『記憶』『世界の終わりは君と二人で』『ロボット三原則』『崇拝』/昔話/大野 英幸
走っていた。何も得る物はないとわかっていながら。ただひたすらに腕を振り、足を動かしていた。蹴り躓いて転んでも、また立ち上がって走る。
後ろで何か崩れ去る音がした。それでも前だけを見て、どれだけの物を忘れてしまうだろうと、後ろを振り向かずにいた。
何の痛みなのだろうか。わからない。
何が痛くさせているのだろうか。わからない。
どういう風に痛みが始まったのだろう。もう、覚えていない。
そして、また走った。がむしゃらに、無限に続くと思える大地を。
どれだけの距離があるか、どれだけの速度なのだろうか、目的地にいつ到着するのだろうか、そんなものとうの昔に考えるのをやめていた。
それを考えるのは野暮な事だと、そう思ったからだ。
そう思ったのは、いつの事かは忘れた。それでも、意志として残っている。
だから走る。つかれる事も、体は忘れているように。
…………。
「疲れることを知らないのは、彼らのいいところなのかもしれないな」
いつの事だったか、記憶が蘇る。
彼はブリキのおもちゃのような、ぜんまい仕掛けの、とても古臭い玩具だった。
ネジを巻けばとことこと歩き出す。仕舞いにはゆっくりと動作が止まる。ネジが巻かれなければ、ずっとそのままで静かに時を過ごしていく。
ネジが巻かれれば、また彼は歩き出す。そのときはまだ、走る事を知らなかった。考える事も、知らなかった。
いつしか彼は動けなくなった。乱雑に扱われたなど、そういう事ではない。寿命が来たのだ。
ネジを巻いても足は弱弱しく動き、立たされても、力がなく前へ進めなかった。
「疲れることを知らないと言って悪かった。ずっと頑張っていたんだな」
彼は、手のひらほどのちいさな体から気がつけば、人並みほどの大きな体へとなっていた。
まったく違うものだとはわかる。わかるという事もわかる。彼はそこから、考える事ができるようになった。
まず聞いたのは、なぜ自分をこんな体にしたのか、だった。
「君はもう覚えていないかもしれないが、私が子供のころからずっと一緒だったんだ」
そういわれても、覚えている事と言えば、ネジが巻かれ、どう動いていたかぐらいだったから、彼にはわからなかった。
「君には長い間楽しませてもらったから、その恩返しみたいなものだと記憶してほしい」
そういわれると、彼はその言葉を覚えた。
そして彼は、自分を作り出した人の言う事を聞くようになった。
身の回りの世話をしたり、一緒に買い物へと出かけたり、ごく普通の生活を送った。
たまには奇異な目で見られる事もあったが、慣れてもらえれば彼は人気者となった。
たった一つの、たった一人しかいない人間サイズの大きさのおもちゃ。
彼を作りだした人は、気がついてみれば老人になっていた。
自分が作り出された時は、元気に立って、大声出して笑って、机に向かってなにかをやっていたり、怒ったり、教えてくれたりしていたのに。
今ではもう、目を開ける事すらできないようだった。ベッドで仰向けで眠っている。
静かに眠っていた。彼はずっとそばにいた。老人が息を引き取った時、彼の動作も一緒に止まった。唯一手入れできる老人が出来なくなってしまって、電源が切れてしまったのだ。
次に彼が目を覚ました時は、まったく別の場所にいた。老人の姿はない。いるのはたくさんの人たちに囲まれた彼だった。
拍手喝采。彼は何が起きているのかがわからなかった。
「ゴミ捨て場に置いてあったこの機械を見事復活させた、開発班の紹介です」
白衣を着た人間たちが並ぶ。見た事ある人間や、知っている人間はだれひとりもいなかった。
ひとりぼっちの世界が始まった。
研究の成果はどうだとか、記憶できる容量を増やしただとか、たくさんの機能をつけてみただとか。
そんな話だらけだった。
研究室らしき場所に連れて行かれたときに窓から見えた外は、まったく知らない場所だった。
ここかどこかはわからない、これから何をされるのかわからない。彼は、隙を見て逃げ出す事にした。
逃げ出してしまえば、開放されると思ったから実行に移したが、彼を直した人たちが追いかけてきた。
なんとしても捕まえようとする。しかし彼はそれを望んではいなかった。
――戻りたい。あの場所に。
彼は走った。街から逃げる事に成功してもなお、まだ走った。
ここからどこに行けば、老人のいた場所につくのだろうか。方向は間違いないのだろうか。どれほどの時間がかかるのだろうか。
それでも彼は、老人の場所へと向かって、足を進めた。
………………。
どれだけの時間走っただろう。もう覚えていない。記憶容量を増やしただとか言うのは嘘だったんだろう。
覚えている事はもう、老人の事と自分の事とそのとき過ごした時ぐらいしかない。
自分を創りだした人に会いたい。どうなったのか知りたい。
ぼろぼろになった足を、それでも交互に動かし、前へ進んでいく。場所がわからない。それでも彼は走るしか方法はなかった。
人に聞けばまた捕まってしまうかもしれない。だから、彼は走る事しかできなかった。
……………………。
彼の体の寿命が近くなった。
走り回れたのは、もうだいぶ前だろうか。今では大昔の自分の体のように、とことこと歩く事しかできない。
重量が増えたぶん、とことこなんて音はしないが、それでも前へ進んだ。
前が見づらくなってきた。霞んで、前が上手く見えなくなった。足の動きもほとんど止まってしまっている。
それでも、時間をかけても、前へと進んだ。
壁にぶつかって彼は転んだ。そのとき、地面につけた腕が折れてしまった。
それでも、立ち上がって、重い足で動き出す。気がついて周りを見渡せば、記憶にある懐かしい街だった。
だが、見覚えのある人はいない。それに、老人の家もなかった。
彼は途方に暮れて彷徨った。
最後の頼りとしては、一つだけあった。彼はその場所に向かった。
そしてついた場所は、ちいさくぽつんと立てられたお墓だった。
間違いない、あのとき、老人は息を引き取ったのだ。
彼はそれがわかると、お墓の横に座った。
座った後、彼の体から、何かが途切れる音がした。
彼もまた、寿命が来たのだ。
………………。
ちいさなお墓の横に、不釣合いな、人間ほどの大きさのブリキのおもちゃがある。
錆付いてもうガタガタになってしまっている。いつかは風化してしまうのだろう。
でもずっとその場所にいるのだろう。横のお墓で眠っている人と一緒に。
おしまい。