クロ電話ノ鳴ル処
『十年後、たどり着いた処』
十年前。
怒りに支配され、叶わぬ報復を考えた。
拳を振るっていた。『死ね』という想いを込め、殴り続けた。
誰一人として、ワシを止める者はおらなんだ。
目の前の男が、息子夫婦を殺した極悪人だったからだ。
男は非道な人物であると、誰もが疑っていなかったからだ。
『貴様も、死ね』
殴り続けた。
己の感情を一心にぶつけた。殴り続けた。
頭を地につけ、ひれ伏し続ける男を、殴り続けた。
もはや、その一点しか目に留まっていなかった。殴り続けた。
殺してやる。殴り続けた。
何故、老いぼれが生き残り、二人が死んだ。殴り続けた。
悔い改めろ。永遠に、死ね。殴り続けた。
体力の限界が訪れるまで、殴り続けた。
やがて男は動かなくなった。死んだわけもなく、気絶していた。
荒く息をついて、振り返った時だ。
『………………………………………』
五歳の孫が、死んだ目で見ていた。
その瞬間まで、自分に義があるのだと信じていた。
しかしどれほどこの男を殴り続けたとして、死んだ二人は還らぬ。
わかっていた。間違いであったというのに。
『………………………………………』
両親を殺した男、泣き縋る一人娘、必死にやめてくれと叫ぶ。
悪鬼のように拳を振るう祖父を。じっと見据えている。
" なにが正しくて、なにが間違っているの? "
唯一に残された、命よりも大切であった存在。
小さな子供の最後の良心。それを砕いたのは、他ならぬ己であった。
まっかな血に染まった拳。滴る赤い血。
この手で、残された者を、抱きしめられると思ったか。
真に愚かしい。
罪をつぐなうべきは、己もまた、同じであった。
*
「―――あの一家を哀れんだわけではない。今も許してはおらん。これからも永遠に、ワシはあの家族を呪うだろうよ。残された妻と娘が生きてゆけるように支援したのは、単なるケジメだ。エゴだ。ワシが間違いを起こしたことを、忘れないためのな。
お前の、あの時の眼を、生涯忘れることはできまい。今も逃げ続けておった。あの時のことを、口にはできなかったのだからな。言葉にするのが本当に恐ろしかった。すまなかった、信也……」
それを最後に、老人は大きく息をついた。小さな俺に向かって、深く頭を下げた。
(……遠い……)
この人は、本当に、どこまでも、限りなく、遠いところに立っている。でもいつの日か、祖父の立つ場所へ辿りつく。辿りつかなければ行けない。亡くなった二人に、立派に胸を張って見せられるように。
(……まっすぐ追いかけているだけじゃ、ダメなんだ……)
目に見えているもの、感じられるもの、触れられるもの。それだけに捕らわれてしまっては、この人の場所にはいけない。
「……なぁ、じーちゃん」
「なんだ?」
「じーちゃんは、俺が死ぬと、悲しいか?」
「あぁ、悲しいな。考えるだけでも恐ろしいわ」
「俺が死んだら、じーちゃんも、死ぬか?」
問いかけた。そう言ったら、恐ろしく不敵な笑みを浮かんだ。
「死なんよ。信念は、魂は、生きていてこそ輝くもんだ」
ぞっとする。あぁ、そうだったな。
俺の憧れるヒトの生き方は『死なないこと』だ。
どれだけ絶望しても、生きて、生きて、生き抜いて、己の証を立てることなんだ。自然と自分の口元も微笑んでいた。
「おとなしくくたばれよ、クソジジィ」
「それならば、ワシを納得させてみろ。安心して、棺桶の中に突っ込んでくれや。一人前、それ以上の男になったお前がな。猪口信也」
「あぁ」
頷いた。逃げられない道。挑むだけで心が躍る。けれどそのことに夢中になってはいけない。手に入れるために追いかけるだけでは、手に入れた物の大切さを見失ってしまう。
手に入れた物は、理不尽に奪われてしまうし、そうでなくとも永遠に輝き続けるなどありえない。俺たちは、日々、なにかを失って生きている。
