朝僕が起きると、悲しいことでもあったのだろうか、ベッドの上で彼女が泣いていた。
そんな彼女を引き寄せて抱きしめる。彼女は僕の胸に顔をうずめ、声を出して泣き始めた。僕はこの瞬間、世界で一番幸せだったと自信を持って言える。そう、僕は彼女の全てを愛している。嫌いなところなどはない。他人の言う彼女の欠点は、僕にとってはすべてが裏返って長所となる。
彼女を守るためならば何を払ってもいい。いや、守れさえすればむしろお釣りがくるくらいだ。なぜなら彼女が今僕のそばにいるという奇跡的な幸福に僕はなんの対価も払ってないのだから。逆に何か対価がなければおかしい。僕だけが異常に幸福になってしまう。
そんなとても愛おしい彼女の頭を、僕はやさしく撫でる。
「ごめんな、さい」
小さな声がした。吐息のようにか細い声。
「大丈夫だよ」
僕はそっと耳元で返す。
「ごめん、なさい」
「ほら、大丈夫だから」
頭をやさしくぽんと叩くと、彼女の顔が上がった。目が赤かった。
「うん」
僕はそれに笑いかけた。そしてもう一度、抱きしめようと彼女の後ろに手をまわし、自分の方へ寄せる。
が、その前に何かが僕に当たった。そしてそれはそのまま僕の中へ。
「ぐ、あ……」
途端、激痛が走った。
腹に何か冷たいものが入ってきた。だが、ひんやりとした感覚を楽しむ余裕などない。反射的にその場所を抑えると、ぬるりと手が濡れたような感触がする。
息が止まった。侵入ヵ所に骨はなく、何かは更に奥へ奥へと進んでいく。そしてその度に僕の神経はひどく興奮し、痛覚を発狂させる。脳がイカレる。
「があああああああああ」
痛い痛い痛い痛い痛い。止まったはずの息を無理やりこじ開けて絶叫する。喉の全てを使って鳴らす自己への警告音は、しかし遅かった。すでにもう、貫通している。
「ぐがっ、……っあ」
背中側から鋭い刃が突き出てきたところで、彼女は勢いよくそれを引き抜く。僕にぽっかりと空いた穴から紅い液体があふれこぼれ、シーツの上に溜まりができた。同時に身体が勝手に脱力する。彼女の持つそれは赤の隙間から灰色をのぞかせ、時折カーテンの隙間から指す日を反射して銀色に光る。
「ごめ、んなさい。ごめんな、さい。ごめんなさ、い」
僕の上半身は後ろへ崩れベッドの外へ落ちていった。下半身だけはまだベッドの上。受け身を取ることもできず衝撃がすべて頭に直撃したが、痛みはなかった。狂った神経は、とうとうおしゃかになってしまったらしい。
「っは……。ははは。はははははははは」
そんな中、僕は笑った。
彼女は泣いていた。
「ごめんなさい。……ごめんな、さい」
彼女は僕の顔を覗き込む。涙を拭う度、手に付いている僕の血が可愛い顔を染めていった。しかしそれを再びあふれた涙が流していく。涙は雫となって落ち、僕の顔を濡らす。
別にいいよ、と口を動かす。けれど動くことさえままならず、息が漏れた程度で音にはならなかった。
口だけじゃない。身体中の感覚が、意識が、体温が、失くなっていく。間違いなく死ぬだろう。死ねるだろう。
「わたし、が、こんなことを、して、いなければ。殺さ、なくて、済んだのに。一緒に、いられたのに。な、んで。なんでなんでなんで。なんであなたが、死ななくちゃあ」
涙で彼女の顔がくしゃくしゃになるのが見えた。まだ最低限の五感は働いているらしい。だが、それはあまり嬉しいことではない。
やめろよ、そんな顔を見たいんじゃない。笑ってくれよ。お別れなら昨日、ちゃんとしたじゃないか。顔をしかめたかったが、もうできるはずもなかった。
人を殺すことが仕事の彼女。けれど、まさか僕を殺す日が来るとは思ってなかったろう。殺したい相手と殺したくない相手の一致という矛盾を抱えて、一体どれほど苦しんだのか。それは僕の頬に落ちる冷たい水滴が十分に語ってくれていると思う。
「嫌あああああああああああああああああァ」
ゆすっても僕に反応がないとみると、彼女は凶器を投げかわりに自身の頭を抱えて泣き叫ぶ。支離滅裂な声をあげて、まるで動物が吠えるように。
彼女がこんなに悲しんでくれることが、とても嬉しい。半狂乱の彼女を見て素直にそう思った。死ぬ寸前まで幸せなのだな、僕は。
もちろん僕が死なないで済む方法もあっただろう。けれど、それはダメだ。人を殺せない人殺しは欠陥品にしても致命的すぎる。殺人者である彼女を愛したのなら、その全てを守る義務が僕にはある。逆にいえば、彼女の何かを対価に僕を守ることなどあってはならない。彼女が許しても僕が許さない。だからこれは、彼女が彼女であり続けるための、僕の考えた最良の行動だ。
さようなら、愛する人。
泣きじゃくる彼女にそう心の中で囁いて、僕は目を閉じた。