。じゃあ切るぞ」
『はい』
クロが満足そうに頷く。機嫌が良くなったことに安堵して、受話器を静かに置いた。短く重たい鈴の音。一度受話器を置いてしまえば、クロの声は聞こえない。僅かに頭を下げていた。
『――――――』
ありがとう、とでも言ったんだろうか。素直に礼を言う奴でもないけれど。最後にもう一度、いつもは見せない表情を浮かべて、壁の向こうへ消えていった。