(負けねぇ)
理不尽に、もしくは平等に、なにかを失いながら生きていく。失うことが怖くて、仕方がない。もう間違えたくないと思い、新しく手に入れた物で、自分の喪失を埋め合わせようとする。過去を振り返らなくなってしまう。それが間違いなのだと、認めなくなってしまう。
十年前、俺は確かに救われた。
ずっとここまで、二人一緒に手を繋いで、生きてきたのに。
「……ごめんな、クロ……」
涙が溢れだしてくる。止まらなかった。十年の間、本当に泣いたことなんて思いだせなかったのに。ここ数日で、泣きまくっている。
「……クロ、クロ……っ!」
もう一度、話をしたい。お前の声が聞きたいんだ。きちんと向き合って、今度こそ、お互いの言葉を交わしたい。
『――信也っ! 信也っ!! どこですかっ!!!』
あぁ、その声。
いつものように、遠くから、近くから、聞こえてくる。クロの声。
『お願いです……! 返事をしてくださいっ……!』
ここにいると言いたかった。けれど、涙がこぼれるばかりで、ろくに返事もできなかった。
「誰だ? お前を呼んどるみたいだが……」
「……え?」
じーちゃんが首を傾げて、部屋の扉の方を見ていた。クロの声が聞こえてくる方向を。そんな、まさか。
「――ちょっと、クロ! 病院で大きな声ださないでよねっ!」
『だって! お爺様がいなくなれば、信也は、信也は……!』
「わかってる、わかってるから静かにしなさいってばっ!」
もう一人の声。大切な人の声。
『……優花っ! こっちですっ、信也の"糸"がこちらにありますっ!』
「だから、こっちって言われてもわかんないってば! あと、糸とか言われても―――あっ、ごめんなさい。すいません」
すぐ扉の向こう。大きな声の『二人組』を注意する、看護婦らしき人の声。それに謝る声が重なりあった。繋がる廊下への扉を、じーちゃんが開いた。
「いたっ! 猪口!」
上体を起こした視界の中に、穴吹が映って見えた。部活が終わった後に直接やってきたのか、学生服を着たままだった。手には、ピンク色の携帯電話を持っていた。
『お爺様っ、信也っ!!』
ボリューム最大。携帯が勢いよく振動する。穴吹が慌てたように持ち抱える。
「ちょっと猪口、この子、どうにかしなさいよねっ!」
「……へ?」
なんのことを言っているか分からず、思わず間の抜けた声がでた。というか、
「なんで、穴吹がここにいるんだよ」
「この子が、猪口のところに連れていけって、うるさいのよ」
「……この子?」
少し妙な間が空いた。穴吹が怒った顔をして近づいてくる。足取りは鋭い。ずいっと、ピンク色の携帯電話を押しつけてきた。
『……信也……そこに、いるの、ですか……?』
「クロ?」
目を見開いて、携帯の画面を覗きこむ。
『……あの……その……』
小さな画面の中。四角いブロックがぴょこぴょこ跳ねている。
『……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!』
跳ねている黒い物体。その一部が青色に変わる。画面の中に広がっていった。
『……私、やっぱり、信也と一緒にいたいのです……! 離れたくありません……っ! 貴方が大好きです……っ!』
青。一面の青色。
携帯の画面が、深い海のような、濃厚な色に変わっていく。
「猪口、なんなのよこれ。私の携帯、どーしてくれるのよ」
「……わりぃ」
笑いが込み上げてきた。今更ながら、また、泣き顔を彼女に見られたなと思った。恥ずかしさ以上に、心が洗われるようだった。くすぐったくなって、また笑う。小さな声が溢れでた。
『……信也、笑って、いるのですか……?』
「あぁ、笑ってる」
手を、正確には人さし指を、携帯の画面に伸ばした。ゆっくり上下に揺らすと、黒い小さな塊が、今度は赤くなった。
「これからもよろしくな、クロ」